数日前から容態が悪かった、母方のばあちゃんが
今日、亡くなりました。
数年前まで、何十年間も、年に何回か四国に行って、四国に数週間滞在し、自転車で売薬さんをやってたばあちゃん。
富山に居る時は、いつも山で竹を切ったり畑をしたり、人の着物を縫って作ったりして働いていたばあちゃん。
そんなばあちゃんの姿を思い出すと
『お疲れさまでした』
という気持ちでいっぱいになり、涙が止まらなかった。
今『売薬さん』と言うと、車で移動するので、体力とかは対して使わないかもですが
私のばあちゃんは、自転車しか乗れなかったし、何より女だし、他の人より大変だったと思う。
こんなばあちゃんの仕事している姿を、家族は見たことがなかったのですが
私は3回ほど、ばあちゃんが『売薬さん』という仕事する姿を目の当たりにしたことがあった。
1回目は、私が東京に住んでいながら仕事を辞めプーをしている時、当時好きなバンドのライブを見るついでに四国のばあちゃんの様子を見に行った数日間。
2回目は、富山のテレビ局に居た頃、番組でばあちゃんの仕事を取り上げてくれることになり、同僚と2人で数日間四国へ。
3回目は、ばあちゃんが急に売薬の仕事を辞める事にしたので、その様子を取材するため1人で数日間四国へ。
四国で見たばあちゃんの働く姿は、富山に居る時とは違った、商売人の顔のばあちゃんでした。
ばあちゃんは、自転車の前と後ろの荷台にそれぞれ10キロはありそうな薬を詰めた箱を乗せて、細い上り坂の坂道を一生懸命ペダルをこぎ、車が来る度に止まって下りたり、自転車をこぎだしたら振り向くことなく黙々と進み、お得意さんの家を1軒1軒周り、その家々のお客さんと話しながら薬を入れ替える。
それを、朝から夕方暗くなるまで、雨の日も風の日も、炎天下の日も
限られた滞在日数の中で頑張っていました。
その自転車を黙々とこぐばあちゃんの後ろ姿は、思い出すだけでジーンと来ます。
(たぶん家族だから)
お客さんもばあちゃんと同じくらいの年齢の人だったら『よく来られたね~』って優しくしてくれるけど、若い人や愛想の悪い人は『また薬のお金払わなきゃ』みたいな面倒な顔をされたりする。
そんな嫌な思いをしても笑顔で『ありがとうございます』と言って1軒1軒深々と頭を下げて廻る姿を何度も目の当たりにした。
こんな姿を見たのは、きっと長男のおじちゃんと私くらいだ。
そして仕事一筋だったばあちゃんは、何十年も四国に行きながら観光したこともなく、途中下車することもなく、私が一緒に行った時初めて四国のうどんを食べ、帰りに京都に寄り道した。
そんな苦労をばあちゃんは富山に帰ってきても一言も言わなかったので、売薬の仕事がこんなに辛い仕事だとは思っていなかったのですが
一緒に四国に滞在してこの姿を見てから私は『こんな苦労して母を育ててくれたばあちゃんを大事にしなければ!』と思った。
なのに
実際は、ばあちゃんに喜んでもらえるような事を何もしてもあげられぬまま、ばあちゃんが亡くなってしまった。
それが悔しいというか、自分を責めたい。
私の部屋の片隅で、ばあちゃんと廻った最後の売薬さんをするの日、掛場帳を売ることに決めて整理する様子などを撮影したDVカセットが『おーい』と私を呼んでいる。
『番組にならなくても、編集したら家族の宝になるよな』って思いラッシュまでは書いたけど
その作業をしてストップ。
当時の私は仕事が辛くて、『このばあちゃんの姿を残すために私はこの仕事してるんだ!』って信じさせてがんばっていたのですが、ばあちゃんの大事な事は番組になることもないまま、私は会社を辞め、それから早いもので5年ほど経っています。
はぁ~
誰か編集作業してくんないかなぁ~。
(その作業が一番面倒くさい)
今日、亡くなりました。
数年前まで、何十年間も、年に何回か四国に行って、四国に数週間滞在し、自転車で売薬さんをやってたばあちゃん。
富山に居る時は、いつも山で竹を切ったり畑をしたり、人の着物を縫って作ったりして働いていたばあちゃん。
そんなばあちゃんの姿を思い出すと
『お疲れさまでした』
という気持ちでいっぱいになり、涙が止まらなかった。
今『売薬さん』と言うと、車で移動するので、体力とかは対して使わないかもですが
私のばあちゃんは、自転車しか乗れなかったし、何より女だし、他の人より大変だったと思う。
こんなばあちゃんの仕事している姿を、家族は見たことがなかったのですが
私は3回ほど、ばあちゃんが『売薬さん』という仕事する姿を目の当たりにしたことがあった。
1回目は、私が東京に住んでいながら仕事を辞めプーをしている時、当時好きなバンドのライブを見るついでに四国のばあちゃんの様子を見に行った数日間。
2回目は、富山のテレビ局に居た頃、番組でばあちゃんの仕事を取り上げてくれることになり、同僚と2人で数日間四国へ。
3回目は、ばあちゃんが急に売薬の仕事を辞める事にしたので、その様子を取材するため1人で数日間四国へ。
四国で見たばあちゃんの働く姿は、富山に居る時とは違った、商売人の顔のばあちゃんでした。
ばあちゃんは、自転車の前と後ろの荷台にそれぞれ10キロはありそうな薬を詰めた箱を乗せて、細い上り坂の坂道を一生懸命ペダルをこぎ、車が来る度に止まって下りたり、自転車をこぎだしたら振り向くことなく黙々と進み、お得意さんの家を1軒1軒周り、その家々のお客さんと話しながら薬を入れ替える。
それを、朝から夕方暗くなるまで、雨の日も風の日も、炎天下の日も
限られた滞在日数の中で頑張っていました。
その自転車を黙々とこぐばあちゃんの後ろ姿は、思い出すだけでジーンと来ます。
(たぶん家族だから)
お客さんもばあちゃんと同じくらいの年齢の人だったら『よく来られたね~』って優しくしてくれるけど、若い人や愛想の悪い人は『また薬のお金払わなきゃ』みたいな面倒な顔をされたりする。
そんな嫌な思いをしても笑顔で『ありがとうございます』と言って1軒1軒深々と頭を下げて廻る姿を何度も目の当たりにした。
こんな姿を見たのは、きっと長男のおじちゃんと私くらいだ。
そして仕事一筋だったばあちゃんは、何十年も四国に行きながら観光したこともなく、途中下車することもなく、私が一緒に行った時初めて四国のうどんを食べ、帰りに京都に寄り道した。
そんな苦労をばあちゃんは富山に帰ってきても一言も言わなかったので、売薬の仕事がこんなに辛い仕事だとは思っていなかったのですが
一緒に四国に滞在してこの姿を見てから私は『こんな苦労して母を育ててくれたばあちゃんを大事にしなければ!』と思った。
なのに
実際は、ばあちゃんに喜んでもらえるような事を何もしてもあげられぬまま、ばあちゃんが亡くなってしまった。
それが悔しいというか、自分を責めたい。
私の部屋の片隅で、ばあちゃんと廻った最後の売薬さんをするの日、掛場帳を売ることに決めて整理する様子などを撮影したDVカセットが『おーい』と私を呼んでいる。
『番組にならなくても、編集したら家族の宝になるよな』って思いラッシュまでは書いたけど
その作業をしてストップ。
当時の私は仕事が辛くて、『このばあちゃんの姿を残すために私はこの仕事してるんだ!』って信じさせてがんばっていたのですが、ばあちゃんの大事な事は番組になることもないまま、私は会社を辞め、それから早いもので5年ほど経っています。
はぁ~
誰か編集作業してくんないかなぁ~。
(その作業が一番面倒くさい)
わたしも仕事辞めた組だけど…。
おばあちゃんの働く姿を四国で見てきた者として私もじりりん家族にそれを伝える手伝いしたいです。
悲しくてならないよ…
じりりんは後悔なんかせんでいいよ。
いつもばあちゃんを思っていたし、ばあちゃんにもちゃんと伝わってたと思う。
頑張って走り続けてきたばあちゃんにお疲れさまでしたって伝えてください。
ばあちゃん、じりりんが四国に来たときすごい嬉しそうだったのは今でも昨日のことのように覚えてます。テレビの取材はどうでもよくて、ばあちゃんにとってはじりりんが一緒に薬売りしてる感じもあったんじゃないかな。
本当に「おつかれさま」という言葉しか浮かばなかったな・・・
おばあさんのご冥福を心からお祈りします。
ところで富山の売薬って聞いたことあるけど、こういう話は初めてで興味深いです。
じりりんちゃんはTV局で働いていたんだ!
番組にならなくて残念だったね。私も見たかったわ!
なんだか暗い日記アップしちゃってすみませんでした
いやぁ~
みゆさんと一緒に行った四国。
ばあちゃんと3人で食べたうどん。
ばあちゃんと自転車で走った四国の道。
懐かしいです
みゆさんが『売薬さん』を取り上げる事になって、いっぱいいる売薬さんの中でも、超面倒なくらい遠く離れた四国でそれも自転車で仕事してるばあちゃんを取材してくれて、
上司もそんな遠くまでの出張費を出してくれて、
感謝の気持ちでいっぱいです。
(これが愛だったんですね)
いやぁ~
みゆさんが作ってくれたあの放送を見て、私の家族はばあちゃんの永年やってきた四国で仕事をしている姿を初めて見て、大変な仕事してたんだなって知ることができました。
今さらながらみゆさん、上司、励ましてくれた同僚のみんな、ありがとうございました。
ばあちゃんも自分が取材されるような事してるって思ってもいなかったから自分の仕事が誇りに思えて嬉しかったと思います。
みゆさんのお陰で、番組になって
富山県域だけの放送だけど自分が映ってるってだけで喜んでるばあちゃんを近くで見て
テレビの番組を作る側が思ってる以上に、一般人にはテレビに映るってことは貴重なことで誇りに思うことなので、作ってる人もそれ以上に自分の番組・協力してくれた人に愛情を持って作ってもらったら、良い番組がたくさん出来ると思う今日この頃。
(途中断念人間の分際で偉そうにすみません)
ばあちゃんの未編集DVカセットを見るたびに
自分に編集の才能があれば…とつくづく思います。
(このまましない系)
ばあちゃんへの感謝の気持ちを忘れずに
これからも過ごしていけたらな。って思います
コメントありがとうございます!
U子さんも昨年末おばあさま亡くされたんですね。
お互い寂しくなりましたね
売薬さんって、実際家にそういう人が来る習慣がないと意味不明ですよね~
最近はコンビニでも薬売ってる時代だし、なかなか大変な商売みたいです
私の家とかは、親戚にも売薬さんしてる人が多かったのもあって、家で使う薬はほとんどが売薬さんの薬だったりします。
私の前の職業
と言っても、私は途中で脱落した人間なので偉そうに自信もって言えないんですけど、そんな感じの仕事でした。
(私がやってたのは富山でしか放送されない番組なんですけど)
なので、テレビを見ててもついつい、ロケどうやってやってんのかなぁ?とか、どうやって撮影してんのかなぁ?とか、大変なんだろうなぁ~とか、好きなアイドルと仕事したら嫌いになっちゃうのかなぁ~?とかって屈折した角度から見てしまったりします。
きっと、ばあちゃんの仕事を見て感動するのは家族だけで
実際、どんな仕事も、家族にとってはドキュメンタリーみたいに素晴らしく感じるのかもですね
涙がでてきちゃった。
思い出してあげることが一番だって!誰かが言ってた。
私の母方のばーちゃん四国です。
しんみりしちゃってスミマセン
そうですよね!
ばあちゃんの事を思い出すことが一番ですね!!!
ばあちゃん、結構ズッコケ話も多いので
思い出すと切りがなさそうなくらいありそうです!
ちょくちょく想い出話を親としたいと思います
ありがとうございますっ!
miyuさんのおばあちゃん四国にお住まいだったんですね~
四国って、雪国富山と違って、住んでる方々もゆったりしているイメージがあります
文旦が大好物です。
ちなみにばあちゃんは
四国の愛媛県、伊予三島とか、宇摩郡とかその周辺に行ってました~
私も結局3回四国に行ったのですが
思い出すと青春(?!)って感じで
懐かしいです~
高知なんです。
今は義弟が愛媛に住んでます。
四国は縁があるのかしら?
何回行ったか全く把握してないです(笑)
母が高知で祖母が京都、祖父が新潟・・・
なので実家では標準語以外が毎日飛び交ってました。
ずっと普通に使っていた言葉が通じなかった時にびっくりしたものです(笑)
miyuさんのご親族、みなさん全国各地にいらっしゃるんですね
!
全国の方言や風習、食べ物などに詳しくなれて楽しそうでいいんですね~!
編集したい!っちゅうか番組にしたい!
どうやったらいいか、わからんけど、なんか形にしたいよ。