<パシフィズム(平和主義)は、臆病・『卑劣』を意味する>
ピース(平和)は、本来的にはパクス(平定)のことである。
従って、平定された側の反発が、消え去ることはないという点では、平和には不穏がつきものであるという逆説が成り立つ。
結局、平和は消極的にしか、定義されえない。
つまり、「戦争のない状態。」という以上のことは意味しないのが、『平和』ということである。
しかも平和は、長期の理念としてはともかく、短期の目標としては、否定されるという場合すらある。
たとえば、将来の大きな戦争が起こるのを防ぐためには、現在における小さな戦争が必要だ、という場合(予防戦争)もあるのである。
もちろん、戦争をめぐって諸国家が互いに猜疑心をぶつけ合い、その相互不信が相互誤解を深刻化させる(ことが多い)という事実をみれば、予防戦争にも慎重でなければならない。
だが、平和の選択が「自尊と自立。」の放棄であるとなれば、戦争のある状態へと進んで入らざるをえないこともあるのだ。
「平和と民主主義。」という標語には、平和の下で、民主主義が発達するということだけでなく、民主主義が平和を持続させる、という判断が含まれる。
しかし、その判断は、必ずしも正しくない。
民主主義が国民の(全員参加としての)トータル・ウォー(総力戦)を契機として広まったのみならず、民主主義における国民的なエンシュージアズム(熱狂)が戦争をよりトータルなものになってきた、という傾向がみられるのだ。
―それは、アメリカにあって、民衆に広く訴えかける民主党政権の方が、資産家の支持を当てにする共和党政権よりも、戦争「中毒症。」を強く呈いした、という事実にもうかがわれる―。
以上のことからして、欧米パシフィズム(平和『主義』)は、どちらかといえば非難語である。
つまり臆病や卑怯とうことの代名詞となるのは、当然のことといってよい。
「武器は絶対に手にしない。」こととしての平和主義は、戦争の必然や必要に眼をつむるといういう点で、負価値に属する。
そのことにほとんどまったく気づかずにきたのが戦後日本であるが、日本人が格別に『愚か』であるはずはないのであるから、それは「戦争と平和。」に関する「思考停止。」がもたらした現象なのであろう…。
<未完>
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