フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

自衛隊はアメリカに譲渡する?

2008-02-28 06:17:31 | エセー・評論・クリティーク

Sony Style(ソニースタイル) USJアトラクション-ファンタスティック・ワールド

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●イージス艦「あたご」の漁船沈没事件がさらしだしたもの●

 イージス艦「あたご」がすぐれているのは、ミサイルを打ち落とす能力だけでしかなかったことがはっきりした。それもハワイ沖での打ち落とし実験である。つまり、日本の国土を守るためのミサイル迎撃実験ではなかったのである。アメリカ合衆国本土とその国民を守るために、何百億もの費用をかけて実験したのである。その凱旋のつもりだったのか、東京湾を自動操舵で航行して、日本国民を海中に沈めたのであるから、いったいだれのための、どこの国のためのイージス艦であるか、わからない。

 機密は漏洩するは、高度な軍事プログラムを火事で焼いてしまうは、事務次官は賄賂まみれ、官製談合はするはでは、いったいこんなだらけた無駄遣い組織を維持する必要があるのか、問いたい。
 それが日本国民のための組織でないとしたら、もうなにをか言わんやである。

 それでもなおまだ、日本自衛隊に、高価な高価なイージス艦をこれからも買い与えるつもりなのであろうか? 海上自衛隊にかぎらない。それぞれの自衛隊に、高価な装備を買い与えて、彼らのおもちゃにさせるつもりなのだろうか?

 いずれにしても、今度のイージス艦の漁船沈没事件が明らかにしたことをここにまとめておこう。そして、日本自衛隊の組織を、その装備と人員をまるまるアメリカ合衆国に買い取ってもらおう。日本のために存在しない自衛隊など不要だからである。
 もっとも、アメリカ合衆国が買う気になるかどうかは、不明である。なにせ、装備は一流でも、そのモラルは世界最低であるから。

 
 ◆日本自衛隊が、アメリカ合衆国軍付属の別働隊であること◆

 イージス艦「あたご」は、東京湾内に入ってなお、「自動操舵」のままだったという。並み居る漁船など歯牙にもかけない勇姿を、東京湾にディスプレイしたかったのであろうか。イージス艦「あたご」が成功させたアメリカ合衆国本土防衛のための弾道ミサイル迎撃実験を、日本国民にやんやの喝采で迎えてもらいたくて、「凱旋行進」でもしているつもりだったのだろうか。アメリカ合衆国のために成功したミサイル迎撃を日本国民が褒め称えるはずがないのに、彼らは勘違いしていたのである。
 きっと、日本自衛隊は、日本の国土と国民を守るためにあるのではなく、アメリカ合衆国の国土と国民を守るために存在するのだと、彼らは本気で信じ、日本国民も日本自衛隊はそのためにこそ存在する価値があるのだと認めているのだと、みずからを誇っていたのかも知れない。
 その日本自衛隊の中で、イージス艦乗員は海上自衛隊のエリートであるから、いっそうその誇りは高かったのであろう。「誇り」と書いたがこれは皮肉である。「傲慢の鼻」と言い換えてもらいたい言葉である。


 ◆日本自衛隊の現場主義と事後報告は戦前の軍部と同じであること◆

 漁船を沈めとわかっても、ただちにどこかに連絡するというわけでもなく、その場で事故を処理しようとした形跡がある。つまり、現場主義に徹したというのであろう。沈没した漁船の乗組員を救助すれば、事後報告ですむと考えたのであろう。
 現場主義と事後報告は、かつて日本が経験した軍部の独走の姿である。
 関東軍の現場主義と事後報告が、つまり、満州事変も日中戦争も引き起こし、日本国家と国民はあれよあれよという間に、軍部にひきずられて、世界戦争へと突き進んでいった。

 これと同じ発想がいまの自衛隊制服組にあることが証明された。
 しかも、日本の官憲の捜査がおよぶ前に、口裏合わせをしようとした形跡まで現れた。捜査がおよぶ前に、漁船沈没事件のストーリーを作り上げようというわけである。できうるかぎり日本の誇る宝物であるイージス艦「あたご」には瑕疵がないかのようにストーリーを作りたかったのであろう。ここで、「作る」という言葉を用いているが、「でっちあげる」という言葉で言い換えた方がより適切であるかもしれない。

 ◆防衛省官僚たちの無能・無策ぶり◆

 何せ前事務次官が家族丸抱えで汚職まみれだったことは、日本の国土と国民を守るはずの自衛隊を統括する防衛省官僚の腐敗ぶりを満天下に明らかにした。
 旧防衛施設庁の官製談合の記憶もまだ新しいのに、日本の輸入商社丸抱えで潤沢な生活をしていたのであるから、こんな官僚どもに、制服組をコントロールすることなど、どだい無理である。汚職官僚の言葉にしたがう自衛官がいるはずがないのである。山田商行が丸抱えして行われた次女の薄汚れたアメリカ留学もまたとうてい許せるものではない。彼女に罪がないなどと弁護する日本人がいたとしたら、その日本人も同罪である。

 ◆日本自衛隊の指揮系統はすでにアメリカ合衆国軍が握っている◆

 なぜ、これほどまでにだらけきっているか?
 それは、防衛省が日本のための軍隊を統括しているのではないからである。日本の自衛隊を統括しているのは同盟国アメリカ合衆国軍部の幕僚たちである。その上にはアメリカ合衆国大統領が存在する。
 日本の自衛隊は、日本という国のために存在していない。アメリカ合衆国のために存在しているから、日本政府の文民統制を受けることがないのである。ここに、指揮系統の問題がある。アメリカ合衆国軍と日本自衛隊の組織的統合、指揮系統の一本化が進め進むほど、日本自衛隊は日本の官僚の管理からは抜け出していく。つまり、もう日本自衛隊はアメリカ合衆国軍の管理下にあると考えてよいのである。

 そして、そのことはとりもなおさず、日本自衛隊には文民統制がまったくはたらいていないことを意味する。文民のコントロールなどまったくないのである。これでは、防衛省の官僚にモラルのありようがない。日本国家と国民を守ろうという鉄の意志など、官僚たちにはまったくありえないのである。

 防衛省と自衛隊の乖離と齟齬を助長してきた日米(安保)同盟。
 その同盟関係は、アメリカ合衆国軍の日本における展開と指揮権を大幅に認めてきた。それは駐留米軍と自衛隊をカバーする指揮権である。だから、防衛省は日本政府の官僚組織であるが、自衛隊は、アメリカ合衆国軍という外国の軍隊の指揮・命令系統に属する軍事組織として維持され、発展してきたのである。
 このような乖離を放置してきたこと、いや、いっそう乖離を大きくさせてきたことは、日本政府の無策を意味する。アメリカ合衆国軍におんぶにだっこという自衛隊の体質を助長させ、自衛隊の本性にまでしてしまったことに、最大の問題の根がある。日本の防衛省はつまり、自衛隊のために金を、つまり税金をぶんどってくるだけの役目しかないのである。
 かつて、「亭主元気で留守がいい」と言われたように、「防衛省官僚元気で(たくさんお金をぶんどってきて)、現場不干渉がいい」ということである。


 こんな防衛省は不要である。
 日本国民による文民統制のできない防衛省も自衛隊も、日本には不要である。害あって一利なし(一利くらいならあるかもしれない――たとえば災害救助など――が)である。これではほとんどが税金の無駄遣いである。防衛予算を災害対策費を除いて大幅に削減してしまえば、現在も将来的にも運営不安の大きい社会福祉の財源にふんだんに使えるお金ができるではないか。


 自衛隊を、日本政府の文民コントロールのもとに統制し直すための諸策を急ぎ講ずるか、それとも、防衛省の官僚ごとアメリカ合衆国にまるまる差し上げてしまうほかないのである。この際、無償譲渡でもよい。完全な防衛経費削減につながるのであるならではあるが。

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クジラのこと

2008-02-26 07:03:31 | 自然保護と地球

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●クジラのこと●

 「捕鯨問題」が沸騰しているのは、日本の「調査捕鯨」に対する不信感と反発とが、欧米人に強いからである。彼らのクジラに対する感覚は、日本人のクジラに対する感覚とかなりの隔たりがある。

 けれども、不幸なことに、日本の調査捕鯨を支持する人たち、「クジラは日本の食文化だ」と主張する人たちにも、「クジラを銛で撃つなんてなんて野蛮な」と反発する人たちも、どちらもほとんどが感情論であること。
 理性的な論議はほとんど行われていないかのようである。

 日本の「調査捕鯨」がミンククジラをはじめとして、一シーズンに全部で900頭も捕獲するというその数の異常な大きさには、やはり「?」を付さざるを得ない。どう考えても、この数量は「調査」の域を超えている。商業捕鯨とは言わないが、この「調査」なるものが、調査で得たクジラの肉を日本国内で販売して、調査費用のたしにしようという魂胆が丸見えだからである。つまり、採算ラインに達する量を捕獲する、というのが日本の「調査捕鯨」の本当の姿である。
 これは、当然、クジラは「痛み」を知っているから、銛で殺すのは許されない、と反発する欧米人には到底受け容れられるはずがない。

 最初から、日本は、捕鯨に反対する欧米人を説得するつもりがないのである。
 「鯨食は日本の文化」として、欧米の反対を突っぱねようというのだけれど、それにも実はかなりの無理がある。

 ◆日本の鯨食は地域限定の小文化である◆

 日本でも伝統的に捕鯨が行われてきたが、それは大正期に入るまで、日本の全国的な産業とはならなかった。ごくかぎられた土地の、ごくかぎられた食文化として維持されてきたのである。紀伊半島の和歌山県太地(たいじ)、伊豆半島の静岡県富戸(ふと)などでは、湾内に多数の小舟で追いこんで漁をする、「追い込み漁業」によって捕獲されていた。
 現在は、鯨漁というより、バンドウイルカやマダライルカなどの捕獲が中心で、これら捕獲されたイルカ肉は、「鯨肉」として国内に流通している。
 伝統的にクジラ・イルカ漁が行われてきた地域では、それぞれの鯨食文化が発達しているが、それらの独特の調理法が全国に広まったのは、太平洋戦争後のことである。


 ◆日本人が全国的に鯨食するようになった時期◆

 日本が遠洋漁業として、南氷洋などに捕鯨船団を派遣するようになったのは、20世紀に入ってからである。そのねらいは、鯨油、鯨蝋(げいろう)の生産にあった。特にマッコウクジラの鯨蝋は高級アルコールとして、化粧品などもふくめて、汎用性が高く、各国が競って捕獲に走った。これが近代の捕鯨である。当然その様式も、大型の船団を組んで組織的にクジラを追って捕獲するというものであった。
 日米和親条約の最大の眼目もまた、マッコウクジラを追って西太平洋海域までやってきたアメリカ合衆国捕鯨船団に、日本の港湾で水・食糧・燃料を供給させることにあった。アメリカ合衆国捕鯨船団は、1800年代半ばにはアメリカ合衆国西岸海域で、マッコウクジラを取り尽くしてしまっていたのである。

 太平洋戦争の期間は、まったく近代捕鯨は行われなかった。
 けれども、日本で近代捕鯨が再開されたのは、太平洋戦争後に壊滅的な打撃を受けていた日本の畜産にかわる「代用肉」として、クジラの肉が着目されたのに始まる。
 クジラ肉は海からふんだんに手に入れられる自由な動物肉として、日本人の動物性蛋白質、動物性油脂を摂取するために、積極的に利用されるようになったのである。
 その肉はいち早く学校給食に取り入れられ、鯨カツなどにふんだんに利用されるようになった。

 (ぼくは、この鯨肉がまったく苦手で、一口も食べることができなかった。見るだけで吐き気を催すので、教師も無理に食べさせようとしなかった。なぜか知らぬが、鯨の肉は口にするものではないと信じていたのである。だから、給食の鯨食を懐かしがる人の気持ちがまったく分からない)

 日本人が鯨のカツレツやステーキ、ベーコンなどにして積極的に食生活に取り入れたのは、牛肉や豚肉の生産があまりにも不足していたからである。その代用品として、全国的に食べ始めたクジラの肉を、日本人の「食文化」だと主張するのは、どうであろうか?
 あくまで、代用食として始まり、国内の畜産業が生産高を増加させるにつれて、鯨食は廃っていく傾向にあったのである。もちろん、いつの時代にも熱烈なフリークはいるもので、その鯨食フリークの熱狂が「クジラは日本の食文化」という主張となったのであって、これはつまり、過激なファンの過激さの表現でしかないのである。


 ◆鯨食する必然性はどこにもない◆

 太地や富戸などで独特のクジラ料理が発達したところから、これらの小地域での食文化は大切にするという発想は必要であるが、だからといって、小地域の食文化が絶対というわけではない。明治中期くらいまで、日本人の多くが牛や馬の肉をまったく受け付けなかったことを考えれば、食文化とはつねに、状況に応じて変化するものである。
 現在のような白米食の習慣も、近代の産物である。
 それも、朝鮮半島や台湾を植民地化したことによって、これらの地域の米が日本国内に持ち込まれたことが、日本人の白米食を支えたのである。日本全国津々浦々に米食が広がった最大の要因が海外の植民地であったことは忘れてはならないことである。つまり、それまでは「貧乏人は米を食えなかった」のである。

 むしろ日本の古くからの伝統食を主張するなら、里芋や粟・稗などの雑穀類を言うべきであろう。米や餅は、お祝いの席でしか食べられなかったのである。

 つまり、「日本の食文化」であるから、という理由で鯨食にこだわることはほとんど無意味である。代用食としての鯨肉を、我が国固有の食文化などとよく言えたものである。
 戦後、多数の水産会社が大型の捕鯨船団を建造して、競って南氷洋に派遣した後始末のために、捕鯨船団を維持しているから、捕鯨をしようとしているとしか考えられない。つまり、それが日本の必須の食文化であるからというのは、偽りの名目であって、実際は、日本に捕鯨船団があるから、調査捕鯨をしている、というべきであろう。

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 ◆クジラとイルカ◆

 クジラ類は、「クジラ目」という大きな分類項目に含まれる。
 これらはさらに「ハクジラ亜目」と「ヒゲクジラ亜目」とに分けられ、多数の科、種がある。
 また、クジラ、イルカとして便宜的に分類されてはいるが、分類学上の科学的な区別はない。形態的に大きなものが「クジラ」、比較的小型のものが「イルカ」と呼ばれるとされているが、それも便宜的である。
 たとえば、ゴンドウクジラの仲間はマイルカ科に属するもので、正式和名はそのため、オキゴンドウ、コビレゴンドウ、マゴンドウなどと、「クジラ」とも「イルカ」とも呼ばれない。英語でも、この仲間はpilot whale(パイロット ホエール)と呼ばれる。一方、バンドウイルカやカマイルカは、dolphin(ドルフィン)と呼ばれている。くちばしがあるものをイルカ、ないものをクジラと呼ぶと考えてもよいが、くちばしがなくても、ネズミイルカ、イシイルカと呼ばれる仲間もあるので、つきつめて考えてしまうとややこしくなる。
 われわれ人間に最も身近で、そのため典型的なイルカと目されているのは、バンドウイルカで、太くて短いくちばしをもっている。彼らは人なつっこく芸達者なため、マリンパークや水族館の出し物として人気がある。

 ◆ハクジラとヒゲクジラ◆

 ヒゲクジラ亜目には、セミクジラ、コククジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラなどの仲間(いずれも科)がある。これらは、採餌法に特徴があり、海中のえさを、海水とともに飲み込んで、口中のひげで濾し取るのである。そのためえさになるのは、海中のプランクトン、あるいはオキアミといわれる小型の甲殻類である。シロナガスクジラのオキアミ食は有名である。あの図体で小さな甲殻類を食べるのであるから、その量たるやすさまじいものがある(体重の4%程度のえさが一日に必要とされる)。
 コククジラは海中でだけでなく、、海底で泥をや砂を口中に吸い込んで、そのなかに含まれる微少な甲殻類を補食するという採餌行動ももっている。

 一方のハクジラ類は、口中に歯をもっていて、この歯で獲物をつかみ、噛みちぎる。が、人間に見られるように分化した多数の形態の歯をもつのではなく、一定の形の歯をもつのみである。また、生まれたときから同じ歯のままで、生え替わることはない。
 歯があることから、捕食するのは魚やイカである。
 ハクジラ亜目には、マッコウクジラ、アカボウクジラ、マイルカ、ネズミイルカの仲間(それぞれ科である)などがある。

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 ◆アリストテレス『動物誌』に記載されたクジラ類◆

 ギリシア古代のアリストテレスの記したとされる『動物誌』には、十数カ所に渡ってクジラ類ないしイルカについての記述がある。
 たとえば、こんなことが書かれている。

 
 ヒト以外の動物を分類するときの区分となる、動物界最大の類は、次のとおりである。すなわち、一つは鳥類、一つは魚類、一つはクジラ類で、これらはみな有血である。(第一巻第六章)
 *「有血」とは赤い血が流れているということを指し、ほぼ現代の脊椎動物が含まれる。

 イルカや[マッコウ]クジラやその他のクジラ類(すなわち、鰓はなくて噴水管のあるもの)は胎生するし、さらに、ノコギリザメ[サメエイ]やウシエイもそうである。
 <中略>
 イルカは、たいてい子を一頭しか産まないが、時に二頭産むこともあり、マッコウクジラは二頭か(せいぜい二頭で、此の方が多いが)、一頭である。ネズミイルカもイルカと同様である。現に、これはイルカに似てていて、ポントス[黒海]に産する。すなわち、イルカより型が小さいし、背中の幅がより広く、かつ色は青黒い。しかし、多くの人々はネズミイルカもイルカの一種だと言っている。
 排水管のあるものは、すべて呼吸をして空気を取り入れている。すなわち、肺があるのである。少なくともイルカは吻(=くちばし)を[水面から]上に出して眠っているのが観察されているし、眠るといびきさえかくのである。
 イルカやネズミイルカには乳があって哺乳するし、子の小さいうちは体内に取り入れる。イルカの子は生長が早い。すなわち、十年で完全な大きさになる。妊娠期間は十ヶ月である。イルカ夏に子を産み、他の季節には決して生まない。(第六巻第十二章)

 アリストテレスは、生物には、三つの魂があると考えていた。
 一つは栄養摂取能力を持つ魂である。これは植物がもっているものである。
 二つ目は感覚能力を持つ魂である。これは動物がもっているものであるが、感覚には触覚や視覚、聴覚などのうち、ただ一つの感覚器官しかもたない動物もあると考えた。すべての感覚を持つもの、たとえば胎生四足類(主に哺乳類)は、そのために「痛さ」を感ずる力があると、考えられた。
 三つ目の魂が、人間に特有の思惟する能力である。


 ◆クジラを保護するのは人間の使命とする考え◆

 欧米で、動物愛護について、神経質なほどきびしいのは、このアリストテレス以来の伝統的な動物理解、「哺乳類は痛みを感ずる能力がある」ということによると考えてよい。進化論の立場に立たなくとも、胎生四足類(=ほぼ哺乳類)は、人間に近いのである。その違いは、彼らに思惟する能力がそなわっていない、という点だけである。
 クジラ類、イルカ類について、それを捕獲することに激しい反発、反感を感じるのは、そのためである。

 また、これに加えて、聖書の伝統的な考え方に立つとき、それは最も過激な主張を、行動をもたらすことにもなる。聖書からの伝統的な解釈では、地球上のあらゆる生物は人間のために与えられ、人間が管理し、保護し、慈しみ、そして、利用するものであるとするからである。
 そのとき、「痛み」を感ずる能力を持つ動物を野生においては、できる限り殺してはならないということになる。万やむをえないとき、正当防衛的な発想でなら、殺戮は許されるが、むやみな殺傷は反聖書的な行為とされるのである。
 
 このような観点に立ったとき、動物実験は最も残酷な動物への仕打ちであり、また病気やけがで死に瀕して苦しんでいる飼い犬などを「安楽死」させるという発想も生まれるのである。
 欧米のクジラ問題に対する激しい反発も、こうした背景を抜きにしては理解できないのである。あの「痛み」を感ずることができ、知能も高く、あるいはある程度の「思惟能力」もあるかと思われる、イルカ・クジラ類を、あの残酷な銛で撃ち殺すことへの猛烈な憎悪の感情を理解しなければ、日本の捕鯨の主張は、それが調査の名目であっても、だれにも理解されない。ましてやそれが日本独自の、あるいは特有の食文化だという主張は、その歴史を鑑みれば、まったくの虚構であり、それにこだわることは傲慢であろう。

 もちろん、聖書的な発想で、人間が神からその管理と保護を托された動物たちに残酷な行為をすることは許されない、として、その考えを絶対視する欧米人もまた、謙虚に反省する必要がある。


 要はそのような固有文化論や、固有の価値観をぶつけ合っているところに、鯨問題の最大の難点があることに、だれもが早く気づかねばならない、ということである。

 クジラ・イルカに特化することなく、生態系全体として考えなければならないこと。生態系のなかのどれか一種を、あるいは一群の生物を特に保護することには、生態系を破壊する危険があることに、もっと意を払わなければならない。
 その上で、その生態系全体の中で、人間はクジラをどうしたいのか。どのようにするのが、地球にとって最良の道であるのかを、科学的に、理性的に討議する必要があるのである。
 だが、日本の主張のように、「調査捕鯨」の名を借りて、900頭ものクジラを捕獲するというのでは、だれも納得するはずがないのである。「調査捕鯨」というのなら、どんなに大きく数量をとってもせいぜい百頭が限界である。欧米の反発する感情を考慮するのなら、その半分がいいところである。
 そんなに少ない捕獲数なら、採算が合わないというのなら、ただちにやめるべきである。「調査」で採算をとろうなどと言う発想がそもそもの疑惑の種なのである。

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だれも生きよと言わずに<改>

2008-02-25 19:26:31 | 詩と思想

   だれも生きよと言わずに<改>

  木枯らしの吹き初めた暗い夜道をたどると
  電線がぴゅるる ぴゅるると 悲しくふるえる。
  「お寒いこって」
  「お気をつけなすって」
  空にはアンデルセンの満月が煌々として
  かたかた きききき かたかた きききき
  雑木林のコナラとクヌギが体を寄せ合っている。
  かっこん かっきん かっこん かっこん 「火の用心!」
  「早いとこお帰りなぁ こたつにあたってねぇ」
  「はい 夜回りご苦労さんです」
  どんな寒い夜にも この村ではほんのり心が通う。
  小さなひとりひとりの会話のなかに
  つぶやくような言葉のやさしさ。

  夕暮れのむなしい街を遠ざかると
  菜の花の黄色の波の上に まがんが群れをなして
  やって来た北の国へ 帰って行こうとする。
  「シベリアまで遠い旅だでなぁ 気ぃつけてなぁ」
  きゅるきゅる きゅるきゅる きゅるきゅる
  「こないだまで鳴いとったのは さよならだったんだねぇ」
  ぱりぱり ぱりぱり ぱりぱり ぱりぱり
  単車に乗った若い娘と学校の先生が会話を交わす。
  「おんや そちらさんもお帰りで」
  「はい また都会を逃げてきました」
  この畑の道では会うひとごとに 「お帰り」という
  「いらっしゃいませ」とは言わずに。

  たそがれの村を歩いていると
  ぽつん、ぽつんと灯る電灯が農道に続く。
  「こんばんわ よいお日和でした」
  「こんばんわ ようはかどりました」
  たっとっ たっとっ たっとっ たっとっ
  耕耘機に乗った爺さんが 軽トラの若い男と声を交わす。
  たりたりたりたり ぶるるる たりたりたり ぶるるる
  ついでに ぼくにも ひょいと頭を下げる。
  「こんばんわ おつかれさん」
  「こんばんわ おつかれさん」
  この村では だれも「生きて!」 とは言わない。
  だれもが「生きよ」と言わずに 生きたくさせる。


勇気の目 マン・フォーマンカインド<改>

2008-02-22 04:25:12 | 詩と思想

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    勇気の目
    あるいはマン・フォー・マンカインド<改>

  それは太古の太古である。
  人は焼けていった樹林を出て旅をしていた。
  そして長旅の果て、サバンナの中、
  とうとうと流れる大河の岸辺に立って、
  見晴るかす対岸の原野を呆然と見つめていた。
  ――――――
  人は見ていた。
  水かさを増して流れる大河の向こう。
  朝もやにけぶる岸辺に立って、
  陽光が開いていくはるかな光景を。
  緑濃い沃野、
  点在する深い樹林。
  盛り上がるような木々の中には、
  たわわに実る黄やオレンジの果実。
  サバンナに草を食むのは、
  やさしい目と肉体をもった、
  動物たちの群れ。
  
  長い旅路の果て。
  すでに食糧はつきかけ、
  あちこちに生える原始のヒエ、
  野生のナスやオクラを探しては食べた。
  飢えた腹をかかえながら、
  人は見ていた。
  とうとうと流れる大河の果てに、
  湿潤な大気にかすむ地平線。
  薄紫の山並みが、
  なだらかに描く碧空のきわみ。
  深く豊かに刻まれた谷。
  銀色に光り落ちるまっすぐな滝。
  虹かかる山麓には、
  赤や紫の鳥たちがさえずり、
  群れ飛ぶ蝶の紺青の輝き。
  
  人は見ていた。
  悲しい心を抱きしめて、
  たがい、いたわり励まし合いながら、
  いつかその大河の渡れる日の来る日を、
  祈りつつ見ていた。
  神への祈り、精霊への祭り。
  はるかな山並みからやってきては、
  遠い森の上、かなたの草原に、
  夕ごとに大粒の雨落とす雲の群れ。
  大きな雲の流れゆく様を。
  日ごとに乾いていく足もと。
  迫り来る飢え。
  絶望はもうすぐそこに追いすがって、
  希望は間近にあってなお遠く、
  あこがれはそこに、大河の向こうに、
  明きらけく開けているというのに!
  
  人は見ていた。
  渡るに渡れない大河。
  ワニの群が待ち構えている水の流れに、
  だれが飛び込めよう?
  焦れて泳ごうとした若者が昨日も餌食となった。
  今日もまた、何人かをようやくひきとめたが、
  二人の若者が血の海に沈んだ。
  人は今、全滅の危機にあった。
  落雷が引き起こした森の火事を抜け出し、
  ようやくここまで逃げのびはしたが、
  乾期にひからびていく大地。
  枯れ果てていく草々。
  あれほど豊かであったサバンナのここには、
  もう朝露でさえ降りはしない。
  ああ。神の与えたもうたマナはすでにつき、
  多くの同胞の血が失われていった。
  緑なす地をめざして駆けていく獣たちから、
  それでも人は何日も、何日も遅れて歩き続けた。
  そのほおはそげ、
  そのあごは突き出し、
  目はもう疲れと飢えにうつろだ。
  あれほどに希望に輝いていたというのに。
  
  人は見ていた。
  ワニ群れる大河を前にして怯えながら、
  そこで幾人もの仲間が絶望にたえきれず、
  無謀な試みに走っては、
  そのたびに裂かれていったいとしい肉体。
  悲しく流れた無為の血。
  赤く染められた岸辺にあって、
  その死をあがなうものの一つなく、
  幾十もの夜と日とをそこに過ごす悲嘆。
  夜を徹するかがり火も今はつき、
  昼にはまた乾いた炎暑に焼かれて、
  間近に見ている一族全員の死の影。
  怯えはピークに達して、
  人はもう気が狂わんばかりに、
  激しく踊り、歌い、祈るほかなかった。

  けれども、希望はまだあった。
  人にいくばくかの理性の光が残されていたことを、
  理性が希望をつないでいたことを、
  あるとき人は自らに気づかせた。
  人の目はまだ恐怖に打ち勝つ力をたたえていた。
  その目であった。
  その目で人は見ていた。
  遅れてきた最後の獣の群れ、無数のガゼルの群れであった。
  人にはそれが最後の晩餐、最後の狩りであった。
  ガゼルは七頭のやさしい肉を人にあずけた。
  旅路の中ですでに傷ついていた三頭の生け贄と、
  あまりにもか弱い四頭の若い肉とを、
  人に置いていった。
  人は、ガゼルの献げ物を得て、
  すでに覚悟した自らの死出の宴。
  今生の別れの宴。
  ガゼルの群れはだが、さらに進んで、
  かの大河の流れの汀に立ち止まり、
  今、新たに六頭の長老を大河に捧げた。
  しぶきを上げて殺到するワニの群れ。
  引きちぎられる六頭のガゼルの四肢、
  血染めの水の流れに、浮きつ沈みつする彼ら。
  やがて、さしもの狂乱の血は流れ去り、
  すべての肉は餌食となって、
  大河は大河に戻った。
  
  激しい驚愕の顔で、人は見ていた。
  鋭く胸を突く痛ましさに、人は慟哭した。
  それこそが、弱き者の知恵であった。
  幾人(いくたり)かの生け贄。
  それが生きる道をつくるという真理。
  人は見ていた。
  理性の目で見ていた。
  ワニたちの血の饗宴が終わる頃には、
  幾千ものガゼルの姿はもうなかった。
  彼らは人の前から姿を消し、
  見よ!
  ガゼルはいつしか大河を渡り終わっていた。
  凄惨なさざ波の彼岸には、
  血にあがなわれた幾千もの、
  若い群れ。希望の群れ。
  新しい旅。希望の旅。
  そこで人は知った。
  人はその時初めて知った。
  いのちはいのちのためにあるという真実。
  ガゼル フォー ガゼルズ。
  ガゼルの群れの生死を境するのは、勇気。
  マン フォー メン アンド ウィメン。
  人は、なんのために死するか。
  人のいのちは、なんのためにあるか。

  人は見ていた
  そこにあった自己犠牲、死という希望の道。
  七頭は飢えた人に供せられ、
  六頭は獰猛なワニたちに与えられた。
  あわせて十三頭のガゼルが、
  幾千もの仲間の血をあがなったこと。
  ガゼルが群れるのはそのためであった。
  人が群れるのも、そのためではなかったか。
  戦って勝つため、というより、負けないために、
  勇気ある生け贄が必要であったこと。
  渡り終えて、あこがれの沃野へと駆けていく群れ。
  幾千というガゼルの群れ、ガゼルという種。
  若い仲間が生きる。
  新しいいのちが生きる。
  希望の明日が生きる。
  人はなんのために生きるか?
  奮い起こすのだ、人よ。
  人よ、人はなんのために、
  この世に生まれ、この世を生き、
  なんのために、 死するのかを。
  ガゼル フォー ガゼルズ。
  マン フォー マンカインド。
  マン フォー オール。
  その愛のために、勇気をもって、
  ぼくらの仲間のあいだを駆け抜けること。
  ただそのことを。


グローバル化が破壊する

2008-02-20 10:55:52 | コメントor短評

赤ちゃんのための絵本_セブンアンドワイ

Sony Style(ソニースタイル)

●「グローバル化」した経済が国民経済を破壊する●

 原油のニューヨーク取引価格(WTI)が、100ドル前後で高止まったままである。
 けれども、これほどの原油価格暴騰に対抗するに、誰もどのような手も打てないである。かつてはOPECによる原油増産圧力が、価格の上昇を抑え込んでいたが、現在はそのOPECが原油高を容認している。しかも、その原油による利益を徹底的に享受しようとしている。
 石油メージャーの不当利得のためにさんざん利用されてきたアラブをはじめとする産油国の意趣返しのような冷淡さ、あるいはかつて奪われたものをがむしゃらに取り戻そうとする意思さえ見える。

 ◆マネー・ゲームの被害者はふつうの庶民◆

 産油国の原油高値誘導政策と、世界の投企マネーが原油になだれ込んだこと、この二つの共謀のような形で、原油は各国、国民経済によるインフレ吸収力を凌駕する勢いである。日本でもじわじわと浸透していた原油価格の暴騰の影響が、ここへ来て深刻化しはじめている。
 温室栽培の野菜、花卉類はいずれも比較的安値の重油によって支えられてきたのである。あるいは農業の機械化もそうである。漁船はいずれも石油燃料機関頼みである。
 貨客の運輸業も直撃を受けている。
 一般家庭で暖房費にふんだんに使っていた重油や灯油の値上がりは、家計の消費支出の硬直化をもたらしている。不要不急の消費は徐々に切り詰められて、暖房費以外の消費性向は落ち込んでいる。


 ◆我が国政府は「無策」である◆

 このように、生産と消費の両面から原油高騰は国民生活を脅かしている。
 にもかかわらず、我が国政府は何もしていない。若干の補助金や助成金がばらまかれるだけで、抜本的な解決に取り組もうという気はまったくない。
 ないはずである。最初から「投げている」のである。
 自分たちの「及ばない」こと、と最初から「投げている」のである。
 
 これを「無策」という。
 「原油」の値段を決めるのは、市場であるから、という理由が大義名分。それに、OPECの以降には逆らいたくない、という「偽の国益」意識。
 だが、現在の異常な原油取引値段が、正規の市場取引によるものではないことは、誰もが承知していることである。投機筋による投機買いが原油市場をゆがめているということがわかっていて、何の手も打たない。
 これを「拱手傍観」という。
 まるで福田現政権の姿そのものである。
 国民生活を、この異常な事態から救い出さないことには、我が国経済は行き詰まる。国民生活が破壊されては、景気も何もない。財政再建もありえない。もし、経済的な破綻が我が国をおそうことになったら、一番最初にやられるのが一般庶民である。その庶民を救う手立てがなければ、日本経済の再構築も、財政再建もありえない。

 ◆物価の暴騰は「経済のグローバル化」の結果であり、過程である◆

 我が国政府が、一国ではどのような手も打てない面があることもたしかである。
 それが、「経済のグローバル化」ということである。

 経済が国家の壁を越えて大きな力をもって世界を動き回ること。それが「経済のグローバル化」であるから、そのような「グローバル化された」経済に対するには、多数の国家が連合して当たらなければ、解決はありえない。

 つまり、石油先物取引に投企マネーが大量に流入しない取引システムを構築しなければならないのである。石油だけではない。穀物にしろ、金属地金にしろ、ぞくぞくと投企マネーにおそわれている現状では、正当な実体経済を守るための商品取引システムが欠かせないのに、だれも、どの国も、あの強国アメリカ合衆国でさえ、本気で取り組もうという意思さえ見せない。あるいは、その意思だけを見せるだけでも、投機筋を冷やす効果あるだろうが、そのような「脅し」もないのである。

 我が国が、投企から正常な商品取引を守るための世界的システム作りに、手を挙げ、声を上げるというのであれば、どれほど、我が国の国家経済は安心を得られるだろう。それが国民心理を押し上げ、引き上げて、これからも続くであろうな波乱の物価騰貴と、それが国民のあいだに生む経済破綻への恐怖を、どちらもうんと小さなものにするであろう。


 ◆一般庶民が金持ちのおもちゃにされない経済を◆

 つまり、世界の一握りの金持ちたちが、マネーゲームを展開して、かれらのそのゲームの楽しみ、利益のために、世界の大多数を占める一般庶民が苦汁をなめるというような、不合理を生まないシステムを、この世界にグローバルに構築することこそ、世界のそれぞれの国々の為政者の義務である。経済のグローバル化が、庶民生活を押し流していくことがないようにするために、一国の政治ではそれがかなわないのであれば、世界の国々の政府が連帯して、あるいは連合して、政治的グローバリズムを創出しなければならないのである。

 そのことによって、はじめて、地域の自立的な運営、つまり、ローカリズムが保障されるはずである。「グローバル化された世界経済」にあっては、ローカリズムはつねに政治的グローバリズムのカバーを必要とするのである。

 繰り返して言おう。
 額に汗してまっとうに暮らす庶民が、金持ちのマネー・ハンティングの犠牲にならない経済システムまたは市場システムの構築は、それぞれの一国の政府においても、国民への義務である。それが一国でなしえないときには、各国が利害の対立を超えて、システム作りに邁進すること、これも各国政府の各国国民への義務である。

アルク

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