ブシュッ・・
血しぶきが上がった。
羽をバタバタと煽る度に、首から赤黒い液体が勢いよく噴き出す。
頭は既に鉈で切り落とされていた。
断末魔、というのだろう。鶏が命を振り絞って羽を、足を猛烈に動かそうとする。
それを私は、両の手で力一杯地面に抑えつける。
ここで少しでも力を緩めれば、鶏は羽をばたつかせながら、走って行こうとするだろう。
生きようとする炎のようなエネルギーが、私の両手、両腕を伝わって、心臓にまで届く気がする。
やがて鶏は、羽ばたくことを止めた。
彼は一生で最初で最期の、飛翔を終えたのだ。
彼の魂は、今、天にある。
彼が生まれたのは去年の6月、梅雨の頃だった。
あの時孵ったヒヨコは、全部で7羽だったろうか。我が家で生まれた初めてのヒヨコたち。
親鳥は、その春先に知り合いからいただいて来た唐丸の雑種だった。
「とてもきかない(攻撃的な)鶏だよ。」
と言われたのだけれど、彼ら生まれた兄弟たちは、決してそんなことは無かった。
ピヨピヨとさざめく頃から餌を上げてきた私には、すぐ側まで寄って来て、両手で抱え上げさせてもくれる。
その年の稲刈りも終わり霜の降る頃になると、彼ら鶏家族は我が家の庭といい畑といい、縦横無尽に歩き回るようになった。
収穫前の粟や大豆が食べられないように、よく、畑から追ったものだった。
地面の枯れ草を掻き分けては、その下に住む虫や種を食べる。
お陰でせっかく集めていた草も、翌朝にはてんでに散らかってたりもしたものだ。
その彼らを冬の間に、1羽、また1羽といただき、春を待つ原動力に変えさせてもらった。
彼はその時生まれた兄弟の中での、最後の雄鶏。
兄弟の中で一番強かった彼の子たちが、今庭を所狭しと駆け回る。
首のところから腹にかけて、万能鋏で切り裂いていく。
皮を食べるつもりなら熱湯につけて羽を毟ればいいけれど、きれいに羽を取るのは結構手間がかかる。
今回も、羽ごと皮を剥きながら、捌いていった。
喉のところには、彼がたった今食べた籾やヒマワリの種が、溢れるばかりに詰まっている。
生暖かい体を触っていると、なぜか彼がまだ生きているような錯覚に囚われる。
剥き出しになった筋肉が、今しも躍動して羽ばたきを始めるような気がする。
最初鶏の叫びに遠ざかっていた猫たちも、解体が進むに連れて次第に近く寄って来て、首を落とす時に台に使った丸太や、毟った羽を興味深げに嗅ぎ回り始めた。
首や足、内臓の中の食べないところなどは、ダンボール箱にひと纏めにしている。明日にでも燃やすつもりだ。
温かい内臓を掴み出して見ると、彼の健康状態がわかる気がする。
肝臓も腸も、はらわた周りの脂肪も、量といい色といい、とても健全だ。
どうやら彼が生きている間は、健康でいてくれたみたいだ。
私が初めて鶏を自分の手で殺したのは、もう10年ほど前になるだろうか。
可愛がっていたチャボだった。
その頃私はまだ、一度に鶏1羽くらいは平らげてしまうほどの大食漢だった。
でもその頃野菜作りや農業への志をようやく本格化させた私は、
当時ブロイラーを殺すのに使われていたという「チキンキラー」なる機械の話も聞いたりして、
自分が日常食べる「生き物」を殺すことについて、問題意識を抱いていた時だった。
まるで「生きているもの」ではないようにして、日々大量殺戮されていく家畜たち。
それをお金で購い、日々の命を繋げる私。
その頃の私は、まるで何かに突き動かされるように、自分が「生きるために命を殺す」ことに激しく拘泥していたのだった。
あの時のことは、今でも憶えている。
あの日、断腸の思いでチャボを殺した私は、涙が胸元まで込み上げるのを抑えながら、
羽を毟り、関節を折り、小さな命が完全に肉になるまで、
手を休めることなく、屠り続けた。
この手のひらから腕を伝って、愛する命が、自分の肉となり、体となるようにと祈りながら。
あれからどれだけの鶏を殺しただろう。
その度に私の手は、迸る血しぶきと叫びで、黒く斑に汚れてしまう。
でも、鉈を振り下ろす時の祈り、皮を裂くときの祈り、
はらわたを出す時の、亡き骸を火葬する時の祈り、
それらを通して、命は初めて、私の肉になり、心になる。
それを繰り返して、今自分は生きているし、生命のために涙を流せる。
その晩は、ふくらはぎと内臓とをフライパンで焼いて食べた。
生まれて1年した雄鶏の肉は、確かに固い。
筋は頑強で、売っているブロイラーの柔らかさとは似ても似つかない。
でもそこには、1年育てた私の思い入れと、
確かな鶏のいのちの、味がした。
【写真は、去年のニワトリ家族。元気一杯で、猫たちもそう容易くは近寄れない。】
血しぶきが上がった。
羽をバタバタと煽る度に、首から赤黒い液体が勢いよく噴き出す。
頭は既に鉈で切り落とされていた。
断末魔、というのだろう。鶏が命を振り絞って羽を、足を猛烈に動かそうとする。
それを私は、両の手で力一杯地面に抑えつける。
ここで少しでも力を緩めれば、鶏は羽をばたつかせながら、走って行こうとするだろう。
生きようとする炎のようなエネルギーが、私の両手、両腕を伝わって、心臓にまで届く気がする。
やがて鶏は、羽ばたくことを止めた。
彼は一生で最初で最期の、飛翔を終えたのだ。
彼の魂は、今、天にある。
彼が生まれたのは去年の6月、梅雨の頃だった。
あの時孵ったヒヨコは、全部で7羽だったろうか。我が家で生まれた初めてのヒヨコたち。
親鳥は、その春先に知り合いからいただいて来た唐丸の雑種だった。
「とてもきかない(攻撃的な)鶏だよ。」
と言われたのだけれど、彼ら生まれた兄弟たちは、決してそんなことは無かった。
ピヨピヨとさざめく頃から餌を上げてきた私には、すぐ側まで寄って来て、両手で抱え上げさせてもくれる。
その年の稲刈りも終わり霜の降る頃になると、彼ら鶏家族は我が家の庭といい畑といい、縦横無尽に歩き回るようになった。
収穫前の粟や大豆が食べられないように、よく、畑から追ったものだった。
地面の枯れ草を掻き分けては、その下に住む虫や種を食べる。
お陰でせっかく集めていた草も、翌朝にはてんでに散らかってたりもしたものだ。
その彼らを冬の間に、1羽、また1羽といただき、春を待つ原動力に変えさせてもらった。
彼はその時生まれた兄弟の中での、最後の雄鶏。
兄弟の中で一番強かった彼の子たちが、今庭を所狭しと駆け回る。
首のところから腹にかけて、万能鋏で切り裂いていく。
皮を食べるつもりなら熱湯につけて羽を毟ればいいけれど、きれいに羽を取るのは結構手間がかかる。
今回も、羽ごと皮を剥きながら、捌いていった。
喉のところには、彼がたった今食べた籾やヒマワリの種が、溢れるばかりに詰まっている。
生暖かい体を触っていると、なぜか彼がまだ生きているような錯覚に囚われる。
剥き出しになった筋肉が、今しも躍動して羽ばたきを始めるような気がする。
最初鶏の叫びに遠ざかっていた猫たちも、解体が進むに連れて次第に近く寄って来て、首を落とす時に台に使った丸太や、毟った羽を興味深げに嗅ぎ回り始めた。
首や足、内臓の中の食べないところなどは、ダンボール箱にひと纏めにしている。明日にでも燃やすつもりだ。
温かい内臓を掴み出して見ると、彼の健康状態がわかる気がする。
肝臓も腸も、はらわた周りの脂肪も、量といい色といい、とても健全だ。
どうやら彼が生きている間は、健康でいてくれたみたいだ。
私が初めて鶏を自分の手で殺したのは、もう10年ほど前になるだろうか。
可愛がっていたチャボだった。
その頃私はまだ、一度に鶏1羽くらいは平らげてしまうほどの大食漢だった。
でもその頃野菜作りや農業への志をようやく本格化させた私は、
当時ブロイラーを殺すのに使われていたという「チキンキラー」なる機械の話も聞いたりして、
自分が日常食べる「生き物」を殺すことについて、問題意識を抱いていた時だった。
まるで「生きているもの」ではないようにして、日々大量殺戮されていく家畜たち。
それをお金で購い、日々の命を繋げる私。
その頃の私は、まるで何かに突き動かされるように、自分が「生きるために命を殺す」ことに激しく拘泥していたのだった。
あの時のことは、今でも憶えている。
あの日、断腸の思いでチャボを殺した私は、涙が胸元まで込み上げるのを抑えながら、
羽を毟り、関節を折り、小さな命が完全に肉になるまで、
手を休めることなく、屠り続けた。
この手のひらから腕を伝って、愛する命が、自分の肉となり、体となるようにと祈りながら。
あれからどれだけの鶏を殺しただろう。
その度に私の手は、迸る血しぶきと叫びで、黒く斑に汚れてしまう。
でも、鉈を振り下ろす時の祈り、皮を裂くときの祈り、
はらわたを出す時の、亡き骸を火葬する時の祈り、
それらを通して、命は初めて、私の肉になり、心になる。
それを繰り返して、今自分は生きているし、生命のために涙を流せる。
その晩は、ふくらはぎと内臓とをフライパンで焼いて食べた。
生まれて1年した雄鶏の肉は、確かに固い。
筋は頑強で、売っているブロイラーの柔らかさとは似ても似つかない。
でもそこには、1年育てた私の思い入れと、
確かな鶏のいのちの、味がした。
【写真は、去年のニワトリ家族。元気一杯で、猫たちもそう容易くは近寄れない。】
いかに健康に育っていたかということをわかりつつ、屠るっていうのが、命に対する畏敬というのですか、ほんとうの気がしました。
わたしはさかなをおろすぐらいかなあ、できるのは。(適当ですけど。)
私がもし自分で、世間一般的な人と自分との間にそれぞれの「思い」に違いを見つけようとすれば、それは多分、「命を殺しながら、生きている」ことを少しだけ自覚していることにあるかもしれない、と思います。
初めて鶏を殺した時は、大変なショックでした。
自分の価値観の石組みが、その後音を立てて崩れるほどの経験に繋がりました。
そんなこともあって、今でも鶏を自分で捌くのですよ。
本当は、もう殺したくないのです。
これは昨日したことを、記事にしたのです。
昔読んだ本の中に、
「自分で狩って屠ることができない動物を
食べるのはおかしい。だから
私は牛や豚肉は食べない。魚は食べるけどね。」
っていう女性が登場してました。
なるほどな、確かに、変だわな。
と同感はしつつ、今日も肉じゃがを作って食べました。
ええ~っと、
そんなもんさと、薄ら笑いで自分を許しましたとさ。あぁ~あ。
まさに命を頂戴したという思いに囚われ、震えたものです。
人間に限らず生あるものは、ナニモノカの命を頂戴してしか生きていけないんですよね。
それが悲しくもあり、勇気にもなり…
自分の血が鉄の味がする事に、生を感じている自分。
でも、それで感じることができているなら、いいのかもしれない。
でも、でも、やはり、弱いなぁ。
なにも、みんながみんな、同じことをしなくてもいい。
でも、生きるのに大切なこと、基礎となることは、それがどういうものなのかを一度は経験して、自分なりに咀嚼しておくのは価値があると思います。
私が本当の意味で「自給自足」に目覚めたのは、この鶏のことがあったからなんですよ。
今は「自足生活」を目指してます。
これなら、都会に住んでもどこにいても、できるかもしれませんね。
このことを頭で知っている人は多いですが、
このことに気づいているひとは、本当に少ないと思います。
ぱこさんも私も、その経験に共通項が多い。まったく不思議な巡り合わせですね。
そのように創られた人間。
私たちはただ、ありのままを見て受け容れていけばいいのでしょうね。
私たちは、現実から「目を逸らす」ことに、実は日々莫大な努力を払っているのかもしれません。
その意味で今でも多くの人が、外見は強そうに見えて構造的な弱さを抱えているような気がします。
でもたけさんの意識の方向性は、確実にその「基本的」なものに向いてると思いますよ。
誰でもその人なりにさまざまな経験を積み、ステップを踏んで生きています。
私だって生を生とも気づかないで長い間生きてきましたからね。
私の自覚の原点は、自分の弱さ、醜さを受け容れることなのです。
それは壮絶な体験でしたよ。
話がズレるかも知れませんが、クジラを食うなとか叫んでいる人々も、牛や鶏は食べる。
クジラが高い知性を備えた動物だからという論旨は噴飯ものですが、それは置くとして、結局菜食主義者もクジラの保護団体も、野菜やその他の動物性タンパク質を得て生きているわけです。
結局、どの生命を奪うかの選択でしかないと思います。
生きるために他の生命を奪うことは悲しいことかも知れませんが、それが摂理であるならば、自分を生かしてくれるモノに「感謝」していただけばいいのだと思っています。
>現実から「目を逸らす」ことに、実は日々莫大な努力を払っている
いや、むしろ努力を払わずに過ごせるように人間は作られているのではないかと思います。
あるいは、人類が営々と生き延びてきた過程で、目を逸らす遺伝子が組み込まれたような気もします。全ての現実から目を逸らすことのできない繊細な種であれば、とっくの昔に淘汰されていたのではないでしょうか。
忘れる、目を逸らす… 種が生き延びていくための防衛本能なのかも知れません。
鶏や羊を屠る感覚や記憶が、完全にいつまでも脳裏に残っていて、毎日のように思い出したとしたら、私など発狂してしまいますよ。
長文でごめんね。
恐らく何百万年もの人の歴史の中で、命に自ら直接関わらずに生活できるようになった(錯覚ですが)のは、最近の数百年あるいは数十年でしょう。
しかし、人の体も心も、それ以前の長い時の間にその形質も、構造も、機能も、そのほとんどを形成していると思います。
だから、私は生命をいただくために殺すことは、今まで人の体も心も受け容れて来たことで、今でも充分に直視できることだと思います。
現在の暮らしがこの先何万年か続いたら、人類の体質も心の構造も変わるでしょう。
でも私たちは、今ここで生きている。
私は現実に直面する生き物の方が、生命力があるし、生き延びれると思うんですけどね。
人類の衰退する要因があるとすれば、まさしく「現実から目を逸らし始めている」ことにあると思いますよ。
人より遥かに長い間生き延びている種はかなり多いでしょう。
人の歴史は、地球上ではまだひとつの「瞬間」でしかないかもしれませんね。
私も北海道で、時々鹿を解体しましたよ。朝早く車にはねられた鹿が、よく道路に倒れてました。
その頃肉と言えば、鹿の肉ばかりでしたね。
世界人口からいえば、まだ命に直面している人たちの方が多いかもしれません。
真摯なコメント、ありがとう。