昭和史を扱う歴史家が、昭和天皇を、「統帥権の保持者。」とか、「軍の指導者。」という視点から研究した、多くの本を出していますが、どの研究書をみても、「祭祀王。」としての役割を前提に、議論をしていません。
これも、天皇についての議論における、「近代主義的偏向。」の、1つなのですが、とくに、思想的、宗教的という意味で、そうしているというより、例えば、ごく日常的な意味で、「なぜ、政治家や、陸海軍人と、このような頻度としてしか会えなかったのか?」と考える際に、彼らは、「祭事担当者としての天皇陛下。」という視点を欠いた、一番大切なものが、抜け落ちた、近代主義的な天皇観を前提にして、政治面だけを、あれこれ議論しているわけです。
そのような天皇論では、十分でないということを、学者でさえも、認識しなくなっている。 ここが、一番問題だと思います。
戦後教育のなかで育った世代にとっては、「御公務。」というと、「展覧会に行かれたり、チャリティーに、お出ましになること。」という、イメージがあるようです。 そこから、「御公務といっても、大したことをしていない。 皇族は、遊んでいらっしゃるだけ。」といった、きわめて歪んだかたちでの、皇室批判が、生まれてきている。
いわゆる御公務の負担についての話をするとき、まず大事なのは、国民の間のどこかに「どうせ大した意味はないのだから、負担は減らしたらよい。」という感覚がありますが、「そのような次元の問題ではない。」と認識することです。
天皇陛下の御公務のなかで、最も重要なのは、『祭祀』です。 それは、「国の繁栄と国民の安寧を、一途に祈っておられる。」から、御公務以外の何物でもない。
そしてこの祭祀は、天皇陛下しかできないものです。
その意味で天皇陛下は「祭祀王。」という、他の皇族とはまったく違う存在でもあられる。
とくに今上陛下は、われわれ下々が窺い知るところで見ても、祭祀をお務めになることに、たいへん、大きな意味を置いていらっしゃいます。
これを見れば、我々国民自身、つねに感謝の心をもって、もっとこの問題について深く考えるべきことであることは、はっきりしています。
ですからマスコミでも、そこにもう少し焦点を置いた報道をする努力が必要だと思うのです。
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