阿部ブログ

日々思うこと

『戦艦大和副砲長が語る真実~レイテ沖海戦の反転の真相』太平洋戦争の敗因は日本海軍にあり

2016年04月09日 | 雑感
今も102歳でご健在の戦艦大和副砲長の深井俊之介氏が、レイテ沖海戦での謎の反転の真実を白日のもとに晒す決意の書『私はその場に居た 戦艦「大和」副砲長が語る真実 太平洋戦争戦史最大の謎 レイテ沖海戦の謎の反転の真相』を上梓した。この書は、レイテ沖海戦を巡るモヤモヤした謎を解明する内容で、経験者出なければ書けない内容だ。しかし、一読して感ずるのは日本海軍は本当に間抜けで、特に海軍将官の無能さを改めて認識したが、ここまで酷いのか!と言うこと。地位が高くなればなるほど無能になる日本組織を立派に代表している。そして、やっぱり怖くなって敵前にて逃げ出したのが真相だ。そこで出てくるのが発信者と受信者が不明な実質的に撤退を促す電報の存在だ。この電報の存在は、他の戦史には見られず深井氏が初めてこれを明らかにした。この電報については後述する。しかし、間抜けで無能な日本海軍を引き継いでいる海上自衛隊も心配の種だ。因みに陸上自衛隊は、日本陸軍を引き継がず独自の軍事組織として今日に至っている。服部卓四郎らの努力が無に帰している。海上自衛隊は、将に「敵前で謎の反転を繰り返す」日本海軍を引き継いでいる。この辺りはジェイムズ・E・アワーの『よみがえる日本海軍』と手塚正巳の『凌ぐ波濤 海上自衛隊をつくった男たち』を読まれると良い。
さて海上自衛隊は、米軍と共闘するときは健闘するだろうが、尖閣諸島などでの個別自衛権行使の場合は、かなり怪しい。何せ、中国共産党軍艦艇からレーダー照射を受けても、何もしないのだから話にならない。また、テロ対策特別措置法に基づいてインド洋で給油活動に当たっていた海上自衛隊補給艦の「とわだ」が航海日誌を廃棄した事案があったが、これはレイテ沖海戦での「謎の反転電報」を想起させる。何処の海軍が航海日誌を破棄するか。今も昔も海軍/海上自衛隊なるものは信用ならないし、今は何処の軍隊かわからない程、米海軍と一体化している。独立した国家の海軍組織としてまともな戦力構成になっているのか? 米第7艦隊の一支隊としてしか役に立たないのであれば、それは問題だ。これについては国民は厳しく問わなくてはならない。それは貴重な海上自衛隊員曹士を守る必要があるからだ。

さて、レイテ沖海戦は、日本海軍の残存戦力を結集して実施した決死の「捷一号作戦」。この作戦は、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」を主力とする日本海軍最後の空母部隊で総勢17隻で、ルソン島上陸支援に当たるハルゼー第三艦隊を引き離す囮とし、その間隙を突いてレイテ上陸部隊と揚陸艦隊を撃滅するもの。この囮部隊の指揮官は、小沢治三郎海軍中将。この囮作戦は見事に成功する。ハルゼーは、第1、第2、第3、第4の機動部隊、サンベルナルジの海峡に待機中の第7艦隊の水上兵力、潜水艦など全部隊に対し、直ちに配備を解き、全速力をもって小沢部隊を求め北方海面に進出するよう命令した。さあ、これで主力艦隊がレイテ湾突入の条件が整った。日本海軍の突入を阻止するべく封鎖されていたサンベルナルジ海峡から米海軍艦艇は全て移動し、レイテ湾への障害は無くなった。小沢艦隊の奮闘により「捷一号作戦」の成功は間違いない状況になった。
突入部隊の栗田艦隊は、米軍の攻撃を受けることなく無傷でレイテ湾に突撃し攻撃しまくれば良い。この巨艦大和を含むこの主力艦隊を率いたのが亡国の徒で腰抜けの栗田健男、本当にマヌケな日本帝国海軍軍人。しかし、この「栗田艦隊」は、がら空きとなっているルソン湾に蝟集する上陸部隊と輸送船団を攻撃せず、敵前にて逃亡するという暴挙にでた。これで「捷一号作戦」の一切は無に帰した。また日本海軍はその主力を失い、実質的に帝国海軍としての歴史に幕が下りた瞬間であった。この栗田艦隊の指揮艦である大和にいた深井海軍少佐が、敵前での反転の真相を初めて証した、喝采!

レイテ湾に突入する部隊は、栗田艦隊の32隻、西村艦隊7隻、志摩艦隊7隻の総計46隻。レイテ湾まで1時間半の位置まで接近した時、問題の電報が旗艦大和の艦橋にもたらされる。
「栗田艦隊の北90キロメートルに敵大部隊あり、地点ヤキ一カ、0945」
この電報には前述の通り、発信者欄と受信者欄が空白で、単に上記電文が書かれているだけのも。これは完全にオカシイ。個人的には自衛隊で信務を経験しているので、電文だけの電報を上官に提示することは絶対にない。深井氏も、この電報は各部隊の戦闘詳報、発着信記録などあらゆる記録を精査しても、その詳細が明らかにすることができない代物なのだと尤もな指摘をしている。そして、栗田は、大本営および全軍宛に電報を発信した。
「第1遊撃部隊はレイテ泊地突入を止めサマール東岸を北上し敵機動部隊を求め決戦。爾後サンベルナルジ水道を突破せんとす。地点ヤモ22ケ 針路0度」でた、日本海軍お得の「謎の反転」、所謂、敵前逃亡だ。陸軍では全く考えられない。
旗艦大和の艦橋の左側は、第1戦隊司令官の宇垣纏中将がおり、右側には大和の森下艦長とその後方に亡国の栗田が座っている。
敵前逃亡する栗田の横目に、宇垣は「南へ行くんじゃないのか!」と叫ぶ。「長官、南に行くんじゃないのか」と艦橋にいる全員にいる全員聞こえるように何度も大声で叫んでいたという。
副砲長の深井少佐も「とういうことですか? なぜレイテにいかないんですか?」と栗田の参謀、大谷作戦参謀に食い下がる。そこで出されたのが、問題の電報だ。
「おかしいじゃないですか! さっきは追いつけないから敵空母の追撃をやめたんじゃないですか。追いつけるとおもっているのですか!」
「この大部隊が、敵の主力だから叩きに行くんだ。お前たち若い者は引っ込んでおれ!」

戦後、この電報は「ヤキ一カ電報と呼ばれているようだが、「敵 機動部隊見ゆ」とあるが、大谷から見せられた電文は「敵 大部隊見ゆ」だったと書いている。そして、深井少佐は言う、この「ヤキ一カ電報」は大谷の捏造だと。大和の通信設備は当時随一の性能と規模を誇っており、通信要員も50名から60名もおり、敵潜水艦の通信を傍受するなど比類ない規模と能力があった。そして、この大和通信部隊は、この大谷が示した電報は受信していないのだ。戦後の証言でも大和の通信士はこの電報の存在を知らないとしており、これは大和の作戦室にのみ存在した、ニセ電報なのだ。

「捷一号作戦」は完全な失敗に終わったが、命令を忠実に実施した艦隊もあった。西村艦隊である。「山城」「扶桑」など旧式艦を中心とした低速で完全に敵の標的になるしかない弱小艦隊だったが、駆逐艦「時雨」を除き全滅敢闘した。戦後、小沢中将は「あの時まじめに戦ったのは西村ひとり」と語っている。後続の志摩艦隊は、戦わずに敵前逃亡している。
西村祥治海軍中将の部隊が対したのは、ウェストバージニア、メリーランド、テネシー、カリフォルニア、ミシシッピ、ペンシルヴェニア戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻の大艦隊。西村艦隊はスリガオ海峡に突入する前に、栗田健男に報告しているが、敵前逃亡しか頭にない栗田からは何も指示がなく、やむなく敵艦隊の待ち受ける夜間のスリガオ海峡に単独突入してている。

深井少佐は、レイテ目前にして逃亡した栗田艦隊がもし、そのまま突入していたらとして自問している。
「もし、レイテに突入していたら、どんな結果になっていただろうか。現地には数十隻の敵輸送船がいた。すでに揚陸して空船になっていたとも聞くが、すべて沈めて旅順港閉塞作戦のようにレイテ湾の港を使用不能としてしまえば良かったのだ。そうなると次に輸送船団が到着しても補給や増援も困難となり、上陸部隊は干上がってしまう。この増援の準備は、大国アメリカでも何ヶ月もかかるものだ。それに「大和」ら戦艦部隊が地上部隊を砲撃すれば、味方の士気はおおいにあがり、敵は畏怖したに違いない。戦争の勝利は無理をしても戦線は3~4ヶ月停滞したと考える。そこで講和の準備ができなかったものだろうか。原子爆弾の投下も回避できたのではないか。なにより、レイテ突入に向けて皆は苦しい戦いを続けたのだ。私の部下や戦友も、何人もが戦死し、傷ついたのだ」と。

栗田は、ミッドウェー島攻略のための陸軍部隊を乗せた輸送船を護衛する任務を負っていたが、同海戦での敗北を知ると、陸軍輸送船団を守らずに、これを放置して撤退している。流石、敵前逃亡が得意の日本海軍を代表する腰抜け栗田健男だ。
我々は、日本が敗戦する事になった主因が日本海軍にある事をきちんと認識する必要がある。亡国海軍軍人は、ミズリー号での無条件降伏に際しても誰一人として同席することなく、また東京裁判で誰一人として裁かれることが無かった。敗戦が決した時、第1戦隊司令官だった宇垣纏中将は、最後の特攻を敢行し帰らぬ人となっている。
そして最後の陸軍大臣・阿南惟幾は切腹する前に云った「米内を殺せ!」

    


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