アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

「山人考」

2007-10-12 07:04:17 | 思い
 ふとしたきっかけで「山人考」という書き物があることを知った。柳田國男による日本の先住民族についての論考なそうだ。ちょうど私は「鬼」をテーマにした本を読み終えたばかりで、自分の中でそもそもの根源の時代、「鬼=人」ではなかったろうか、山を拠点として生きた人々。また鬼は原初魔物というよりも、かえって今に言う神に近いものではなかったろうかなどと徒然に考えていたところだったので、無性にその本が読みたくなってしまった。そこで先日図書館に行って初めて柳田國男全集を紐解いたのだった。

 日本民族学の父と呼ばれた柳田國男(1875~1962)は、民俗関係のみならず詩や小説なども含め、生涯に亙って幅広い分野についての著作を残しているが、その活動の前半では殊にサンカや山人など希少で特殊な生活様式を持つとみなされていた人々について研究している。彼の有名な著述「遠野物語」は1910年35才の時に書かれたもので、これは後の「山人外伝資料」(1913年)、「山人考」(1917年)という系譜に発展・展開される彼の「山人」についての独自の概念の形成にとても寄与した資料集のひとつとも位置づけられる。
 まず「遠野物語」は、遠野出身の民話研究家・佐々木喜善(号は鏡石)が長年に亙って収集してきた遠野周辺の伝承・民話や実話類の聞き書きなのだが、そのひとつの特徴は著者なりに学究的な資料価値を損なわないように、客観的で事実に即した(つまり話者や書き手の主観を極力排除した)姿勢で記録されているということだ。とかく「面白さ」や「読まれやすさ」を重視すれば物語の類は往々にして実際よりも誇張され、伝えられるほどに余計なものが付け加わるという傾向を持っている。しかし柳田は始めから売れる本を書こうなどとは微塵も思っておらず、附した序文の中でも「此類の書物は少なくも現代の流行に非ず」と言及した上で、しかし聞き知ったことを語らずにはおられない、しかもこの内容は今目前に展開されていること(「現在の事実」)なのだから、およそ900年前に書かれた今昔物語さえも凌ぐ史料価値を有してるので書くのだと言い切っている(今昔物語は「今は昔」で始まるごとく当時にして既に遠い過去の話を集めたものであったが、遠野物語に掲載されている説話には確かな証人がいるなど明らかに事実と認められるものも多数含まれており、その体験者の幾人かも当時まだ生存していた)。また民俗学者として柳田國男はもちろん遠野のみならず、他にも北海道から沖縄にかけて膨大な資料を収集しているのだが、それらがベースとなって彼独自の山人説は構成されている。
 では「山人考」にて述べられた論旨は何かというと、一言で言えば、古来日本列島は現在の「日本人」ではない先住民によって居住され占められていたのであり、それが太古のある時点で大陸から渡来した他の民族によって押しやられ征服されまた同化させられた結果現在のような状況となった。その彼ら先住民の痕跡は、今でも全国各地に残されている伝承や風習、また史実の中に数多く、しかも見事に平仄が合った形で見出すことができて、それはとても偶然などとは呼べないものである、というものだった。今でこそ私などが読んですんなりと「なるほど、そうだろうな」と思い、通常「縄文人」と呼ばれいてる人たちの素性やその歩み先がかなり明確になったと単純に喜んでしまうのだけれど、しかし当時の風潮としては必ずしもそうとは受け取られなかったようだ。
 実際のところこの論考と同時に「遠野物語」や「史料としての伝説」(1918~1925年)また後年折に触れて書き留められた「妖怪談義」などを読んでいくと、確かに彼の主張のとおり古より伝えられた有形・無形の遺産ともいえるものの随所に、かつてこの地を占めた私たちとは思想も文化もまったく異なる目に見えぬ人々の残像が髣髴と浮かび上がってくる。実際長い間歴史上の謎や不可思議とされていたことの幾つかは、このジグソー・ピースを当てはめることによって見事に解明されるものもあると思う。けれど残念なことに、現代でも未だこのような日本の先住民の存在は歴史の定説となってはいないだろうし、たぶん教科書でも(私の少年時分と同様)全然別の記述のされ方をしてるのだろう。いつの時代でも現今の体制を揺るがす新思想というものは、仮にそれがどれだけ説得力のあるものであっても決してすんなりとは受け容れられない。それだけ権威に縋りついて暮らしを立てている人の数は多く、その力は強大なのである。しかしもしこのことについて興味のある人がいるならば、ぜひこれら柳田國男の著作を一通り読んでみたらいいのではないかと思う。私はこれらを「柳田國男集 第四巻」(筑摩書房刊)で読んだ。今から百年ほど前に日本にあって、これだけの学術論を展開する人がいたということになによりも驚かされるし、きっと以降神話や伝説・民話などに触れるたびに、それを聴く耳が以前とはまったく違ってくると思う。
 昔この国(いや、正確には「島々」)には、今の私たちとはまったく違った価値観、生き方、習慣、文化を持った民族が住んでいた。彼らの血は既に外見上の特質も損なわれ今や見る影もないほど薄められてはいるけれど、今でも私たちの体内に伏流水として残されている。渡来人であるヤマト民族がどのようにしてその血を根絶やしにし彼らの痕跡を抹消しようとしたかはその理由も方策も充分に想像できるものだけれど、その長すぎる抑圧された歴史とそれ以前の更に長い原初の精神文化の延長線上に今日の私たちの文明がある。隠されたその血を皮下に有する限り、彼らの残した残渣に触れるごとに私たちの身内になにか捉えどころのない懐かしさに似た感情が湧き起こるのを禁じえないのは、あながち故のないことではなかった。

 ここで柳田國男の言う日本の先住民についてもう少し具体的に述べておこう。これは地域により山人、大人(おおひと)、山丈、山チチ・山ハハ、山翁・山姥、山男・山女、山童・山姫などさまざまな名称で呼ばれていて、中世以降文献上に頻繁に現れるようになった「鬼」や鎌倉時代の「天狗」などにもその存在を通じさせている。また現代でいう縄文人から蝦夷・アイヌの末裔に連なる系統そのものでもある。
 古く記紀には「クニツカミ」、やや時代が下れば「国魂・郡魂」など、「アマツカミ」や天神に対照される形での記載があり、更に後世文書による記録が増えるにつれて文字または用いられた語彙からそれと判じられる記述は枚挙にいとまがないのだが、それらをただ平らに読んだだけでは、何分そのような先住民の存在自体を前提としていない詰め込み教育を受けてきた私たちにはそれらを正確に読み取る力が備わっていないので、往々にして見過ごすか端折るか誤読するという哀しい結果を招いてしまう。
 山人と呼ばれる民の特徴としては、まずその外貌から言えば背の高いこと(数は少ないけれど地域によっては極端な矮人とする場合もある)、眼光鋭く目の大きなこと(場合によっては色が違うという記載もある)、往々にして赤ら顔なことだろうか。これらは次に述べる行動と相まってなべて全国的に見出される大まかな共通点である。このことについては柳田自身が彼なりに学術的な比較検討を尽くした上で、このような特徴を備えた山人の存在が単なる創作や、たまさか一つの話が全国に散らばったなどという空説ではまったく説明できないと論じている。
 更にその行動の特徴として、まず言語(日本語)を話さないこと。しかし不思議なことに、それにしてはどの言い伝えでもなぜか平地人の話す言葉は理解できるとある(それどころかしばしば読心してしまう例も多い)。他に米の飯を欲しがる。しばしば里人と相撲をとりたがる。力が異常に強い。山を駆ける際は崖や谷などまるでないかのように非常に速い。体躯は恐ろしげだけれど人を害さない。時に里人を懐かしがる風に現れることもある。集団では見られない。子どもや若い女性の神隠しが、しばしば山人(との婚姻)に結び付けて伝えられている。等など。
 従来単一民族と思われていた日本人が実は複数の種族の混成だということ、その片割れである古代の先住民が仮に大きく退行した姿とはいえ、未だに(前述のとおり遠野物語では現在進行形の事象として著された説話も多い)その存在の証左を認めることができるということは、あたかも教育や啓蒙活動、信仰や近代の主知主義によって地固めされた私たちの存在基盤を根底から覆すに近いものがあると思う。

 このようにおそらく当時としては斬新な論考だった「山人考」なのだけれど、しかしその8年の後に同人によって著された「山の人生」(1925年)では更に豊富な関連資料が提示されているにもかかわらず、なぜか明白な形で主張が繰り替えされることはなく、その後柳田は火が消えたように生涯この論に触れることをしなくなったようである。その理由は今となってはわかるすべもないのだが、例えば古代史研究家の佐治芳彦氏は、この論を推し進めることは畢竟天皇の日本列島支配の正統性への疑問に結び付いてしまうこととなり、おそらく柳田はそれを懸念したものだろうと推測している(ネット上で見つけたあるサイトの情報より)。確かに当時の柳田國男には内閣法制局参事官や宮内書記官を歴任するなど高級官僚としての肩書きもあったことを考え合わせると、これも充分ありうることかもしれない。
 「山人考」は状況証拠を基にしたあくまで仮説であり、唱えた本人が息を潜めてしまっては到底その後の発展などを期待できるものではなかった。しかしこのような遠く埋もれた歴史を論じるのに、どのような場合にしろ確たる証拠など出てこないのが普通である。たぶんこの論は現代でも形を変えてどこかで生き続けているのだろうとは思うけれど、浅学な私はその方面の知識をこれ以上持たない。しかし事は私たち日本人のアイデンティティーに繋がるものでもあるのだから、できるだけ早いうちに正論が正論として広められることを願っている。



 
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ヒッチハイク (チハル)
2008-09-29 00:42:32
今日、青森でバスに乗り損ねてヒッチハイクをしたのが、たまたまマタギのおじさんの車でした。

東京に帰ってきて、マタギのことを調べているうちにそういえば昔サンカについて知りたく思っていたことなんかを思い出して、本を読んでみようと思っています。

面白い文章でした。
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マタギ (agrico)
2008-09-29 21:08:59
かつて東北には山野の狩猟を生活の一助にしていた人たちがいました。多くは季節労働だったとは思いますが。この辺りではそれをマタギと言い習わしてます。
でもそのマタギも、今では職業として成り立たなくなってしまったのでしょう。私の住んでるこの地方に、純粋に「マタギ」と呼べる人を私は知りません。農業者の中で「百姓」と自称する人は結構あるけれど、実質的に百姓的暮らしを行っている人がほとんどいないと同じことなのでしょうね。
では今の鉄砲を担いで山に入る人は何かというと、レジャーや、または小遣い銭稼ぎで狩りをする人たちです。だから往時のマタギと比べたら、山に対する、生きものたちに対する思い入れが全然変わっているんだと、思ってしまうような経験を私もしたことがあります。
その中でマタギの思いや気質を受け継いでる人に会えたならば、それはそれでとても貴重な体験になると思います。
この柳田國男の言及したような「山人」に、いつか会ってみたいなと思ったりしてますよ。
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Unknown (Unknown)
2009-05-24 14:08:43
わたしは劉です。台湾人です。授業のために、この文章を読みました。いい勉強になりました。ありがとうごさいます。
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劉さん (あぐりこ)
2009-05-24 19:48:59
 昔書いたこの文章、今読めば「拙い」の一言なのですが、なにがしかの勉強の一助になれば幸いです。
 大和朝廷が確立する以前、この国には「ヤマタイ国」と言い習わされた国がありました。今から1800年くらい前、その国の女王を「卑弥呼」といいます。
 中国で3世紀に書かれた「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は「鬼道で衆を惑わす」と書かれているようだから、当時中国から見れば日本列島には「鬼道」という特殊な信仰(または思想、術)があって、それが普及していたことが伺えます。
 つまり中国人から見ればそれは「鬼」なのですが、当時の日本人からすれば「鬼」とはごく一般的なもの、即ち「人間」を意味するものに近かったのではないかと思います。「鬼道」=「人の道」ではなかったでしょうか。
 その後日本では、渡来人の影響下に鬼道は廃れ、かえってそれは「邪悪なもの」というイメージでもって後世に伝わりました。
 私がそう思う発端となったのは、アメリカ大陸の原住民(インディアンやインディオと呼ばれる)の中に、それと類似した思想が含まれているからでした。不思議なもので、外国のことを調べてたら、それが自国のものと繋がったのです。

 私も昔外国で勉強したことがありました。劉さん、頑張ってください。日本や日本人のいいところも悪いところも、知ってほしいと思います。
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あぐりこ様への手紙 (庄太郎)
2016-01-24 10:10:28
柳田國男先生の山人考と、あぐりこ様の書評をよみ、ひとこと感想をのべさせていただきます。私は柳田國男先生の著作を限りなく愛読しています。とくに、そこに引用されている豊富な伝説資料は実に興味ふかく、よくぞこれだけの資料を収集されたものだと感服しています。この山人考についても、それはそれなりにおもしろく啓発される点もありますが、率直にいってちょっぴり違和感を感じます。たしかに昭和時代初頭の頃まで、日本の山岳地帯には狩猟や木工細工をなりわいとしテント生活をしている山人いわゆるサンカと呼ばれた人々がいたのは
事実ですが、彼らが一般の日本人と人種が異るということはありえません。柳田先生は、この
論考において、國津神や天狗や鬼などを先住民のこととみなし、山人は先住民の生き残りでは
ないかと述べておられます が、それはちょっとどうかなあとおもいます。そもそも、國津神と言うのはU+FF02大地を治める神様U+FF02という神話的概念であり特定の種族のことではありますまい。
また鬼や天狗などは民話のなかの架空の存在であることはいうまでもありません。もっとも、蝦夷とかアイヌ族は実存せる北日本地域の先住民であることは確かですが、彼らだけがU+FF02先住民族U+FF02というわけではないでしょう。我が大和民族の場合も、一部渡来民族と混血しているとは言え、大部分は縄文時代以来の土着日本人であることはもちろんであり、このことは最新の遺伝学調査でもはっきり確認されています。むろん、日本にも少数民族がおり、その人権や文化的主体性が尊重されなければならないのは当然ですが、架空の先住民族を妄想したり、逆に極端な渡来人論を唱えて奇矯な歴史観を主張するのは健全な思想とは言えません。柳田先生は
円熟した良識人であり、そういうことは当然おわかりになっていたはずですから、この山人考の発表以後は、そういった主張はほどほどになさったのではないかと拝察しています。
柳田先生は、この日本という國に太古から土着せる人々の質実な暮らしや感性を非常に大切に思われたかたであり、このU+FF02山人考U+FF02はそういう先生のお考えの原点に立つものだと思います。以上、下手な作文ですが、ご参考いただければ幸いです
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渡来人と土着人 (あぐりこ)
2016-01-31 23:15:54
 真摯なご意見ありがとう。日本人の源流について、その後の私自身の考察を少し述べさせていただきます。
 現在飛躍的に進みつつあるDNA解析に関しては、私もできるだけ時代に遅れないよう頑張って情報収集に努めてはいます(便利な世の中で、こんな僻地に住んでながらもインターネットがあるからこそなんとかできることではありますが)。
 縄文時代を今1万2000~3000年前(つまりおよそ9000年間)と仮定してみた場合、実はその間にも何派にも分かれて、多方面から数々の渡来人が来ていたのですね。従来日本には大挙して渡来人が襲来したのは弥生時代以降のことだと言われてきました。それに比して縄文時代は、ほとんど海外からの影響がなく縄文人は純粋に自分たちの血統と文化を醸成させてきた。そう信じられてきました。
 しかしそれが、昨今のDNA解析で覆されています。篠田謙一さんや松本秀雄さんの出版された本は有名ですが、その他にも石刃石器文化を研究された加藤晋平さんなども興味深い論考を記しています。一言で言うと、縄文時代も人種的、文化的に一様ではなかったのです。しかしそれは振り返ってみれば当たり前のことです。日本産黒曜石の分布などを見ればわかるとおり、当時もまたそれなりの航海術があったのは証明されているのだから、なにも異文化流入が弥生時代以降に限るという設定自体がナンセンスだったのです。
 それを前提にして先史時代を見ていくと、「山人=縄文人」と「新らしく流入した日本人=弥生人」という二極化した、極めて単純な構図では収まり切れないものが見えてきます。
 今時点のの私の見解を単純化して言うと、「縄文人」という日本列島独自の文化を持つ人種は、大陸からの混血も含めて(それは世界中どの地域でも避け得ないことで)確かにいたのでしょう。彼らが持っていたシャーマニズムの文化が、後に山人、山岳信仰、修験者、そして今で言う山の神、鬼(岩手・宮城ではウナネ、またアイヌ語ではオンネ)まで、途中ヤマト民族や他の渡来人集団(ユダヤ人も含めて)などの文化とも習合しながら続いているのは事実でしょう。
 また「弥生人」も一言ではくくれなくて、様々な時期に様々な方面から渡来してきたのですが、大雑把に言ってその主流は中国江南地域、すなわち揚子江中下流域を中心とした地帯からの民族を主流としています。それは最近の人骨や稲のDNA分析、銅鐸などの考古学的発掘などによって伺うことができます。
 「ヤマト民族」は、その一派ではあるのですが、思うに多分に北方系の要素を含んだ、人口的には当時としては比較的少数な一派であるようです。その選民的な思想から見て、おそらく現在のチャン(羌)族に繋がるもの、夏の神農族に起源を置くもののような気がします。
 これに至るまでの証拠は数あるのですが、とても限られた文字数の中には納まりません。また私自身視力があまりなくて、今ここでは記述しきれません。更に今後、日々新しい発見や洞察があるだろうから、いかなる説といえども今後覆る可能性が常にあります。
 私はあなたと同様、真実を求める、その姿勢に大きな価値を置いています。その思いがある限り、今のこの時代はそれを強力に後押ししてくれています。今もこれからも、弛まず前へと進み続けましょう。それは今だからこそできることです。この時代に生きていることを私は感謝しています。
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