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中鉄雑記帳

中国と鉄道(実物・模型)に関するあれこれ。

困ったもんだ

2008-10-06 23:55:18 | 鉄道関連
今朝は京王線の人身事故のせいで
混雑レベルが悲惨なことに。
かつて殺人的ラッシュなどと言われた頃には
乗車率300%を越えていた時代もあったようですが、
最近は200%以内には収まっているとかで、
国土交通省も混雑緩和なんてこと考えてもいないようですが、
京王線や田園都市線など、乗車も困難になるくらいの
混雑振りは放置なんですか?

京王線新宿駅は一日の乗降客70万人で、JRを除く私鉄では
日本一だそうですが、その割りには線路容量が貧弱すぎ。
各駅停車しか停まらない駅では、通勤時間に10分に1本しか
電車が来ない状態です。

京王線の新宿~調布間、田園都市線の渋谷~二子玉川間など
いますぐに複々線化の必要があると思います。

地元選出の代議士と土木工事業者、一部の役人しかおいしい思いを
しない道路などつくるより、都市のインフラ整備の方が、
よほど緊急案件だと思います。

待遇改善?

2008-09-17 23:56:28 | 鉄道関連
今日は中央線の信号機故障?にまきこまれ、散々でした。
しかし、JRになってから、安全第一を錦の御旗にして、
ちょっとトラブルがあるとすぐに電車を止めてしまう。
肝心なところは人員削減や下請け化で、自社で対応しき
れないのもあるでしょうが、乗客指向という意識は、国鉄
時代より希薄になっている気がします。

そんななか、今日は珍しく貨物列車が。
EF65が牽引する貨物が国立駅まで来たのですが、武蔵野線
側の信号が青にならないので、ちょうど機関車が目の前で
停まりました。
ふと運転台を見ると助士席側になにやら大きな箱とそこから
延びる中途半端な長さの蛇腹が。
何だろうと思ってたら、機関車が動き出し反対側の運転台を
覗いたところ一目瞭然。
機関助士席に置かれていたのは、何とスポットクーラーでした。

まぁ、確かに最初から冷房装備の機関車というのは聞かないですが、
経営難のJR貨物でも、一応機関士の職場環境には考慮してる
ってことですね。


Suica6年

2007-11-18 21:48:39 | 鉄道関連
2001年11月18日にSuicaが導入されてから早6年。
10年までも経っていないのに、
もう当たり前の存在になってしまいました。

導入から数ヶ月後に九州から上京してきた友人が、
周囲の人間が改札口に手をかざすだけで通過しているのを見て、
「今の何?皆何やってるの?」
と、驚いていたことを思い出します。

今では全国で同様の非接触式ICカードが
何種類か通用していますが、
何で後発のカードはわざわざ名称を変えるのでしょうかね?

いちいち定期券入れから定期を出して、
挿入口に自分で入れなければならないという
自動改札機の不便さを解消したSuicaですが、
先日20代の人間から、
「自動改札のなかった時代って定期券ってどうやってチェックしてたんですか?」
という質問を受けました。
駅員が目で見てチェックしていたと言っても、
「そんなこと本当に出来るんですか?」と
信用して貰えません。

都会の駅では、出札にしても改札にしても、
駅員さんは、皆神業のような技術で
お客さんを捌いていたものです。
ある意味アレは一種の伝統芸能のようなもの。
重要無形文化財として、出改札の技能を持っている人間を
国家予算で保護して貰えないものでしょうか?

惜別

2007-10-11 00:00:18 | 鉄道関連
JR東日本山田線などで走っているキハ58やキハ52などが、
11月一杯で廃車になるそうです。
キハ58は急行用気動車として、
それこそ日本全国津々浦々を走り回った栄光の車輌ですが、
キハ52はローカル線用キハ20系列のエンジン2台型ということで、
専ら山岳専用に使われていました。

何年か前に、クラブの旅行でこのキハ52に乗りに行ったのですが、
その時はシーズンオフということもあってガラガラ。
しかし、廃車となれば今月一杯は多くの人出が
あるかも知れません。

東京に近いところでキハ52が走っているところといえば、
大糸線の南小谷ー糸魚川間のJR西日本区間があります。
こちらは大糸線全通50周年のヘッドマークをつけて走るなど、
まだまだ元気なところを見せていますが、
糸魚川駅のレンガ車庫ともども、
いきなりなくなってしまう懼れも大いにあります。

イベント専用でもかまわないので、
末永く動態で保存してもらいたいものです。

ちょっと気になる話

2007-08-20 10:48:56 | 鉄道関連
日刊スポーツの社会記事によると、
昨日19日の運行で、「SLばんえつ物語号」が異音のため
途中駅で運転を取りやめたとか。

記事では車輪ボルト部分の不具合とか、わけのわからないことが
書いてありますが、車軸あるいは軸受けメタルの損傷だと、
機関車の今後にもかかわる大きな問題です。

C57180号機は今年全般検査が終ったばかり。
大事でないことを祈ります。

週刊C62

2007-08-09 07:54:29 | 鉄道関連
ここ数年週刊事典が多く発行される中、
ここのところ、組立物が多くなってきています。
戦艦大和やらドールハウスやら、毎号に付属する小パーツを
組み立てていくと、2年がかりくらいで完成するという物。
最近ではNゲージのレイアウトが発売されました。

そんな中、この手の週刊事典の草分けでもあるディアゴスティーニから、
C62を組み立てる週刊誌が発売になるそうです。
週刊 蒸気機関車C62を作るというもので、8月28日創刊。
完成すると1/45のC62ブラスモデルが完成するそうです。

下回りも1/45で出来ているので、OJゲージに相当するでしょう。
モーターライズではないので、レイアウトの上は走れないそうですが、
その分煙室や火室内部のディティールに拘っているとか。

1冊1890円(創刊号のみ990円)で約100号ということですから、
全部で20万円弱。
毎号、蒸気機関車の在りし日の姿や、機構の詳細などが連載されるので、
資料的価値はありますが、それでも高いと思おうか安いと思うかは
人それぞれでしょう。


名ばかりの特急は道を・・・・

2007-06-15 09:29:35 | 鉄道関連
1912年6月15日、それまであった「最急行」の運転区間を延長し、
新橋駅~下関駅間に「特別急行」が設定されました。
「急行の中の急行」「特別な急行」ということで、
1・2等のみ、文字通り日本で1往復しか設定されない特別な列車でした。
その後3等のみの列車も設定されましたが、こちらも1往復のみ。

1929年には全国公募により列車の愛称が制定され、
前述の1・2等特急は「富士」、3等特急は「櫻」と命名されました。
ちなみにこのときの公募の順位では、1位が「富士」、「櫻」は3位でした。
このとき2位だったのは「燕」。
「燕」の名称は、翌年1930年に設定された東京駅~神戸駅間に設定された
1・2・3等混結特急に使用されました。

「富士」「櫻」が東京駅~下関駅間を走り、関釜連絡線に接続。
大陸間連絡列車の色合いが強かったのに対し、
「燕」は都市間連絡の色合いが強く、
特に丹那トンネル開通後の東京駅~大阪駅8時間という記録は、
戦後の1956年に東海道本線が全線電化されるまで破られませんでした。

このように高嶺の花、憧れの的だった「特別急行」も、
1943年頃からは乱発され、需要の増大もあって、
上野駅~仙台駅間の「ひばり」、上野駅~新潟駅間の「とき」などは、
最盛期にはそれだけで1日13往復も運行される状態でした。

その後「新特急」という
「通勤電車なみの車内設備」「快速なみの停車駅」で、
「料金だけは特急料金」という種別が設定され、
「特急の」価値は更に低下。
もはや有り難味も何もなく、ただ特別料金を取られるだけ、
かつダイヤ設定上それに乗らないと用が足りない
迷惑極まりない存在になってしまいました。



紫雲丸

2007-05-11 09:01:00 | 鉄道関連
1955年5月11日、濃霧の瀬戸内海で宇高連絡線同士が衝突。
紫雲丸が沈没し、乗員乗客168名の犠牲者を出すという事故が発生しました。
この中には修学旅行中の小学生が多く含まれ、いっそう事故を痛ましいものとしました。

事故は、宇野を出港した下り153便第三宇高丸(車輌渡船)が
濃霧の中、突如100メートル先に左へ転舵中の紫雲丸を発見。
あわてて取り舵(左への転舵)を取ったものの間に合わず、
紫雲丸の右舷船尾付近に衝突。
第三宇高丸は紫雲丸が沈没するのを防ぐため、
衝突個所が支えとなるよう前進を続けるも、
紫雲丸はあえなく事故から数分で沈没。
このとき、衝突個所と反対の右舷から脱出したり、
第三宇高丸の適切な操船で、
紫雲丸から第三宇高丸に飛び移り助かった人も
いたのですが、結局自力で脱出できるだけの体力の無い小学生が
多く犠牲になってしまいました。

事故の原因は双方の船長の過失ということになっていますが、
紫雲丸の船長が船と運命を共にしたため、
何故衝突直前に、海上衝突予防法に逆らって左に転舵したのかは、
謎のままになってしまいました。

実はこの紫雲丸、就航以来4度も事故を起しているいわく付きの船でした。
1度目は就航から3年とたたない1950年。
宇高連絡線の僚船である鷲羽丸に衝突され沈没。
乗組員7名が犠牲になりました。

引き上げられ再就役したものの、1951年には高松港内で他船と衝突。
1952年には4月に高松港外で捨石に触礁。
9月にはまたもや高松港内で他船と接触という体たらく。

前述の第三宇高丸との衝突は、なんと5回目の事故となります。

もともと、高松市の紫雲山から取られた「紫雲丸」の名前自体、
仏教で死ぬ時に仏が迎えにくる紫雲につながることから、
死運丸とも呼ばれ、縁起の悪い船という見方をされていました。

しかし国鉄は、この事故後も再度紫雲丸を浮揚、再就役させましたが、
さすがに「死運」はまずいだろうと言うことで、
船名を「瀬戸丸」に改称。
不思議なことに、その後は1966年の廃船まで無事故だったので、
やはり船名が悪かったと言うことでしょうか。

池袋信号所設置

2007-05-10 09:33:53 | 鉄道関連
1902年5月10日、日本鉄道品川ー赤羽間に池袋信号所が設置されました。
この区間の開業に遅れること7年目のことでした。

今でこそ新宿駅についで日本で2位の乗降客数を誇る池袋駅ですが、
信号所設置当時は、周辺に何もなく駅を作っても意味が無いので
信号所扱いとなっていたようです。

そんな池袋信号所が大きく変わることになったのは、
田端駅までを結ぶ路線が作られることになってから。
当初は目白駅からの分岐が計画されたものの、
切通しで東側がすぐ高台になっている目白駅では技術上線路設置が難しいことから、
隣りの池袋信号所を旅客駅に変更して、田端駅までの新線を建設することになりました。

また、当初の計画通り目白駅から分岐していた場合、
大塚駅は現在の丸の内線新大塚駅付近(小石川区大塚)に設置される予定だったのですが、
池袋分岐により現在地に変更。
当時は巣鴨村だった場所に駅を作ったにもかかわらず
大塚駅の名称をそのまま使用したため、本来の大塚地域と離れたところに
大塚駅が出来てしまい、混乱を招く結果となりました。

さて、池袋駅。某カメラ店のCMソングににも、
「不思議な不思議な池袋、東が西武で西東武」と歌われる通り、
馴染みのない人には混乱するような駅構造になっています。
以前は駅構内の案内標識が非常に不親切で、
「xxx線方面」と書かれた案内標識通りに進むと、
必ず西武デパートの地下食品売り場に誘導されるという
とんでもないものでした。

その後、多少は改善されたようですが、
未だにわざわざ遠回りさせるような不親切な案内表示が残っています。
その他、分りづらい構内配置、秩序の無い人の流れ、
利用客のマナーの悪さなど、
池袋駅を頻繁に利用しない乗客にとっては、
できれば利用したくないという印象を与えています。

今では西口は若者の街、東口は腐女子の街として変貌した池袋。
池袋駅が新宿駅を抜いて日本一の乗降客数になる日も近いのかもしれません。

自動券売機

2007-04-25 08:49:25 | 鉄道関連
1926年4月25日、東京駅と上野駅で自動券売機の使用が開始されました。

これは、入場券のみの券売機で、硬貨を入れ取っ手を押し下げると
入場券が1枚出てくるという、単純な仕組みのものでした。
通説では、これを以って自動券売機の嚆矢とされていますが、
さらに20年近く前に別の駅で導入されていたという資料もあり、
どこの駅のものが日本初なのかははっきりしていません。

本格的に広まったのは、1950年代以降と言われていますが、
1970年頃までは、全く設置されていない駅もあり、
まだまだ有人出札窓口での販売が残っていました。

1980年頃までの券売機はインクで印刷する方式で、
券面が薄くて見えなかったり、濃すぎてインクで手を汚した
経験のある方も多いと思います。

その後は、感熱式に移行すると共に、裏面の磁気印字も同時に行なえるようになり、
自動改札対応が当たり前になりました。
また、近距離の乗車券だけでなく、指定券や企画乗車券なども
自動券売機化され、有人出札口はどんどん減っています。

かつては、旅客の行き先と人数を聞いて、切符棚から必要な切符を抜き取り、
刻印機で日付けを印字し、総額を計算し切符とおつりを渡すという作業を、
ほんの数秒からせいぜい30秒程度で処理するとう、神業のような作業が
各駅で当たり前に行なわれていましたが、
今ではタッチパネル式の多機能券売機の前で、
旅客が神業のような機械操作能力を要求されるようになってしまいました。