フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

対話をされる神<改>

2006-01-30 04:26:27 | 詩集『わが信仰と希望』から

      対話をされる神<改>
          
     対話する神がおられる。
    ぼくらの孤独の中にそっとおりてこられる神。
    そのひとつのペルソナの実感。
    ぼくらの人格神。
    それを感じたくて、十字架に目を注ぐ。
    その神が語りかけてこられるのは、
    じっと耳を澄ましている心にだけ。
    それなのに、ぼくらはいつも、
    いつも、一人で話しかけている。
    「あれがつらいです。これも苦しいです。」
    「ここが痛いです。あそこがいやです。」
    「それがほしいです。どれも選びたくありません。」
    じっと聞いておられる神。
    静かに耳傾け、
    ぼくらの不平、不満を聞いておられる神。
    だからきっと、何も話されない。
    だからきっと、愛のため息も聞こえない。
    対話するためには、ぼくらほんの少し、
    愚痴を言うのをやめて、
    お願いするのをこらえて、
    黙らないといけないのかも知れません。
    心の底から静かに、素直にならなければ、
    何も聞えないのかも知れません。

    
           
          [POEM-『わが信仰と希望』から改]


詩一編:「ああ、お願い。愛しておくれ」

2006-01-30 04:15:05 | 棄民の即興歌

      
      ああ、お願い! 愛しておくれ
      
    
    愛しておくれ
    友よ 恋人よ 行き交う人よ
    行きずりの冷ややかな目を どうか
    ぼくに突き刺さないでおくれ
    このさびしいぼく
    罪深いぼくを どうか
    許しておくれ
    友よ 恋人よ 行き交う人よ

    愛しておくれ
    人よ 仲間よ ともにある人よ
    ぼくが人と少し違うからと どうか
    ぼくを取りのけないでおくれ
    このかなしいぼく
    生きようとするぼくを どうか
    受けとめておくれ
    人よ 仲間よ ともにある人よ

    愛しておくれ
    きみよ あなたよ 街行く人よ
    あざけりとさげすみの声を どうか
    ぼくに投げつけないでおくれ
    この貧しいぼく
    ひとりぼっちのぼくを どうか
    身棄てないでおくれ
    きみよ あなたよ 街行く人よ

    だが ぼくは知っている
    真冬のビルの非常階段の下で
    ひとり凍えているぼくを
    路地裏のビルの暗がりで
    たったひとりふるえているぼくを
    体をこわばらせ心をかたくなにしているぼくを
    だれも振り返りはしないことを
    都会の地の底の
    むさい身なりの老いぼれひとり
    醜く臭い老いぼれひとり
    愛の願いをつぶやきながら
    ひっそり死んでいくのだろう
    その罪の深さのゆえに
    その業の深さのゆえに

    
          
          [POEM-『棄民の即興歌』から]

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起きていなさい」と<改>

2006-01-28 08:59:00 | 詩集『わが信仰と希望』から

      
      「起きていなさい」 と <改>
      
    
     「目を開いて起きていなさい。」
    そう、主は言われた。
    心をぐっと見開いて、
    せまり来る不幸へのおそれ、
    去っていく幸せなとき、
    身もだえする愛の苦しみ、
    「それらのすべてを、
    しっかり見ていなさい。」と

    「眠らずに聞いていなさい。」
    そう、主は言われた。
    心の音を静かにさせて、
    祈りのひそかなささやき、
    願いの切ないうめき、
    孤独にむせるかすかな嘆き、
    「それらをすべて、じっと聞いていなさい」と。

    「心の内に受けとめなさい。」
    そう、主は言われた。
    その狭い胸を開いて、
    この世の不幸のありさまを、
    この地の悲しみの限りなさを、
    耐え難い不当な貧しさを、
    「それらすべてを、心に受けとめなさい」と。

    「わたしとともに、起きていなさい。」
    そう、主は言われる。
    ときに人々とともに闘うために、
    ときに人々とともに耐えるために。
    そして、いつかこの世に平和が、
    この世に、愛が満ちるように。
    そう、主はこの世に願われたから。
    そう、主は呼びかけられたから。
    「立って世の隅々まで行き、
    平和を伝える者となるように。
    愛を言祝ぐ者となるように」と。

    
          
         [POEM-詩集『わが信仰と希望』から改]


生命なるもの、神なるもの

2006-01-27 11:10:03 | わが断想・思想の軌跡

●われら「生命」の源なるもの、それを神と呼ぶ●

○「生命」の源なるもの、それは究極において「生命なるもの」と言おう。それは、われら人の「原始感覚」としての「神」

○「生命なるもの」が「神」であるとは、「原始感覚」においては、アニミズムであり、シャーマニズムであり、汎神である。pantheism汎神論というより、pantheonすべての神々という事実に、われわれ人間の「汎神的感覚」が現れる。

○同じ汎神論と言っても、スピノザの言うところの汎神論は、一神教的な汎神論と言うべきだろうか。遍在する神。全能なるゆえに、それは唯一無二の神でありながら、その表出は一所に偏在しない。多様にかつ多彩な輝きをもって混沌の雲を従えているもの、とでもいいだろうか。ただし、スピノザについては、後にもう一度触れる。

○キリスト教における「霊の共同体」という思想ないし観念があるが、これはつまるところ、「生命の共同体」を意味する。「生命の共同体」とは、「汎神感覚」が人に与えた、「神なるもの」の連続体の信仰とアナロギアをなしている。

結論として、こう言おう。
あまねく「生命」は「生命なるもの」に合一すべくこの世に生み出され、「生命なるもの」を源泉として、「生命なるもの」に発してひとつのつながりを有し、「生命なるもの」を媒介として互いにひとつに結び合わされる。
逆に、それぞれの具体に生きる「生命」は「生命なるもの」の表象としてこの世に現れたもの。あるいは、「生命なるもの」の肉化として、個別的具体への表出と見ることができる。それが連鎖する生命現象。つまり生物界の生物個々と言うことになる。

アニミズムをこの結論からもう一度定義しなおすと、
「生命なるもの」の個別的表出を、その具体のひとつひとつにばらばらに、分断された形で感じ取る感覚」と言うべきだろう。つまり、「神なるもの」のステージにまで抽象のレベルを高めることのできない、まだ理知が混沌の雲におおわれている具象の状態としての「神感覚」と言い換えてもよかろう。
人はここから、「神なるもの」を抽出し、理知し、アニミズムとして感得された「神」の連続性に目覚める。それはまた「八百万の神」あるいは「ギリシアの神々」という肉化された「神」として分立的に具象化され、さらにまたそれらを統御する「主神」としての「神」が生み出される。「主神としての神」は、やがて多神教を脱して、一神教化する場合がある。それがヘブライの神、「ヤハウェ」にほかならない。

すると、「シャーマニズム」はどこに位置づけられるか?
たぶん、アニミズム ⇔ シャーマニズム ⇔ 多神教 ⇔ 一神教
という流れであろう。両方向の矢印を用いたのは、常に元に戻ろうとする傾向が、人間の「神感覚」として存在するからである。「感覚」としての「神」はその原初へと、「生命なるもの」として感じ取られたその原始の感覚へと戻ろうとする。
つまり、現在われわれが一神教的「神」をすぐれた「神」として敬愛し、尊崇するのは、すでにかつての原始的な「神感覚」あるいは「生命感覚」を出て、理知の神、理性が形成した「神なるもの」の究極の像であるからにほかならない。
そして、今再び「シャーマニズム」を定義しなおせば、
「シャーマニズムとは、アニミズムの局所的収斂、偏った抽象化と言えるものである。あるいは、アニマの局所的集中。アニマのエネルギーの集中として、シャーマンがそこに生産される。」
あるいはこうも言えよう。
「シャーマニズムとは、文化的・風土的制約の中で、それらの条件下で生じた局所的統一、偏在し、偏って累積する生命エネルギーである」。

「神」が一神教化することの対現象として、われわれ人間の側にも個別化、個人化という現象が生ずる。あらゆる「神的なもの」の収斂としての一神教は、人間の側のあるいは具体的生命現象、神現象の個を、個別化し、孤立させる。西欧における個人主義のもとがここにある。
一端孤立化した個々の「具象化された生命」は、その理知の働きによって、再びひとつに結ばれる。たぶん、それがキリスト教における「霊の共同体」思想のはじまりであろう。

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西欧と日本の溝

2006-01-26 05:02:11 | わが断想・思想の軌跡

 たとえば、こういう表現。
「彼は最も信頼されている看護士の一人です。」
「最も」は最上級。日本では「最も」は「一人」「一つ」しかないはずのもの。

 「最も信頼されている一人」の「最も」と「一人」には越えることのできない溝がある。
それは、この表現と比べればいっそうはっきりする。
 「富士山は日本で最も高い山です。」
 けっして、「富士山は日本で最も高い山の一つです。」とは言わないし、言えない。
 けれども、ヨーロッパの言葉であれば、
「マッターホルンは、アルプスで最も高い山々の一つです。」とは言えるのだ。
英語では、“Mt. Matterhorn is one of the highest mountains in Alps.”とでも言うのだろうか。ヨーロッパの言葉では、「最上級」は複数としてとらえられる。唯一無二の最上ではないのだ。あくまでもそれは「級」。‘class'として考えているのだ。‘class'だから、複数あってもよい。もちろん、彼らにだって唯一無二の最上級もあるだろう。でも、それは最上級の中の最上。つまり‘king of kings'なのだ。居並ぶ王たちの中で、最も勢力あるものをただ一つ選ぶ。最上級が非常に相対的なものとして感じられ、あるいは考えられている。
 日本では、最上のものに、比較される同等のクラスのものはない。最上級グループは存在せず、最上は最上として、何に一つ媒介項を必要とせず、たぶん、いきなり生な形で最上のものが表象される。

 こう考えると、ヨーロッパはたぶん、絶対を表すにしても、まず相対評価が行われ、その相対評価を越えて存在するものとしての絶対が思考される。
 日本では、相対評価=絶対評価として、相対にも絶対にも、融通無碍に転ぶ。それはつまり、言い換えれば、日本には絶対の顔をした相対評価があり、相対の顔をしていながらその実絶対のものであることをわれわれに強要する評価がある、ということだ。
 それはまことに批判のされにくい、いわば評価の混沌を生み出すひとつの原因ともなっているのだろう。
 このような元々の評価の融通無碍に、今ヨーロッパの相対という媒介項をはさんで行われる絶対評価の表象が、ごく当たり前のように受け止められ、送受されている。

 このことの意味。日本の文化がその価値体系の内部から崩壊していると見なすのか、あるいは日本の文化がその価値体系に、うまくヨーロッパの評価系列を取り入れつつあると見るのか。もし、後者だとしたら、いつかヨーロッパの価値評価の系列がこれまでの日本的な評価の系列に取って代わるということになるのかどうか? 結局前者のごとく、日本独自の評価系列は崩壊したまま、新たに取って代わる評価系列もなく、日本と日本人は、ただ相対の海に漂うだけになるのか?
 一人ひとりがみずからに、問い直さねばならぬことではなかろうか。

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