いわき市・子年生まれの”オヤジ”

草莽崛起
日本人よ、歴史を取り戻せ!

白洲次郎が明かした「吉田茂の最大の間違い」とは?

2017年05月04日 07時45分43秒 | 社会・政治
あてがいぶちにすぎぬ憲法を考え直す季節が到来している

 今ようやくその改正を問われている日本国憲法の生い立ちについて、大方の国民が忘れていると言うより迂闊に知らずにいる歴史的事実があることをこの今こそ思い起こすべきと思われる。それは共に同盟国として敗戦し連合国に降伏したドイツと日本の敗戦に際しての姿勢の決定的な違いについてだ。未曽有の新兵器原爆によって瞬時に二度も数十万の市民を殺戮されて腰を抜かした日本が無条件降伏をしたのに比べて、ドイツは降伏に際してあくまでも三つの条件をつけ、それが受け入れられぬ限り徹底して戦うと主張した。

 その三つの条件とは第一に、敗戦の後の国家の基本法の憲法はあくまでドイツ人自身の手によって作る。第二は戦後の子弟の教育指針はドイツ人自身が決める。第三はたとえ数はごく少なくとも国軍は残すというものだった。

 この国家民族の主体性を踏まえた主張は勝者の連合国側にも受け入れられ、ドイツは他国による完全支配を免れた。それに比べ日本は他国による奴隷的な支配の甘受を許容することになった。その国家民族の没個性的な状況を象徴するのが現憲法に他ならない。

 混迷し、暗黒だった中世が終わった後の世界の歴史は白人による有色人種への一方的支配だったが、唯一の歴史的例外は日本という国家の存在だった。白人による他地域への支配を象徴する強大な帝国海軍を保有した有色人種の国家は唯一日本であり、世界一巨大で強力な戦艦『大和』や『武蔵』を保有するに至った日本は白人支配に対する歴史的『NO』を示す目障りな存在だった。アメリカによる戦後の日本支配はその復活を半永久的に封じるためのものに他ならなかった。それを象徴するものが彼等が即製し強引にあてがった現憲法に他ならない。


白洲氏「吉田茂の最大の間違い」

 今は亡き江藤淳がアメリカの戦後日本における言論統制を痛烈に批判した論文『閉ざされた言語空間』にあったように日本人の正統な日本語による為政者への統制批判を封じるものの象徴的存在は、間違った日本語で綴られた前文に始まる憲法に他ならない。かつてシェイクスピアを全訳もした優れた英文学者でもあった福田恆存が指摘していたように憲法の前文には明らかに慣用の日本語としては間違いの助詞が数多くある。たかが助詞と言うなかれ、一つの助詞は言語の本質からしてそれ一字だけで文章全体の品格を左右しかねないものなのだ。

文章の芯たる助詞の誤訳

 かつてドナルド・キーン氏であったろうか、昔の優れた叙景歌人だった永福門院の名歌『真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消え行く』を翻訳して見せられた時、なるほどと感心して読みなおした私に、「でもあそこの一字だけはとても難しくて、英語に訳すのはまず無理ですねえ」と慨嘆してみせ、私も「あれは難しいでしょうな」と相槌を打ったものだが、ここの禅問答みたいな会話の芯は夕日の影ぞの、「ぞ」という間投詞の味わいなのだ。この歌は夕日の影「も」でも成り立つが「ぞ」という助詞一字の味わいがなくしては帝の寵を失った女の悲しみは伝わってこない。それほど助詞というものは文章を支える芯の芯にも値するものなのだ。しかしアメリカ人が英語で即製して日本語に翻訳した憲法にはわれわれが日常使う日本語としてはなりたたないような助詞の誤訳が随所にある。

 例えば多くの問題を含む九条を導き出すための前文『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』という文言の「公正と信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だがこれは日本語としての慣用からすればあくまで『を』でなくてはならず誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう。さらに後段の『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ』云々の『から』なる助詞は『から』ではなしに慣用としては恐怖『を』免れのはずだが英語の原文の前置詞がFROMとなっているために『から』とされたに違いない。

 たかだか僅かな助詞の話ではないかと言う筋も多かろうが正統な国家の正統な基本法はあくまで正統な国語で綴られるべきであって、この日本語の体をなしていない前文なる文章は、悪さをなして先生にひどく叱られ恐縮してひたすらにお詫びする生徒の卑屈な姿勢を象徴しているといわざるを得ない。日本がひきおこした太平洋戦争についてナセルとスカルノは期せずして同じことを述懐していたものだった。曰くに『われわれが独立を果たすことができたのは、敗れはしたが日本が白人とあれだけ戦ったという事実のおかげだ』と。日本という有色人種による軍事国家の誕生が中世以来の白人支配という歴史の原理を変えたことは間違いない。それは歴史の本流を歩んできた白人たちにとって看過できぬことだったに違いない。そうした歴史観に立ったかつての為政者によって現憲法が一方的に作り与えられたことは間違いない。われわれが拝領させられた憲法の歴史的な背景を考えれば民族の主体性が及んだ痕跡などどこにもありはしない。


読み直し考え直す季節だ

 私は幸いにしてごく若く世の中に出られたおかげで当時まだ存在していた文壇なるものにも顔が出せ、さまざまな行事を通じて多くの先人たちとまみえることができたが小林秀雄と親交のあった白洲次郎氏ともゴルフの会などで親しく話す機会も得た。そんな会話の中で印象的だったのはかつて吉田茂総理の側近中のだれにもまして側近だった白洲氏が、「吉田茂の犯した最大の間違いは自分も同行していったサンフランシスコの日本の独立がみとめられた講和条約の国際会議でアメリカ制の憲法の破棄を宣言しなかったことだ」と言ったのは極めて印象的だった。

 この現世紀にいたって日本を囲む諸状況は緊張を増し新しい危機の到来が予感される今日だが、はたしてわれわれは今の憲法を墨守しそれを与えたかつての支配者にすべてを委ねることで国家民族の主体性を保持できるのだろうか。『天は自ら助くる者をのみ助く』という人の世の原理をわれわれは今ようやく憲法を見直すことで思い起こすべきではなかろうか。

 現憲法にはその成立の過程を含めて日本という国家の主体性を疑われる節が多々あることは否めない。だけではなしに官僚支配という民主国家としての体質を損ないかねぬ条項がいくつかあるのだ。例えば予算を通じて官僚が国民を欺きかねぬ事態を保証している国の会計監査に関する第九十条は『国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し』とある。役人が役人たちの税金に関する所行を検査してその矛盾を厳しく指摘するなどということは考えられまい。そのせいで今もってこの日本だけは国家の会計制度は先進国の中でいまだに非発生主義の単式簿記という体たらくで、特別会計制度なる利権の巣窟が温存されつづけているし、まさに藪の中の体たらくで役人天国の温存にもなりかねまい。それらこれらも含めてわれわれはようやく本気であてがいぶちでしかなかった憲法を、われわれの子孫の繁栄のためにも、自分の目で読み直し考え直す季節が到来しているにちがいない。


石原慎太郎 日本よ