明鏡   

鏡のごとく

天草島原の物語

2022-08-18 08:20:15 | 詩小説
昨日、柳川文芸誌「ほりわり」の会議があり、ほりわり三十六号の合評会があった。

天草本「いそっぽの物語」の絵本を書いておられる、かとうむつこさんのお話をお聞きした。「ほりわり」の表紙絵を描かれていることもあり、とても暖かい天国をモチーフにしたような柔和な絵面。おじゃる言葉のイソップ物語、百話の「いそっぽの物語」の朗読版をいただいて、帰りの車の中で、はるみさんと聞いていた。
やはり、お声も優しく、賛美歌のような、どこか聖書を読み聞かされているような、心持ちがしていた。
いそっぽの物語の後に、格言のように、「下心」というものが入っていて、それは、当時のいそっぽものがたりを編集したかとうさんの旦那様の家系の伊丹一族の女性が、書き加えたものということで、天下を切るような、あからさまな批判もあり、物語の物語たる姿が浮かび上がってきて、物語らずにはおれないものの叫びのようで、滅ぼされたもの、食われたものの悲しみのようなものが、物語る際には、動物に姿を変えてはいるものの、残響のように今に伝わっているようでもあった。

この本を現代でも読んだり聞いたりできるように、編集され自作自演で臨まれた、優しげなかとうさんの声に、ご先祖様が乗り移ったように、流暢なおじゃる言葉が車内に響いていた。さしすせそ、は、しゃしぃしゅしぇしょ、で表現されていて、博多ん言葉も、当時の面影が残っとるということで、当時の言葉の響きを楽しむだけでなく、今も生きている言葉の再生力というか、持続力、変化しながらも意味を変えたりしながらも、残っていくものの底力のようなものを思った。

偶然、前日まで、長崎で、キリシタンの拠点である外海の出津(しつ)集落の、結婚前の若い女性が働いていたそうめん工場やマカロニ工場跡、寝泊まりしていたところの祈りの場なども拝見していたので、全体像とまではいかなくとも、貧者と裕福なものへの関わり方のようなものがぼんやりと見えてきた気がした。
貧しい生活を強いられたものたちにはそうめん作りの機械やマカロニ製造を教えて、西洋の食生活を浸透させていったり、祈ることで救われるというような思想を植え込んで行ったとも言えるかもしれないと。
また、キリシタンの精神性を浸透させようとしていた宣教師たちが日本語を習う手立てとしての、いそっぽものがたりでもあったというが、文字を堪能することができて比較的生活に余裕があったであろう、当時の公家や武家のものには、ものがたりを持ってきて、当時貴重で画期的なグーテンベルグの印刷機で3,000冊も刷って、公家や大名などにも配られたそうである。ヨーロッパでは、三百冊ほどしか印刷できなかったというので、日本人の器用さが際立っていたとおっしゃっていた。北斎などの版画にも通じるものがあり、日本人には、印刷的なるものは、それほど、馴染みがないわけではないものだったとも言えそうであるが。

マリア像やヨセフ像、貧者の父ヴィンセンシオアポロ像が立ち並ぶ寝泊まりし祈りの場でもあったところに、やはり、当時珍しく、高価であったオルガンがあり、音が鳴らなかったのをなおして、弾けるようになったということで、案内役のシスターが慈しみ深い曲を弾いてくださった。当時もこの音を聞いていたのだろうと思うと時が重なったような、時間を超えているような、心持ちなった。
ここは、余計なものがない。と思った。祈りはあったにしろ。最低限度の生活の場。と言って仕舞えば、そうなのかもしれないが。
お茶室に感じるものが、そこにはあった。
余計なものがない。という一点に置いて。

遠藤周作の母を巡る旅のようなものも外海で拝見した。
キリスト者でいながら、母から訳も分からず洗礼されていた遠藤の、キリスト教との距離感を知り、彼がユングをよんでいたと知り、ユングは、道教など東洋思想にも共感していたので、キリスト教的なる西洋の一神教的宗教と無為自然的な東洋の森羅万象的宗教感の間を行き来するには、いい道先案内だったので、彼も、どどくらい道にあっても、どこか、自分の見てきた道を、キリシタンの小西などに投影しながら物語る術を身につけていき、そこで、物語とともに、自分を昇華していったのだろうと思うと、今の自分もまた、そこを通りながら、自分の見てきた道を物語ることで、今のコロナの騒ぎ立てすぎる時代の悪露のようなことどもを超えていけるような気がしていた。

旅行者がPCR検査を受けたら半額になるというホテル代のことを聞き、里に帰るついでや、旅に出るものがこぞって、検査をして、この頃、やたらと感染者数がうなぎ登りに大きくなっている意味がわかった気がして、気持ちが悪いと思っていたのもあるが、税金であろうとすればするほどお金は生まれるというのに、PCR検査を受けさせたいがための取り決めなどいらない。皆に税金をかけず、幸福を行き渡らせるならいざ知らず。
 目先のことだけに踊らされたくないものは、ただ淡々と、余計なものがなくとも、居心地の良いものを、作っていくだけであると思わずにおれなかった。
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