アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

夢を歩く

2007-07-05 14:29:55 | 暮らし
 僕は魚のアラを盛った皿を地面にあけた。犬のスヌーピーは草を掻き分け落ちた切れ端をきれいに、貪るように食べつくす。嬉しかった。彼はややもするとわがままを言って与えられた餌を食べない時がある。同じ種類の魚のアラばかりが続く時などがそうだ。それは猫も同じなのだが、その食餌拒否が単なる彼らのわがままからのものならば(つまり魚が腐っていたとか他の健康上の理由などがない場合に)、それはつまり餌の与えすぎが招いた場合が多い。飽食からくる好き嫌いは長い目で見れば結果的に彼らの健康を損ねる一因となってしまう。だからそんな時は彼らがそれを食べるまで、他の餌を与えない。それでスヌーピーも今までしばらく断食していたのだが、今目の前で彼がぺろりと魚を平らげたのを見て、僕はとても嬉しくなってしまった。しかし断食開けにしてはこの量はいささか少な過ぎる。僕は彼へのご褒美も兼ねて、もう少し彼の好物の肉でも食べさせてやろうと思って台所に入った。
 流しの正面には四角い窓があり、そこから窓枠一面に満天の夜空が見える。オリオンを先頭にきらびやかな星座や星雲たちが重厚な調べとともに、光と漆黒の空間を横断していく。星屑はあるは塊りあるは互いに距離を隔ててダイヤモンドのように鮮烈に瞬く。宇宙の最遠の星さえも視認できるほどに、空はこの上なく澄明だった。これほど美しい夜空を僕は見たことがない。そのようにして回る星空の観覧車の背後から、壮麗な、両腕で輪を描いたほども巨大な月の影が、まるで潜水中につい目前に迫ってきたクジラのように荘厳な顔を覗かせて僕を圧倒した。その時既に窓枠は破砕され、月そのものは意識的に僕に何かを語りかけているようだった。僕は絶句して、これは早く外に出てよく見てみないと、と気が急いた。でも・・・スヌーピーにも早く餌をやりたい。なに、餌の用意なんてすぐに終わるし、夜は長いのだから月だってそのくらいの僅かな間なら待っていてくれるだろうと、あらためて自分の手元に注意を向けたのだった。
 流しの上には寸胴鍋が載せられていて、中には食べ残しが山盛りになっていた。大きながんもやはんぺん、ちくわやその他おでんの具・・・これらは魚肉が原料だからきっとスヌーピーも喜んで食べるに違いない。しかしこのような練り製品には製造過程で夥しい食品添加物が使われてるので、特にスヌーピーは今断食明けだから、ちょうど肝臓の解毒機能がセーブされている(つまり飢餓状態においては、解毒よりも栄養分の代謝が優先されるので肝臓がその機能を一時休止してしまう)状態だ。そんな時にこんなものを食べさせれば多分彼の身体にとってよいとは言えないだろう。そんなことを考えていたら思いのほか手間取ってしまって、ようやく餌皿を手に戸外に出たときには、驚いたことに既に夜が明けて空は完全に白みかけていた。なんてことだ!僕は千載一遇の夜空のスペクタクルを見逃してしまったのだ。呆然として立ち尽くしていると、右の方黒く連なる丘陵の上に幾何学的な建造物が屹立しているのが目についた。碁盤目状に並ぶ直方形の窓はひとつ残らず白い灯火を燈しており、建物自体は真っ黒い躯体をしてるのでつまり一面に埋め込まれた窓がその形体を暗がりに浮かび上がらせている(不思議なことに空はいつしかまた夜になっていた)。なんだかSF映画の宇宙船みたいに見えるし、少しだけ僕に夜中の東京都庁を連想させたがけれど輪郭が違う。また少し離れたその隣りには、これもまた同じくらいの大きさの巨大な虎(かもしくは馬)のモニュメントが、やはり表皮一面に露出した無数の窓の光でもって威圧的な姿を際立たせている。そしてその隣りにもまた同じようにまた別の構造体が・・・それら一群の構築物は、どれもそれに隣接してまるっきり同じものー霧の中に映る雪山の巨人の幻か蜃気楼を思わせる姿も色も大きさもまったく同じクローンーを従えていた。それら、すべてが二重写しになった巨像群の頭上をゆったりと流れるように、再び巨大なオリオンが、勇壮な凱歌の声勇ましく東の地平目がけて沈んでいく。これはおかしい!僕はその時ようやくに気がついた。なぜならオリオンの星の連なりにダブって、星座図によく描かれている巨人オリオンの図があたかも天空のキャンバスに描きこまれていたごとくに、沈んでいくところだったのだから。そこでいきなりこれは夢なのではないか?という想念が心に浮かんだ。その時の心理を例えてみれば、社会の中に深く塗りこまれていた巨大なパラドックス(または不条理か欺瞞)に突如気づいてしまった捉えようのない不安定性に似ている。僕は自分の手のひらを見ようとした。何度目かの努力の末にそれは成功し、僕はくっきりと両手のひらを見つめることができた。やった!そうして僕は夢の中で自分の意識を取り戻すことができたのだ!飛び上がるほど嬉しかった。

 僕が夢の中に覚醒時の意識を持ち込み意思的に夢の世界を歩むこと(欧米の夢研究の分野ではこのような夢のことをLucid Dreaming。日本語では明晰夢や自覚夢、覚醒夢などと訳されている)が可能なのだと知ったのは、去年の春にカルロス・カスタネダの著作でいわゆる「ドンファン」にまつわる一連の物語を読んだことに端を発している。その時まで僕は夢というものに大して関心を払ってこなかった。元々夢を見ることも少なかったし、その内容を目覚めた後に憶えていることもほとんどなかった。夢判断などくだらない占いの世界のことだと思っていたし、第一夢を云々して現実的に何のメリットがあるのか、そんな風に考えていた。
 ところが先の本の中に、古代メキシコのシャーマンは「夢」を利用してある能力を開発した旨のことが書かれている。カルロス・カスタネダはアメリカの人類学者で、彼が著した内容に僕はなにかこう、言いようのない迫真性というものを感じてしまい、それでひとつ夢の世界を探求してみようと思うに至ったのだった。
 本によると夢見の初心者はまず、夢の中で「自分の手を見る」ことから始めるとある。そこでその日から毎晩そのことを念頭において眠りに就いたのだが、僕が初めて自分の手を見ることができたのはそれからおおよそ4ヵ月後になる。その時ある夢の中で突然、僕は意図して自分の右手のひらを見ることができた。それから数ヶ月に一遍の割合でそのような夢を見ることができ、始めのうちは極めて曖昧模糊としてまるで霧の中にいるようだった夢の世界も次第次第に鮮明になってきたし、また目覚めた後にその内容を覚えている頻度も多くなった。そして今回とても鮮明で印象的な夢を見たのでここに記しておく。夢の中では僕の場合、視界が目覚めている以上に鮮やかで(僕は現実世界では視力が非常に弱い)、その意味では肉体を離れることによって肉体のハンディを無に帰して、純粋に精神世界を遊ぶ(行動する)ことができるもののような気がする。夢の中に自分の意識を持ち込もうと意図してから今日まで1年と3ヶ月が経っており、僕にとっては今回の夢が記憶にある限り5回目の明晰夢だった(正確に言えば明晰夢を見たのは5晩目というべきか。なぜなら一晩に何度も「目覚めた夢」を見ることもあるから、回数で言えばもっと多い)。

 僕は河原を歩いていた。そこかしこに草や木の枝を焼いたと思われる、黒く滲んだ野焼きの跡がある。地面は石ころというよりも草や薮で覆われていて緑濃い。遠い昔に親しんだかもしれない懐かしさを感じる反面、けれどどこかが発展途上で中途半端なようなそんな宙ぶらりんの景色。明晰だった僕はそんな風景を眺めながら、夢の世界でこんな景色を見るということは、もしかしたらこれが自分の心象風景なんだろうか、心のどこかに巣食う原風景のようなものなんだろうかと考えていた。木立の向こうに角ばった建物が見える。この一角は何かの敷地内ででもあるようだった。
僕は次の瞬間建物の入り口に立っていた。夢の中では肉体というものに縛られないので移動のために歩く必要はない。それを意図しさえすれば空も飛べるし瞬間移動だってできる。建物は故郷の市役所のような雰囲気がした。この中には自分の古い、もう何十年も会っていない幼馴染や友達が大勢いるはずだ。さて、僕は誰に会いたいだろうかと自問した。こんな時誰にでも好きな人に会えることを知っていたのだ。僕はひとりの友人を思い浮かべた。そうだ彼がいい。建物に入るとまさしくカウンターを越えて彼が僕の前に歩いてくるところだった。僕たち二人は懐かしさのあまり連れ立って戸外へ出て、大きな木が植えられている円形の花壇の脇に立って親密に話をした。僕は彼に妹がいることを思い出した。「ところでおまえの妹、結婚したか?」「ああ、もうとっくにしたよ」それを聞いて僕はちょっとがっかりした気がした。「相手はどんな奴だ?」彼はその時何か答えたのだがその内容は思い出せない。そして彼は出し抜けに自分が今高校に通っていること、それがなんでも空手をするためにそうしたのだということを話し始めた。彼は25年も前に地元の高専を卒業しているというのに。
 その時にもう一度「これは夢なんだ」とのイメージが心に浮かんだ。僕は自分の手を見た。両小指の先が少しだけ切れているようだったが、夢の中としてはそれまでのケースに比べてとても明瞭に、本物の手らしく見えた。僕はその直後に目の前の大きな樹が白い花を桜のように咲き誇らしているのを見た。とてもきれいで夢の世界のようだ。僕は立った姿勢のまま空中にふわりと浮かんで細かな枝の先を撫でながら上方に垂直移動し、触れ落ちた花びらを両手に溢れるほど掬いとった。手のひらを零れた花々が一面に舞い散り、僕は花々の真白い空間の中にいた。
 梢を抜けた所に滞空して周囲を見回すと、向こうにまた違った建物が見えたので今度はそこに行ってみようと思い立った。それは古い木造の二階建てで、どこかひと昔前に実家にあったような建築物を思い出させる。空を水平移動しながら近づき、広い窓を覗くと中は図書館(または図書室)のようなものだった。二間続きの座敷が仕切られてあり、奥の方に四角い机があってそれを小さな子ども連れの母親たちが囲んでいる。机の上には本が広げられている。
 僕はどこからか中に入れないかと二階の外壁伝いに回り、ある面に開け放たれた窓のある空間を見つけた。そこでそこからするりと中に入り窓縁沿いの台に腰掛けた。中の人を驚かさないようにと極力音を立てないようにしたつもりだったが、すぐに皆は気づいて僕を見て驚いた様子をした。母親たちは僕の高校時代の同級生たちだった。そのことはわかるのだが、皆歳をとってしまってるので僕には誰が誰だかわからない。でも向こうは僕が誰なのか知っているようで、久しぶりの邂逅と予想外に僕が若く見えるのに驚いてしまっていた(僕の方は彼女らがみんなとても年とって見えたのだが)。
 彼女らの一人が言った「時があまりに早く過ぎてねえ・・・」。僕は答える「そう、一年が始まったと思ったらすぐに夏になるし、高校を卒業したと思ったら気がつけばあっと言う間に何十年も経っている」。また別の一人が「ほら、彼はちょうどお茶だから来たのヨ」と言って促すと、少し若い女性(彼女だけは同級生じゃない)が茶菓子の用意をしに席を立った。その時僕はふと、これは夢だとあらためて思った。夢の世界に没頭しすぎると、ついつい自分の自覚的な意識を失ってただの夢になってしまう。だから時々「これは夢で、その中で自分は目覚めているんだ」と確認する必要があるのだが、そのための行為をこの一連の夢の中でも僕自身幾度か繰り返していたのだ。僕は再び自分の手を見ようとした。場面はその時点で薄茶色または青灰色のネガのように静止する。僕は手を見ようとしたが、しかし見ることができない。無機質化した空間。自分が次第にこの夢から遠ざかり、それとひきかえに現実の世界の感覚が少しずつ目覚めてくるのが感じられた。遠くでタインの鳴き声が聞こえる。猫の鳴き声。タインがもう一度鳴いた。それが現実の声になり、そうして僕は夢から醒めた。

 時計を見たら夜の三時だったので、まだ時間があるからもう一度あの夢の中に戻ることができるかもしれないと思ったが、果たせないままとうとう明け方を迎えてしまった。夢の中で意図して自由自在に歩ける人は少ないだろうけれど、明晰夢自体は特に幼少期を中心にかなりの数の人が無意識的に見ているそうだ。実際僕の知人にも大人になった今でもそのような夢を時々見ている(しかしそれが「明晰夢」だという特段の概念は持っていないようだった)という人がいる。だけれどこの夢見のあり方を何らかの目的意識を持って用いている人はあまりいないと思う。またこれが今後僕の中でどのような展開を見せるのか(またはなんら見せないのか)は何分このことについての情報と体験があまりに少なすぎるので今のところなんとも言えない。しかし今僕の中でひとつの卵が重さを増し、中からトクン、トクンと細かな鼓動が聞こえてくるような気がしている。人はそもそもの始まりに無数ともいえるほどたくさんの卵を抱えて生れ落ちてきて、時宜を得てそれらはひとつ、またひとつと殻を破りそれぞれの異なった能力とともに現実世界に有象無象の力を発現していくのだが、しかしその大多数の卵は遂に一度も割られることなく、人はその生涯を終えていくのだと思う。



【写真はアポロ。彼もまたなにか夢見てるらしい。】



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4 コメント

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Unknown (allie)
2007-07-10 15:52:08
私も夢の中で目の覚めるような星空を見たことがあります。
今も思い出すほど美しかった。
弟と二人でじっと眺めていました。
現実には流れ星はめったに見られないのに、夢では星は本当に降ってくるんです。
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浪漫の探求 (agrico)
2007-07-10 18:33:21
星の世界に魅力を感じ始めたのは比較的最近のことですが、実は私もallieさんと同じく古のものに昔から浪漫を感じていました。ところでこの頃思ってるのですが、考古学や文化人類学の新発見などを待たずにそれら歴史に埋もれた真実に迫れる確実な方法があると。
聞いて荒唐無稽だと思われるかもしれませんが、これは断食をする中で気づいたことです。それは感性です。古の物事と通じる感性を磨くことによって、直感的に知りえるもの、迫り得るものがあります。このことに気づいてからもう文献や遺跡・遺物の調査などに興味を感じなくなりました。そんなアプローチでは例え一千年かかっても核心に触れることはないでしょう。つまり学問というものはその性質上、永久に発展途上なのですね。人の頭脳は真理から一番隔たった存在なのだろうと思います。
話を戻して星空なのですが、宇宙の果てしない美しさは夢の世界に顕れるように、やはり五感を越えた感性から感じ取れるものだと思います。そう思った時に、ド近眼の私はとても慰められましたよ。
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Unknown (allie)
2007-07-10 19:52:53
ユングに興味をもったことがありました。
心には個人的無意識と普遍的無意識という 2 つの層が存在する。
はっきり覚えていないのですが、その普遍的無意識は宇宙につながるようなものだったかと?
断食をすれば神経や感覚は研ぎ澄まされるのでしょうね。
世間の雑音も入らない。
私は易やタロットも好きですが、そのタロットに隠者のカードがあります。
これは表面の心から下り内部の心にいたる橋渡しのカードなのですが、アグリコさんをふと重ねてしまいました。
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ありのままに受け取ること (agrico)
2007-07-11 17:44:24
私はユングもフロイトも読んだことがないのでなんとも言えませんが、たまさかイエスやチベット密教僧、インディアンの精神指導者などの言ったと言われる言葉を読む時に、なるほどすごいことを言ってるなあと思う時があります。それらはとても似たことを言っている(というよりかまったく同じことを表わしてる)のでしょうが、でも人間はそのままには受けとらない。私たちの自我実像を歪めてしまうのです。信仰の自由を求めて新大陸に移住したピルグリム・ファーザーズらは自分たち以外の者には頑なに信教の自由を許しませんでした(インディアンは悉く改宗すべく弾圧された)。権力や軍事力を身に付けたキリスト教は、世界中の真理に至る思想(それらは本来イエスの言おうとしたことと同じことのような気がするのですが)を破壊し蹂躙し尽くして今日に至ってます。
でも失われたものは多いけれど、未だにたくさんのことが言葉や視覚として残されています。それは日常私たちが目にする機会のある(本当に身近な)ものでもあるけれど、しかしその意味はありのままに汲み取られることは少ない。ただある程度自我を振り切った場合にわかることのできるものだと思います。
世間の雑音は、実は雑音ではないのですよ。それは自分自身の心の所産であり、自分は今その中に漂うことを楽しんでいるだけなのだと思います。
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