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永畑道子『恋の華 白蓮事件』を読んで

2017-04-27 17:36:23 | 読んだ本
永畑道子『恋の華 白蓮事件』          松山愼介
 二〇一四年にNHKで放送された『花子とアン』を通して、白蓮事件に対する予備知識はあったので、この作品にすぐり込むことができた。村岡花子役の吉高由里子はともかく、白蓮役の仲間由紀恵はよく合っていた、とくに日本髪姿が。また伊藤傳右衛門役の吉田鋼太郎も似合っていた。
 この白蓮事件を考える時、四つの方向がある。歌人としての白蓮、炭鉱王・伊藤傳右衛門、新人会の宮崎龍介、そして白蓮と龍介の恋愛である。
馬場あき子は『白蓮の人生に添う歌』のはじめで「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前」という歌をあげ、白蓮にとって歌とは伊藤家に反逆する嘆きを詠み続けることであり、心の真実を言葉に出して、詠む詠まないかを試されて「火の前」に立っていることだったのではないかと書いている。
 炭鉱王・伊藤伝右衛門については宮田昭『筑豊一代 炭鉱王 伊藤傳右衛門』が詳しい。この本によると、傳右衛門は二人が結婚した時(一九一一年)には福岡県で第六位の納税者であり、国会議員も務めたうえ、勲四等旭日章をもらっている。傳右衛門は万延元(一八六〇)年、目明しの子に生まれた。父は目明しのかたわら魚問屋を開店し、響灘、玄界灘から峠を越えて八里の道を幸袋まで運んだ。傳右衛門はいっぱしの働き手であった。その後、十八歳の時には日当五十銭で西南戦争の軍夫をしている。二年半船頭をしたのち、福岡藩の石炭仕組の松本家の流れをくむ、松本潜の知遇を得、その配下となり炭鉱に従事することになる。父、傳六ともに、傳右衛門は炭鉱経営にかかわり、傳六の死後、家督を継いだ傳右衛門は炭鉱経営を広げていった。
 四十六歳で牟田炭鉱を独立して経営することになった。この牟田炭鉱は粗悪炭のうえ、坑道で大断層にぶつかった。しかし、この大断層をぶち抜くことに成功するとそこには、良質の五尺の炭層が出現した。このようにして、傳右衛門は折からの日清・日露戦争の波にのり炭鉱王への道を駆け上がっていった。その影には無名の落盤、爆発事故による坑夫の犠牲があったことは言うまでもない。そこに妻の死後、五十歳を過ぎた傳右衛門に柳原燁子との結婚話が持ち上がるのである。
 宮崎龍介は戯曲『指鬘外道』の上演の打ち合わせで、白蓮と知り合うことになる。宮崎龍介は宮崎滔天の息子で、「新人会」の創立者の一人であった。この同じ創立者に、吉野作造の次女の夫になり、第一次共産党に加わった赤松克麿がいる。彼が燁子の「絶縁状」に手を入れることになる。推測だが、宮崎龍介は社会主義者として炭鉱王・伊藤伝右衛門に一泡吹かせるつもりで妻の燁子に近づいたのではないだろうか。
永畑道子は熊本日日新聞の記者をしていた昭和二十九年五月中旬、論説主幹の伊東盛一とともに白蓮に出会っている。その印象を、小柄、なで肩、雪のような白髪、ハスキーな声、伝法口調、江戸下町の口調がまじると書いている。永畑道子は克明な取材と、西日本新聞、熊本日日新聞の資料調べでこの本を書いたようである。
 林真理子にも『白蓮れんれん』という小説がある。林真理子は当時の中央公論社の会長・嶋中鵬二から伝記を連載するように頼まれ、中央公論社の資料室で大正五年創刊の「婦人公論」の目次から柳原白蓮につきあったという。柳原家には白蓮、龍介の書簡一千通が残っており、娘・蕗苳の夫が七百通を選び出し、林真理子に見せることを承諾する。中央公論社の女社員二人が墨の草書で書かれた書簡をワープロにおこしたという。『白蓮れんれん』はNHKの連続ドラマが始まると、増刷につぐ増刷を重ねたという。
 この白蓮事件を通して、我々は当時の家族の生活、筑豊の石炭成金の生活を知ることができる。写真で見る若い時の白蓮は、繊細で、たおやかな感じであるが、年老いた白髪の白蓮の演壇上の姿には迫力を感じる。また老いた白蓮、龍介夫妻の写真も微笑ましい。二人の恋愛の事情はいろいろな解釈があるだろうが、この二人が死ぬまで添い遂げたことを祝福すべきであろう。
                                         2017年1月14日
 満州事変の立役者、石原莞爾は日支事変に関しては不拡大派の中心人物であった。石原は《この際思い切って華北の全軍を山海関の満・中国境にまで後退させ、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝詰で両国の根本問題を解決すべきであると進言した》(大杉一雄『日中十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか』)が、広田外相は熱意を示さず、風見章書記官長は飛行機の準備までしたが近衛首相は消極的であった。わずかに宮崎滔天の長男・龍介を中国に派遣しょうとしたが、反対勢力によって憲兵隊に勾留され計画は挫折した。




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