阿部ブログ

日々思うこと

2.26事件を三菱合資会社は東京憲兵隊より早く部隊蜂起の情報を得ていた。

2012年03月11日 | 日記
三菱合資や三井合名など、所謂「財閥」は戦前、青年将校など革新運動に対して深い関心を寄せ。日頃から情報収集を欠かさなかった。

特に三井合名理事長・団琢磨が三井本館を入ろうとした瞬間、血盟団の菱沼五郎に射殺されるという事件が決定打となった。団琢磨暗殺時、菱沼は19歳。

団琢磨の暗殺は1932年だが、先年の1931年にイギリスの金本位制離脱に起因する三井銀行など財閥系による大量のドル買いにより莫大な利益を得たことが背景にある。
金本位制に依拠する日本の国策に反し、私利を優先した国賊的行為と批難された。

三井銀行のドル買い規模はのナショナルシティ銀行、住友銀行に次ぐ規模であった事から三井本家にも国賊的行為を糾弾するとして、三井本家への脅迫や三井銀行本店への乱入事件などが頻発。

これに懲りた各財閥は、国粋主義者や青年将校らの動向に関する情報収集に力を入れる事となる。

三菱合資会社も同様で、特に役員に直結する秘書室に情報収集機能を持たせ、緊急事態に迅速に対応できる連絡体制を整備した。三菱における情報担当役員は、樋口実。

参考まで樋口実は、終戦直後の1948年(昭和23年)藤村朗社長の辞任に伴い8月12日に三菱地所社長に就任した。しかし樋口の社長在任は短く翌1949年(昭和24年)4月20日に樋口実は社長を辞任。

この三菱合資会社秘書室には、警視庁丸の内署で特高主任をしていた中村喜三郎を採用した。当然特高警察との情報交換を行う事は勿論であり、陸軍の東京憲兵隊などとの連携も欠かさなかったし、三井、住友、大倉など財閥間の情報交換を密にした。

特に北一輝に池田成彬・三井合名理事長自ら金を渡していた三井とは緊密な情報交換を行った。勿論、2,26事件に係わる情報も東京憲兵隊や警視庁に渡す以前に丸の内と日本橋で話しをしていた。

中村が東京憲兵隊で連携していたのは、麹町分隊の特高課・小坂慶助軍曹。
因みに関東大震災のどさくさで大杉栄ら3名を殺害したとされる甘粕正彦大尉は、逮捕時は、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった。

小坂軍曹は、中村から三菱本社に呼ばれ青年将校の動向について情報提供を受けた。
これは三菱が青年将校の出入りする料亭などに情報提供者を確保していた事によるもので、青年将校が良く出入りしていたのは、大森海岸の「松浅本店」、赤坂の「鳥末」、麻布龍土町の「龍土軒」などで、当時の憲兵隊ではこれらの店を常時監視下に置くことが人的リソースのから無理でブラックリストに載っている連中の尾行監視を常とした。

三菱は赤坂の料亭「鳥末」に女性の情報提供者を得ており、会合の参加者と打ち合わせ内容を速やかに丸の内に報告した。2月19日の夜。

三菱は直ちに岩崎家に通報、同時に三井にも連絡を取る。打ち合わせの内容から重臣のみならず財閥当主や関係者も襲撃対象となってなっており対応が急がれた為。

連絡を受けた三井合名の池田成彬は、北一輝に連絡を取り、青年将校らの襲撃リストから財閥関係者を外すよう要求。事実2.26事件で財閥関係者は襲撃されていない。

三菱合資会社秘書室の中村から部隊蜂起の情報を得た小坂軍曹は、直ちに麹町分隊長へ報告し、東京憲兵隊は緊急体制を敷く。

これと同時に兵務局分室(警務連絡班)、秘匿名称「ヤマ」が動き出す。
ヤマにより皇道派幹部、青年将校や、北一輝、西田など民間人も含め可能な限りの電話傍受や秘匿家宅捜査など、当時の最新鋭の技術を駆使して情報収集を行った。

NHK文化財ライブラリーに寄贈されている20枚の録音盤は「ヤマ」のもので、この録音盤を基に1979年に放送された「NHK特集:交信を傍受せよ」が作成編集され放映された。
この番組は、第6回放送文化基金賞本賞と第12回テレビ大賞優秀番組賞するなど高く評価されている。
今はNHKオンデマンドで視聴可能だ。

2.26事件は、まだ終わっていない。

3.11を経験した日本国民は、日本政府に統治能力が無い事を完全に認知した。今、北一輝の「日本改造法案大綱」の現代版が現出する危機感がある。議会制民主主義を一時停止して天皇親政による日本政治及び財政&経済の刷新を、と言うのは民衆の賛同を得うる土壌が既に存在する。

中国や韓国は、この状況を正しく認識しており、日本領土の分捕りを画策している。明治維新以降の体制ではこの事態に対応出来ない。

2.26事件の部隊蜂起情報を三菱合資が憲兵隊より前に入手した事から逸脱したが、これからの世の中の動きは興味津々である。


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