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自然史の歴史:レイチェル・カーソン(9)

2005-11-18 03:59:04 | レイチェル・カーソン

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    レイチェル・カーソン「沈黙の春」⑨

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photo:白砂乗越のシラカバ/撮影:水尾 一郎

●第一著書『潮風の下で』“Under The Sea-Wind”の出版●
 "Under The Sea-Wind"(『潮風の下で』)は、1941年11月1日、1冊3ドルの値段で、サイモンアンドシャスター社から出版された。献辞は"To my Mother"、つまりこの処女出版は母に捧げられた。リンダ・レア(Linda Lear)の"Rachel Carson"によれば、彼女のこの第一著書とそれに続く著作は、イギリスの自然作家Richard Jeffries(リチャード・ジェフリーズ)*1の影響を受けていると言う。レイチェルは、この後、いつも自分のベッドサイドに彼の本を置き、夜眠る直前に読んでいたと言う。題名の"Under The Sea-Wind"という言葉も、彼の叙情詩"Pageant of Summer(ページェント・オブ・サマー)"のなかの彼女の好んだ詩行のひとつからとられているのだという。 その箇所を、リンダ・レアの本から孫引きしてみよう。

 風は海の上を手探りするように吹き渡っては、ひとつひとつの波から目に見えない部分を取り入れ、大洋のエーテルのような(無形の)エッセンスを海浜へともたらすのだ。そして、森や生け垣の間を漂い流れて、緑の波とヤナギたちの間を夏の微細な原子で満たしていく。(Linda Lear"Rachel Carson"P104)

 繰り返しになるが、この『潮風の下で』は、翌月に勃発した太平洋戦争のために、ほとんど売れなかった。ちなみに最初の1年間で1,348部、その後の6年間でもようやく1,600部が売れたに過ぎなかった。レイチェルはその理由を、サイモンアンドシャスター社が積極的に宣伝や販売活動をしなかったからだと考えたようだ。太平洋戦争下の臨戦体制では、どんなまじめな本でも、あるいはまじめなよい本であればあるほど、売れないと言うのが真相だったのだろう。日本のように軍事体制で国民を押さえつけ統御することのできない「民主国家」アメリカ合衆国では、いかにして戦争遂行のための国民の支持を取り付けるかが最大の関心事になる。国民を戦争へと集中させることから、アメリカ合衆国の戦は始まるのだ。そのためにこそ、まず国家財政が費やされる。当然のこと、目端のきくサイモンアンドシャスター社がそのビジネスチャンスを逃すはずがなかった。"Remember Pearl Harbor"(リメンバー・パール・ハーバー)関連グッズこそが、最も売れ筋の商品となっていたのだ。
 まったく間の悪い出版だった。一部の自然科学者や海洋科学者以外のだれにも注目されず、ましてや他国語に翻訳されることなど望むべくもなかった。ポール・ブルックスの『レイチェル・カーソン』巻末の著書目録によれば、そのただひとつの例外は、1945年にスイスでドイツ語訳が出版されていることだった。
 けれども、1952年にオックスフォード大学出版(Oxford University Press, New York)から再出版されたときには、その同じ年にイギリス、フランスで、翌1953年にはオランダ、デンマーク、スエーデンで、さらに1954年にはイタリアで翻訳が出版されている。最終的には日本も含めて18カ国語に翻訳されたと言う。
 これには、レイチェル・カーソンの第二著書"The Sea Around Us"(『われらをめぐる海』)が、1951年7月、同じオックスフォード大学出版から出版されたことが大いにかかわっている。この第二著書は、鳴かず飛ばずだった処女出版とはまさに様変わりの売れ行きを示し、そのことによって久しく埋もれていた第一著書が注目される結果となった。『われらをめぐる海』の売れ行きは、発売後3週間でニューヨークタイムズ・ベストセラーリストの第5位にランクされ、ワシントンスター紙では第2位になった。さらにその年の秋にはベスト・セラーの第1位となり、その地位は翌年まで続いた(1951年末までに25万部が売れたと言う)。その間に、サイモンアンドシャスター社が持っていたこの『潮風の下で』の版権がオックスフォード大学出版に移った*2。その結果1952年の4月に再版された『潮風の下で』はドキュメンタリー部門の第10位に入り、そのとき第2位を占めていた「われらをめぐる海」とともに、一人の著者の二つの作品が同時にベストセラー入りするというきわめて珍しい現象となった。言い方を変えれば、レイチェルはあれよあれよと見る間に、アメリカ合衆国でも指折りのドキュメンタリー作家となったのだった。

●第2著書『われらをめぐる海』("The Sea Around Us")●
 レイチェルの出世作となった第二著書『われらをめぐる海』については、簡単に触れておくことにする。というのも、以前にも書いたが、彼女のこの著作には、重大な誤謬がいくつかあり、その部分を割愛して読むほかないからだ。とは言え、その責任は彼女にはない。地球史の知見が、彼女の死後大きく変わったがために、彼女の生前に知られていた地球や月に関する知見、理解がすっかり古くなってしまったのだ。レイチェルがもう10年長く生きていれば、彼女のことだ。必ず全面的な書き直しをしただろう。それを思うと、彼女には新しい地球史に基づいて、この本を書き直してもらいたかった。それにしても、彼女は早すぎる死を死んだのだ。
 それはともかく、いまもって、その誤謬について何ひとつ注記がなされることもなく、延々と出版されているこの著書について、出版社の方々に一言苦言を申し上げたいもの。今後も出版を続けられるなら、きちんとした解説や手厚い注記をつけなければ、読者には間違った地球理解を与えることになる。自然史の古典として後世に残すつもりなら、海洋史や地球史の科学者による監修に基づいて正確な注記を是非ともつけるようにお願いしたい。
 いつかは良心的な出版社と訳者によって、そのような注解付きのよい本が出されることを願って、ここでは内容には立ち入らず、社会的な事件になったこの本の反響を中心に記しておこう。
 はじめ、それは1948のことだったが、レイチェルは"Return to the Sea(リターン・ツー・ザ・シー)"『海への回帰』と題する著作の企画を携えていた。出版社に持ち込むために、その章立てと見本の一章を書き上げたのだが、それが今も有名な「島の誕生」(‘The Birth of an Island')だ。この部分にはそれほどの誤謬は見られないが、基本的なところで微妙な違いを見せる。たとえばこんなくだりだ。

 主たる大陸塊と海盆とは、地質時代の大部分を通じてほとんどこんにちと変わりがなかった。(『われらをめぐる海』、日下実男訳/早川書房、1977年)

 大陸の移動、海盆の拡大*3など、大きな地質変化が何度も地球をおそっていることを考えると、レイチェルの地球観はきわめて静止的なものに思われる。このような間違いはあるものの、おおむねレイチェルの叙述は当を得ている。次の章の「古代の海洋の姿」の無惨な記述と比べれば、かろうじて科学的な誤りをかわしているとも言える。
 話が少しそれたが、この「島の誕生」は、レイチェルの出版代理人の尽力によって、ニューヨーカー誌、エールレビュー誌に本の刊行前に発表された。このやり方は大きな成功を得て、彼女がようやく決めたタイトル『われらをめぐる海』は出版される前から大きな評判になった。ここには、現在の種の多様性保護に通ずる警鐘も鳴らされている。

 大洋に浮かぶ島々の悲劇は、永い年月をかけ、ゆっくりした過程をへて進化してきた種がユニークなもので、他にかけがえのないところにある。分別のある世界だったら、人間はこれらの島々を貴重な財産として、美しくも物珍しい造化の妙で充たされた自然の博物館として、それからまた世界のどこにも同じものがないという理由で、どんな値段をもしのぐ価値あるものとして、遇してきたことだろう。
 アルゼンチンのパンパスの鳥たちのためのW・H・ハドソン*4の悲歌は、島々の場合にこそ、より多くの真実を伝えたものだったろう。
     美しきものは消え、帰ることなし*5
                  (前掲書P132L5~L12)

 このエセーは絶賛された。まず1950年12月、アメリカ科学振興協会の「ジョージ・ウェスティングハウス科学文学賞」を受賞する。次に刊行前にもかかわらず、『われらをめぐる海』のドキュメンタリー映画化の話が進む。ヴォーグ誌は「地球の温度調節」という章を買い取り、掲載した。さらにRCAビクターレコードからは、当時全米で人気の高かった指揮者レオポルド・ストコフスキーによるドビッシーの「海」に対して解説を書いてほしいという依頼まで舞い込んだ。
 出版されると、好意的な書評で埋め尽くされた。いわく「海洋生物学者が、一流の科学的領域を、上品な小説家の魅力と詩人の叙情的な説得力を持って描いている」(アトランティック・マンスリー誌)、「科学的な論文のすばらしい模範であるだけでなく、芸術作品でもある」(イブニングサン紙)など。著者が女性であることに偏見を持たない人たちは、諸手を挙げて受け入れ、そうでない人たちは適度のほめ言葉でお茶を濁した。偏見があっても、彼女の力量は認めざるを得なかった。何よりも人々が彼女の著作を、科学的な知見をベースにして叙情の輝きをちりばめた冠をいただき、科学と詩との、キリスト教的善意に裏付けられた婚姻の成果を、受け入れたのだった。

<注>
*1 Richard Jeffries(リチャード・ジェフリーズ/1848―1887)について、あまり詳しいことはわからない。調べ得た限りでは、イギリスの田園・自然作家で、いくつもの詩、エセー、小説を発表している。代表作に"The Life of the Fields”、"The Open Air"などがある。現在入手可能な日本語訳は、彼の各著作から抄訳されたオムニバス『森の中で』(根岸彰訳、鳥影社/'02)のみと言うことだ。レイチェルはそれらの書物を何度も読んだのだろうか。一度目を通してみたいと思ったが、現代ではあまり注目されていない人物のようで、そのことは、たとえばあれほど身内(イギリス人)びいきの『岩波―ケンブリッジ人名事典』にも収載されていないことからもうかがえる。イギリス人にさえ忘れられた作家なのだろう。なお、"Pageant of Summer"の発表年が1905年とあるのは、この書物が死後発表されたと言うことになる。 
 彼の"Pageant of Summer"は、どれほどまでに「物質のすべての役割は生命を養うことである」かということを描いたものだという。また、ジェフリーズは、物質、精神の両面において海が生命の源であると考えていた。このことにレイチェルは共感したのだと、リンダ・レアは書いている(前掲書P104L1・L2)。
 実はこれらのジェフリーズの著作を何冊か、amazon.comに注文したのだが、二ヶ月ずつ順々い先延ばしされたあげく、一年近くも待たされてから、「版元にて絶版です」というE-Mail一本で一方的に打ち切り。ごめんなさいもない。それなら、こちらもさっさとあきらめて近くの大図書館でコピーさせてもらえばよかった。もっとも地方の市営図書館には在庫しないので、自転車で行くというわけにはいかないが。少なくとも“Pageant of Summer”くらいは読んでおきたいもの。
*2 レイチェルは、1948年にすぐれた著作権代理人、マリー・ローデルの力で、『潮風の下で』 の版権を、1950年頃にはサイモンアンドシャスター社から取り戻していた。『われらをめぐる海』の成功で気をよくしたオックスフォード大学出版が、この版権を、レイチェルに好条件で買い取ったのだった。
*3 たとえば、最新の研究成果では、日本海は、1500万年前前後に西南日本が時計回りに約50°、東北日本は反時計回りに約23°回転して、できたとされている。これはプレートテクトニクスによる引っ張りに基づく力が働いたためだと考えられている。(『図説地球科学』岩波書店などより)。またウェゲナーの大陸移動説を持ち出すまでもなく、現在では大陸は何度も統合と分裂を繰り返したことが証明されている。 
*4 W・H・ハドソン(William Henry Hudson/1841―1922)は、アルゼンチン、ブエノスアイレス近郊に生まれ、1869年、イギリスに移住して、1900年帰化した。小説『緑の館』(1904)、博物学エセー『ラ・プラタの博物学者』(1892)『鳥たちをめぐる冒険』(1913)などがよく知られ、日本語訳がある。
*5 英語の原文ではこうある。“The beautiful has vanished and returns not.”(“The Sea Around Us” Special Edition/Oxford Univ.Press1989/P96)。ただ、ハドソンのどの書物からのものかは不明。

[参考図書]
○『森の中で』(リチャード・ジェフリーズ著、根岸彰訳/鳥影社、2002)
○『図説地球科学』(杉村新・中村保・井田喜明著/岩波書店、1999/第13刷り)

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