アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

マルヴィーナス 2

2005-03-13 07:59:35 | 思い出

アルゼンティン海軍巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノは原潜の放った数本の魚雷によって、乗員323名とともに沈没する。原潜が実戦投与されたのは人類の戦争史上これが初めてであり、コンカラーは戦艦を撃沈した世界で唯一の原潜として歴史に名を残すことになった。

マルヴィーナス侵攻後最初の戦闘らしき戦闘で。アルゼンティン艦隊は原潜の動きを阻止するどころか捕捉することさえできなかった。駆逐艦2隻が右往左往してそこいら中に爆雷をばら撒いたが、何の成果も上げることはできない。
原潜に対して、アルゼンティン海軍はまったくの無力だった。
元々国家の財政はとうの昔に破綻している。いくら国の総力を挙げても、保有する戦艦の多くは20年、30年前の他の国ではとっくにスクラップになっている型の物ばかり。海軍の兵装は世界の近代電子戦の波にまったく追いついてなかった。
対するイギリスは老いたとは言えさすがにまだ大国と言われるだけある。原潜を始め垂直離着陸機シー・ハリアーや各種対空・対艦ミサイルなど、当時のハイテク兵器をあますところなく装備している。アルゼンティンのディーゼル潜水艦は、英国艦隊に近づくことさえできない。両者はすべての兵装において比較にならなかった。
この状況と損害を重く見たアルゼンティン海軍はこの日作戦からの離脱を表明する。出撃すればするだけ原潜の餌食になることは目に見えていた。無駄な戦いに身を投じるよりも戦力を温存することを選ぶ。空母ヴェインティシンコ・デ・マジョは本土に引き返した。これによって大西洋上の制海権はイギリスのものとなる。

確かにこの戦いは誰の目から見ても、大人と子供、いや壮年と足腰の立たなくなった年寄りとが同じ土俵で喧嘩するようなものだった。始まる前から既に結果は見えていたのだと思う。
空母の支援を絶たれた空軍は、以後は本土から飛来して英国艦隊を攻撃する。しかしこちらも最新式の対空防衛システムとシー・ハリアーの持つ空対空ミサイルによって、まるでハエ叩きで落とされるように撃墜されていく。

この戦争を通してイギリスが最も恐れたのは、国際世論を敵に回すことだったと思う。圧倒的な力の差は外部からは弱いものいじめに見える。そして実際あまりの一方的な戦闘に英国国教会は「これ以上の犠牲が出ないよう」政府に警告した。またBBC放送はアルゼンティンの戦争未亡人のインタビューを世界中に発信する。イギリスと歩調を揃えアルゼンティンに対する経済措置を講じていたEEC諸国にも、ポツポツと英国を非難する声が出始めた。そればかりか英国議会で労働党は、「島民の数よりも多くの人の血を流すのか」とサッチャーを猛烈に攻撃する。

また一方、アルゼンティンを声援する国も多かった。中南米・非同盟諸国20カ国はこぞって領土主権問題においてアルゼンティン支持を表明する。どの国も、多かれ少なかれ大国のエゴにさんざん苦しめられた経験を持っている。キューバのカストロもアルゼンティンを支持した。

だからサッチャーは戦争の間常に周到かつ精力的な外交努力に心血を注いだ。そしてその甲斐あって、アメリカのレーガン大統領そしてEEC諸国は、なんとか曲がりなりにも終始イギリスに対する基本的な協力姿勢を維持できたと言える。

デクエヤル事務総長を始め国連も双方の調停のためにかなりの努力をした。しかし最後の頼みの綱であったスペイン、パナマが安保理に提出した即時停戦決議は、米英の拒否権によって却下されてしまう。

このように軍事的、外交的に不利な立場にあって、しかしアルゼンティン側もまったくやられっ放しというわけじゃなかった。

アルゼンティン海軍シュペール・スタンダール攻撃機は目標まで37kmに達していた。これ以上進めば敵艦隊の絶対防衛圏に突入することになる。それは避けなければいけない。今回だけは万が一にも迎撃される危険を犯すことはできないのだ。何故なら今抱えているこのミサイルは・・・。

セイフティー・ロック解除。照準器再確認。パイロットは深呼吸してからゆっくりと3秒数え、それから全神経を込めて指に力を入れた。
ズン!重く鋭い衝撃と共に上体がベルトに食い込む。エグゾセは発射された。
ミサイルは数百分の一秒の速さで瞬く間に視界から消える。後には淡い煙に彩られた白い軌跡だけが残る。それは真っ直ぐに海の彼方、英国艦隊の方角に向いていた。

アルゼンティンが持っていた武器の中で唯一イギリスにまともに対抗し得たのは、前年にフランスから購入したエグゾセ・対艦ミサイル。射程50km。慣性誘導とアクティブレーダーを備えたホーミング機能を持つ。しかしそれはたったの5本しかなかった。
それでもその効果は絶大と言えた。5本中4本が目標に的中。イギリス海軍駆逐艦シェフィールドと輸送船アトランティック・コンベイヤーを沈没させ、終始優勢だったイギリス側を一時的にも震撼させる。

アルゼンティンもよく闘ったと思う。A-4スカイホーク攻撃機はイギリスのレーダー探知を避けるための超低空近接攻撃を繰り返し、それは「カミカゼ攻撃」と呼ばれて恐れられた。しかしこれも世界で初めて実戦投与された垂直離着陸機シー・ハリアーの空対空ミサイルによって空中戦では一方的に撃墜される。兵士たちの命を賭けた奮闘も虚しく戦闘機は毎日10機前後撃墜され、空軍は確実に体力を消耗して行く。

5月25日のアルゼンティン独立記念日、アルゼンティン軍は死力を尽くして戦闘機数十波による猛攻を仕掛けた。イギリス駆逐艦と輸送船各1隻が沈没。それと引き換えにアルゼンティン軍機8機が撃墜される。

6月8日、アルゼンティン空軍機は英国補給揚陸艦2隻を沈没または大破させる。その代わり戦闘機10機を失う。

そしてそれが、アルゼンティン空軍が然るべき戦果を上げた最後となった。

一方マルヴィーナス諸島では、孤立した陸軍が上陸したイギリス特殊部隊SAS,SBSらとの死闘を展開していた。とうに空港は破壊され海上封鎖も徹底されており、本土からの救援はまったく望めない。陸上での最初の激戦地であるグースグリーン地上戦では英兵17人死亡、それに対してアルゼンティン兵はおよそ200人が死亡する。戦線は日に日に追い詰められていった。
この時イギリス軍は、ほとんどが徒歩で行軍したという。兵員輸送用車両の不足からなのだろうが、もしそこを上空から爆撃できたら、上陸したイギリス軍に致命的な損害を与えることもできただろう。しかしその当時既に制空権は完全にイギリスに握られていた。

そして6月14日、島に立て籠もり交戦を続けていた1万のアルゼンティン将兵は遂に降伏する。

ガルチェリは椅子から身を起こし、机を両手の平で叩きながら叫んだ。
「辞めん!わしは辞めんぞ!」
閣僚たちは誰も口を開かない。眉間に皺を寄せて俯く者、頭を抱える者、唇をぎゅっと結びながらじっと天井を眺める者・・・大統領官邸は今深い悲嘆と困惑の淵に沈んでいた。
陸・海・空とすべての戦力を粉砕され、もはや祖国に反撃する力は残されていない。大統領はつい数時間前にすべての国民に向かって、マルヴィーナ諸島における戦闘終結を宣言したばかりだった。
窓の外に群集のざわめきが聞こえる。現在首都においては7000人による停戦反対デモが繰り広げられている。しかし今議論されているのはそんなことではない。
敗戦に対しての責任を誰がどう取るのか?
既に内相、外相は辞任を決意している。そして先程来、会議場を囲んだ閣僚たちの視線はじっとガルチェリに注がれていた。

しかし彼は知っている。今まで彼が成し得た独断も専横も、すべては「大統領職」という権限の中に存在したことを。そして今その職を辞任すれば責任はそれだけには留まらない。過去のこの国の歴史が実証しているように、恐らくは更に厳しい追及がなされるであろう。彼は今「犯罪者」に転じる瀬戸際にいた。彼が今まで数知れない対抗分子をそのように処刑して来たように。
「断じてわしは辞任せん!」
ガルチェリの顔は赤みを通り越してどす黒く見える。
官邸の外では相変わらず、デモ行進のシュプレヒコールが鳴り響いていた。

6月15日戦闘終結は宣言され、そしてその翌々日、ガルチェリは大統領と陸軍総司令官の職を辞任する。

こうして2ヵ月余りに亙ったマルヴィーナス戦争は終結した。この戦争によってアルゼンティン兵士645人が死亡。約1万人が捕虜。戦艦等5隻が沈没。戦闘機など117機が失われる。対してイギリス側は、死亡が250人と、6隻の艦船を失った。
戦争に従軍したアルゼンティン軍兵士の特徴を言えば、英国側に比べて若年の召集兵が多かったということだろう。いかにその場作りの即席軍隊で構成されていたかがわかる。職業軍人を主体とするイギリス側とは、熟練度にしても指揮の高さにしても比べるべくもない。

戦争終結後、ガルチェリは政界を追われ再び浮かび上がることはなかった。アルゼンティンにはこの敗戦を発端として一挙に軍政の崩壊、民政化の波が押し寄せる。
一方イギリスでは、終戦とほぼ時を同じくして経済は回復基調に転じた。インフレ率は半減し、財政赤字も縮小、貿易収支は黒字に転換する。
この戦争に帝国を導き戦い抜いたサッチャーは一躍国民の英雄になる。もちろん翌年の総選挙では保守党は大きく票を伸ばし、議席の過半数を占める圧倒的勝利を獲得する。
もちろんそれだけではないのだが、計らずも戦争の勝敗が両国首脳の明暗をそのまま分けた形となった。

アルゼンティンは民政移管のなった今でもマルヴィーナス諸島の主権を主張し続けているが、1989年に両国は敵対関係終結宣言を採択。翌年には18年ぶりに互いの国交を回復する。変化が激しく国際協調の必要性が特に求められている昨今、いつまでも過去のしがらみに拘泥してもいられないのである。

すべてを語り終えて、パウラおばさんはハンカチでもう一度頬を拭った。
僕は我に返り、ふとまるで長い、とても長い時間が流れ去ったように思えて窓の外を見た。日差しは相変わらず強い。もしかしたらここに来てからまだそれほど時間は経ってないのかもしれない。
テーブルの上のコーヒーはすっかり冷えていた。隣にいたはずのパトリシアはいつの間にかいなくなっている。彼女は今高校生。僕とはよくパス停への道ですれ違う。そういえばおばさんの話の途中で彼女がすすり上げるのを聞いたような気がする。

「セルヒオは、昔雑誌で日本の記事を読んでから、いつか日本に行きたいって、それで・・・それで、あの子は・・・」
おばさんはもう一度机の上の息子の写真に目をやった。
「海軍に入ったのよ・・・」

1986年サッカー・ワールドカップメキシコ大会。準々決勝のアステカ・スタジアムにてアルゼンティンはイングランドと対決する。あの戦争から丸3年が経っていた。試合はどちらも譲らず一進一退の展開。もつれ合った後半戦、ディエゴ・マラドーナが立て続けに2点を上げた。アルゼンティンの全国民がその瞬間、立ち上がって歓声を上げる。商店街のガラスが割られる。繁華街で花火が打ち上げられる。熱狂のうちに試合は2対1、アルゼンティンの勝利に終わる。数え切れないくらい多くの人が感激に咽び、涙を流して喜んだ。
後にマラドーナは、あの得点は自分の手に当たって押し込んだものだったと述懐する。つまり反則だ。たまたま審判の盲点に入って見逃されたようなのだ。人々はそれを「神の手ゴール」と名付けた。それを聞いたイギリス国民はもちろんかんかんになって怒った。

そして更にその12年後の1998年6月、再び両国はフランス・ワールドカップにて対戦する。今回もイングランドのヒーロー、ベッカムが反則行為で退場するなどして波乱を呼んだが、最後はPK戦でやはりアルゼンティンが勝っている。言うまでも無くこの日もアルゼンティンの国中に爆竹が鳴り響き、パレードが繰り広げられ、多くの会社では社長以下全社員が仕事をポイコットした。

戦争には勝ったイギリスだが、それと引き換えに二度とサッカーでアルゼンティンに勝てなくなったのではないか、と僕は真面目に疑っている。

マルヴィーナス諸島はペンギンの群生地でもある。季節になると見渡す限りの海岸や丘を無数のペンギンが埋め尽くす。しかしその足元には、今も数多くの地雷が撤去されずにあるという。人の体重では爆発してもペンギンの軽い体重では爆発しないという微妙な均衡を保ったまま。
だから皮肉なことにこの島のペンギンたちは、地雷によって人の手から守られているとも言える。マルヴィーナス諸島は今日極地に近い野生動物の宝庫として名高い。巷では第二のガラパゴスとまで言われているそうだ。

青い海、澄み切った大気。色鮮やかに躍動する夕暮れの水平線。そんな大自然のパノラマを見ていると、今から23年前にこの島の周りで、多くの若き命が大洋に散ったことを想像はできない。





(「マルヴィーナス」 完)


*この物語は大筋史実に基づいてはいますが、フィクションです。




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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-10-02 08:14:21
アルゼンチンの兵士645人が廃棄処分されは大変よいことだ野蛮な白人は廃棄処分するに限る。しかし、廃棄処分の数が少ない。万単位や億単位で廃棄処分してほしかったな。500年前に今の白人が先住民にしたようにな。

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