作者がネットやったり、ネットユーザーと同じレベルのネット趣味にハマるようになると、「私も自分の作品をオタク的に解釈して腐妄想とかできるんだよ」とオタクアピールする人もいて、むしろそっちの方が「言わなくていいのに」って感じるかなあ
日本がシビュラシステムのお陰で復興した、とセリフひとつで言及してるだけで海外の情勢がよくわからないし、シビュラの管理区画とかシステムの概容みたいな描写が曖昧に流されていてアレな感じ
シビュラ管理の防犯システムは外国人の不法滞在者やテロ目的で入国してきた外国人犯罪者に対して無力過ぎる。システム未登録者の脅威判定は無理だろ。精神衛生管理や職業適性診断をするための市民管理システムが、作業ロボット、猟犬型ドローンなどの人間以外の脅威判定してるのもギャグにしか見えない
現実に一つの嘘を混ぜるために架空の作品内世界を構築すると必ず抜け道のような穴が見つかる。この穴を塞ぐ事を考えていく過程で面白いエピソードが産まれるのだが逆に穴を繕う労力を惜しんで作品内世界の定義を曖昧にしておくと一つの嘘が数多くのギャグになる
箱根駅伝が盛り上がるのもそんなかんじですよね。 RT @ynabe39: 「どうしても勝てない人がいる」からルールで分割していくわけですよね。 RT @White_penguins: ボクシングとかで軽量級は重量級に勝てないから軽量級はしょぼいとはならない。スポーツはルール次第。
「w」が普及する以前のネット文章、すごく読みやすいな。語尾に付け足すだけで諧謔や皮肉、嘲弄のニュアンスまで出せるこの化学調味料が無かったせいで(おかげで)、著述者の見解をより丁寧に“文章それ自体”で表現しようとしているのが伝わる。内容がどんなにドイヒーでもさほど不愉快にならない。
純と愛、母親役の人の演技が上手い。しかしながらおちゃらけた作風と役者のシリアス演技が調和してないので「不愉快さ」だけが残ってただ単に後味が悪い
rocketnews24.com/2013/01/31/289… モナリザもっと顔丸かっただろ?と思ったらやっぱ違う絵だったのかこれ ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2…
なるほど、そもそもベースになってるのが有名なモナリザではなく、アイルワースのモナリザっていう別の絵(ダヴィンチ作ではないという説が濃厚)を使ってるのね。比較図を作ってみました。 pic.twitter.com/UxurrnM7
オタクのキャラクターに対する愛情って、そう考えるとツボとかモノっていうかやっぱり嫁っていうかいや寧ろ子供に対するような(歪んだ)愛情になってくるけれど、自分の子供じゃないってとこがミソだよね。結果、足長おじさんやプリンセスメーカー的な接し方になって、突き詰めると投資、課金になる。
忘れてはいけない、あしながおじさんジャーヴィスは最終的にジュディーを嫁にした
これ、数十年前の国語論のレベルの話(西郷竹彦)ですけど、「様々なキャラクターになったり、我に帰ったりを繰り返すのが読書である」って考え方からすると、「なれない」は単純に受け取り方の乏しさに繋がると思うんですな。
こないだ、夜の酒場を訪れた作家が店の美少年に目をつけたんだけど、少年がつれないので「君は可愛くないな」って云ったら、「僕は美しいから、可愛くなくっていいんだ」って返されたってゆうエピソード聞いてツボすぎて悶えたんだけど、その作家と少年が三島ゆきおと三輪あきひろだと聞いて禿げた。
だからオタク論としては「脳内恋愛説」にも「ササキバラの純粋な視線説」にも抵抗して多様性や視点の選択性、感情移入の可変性を強調して書かないといけない気にさせたのが、当時の萌えの入口論
原作や世界名作劇場のをじっさい見ると「ジュディーがジャーヴィスとあしながおじさんを切り離してジャーヴィスを選んだ」って面があり、主語をおじさんにする以外の読みかたもできるかもです RT @zuban1: 忘れてはいけない、あしながおじさんジャーヴィスは最終的にジュディーを嫁にした
二人の恋の最大の障害が「正体を隠して近付き、軽い気持ちで少女の気持ちを玩んだ金持ちの男」を許せるかどうかだからなあ
しかし、わたしのあしながおじさんでは嵐の中での濃厚なキスシーンを描き、トラップ一家物語では長女の初潮について丸々一話割いて濃密に描き、と世界名作劇場は日曜ゴールデンタイムのファミリーアニメにあるまじき激しい攻めの姿勢を持っていた素晴らしいシリーズだったのだなあ、と