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ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド

2012年08月24日 13時41分39秒 | 人物

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ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド

Jakob Mayer Rothschild , 1792年5月15日 - 1868年11月15日
銀行家であり有名な ロスチャイルド家の一員であった。
ドイツ語読みではヤーコプ・マイアー・ロートシルト。
のちにジェイムズ・ド・ロチルド(James de Rothschild)を名乗った。

 


 プロフィール

 ジェイムズは、マイヤー・アムシェル・ロートシルト (1744-1812) の5番目の末っ子として誕生した。 マイヤーは、彼の息子5人の各人を家族銀行帝国の分家を設立するために目立ったヨーロッパの商業都市に送った。 ジェイムズはこれにより1811年にパリに移住し、1817年にフランス・ロスチャイルド商会を開業した。ナポレオン戦争の敗戦国フランスがイギリス同盟に支払う賠償金の総額は七億フランにも達し、この莫大な支払いを公債として引き受けたのがフランス・ロスチャイルド商会なのだった。

1815年当時、5つの ロスチャイルド 商会の資産総額は333万フランだったけれども、3年後には4200万フランとなり、10年後には11840万フランにも膨れあがったという。この額は自己資本だけの控えめな計算で、実際は1億6500万フランを超えていた。このうちパリ・ロスチャイルド商会の推定資産は3700万フラン。パリ第2位のラフィット銀行が700万フラン、ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行でさえ6000万フランの時代。ロスチャイルド商会の総資産1億6500万フランが いかに巨額だったかが分かる。

シャルル10世 1757~1836

シャルル10世 とルイ・フィリップ 、二人のフランス王の助言者として、ジェイムズはフランスの最も強力な銀行家になり、ナポレオン戦争の後、鉄道の建設や天然資源の採掘事業に融資してフランスを工業大国にする原動力となった。アルジェリアの鉄鉱石に目をつけたジェイムズは、息子のエドモンドの家庭教師をしていたアルバート・コーエンを北アフリカとその周辺域に派遣、資源を物色させた。コーエンは帰宅すると、ジェイムズの息子エドモンドにパレスチナの旅がどれほど素晴らしいものであったか熱く語って聞かせるのだった。その子供時代に聞いた話が後にエドモンドによるイスラエル建国への資金提供というところまで発展していく。

コーエンのアルジェリア資源の報告と巨額の資産は、ジェイムズを動かし1830年の アルジェリア侵略 へと結実していくのだった。

その途上において、ジェイムズは茶の輸入とブドウ園の購買などの投資においても保有する財産を着実に増やしていった。

1822年に彼の4人の兄弟と共に"男爵"の称号をオーストリア皇帝のフランツ1世(元神聖ローマ皇帝フランツ2世)によって与えられた。同年彼はオーストリア帝国の総領事に任命され、1823年にレジオンドヌール勲章を与えられた。

ジェイムズはフランスの八大鉄道で12の重役ポストを占めて鉄道王となった。1868年に死去した時の遺産は六億フラン以上。六億フランというのは、フランス国内の他の全ての金融業者の総資産推定額である1億5000万フランの四倍という値である。

ペール・ラシェーズ墓地に葬られている。

 


家系
1824年7月11日にドイツのフランクフルト・アム・マインにおいて、彼はザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトの娘であるベティ・ソロモン・フォン・ロスチャイルド(1805-1886)と結婚し、以下の子どもをもうけた。

シャーロット(1825-1899)-ナサニエル・ロスチャイルドと結婚した
マイヤー・アルフォンス・ロスチャイルド(1827-1905)
ギュスターヴ・サミュエル・ロスチャイルド(1829-1911)
ソロモン・ジェームズ・ロスチャイルド(1835-1864)
エドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド(1845-1934)

 


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