本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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本能寺の変:イエズス会陰謀説を斬る!(続きの続き)

2010年02月09日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 イエズス会陰謀説の根拠の無さはすぐに説明がつくと思ったのですが、予想外に長い話となってしまいました。
 ★ イエズス会陰謀説を斬る!
 ★ イエズス会陰謀説を斬る!(続き)

 それでは三番目の視点「関係者の証言」をみてみましょう。
 これに関しては本能寺の変の勃発により安土にいた宣教師達が掠奪を受けながら、命からがら京都の教会まで逃げてきた話、その宣教師達を途中で保護してくれた光秀の家臣を欺いて、高山右近宛の「光秀には決して味方するな」とポルトガル語で書いた書状を渡した話などがフロイスの報告書に書かれています。
 光秀とイエズス会が事前に結託していたどころか、イエズス会士は光秀を敵とみていたことを示す証言です。

 四番目の本人の自白としてはイエズス会側にも光秀側にも何も記録がありません。
 「実は光秀はキリシタンだった」という奇説を唱える方もいます。娘のガラシャがキリシタンだった縁で光秀も密にキリシタンになっていた、といった説明が付けられたりします。
 ★ Wikidedia「細川ガラシャ」記事
 ★ 細川ガラシャ役は黒木メイサさんにお願いします!

 しかし、これはありえません。ガラシャがキリシタンになったのは光秀滅亡後にガラシャが幽閉され、二年後に許されて大坂の細川家の屋敷に住むようになってからのことです。ガラシャが洗礼を受ける経緯はフロイスが書き残していますが、大坂に来てから初めてキリスト教に触れたことが書かれています。

 さて、最後の成功時報酬についてです。
 この説を唱える研究家は光秀に信長を討たせたイエズス会がさらに秀吉に光秀を討たせて秀吉を後継者にすえた、としています。光秀を討たせたのは、主殺しの評価を背負った光秀では天下を治めていけない、と判断したからとのことです。
 しかし、秀吉は結局のところイエズス会宣教師の国外追放令を発布してイエズス会やキリシタンを弾圧することになります。
 ★ Wikipedia「バテレン追放令」記事
 ★ Wikipedia「日本二十六聖人」記事

 こういった思惑違いが起きないことはないでしょうが、それにしても光秀や秀吉を意のままに操った(はずの)イエズス会にしては余りにもお粗末な報酬だったことになります。

 以上3回に分けて見てきたように、イエズス会陰謀説は余りに無理な設定であることがおわかりいただけたと思います。

 ただ、ひとつだけこの説にも良い点があります。それは、当時の日本がポルトガル・スペインの世界制覇という大波の中に存在していたことに着眼したことです。秀吉の時代になるとイエズス会士やスペインのフィリピン総督がスペイン王に日本への侵略を上申する書状を出しています。本能寺の変から10年ほどで日本を取り巻く世界情勢が大きく変わってきていたのです。「スペイン・ポルトガルによる日本侵略」の可能性が全くなかったとはいえないのです。
 大きな世界の歴史の流れの中で戦国時代をみる必要がある、ということを私も声を大にして言いたいと思います。
 ★ 本能寺の変は三面記事?!
 ★ 日本と朝鮮半島2000年


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