アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

私たちの創世

2006-06-28 20:02:11 | 思い
私たちが人生で、社会で向き合っている問題の多くが「食」と結び付いている・・・

始めは小さな発見だった。野菜作りにとりつかれて週末は郊外の畑に通う日々。持ち帰る野菜の美味しさに、いつの間にかご飯よりも肉や魚よりも、野菜中心の食事になっていた。それまでの肉食生活からすれば大転換だった。
朝は明るくなる頃に起きて布団の上で座禅を組む。
当時私は仙台で会社勤めをしていた。今から10年以上前のことだ。

もしかしたら食べ物というのは、意外と大きいかもしれない・・・

食べ物の変化は体調も体型も変える。のみならず、私はいつしか「自分自身」までが変わっていることに気づいた。その現象に目を留めることのできたのは、瞑想のお陰である。
性格も発想も衝動も行動も、どうやら食の変化に足並みを揃えて変わっているみたいだ。

それから3年後に脱サラした私は、北海道の小さな町で農業の勉強を始める。
実習生として働く賃金はとても安い。でも手持ちの貯金は農地や家を買う時のために残しておきたい。そのような私が選んだのが、「できるだけ自給自足」の生活だった。
野山の草を摘み、タヌキや鹿の肉を食べる。
無ければ食べないで済ませる。
米は農家から屑米を分けていただく。酒もその米で仕込む。
2年、3年・・・いつまでも暮らしは厳しく就農する家も見つからない。
その暮らしの中で私の体重は20kg減っていた。
カルシウム欠で著しく体調を崩した時もある。
その限界的な状況にあって、私の体は都会で吸った毒素を吐き出しそれまでになく鋭敏になっていたのだと思う。

食べ物は体を作るけれど、心も作る。

私たちが一日も欠かさず体の中にとり入れているもの、空気、水、食べ物、それらがどのように変化して「体」になるか、「心」になるか、そのことは日常の情緒から切り離された内省が教えてくれる。
ただ坐る。何もしないでただ坐るというその行為は決して時間の無駄ではない。それどころか、時には目の醒めるような気づきをもたらしてくれる。

世の中には貧困や辛酸の中でしか手に入らないものがある。私の場合、それはまさしく「食」だった。もし私がお金や境遇に恵まれていたら、おそらくは今手にしている宝の多くに出会わなかったかもしれない。

体は「飢える」ほどに感覚を鋭くし、たくさんのことを教えてくれる。
どの食べ物を体は欲しているか。この食べ物はどのような作用があり、害になるか益か。なにが本当に体を守ってくれるのか。
一般に言われている栄養学や医学の常識には多くの間違いが含まれている。それは現代の病的な状態にある人々の平均から割り出した予測であり、また人間の知能の限界でもある。学問は常に不完全であり、人間の健康体を作り上げる基礎にはなりえない。
しかしそんなまやかしの知識に頼らなくても、私たちは太古の昔から信頼の置けるガイドと共にいる。

自分の体

体の声に耳を傾ければちゃんと大切なことを教えてくれる。
タバコの煙、醸造アルコール、添加物漬けの食品、食塩・・・
これらは体が拒絶する最たるものだ。
それと拭えない違和感を感じさせるのが農薬・化成肥料栽培の作物。またそれらで飼育された家畜の肉。

こんな私をある意味「変な」「変わった」人間と見る人は多い。いや、正直言ってほとんどがそうだ。だからこの辺鄙な農山村にあって私はいつまでも「変わり者」だし、そう思われるがゆえに却って周りと波風を立てることもない。
あいつはあんなもんさ・・・でみんな通ってしまう。

自然に囲まれたこの田舎でも玄米を食べてるのは私くらいなものだ。
おばあさんたちは漬物もみんな食塩で漬けてる。たくあんは市販の糠漬けの素。
タラノメなどの有名な山菜を除いては野山を採取して歩く人もいない。クルミの芽を摘んだり、草刈の時にわざと食草を刈り残している私を、人はみな不思議そうに見ている。

その人にはその人の味覚がある。そして大方の人の味覚は今、「加工食品」のそれになってしまっている。大人も子どもも、合成甘味料や調味料をたっぷりと盛り込んだものしか美味しいと感じない。それは今までわが家で食事を共にしたお客さんたちの反応を見てもわかる。わが家自慢のどぶろくや手作り料理は、必ずしも歓迎されないのである。(まあ、作り方が下手なんだってことはあるかもしれない)
自然のもの、旬の食生活、自給作物・・・それはあくまで変わり者であり偏屈者の食なのだ。

個人がどう生きるか、どのような好みを持つか、それはもちろん各自の自由だ。
けれど人間も他の動物と同じように、子を産み育て、社会に関わり次代を作っている。
特に家庭で子どもを育てている人にとっては、事は個人の枠の中には納まらない。親がどのような生活をしているか、どのような体を持っているかでそこに生まれる子ども、育つ子どもは大きな影響を受けている。

体に取り入れた化学物質は消化管や血液に運ばれ、最終的に全身の細胞に蓄積される。確かに時を経てそれは緩やかに排泄されるものではあるけれど、現代ではその速さよりも新たに取り入れる分量の方が遥かに多い。そしてそれは胎盤を通して胎児にも引き継がれる。
また体の状態というものは直截に心や感性に影響するものだ。体が曇っているならばそれは考え方や感じ方にも表れ、もし親がそうならばそれは子どもに対する情操教育の形で表れる。

だから今私たちはどのように生きてもそれは自由なのだけれど、でも同時にそれは、「この世界を創る行為」であることを認識しなければならない。
胸に抱くこの子に何を残せるか、その子の身体に、環境に何を残してやれるのか、すべては私たちのこの手にかかっている。

子どもたちを見てると親の人となりがわかる時がある。見方に少しコツがあるし必ずしも100%当たるとも言えないのだけれど、それは面白いほど表れる。
アトピーの子ども、喘息の子ども、わがままな子ども、堪え性のない子ども、また逆におおらかな子ども、優しい子ども・・・これらはみんな親の性向に原因があるような気がする。
この親にしてこの子あり、とはよく言った言葉だ。

わが子が先天性の病気やストレス性の疾病に罹って、自身の責任を自覚する親はまだ素晴らしいと思う。
でも、そうでない人もいる。そのような原因の多くは未だ科学で解明され尽くしていないものだから、いつまでもそれを社会のせいだ状況のせいだ医者のせいだ、はたまた降って湧いた不幸に見舞われたと自分を正当化する人がいる。
わが身の不幸を嘆く人は、目の前にある大切なものから目を逸らしている。或いは卑怯なのかもしれない。それに気づかない限り、同じことを起因とする現象は何度でも起きてくる。わが身を振り返るにつけても、それは想像しただけで涙がこぼれるほど哀しい。

私たち人間は今、多くの部分でお金を求めて生きている。
まるでその中に潜り込んだ幸せを発掘でもしてるかのように、みんな必死になってもっと掴もう、もっと掴もうと精一杯になっている。
でも新しく掴んだそれらの多くは手からするりと抜けて地に落ちる。またはそれと引き換えに別のものを失くすかもしれない。それはそうだ。私たちはもうこの両腕に目一杯過ぎるほど、モノを掴んでいるのだから。

でもそれよりも大切なものが、すぐ側にあるのではないだろうか。
「知らなかった」では済まされないかけがえのないものが身の周りにはたくさんある。子どもたちの健康もそうだし、自分の人生だって地球上のたくさんのいのちだってそうだ。

また幸せになるために、こんなにたくさんモノが必要なのかも疑問だ。かえってあり過ぎて不幸になったりしてないだろうか。食べ物も日用品も家具も、今の10分の1でも幸せになるには充分な量だと思う。
私たちが対峙すべきなのは、社会の不正や不完全性や、不運や他者の悪意や生活苦などではなくて、自分自身の「欲」や「執着」である。
わがままに生きるのが個性ではない。欲のままに生きるのが決して立派なことではない。けれどそんな人ほど巧みに自分を正当化している。この子たちのためにとか、社会のためとか正義とか言って、自分が人を押しのけ何かを手に入れる言い訳にしている。

今こそ本来の自分の心や感性を使わなきゃならない。
このままでは幸せになれないということに、もう気づく時だと思う。

これから生まれる子どもたちが、巨万の富と心身の健康と、もし選べるのならばどちらを選ぶかと問われたならば、いったいどちらを取るだろう。
また生まれたまんまの自分がそこにいたとするならば、いったいどちらを選ぶだろうか。

人生のキャンバスにどのような絵を描き、今の地球にどのような色を塗るか、それはひとえに私たちが今行っている行為である。
みんなもう子どもではないし、いつまでもみそっかすではない。私たち一人ひとりが今、この世界を創り、未来を選んでいる。



【写真はミーコ。ウ~ン・・まず一眠りしてから考えるんだって。・・・】




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