●イージス艦「あたご」の漁船沈没事件がさらしだしたもの●
イージス艦「あたご」がすぐれているのは、ミサイルを打ち落とす能力だけでしかなかったことがはっきりした。それもハワイ沖での打ち落とし実験である。つまり、日本の国土を守るためのミサイル迎撃実験ではなかったのである。アメリカ合衆国本土とその国民を守るために、何百億もの費用をかけて実験したのである。その凱旋のつもりだったのか、東京湾を自動操舵で航行して、日本国民を海中に沈めたのであるから、いったいだれのための、どこの国のためのイージス艦であるか、わからない。
機密は漏洩するは、高度な軍事プログラムを火事で焼いてしまうは、事務次官は賄賂まみれ、官製談合はするはでは、いったいこんなだらけた無駄遣い組織を維持する必要があるのか、問いたい。
それが日本国民のための組織でないとしたら、もうなにをか言わんやである。
それでもなおまだ、日本自衛隊に、高価な高価なイージス艦をこれからも買い与えるつもりなのであろうか? 海上自衛隊にかぎらない。それぞれの自衛隊に、高価な装備を買い与えて、彼らのおもちゃにさせるつもりなのだろうか?
いずれにしても、今度のイージス艦の漁船沈没事件が明らかにしたことをここにまとめておこう。そして、日本自衛隊の組織を、その装備と人員をまるまるアメリカ合衆国に買い取ってもらおう。日本のために存在しない自衛隊など不要だからである。
もっとも、アメリカ合衆国が買う気になるかどうかは、不明である。なにせ、装備は一流でも、そのモラルは世界最低であるから。
◆日本自衛隊が、アメリカ合衆国軍付属の別働隊であること◆
イージス艦「あたご」は、東京湾内に入ってなお、「自動操舵」のままだったという。並み居る漁船など歯牙にもかけない勇姿を、東京湾にディスプレイしたかったのであろうか。イージス艦「あたご」が成功させたアメリカ合衆国本土防衛のための弾道ミサイル迎撃実験を、日本国民にやんやの喝采で迎えてもらいたくて、「凱旋行進」でもしているつもりだったのだろうか。アメリカ合衆国のために成功したミサイル迎撃を日本国民が褒め称えるはずがないのに、彼らは勘違いしていたのである。
きっと、日本自衛隊は、日本の国土と国民を守るためにあるのではなく、アメリカ合衆国の国土と国民を守るために存在するのだと、彼らは本気で信じ、日本国民も日本自衛隊はそのためにこそ存在する価値があるのだと認めているのだと、みずからを誇っていたのかも知れない。
その日本自衛隊の中で、イージス艦乗員は海上自衛隊のエリートであるから、いっそうその誇りは高かったのであろう。「誇り」と書いたがこれは皮肉である。「傲慢の鼻」と言い換えてもらいたい言葉である。
◆日本自衛隊の現場主義と事後報告は戦前の軍部と同じであること◆
漁船を沈めとわかっても、ただちにどこかに連絡するというわけでもなく、その場で事故を処理しようとした形跡がある。つまり、現場主義に徹したというのであろう。沈没した漁船の乗組員を救助すれば、事後報告ですむと考えたのであろう。
現場主義と事後報告は、かつて日本が経験した軍部の独走の姿である。
関東軍の現場主義と事後報告が、つまり、満州事変も日中戦争も引き起こし、日本国家と国民はあれよあれよという間に、軍部にひきずられて、世界戦争へと突き進んでいった。
これと同じ発想がいまの自衛隊制服組にあることが証明された。
しかも、日本の官憲の捜査がおよぶ前に、口裏合わせをしようとした形跡まで現れた。捜査がおよぶ前に、漁船沈没事件のストーリーを作り上げようというわけである。できうるかぎり日本の誇る宝物であるイージス艦「あたご」には瑕疵がないかのようにストーリーを作りたかったのであろう。ここで、「作る」という言葉を用いているが、「でっちあげる」という言葉で言い換えた方がより適切であるかもしれない。
◆防衛省官僚たちの無能・無策ぶり◆
何せ前事務次官が家族丸抱えで汚職まみれだったことは、日本の国土と国民を守るはずの自衛隊を統括する防衛省官僚の腐敗ぶりを満天下に明らかにした。
旧防衛施設庁の官製談合の記憶もまだ新しいのに、日本の輸入商社丸抱えで潤沢な生活をしていたのであるから、こんな官僚どもに、制服組をコントロールすることなど、どだい無理である。汚職官僚の言葉にしたがう自衛官がいるはずがないのである。山田商行が丸抱えして行われた次女の薄汚れたアメリカ留学もまたとうてい許せるものではない。彼女に罪がないなどと弁護する日本人がいたとしたら、その日本人も同罪である。
◆日本自衛隊の指揮系統はすでにアメリカ合衆国軍が握っている◆
なぜ、これほどまでにだらけきっているか?
それは、防衛省が日本のための軍隊を統括しているのではないからである。日本の自衛隊を統括しているのは同盟国アメリカ合衆国軍部の幕僚たちである。その上にはアメリカ合衆国大統領が存在する。
日本の自衛隊は、日本という国のために存在していない。アメリカ合衆国のために存在しているから、日本政府の文民統制を受けることがないのである。ここに、指揮系統の問題がある。アメリカ合衆国軍と日本自衛隊の組織的統合、指揮系統の一本化が進め進むほど、日本自衛隊は日本の官僚の管理からは抜け出していく。つまり、もう日本自衛隊はアメリカ合衆国軍の管理下にあると考えてよいのである。
そして、そのことはとりもなおさず、日本自衛隊には文民統制がまったくはたらいていないことを意味する。文民のコントロールなどまったくないのである。これでは、防衛省の官僚にモラルのありようがない。日本国家と国民を守ろうという鉄の意志など、官僚たちにはまったくありえないのである。
防衛省と自衛隊の乖離と齟齬を助長してきた日米(安保)同盟。
その同盟関係は、アメリカ合衆国軍の日本における展開と指揮権を大幅に認めてきた。それは駐留米軍と自衛隊をカバーする指揮権である。だから、防衛省は日本政府の官僚組織であるが、自衛隊は、アメリカ合衆国軍という外国の軍隊の指揮・命令系統に属する軍事組織として維持され、発展してきたのである。
このような乖離を放置してきたこと、いや、いっそう乖離を大きくさせてきたことは、日本政府の無策を意味する。アメリカ合衆国軍におんぶにだっこという自衛隊の体質を助長させ、自衛隊の本性にまでしてしまったことに、最大の問題の根がある。日本の防衛省はつまり、自衛隊のために金を、つまり税金をぶんどってくるだけの役目しかないのである。
かつて、「亭主元気で留守がいい」と言われたように、「防衛省官僚元気で(たくさんお金をぶんどってきて)、現場不干渉がいい」ということである。
こんな防衛省は不要である。
日本国民による文民統制のできない防衛省も自衛隊も、日本には不要である。害あって一利なし(一利くらいならあるかもしれない――たとえば災害救助など――が)である。これではほとんどが税金の無駄遣いである。防衛予算を災害対策費を除いて大幅に削減してしまえば、現在も将来的にも運営不安の大きい社会福祉の財源にふんだんに使えるお金ができるではないか。
自衛隊を、日本政府の文民コントロールのもとに統制し直すための諸策を急ぎ講ずるか、それとも、防衛省の官僚ごとアメリカ合衆国にまるまる差し上げてしまうほかないのである。この際、無償譲渡でもよい。完全な防衛経費削減につながるのであるならではあるが。