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ハンガリー動乱

2010年09月23日 17時00分00秒 | 言葉の説明

ことばの説明

 

ハンガリー動乱【言葉の説明】 ハンガリー動乱 ハンガリー

 

 

スターリン主義と戦う民族自由主義

 


ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん)とは
1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と
支配に対する民衆による全国規模の蜂起をさす。
ハンガリー事件、ハンガリー革命とも言われる。

 

蜂起は直ちにソビエト軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、
25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。
ハンガリーでは、この事件について公に議論することは、その後30年間禁止されたが、
1980 年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。
1989 年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際には、
1023日は祝日に制定された。
現在、ハンガリーではこの事件のことを 1956年革命 ("1956-os forradalom") と呼称している。
(wikipedia)

 

 

 

概要 [編集]

1956年10月23日、ハンガリーの人々は政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。ソビエト軍は1956年10月23日と停戦をはさんだ1956年11月1日の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。

 


蜂起に至る経緯 [編集]

第二次世界大戦中、ハンガリーは独日伊の枢軸国側の同盟国であり、1941 年のユーゴスラビア侵攻やソ連に対するバルバロッサ作戦に参加した。1944年にソ連の軍隊が国境に迫る中、一時はハンガリーは同盟国側と停戦合意を成立させた。しかし10月のパンツァーファウスト作戦によりドイツに占領され、親独派の矢十字党がハンガリーの支配者となった。一方でハンガリー軍の一部と独立小農業者党、ハンガリー共産党などはソ連占領地域に逃れ、ハンガリー臨時国民政府(hu:Ideiglenes Nemzeti Kormány)を樹立した。1945年にはドイツ•ハンガリー軍は赤軍に敗北し、ハンガリーはソ連の占領下に置かれた。

大戦直後に行われた国民選挙では独立小農業者党が大勝、ハンガリー共和国が成立しティルディ・ゾルターンが大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とする共産党がクーデターをおこし、ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った。1949年に経済相互援助会議が結成され、ソ連はハンガリーに恒久的に軍隊を配置する権利を獲得し、ハンガリーは共産圏の衛星国となった(ハンガリー人民共和国)。彼の下でハンガリー国家保安局は7000人以上の政治犯罪者を取り締まり、見せ物裁判(Koncepciós per)にかけた。

戦前のハンガリーの経済は過度にドイツへ依存していたため、ドイツ敗北後の1946年には通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこり、国が疲弊した。さらに1947年のパリ条約によってソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務と、赤軍の駐屯費を負わされた。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当した。さらにその後の経済政策の失敗から生活水準は低下し、1949年の労働者の平均収入は、戦前の1938年の9割程度まで回復していたところが、3年後の1952年には7割まで急速に落ち込んだ。労働者の不満は、工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。

1953年にヨシフ・スターリンが死去すると、共産圏全土で非スターリン化がおこった。ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭。そこへソヴィエト共産党内部で行われたニキータ・フルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。1953年6月、ラーコシはモスクワの圧力でナジ・イムレに首相の座を譲らされた。ナジはラーコシ時代の経済政策を改めようとしたが、なお書記長に留まっていたラーコシ派の巻き返しによって1955年4月に失脚した。

1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシが党書記長の辞任に追い込まれるのを契機に、ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、党幹部会のアナスタス・ミコヤンとミハイル・スースロフの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく、蜂起が勃発する事態に至った。

ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定する。ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した。[2]

 

経緯 [編集] 10月23日から11月3日 [編集]
1956年10月23日の一斉蜂起1956年10月23日、ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相ナジ・イムレを復職させる決定をした。

翌24日、ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆とソビエト軍の戦闘状態にあった。他の地域はソビエト軍と革命派との間の停戦が行われたりソビエト軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後ブダペストのソビエト軍も結局は戦闘を停止した。

夜のうちに労働者評議会[3]と国民評議会[4]が組織された。また1945年や1949年の弾圧以来、初めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した[5]。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、このことは再びソビエト連邦の介入を招くこととなった。

10月25日、ナジは戒厳令を取り下げる。街の人々の中には、ソビエト軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人が集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については秘密警察の発砲が原因であるとの見解もある。

最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストが起きブダペストでナジ首相と直談判をおこなっている。

10月27日夜には、ミコヤンの報告によると、彼とナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された。

10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成。翌10月30日にはミコヤンが、ハンガリー軍に統制を任せるべきと報告している。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された。しかし同日午前9時頃共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった。この事件を聞いたミコヤンは10月31日に反ソビエト活動の活発化を報告している。

フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国連や西側諸国からの具体的支援はなかった。

 11月4日以降 [編集]11月4日に新たなソビエト軍部隊(戦車2500両・15万人の歩兵部隊)が侵攻した[6]。11月10日に労働者評議会や学生・知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソビエト軍との戦闘で重要な役割を演じた。11月10日から12月19日の間、労働者評議会はソビエトの占領軍と直接交渉し、結果として何人かの政治犯の釈放はできたが、ソビエト軍を撤退させることはできなかった。加えて、ソビエト連邦に支援されたカーダール・ヤーノシュが新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。

一方でナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行されて2年後に処刑されたほか、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1200人が処刑。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政府によってほとんどが釈放された。この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側では死者が17000人に上り、20万人が難民となって亡命した[7]。ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。

 

 革命の性質についての議論 [編集]ハンガリー事件についての歴史的・政治的意味については、当時の体制の位置づけや民衆による蜂起の意義に関して、今もなお様々な見解がある。以下に、革命の性質についての主要な見方を列挙する。

 社会主義に対して肯定的な見解からのもの [編集]ソビエト連邦や中華人民共和国を含む社会主義陣営の共産党に一般的な見解としては、かつてのホルティ・ミクローシュ政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試みだという見解が公認されている[8]。
新左翼の一部やアナーキストの立場からは、ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方もある。
トロツキストは、この事件をレフ・トロツキーが唱えた「プロレタリア政治革命」であるとみなし、スターリン主義の崩壊が始まった、と認識した。
社会民主主義的な立場や共産主義でも自主管理的な志向を持ったり、民主主義政体を維持すべきであるとする立場(=ユーロコミュニズム)からは、ユーゴスラビアの自主管理社会主義や社会民主主義国家であるスウェーデンのような体制に改革しようとした社会主義者による民主的な革命であったという見解がある[9]。
 社会主義に対して批判的な見解からのもの [編集]反共・保守・自由主義の立場からは、資本主義経済を目指そうとした民族主義者による民主的な革命と見ている[10]。
当時の独裁体制を打破し、自由主義、民主主義の体制を確立するための革命とするものである。
このような事件の評価との兼ね合いで呼称に関する論争があるが、日本においては呼称について「動乱」「事件」「革命」のいずれかとするかは現段階において定まっていない。[11]

 日本における影響と評価 [編集]ハンガリー事件は日本でも左派、右派問わず反響を呼んだ[12]。

保守・右翼・反共の立場からは佐々淳行はハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないとも発言している[13]。

 日本ハンガリー救援会 [編集]西尾末廣、芦田均らが反共、民社の立場から、ハンガリー事件におけるソ連の行動について、スターリニズムのソ連と今のソ連が異なるというのが事実ではないと批判し、ハンガリー難民の救済を名目に、日本ハンガリー救援会を組織した。

しかし、この活動は、ハンガリーの民主主義や政治難民を救うことよりも反共主義的な立場が強調されていること、またハンガリー難民救済もソ連を刺激しないという政治的理由から次第に沈静化したことなどもあって、進歩・左翼の立場の人たちの大半は冷たい態度を取った[9]。


大内兵衛は、ハンガリー事件でのソ連介入止む無しと発言した[14]。背景にあったのはソ連への畏敬の念と同時に保守・右翼の反共への反発というのが混ざった形で表れており、中野重治もハンガリー救援会に対する皮肉めいた文章を残している。

これは社会主義者だけに限らず、進歩的知識人と呼ばれた人にも見られ、野上弥生子のハンガリー救援会に対する冷たい態度や[15]にもあり、上原専禄もハンガリー国民を神経質として批判する旨の発言を述べている[16]。

これら進歩・左翼の知識人に見られるハンガリーへの冷淡さは社会主義に対するシンパシーであると同時にハンガリー自体に対する差別意識もあったとされる。大内はハンガリーを百姓国と表現[17]するなど蔑視をしている。

山川均も当初はハンガリー事件に対して同情的なスタンスであったものの[18]、のちに(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)と発言し[19]、社会主義の進歩性にそぐわない国であるハンガリーは遅れた国という見方をした。

 左派政党による「反革命」評価 [編集]日本社会党や日本共産党はハンガリー事件について反革命であるとのスタンスを取った。

日本社会党右派はソ連の社会主義が問題を抱えたものであることの露呈であるとし、左派は反革命とみなした。最終的にはハンガリーの自由化運動についてソ連の武力干渉を許さないとした一方、反動勢力に利用された面があるという妥協的な文章に終わった。

日本共産党はハンガリー事件について当初は沈黙、ソ連の武力介入を機に反革命とした。ただし、その後日本共産党は、1987年に『日本共産党の六十五年』を刊行した際に、この事件はソ連による武力干渉であり、容認できないものだったが、当時はそこまでの認識をもっていなかったと、反省した。

 新左翼による評価 [編集]その一方、新左翼[20]は、日本社会党や日本共産党による評価に失望し、黒田寛一や大池文雄はハンガリー事件におけるソ連の軍事介入を批判。同時に日本共産党における宮本顕治主導の共産党体制をスターリニズムに基いていると批判した。

黒田らは、ハンガリーの人民民主主義と称されるものは人民の基盤に基いていないソ連の都合に合わせた体制であるとして、ソ連の軍事介入を非難。ハンガリー事件を革命と評した。(なお、ソ連占領後のハンガリー政府の指導者は親ナチス派のダールノキ・ミクローシュ・ベーラであり、ハンガリーの治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュの下で民衆を弾圧していたメンバーがそのまま残存していた。)

 再評価 [編集]ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、1989年に至り動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。反革命と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入(11月)中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、ナジ政権は、その努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。

1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、党表明が載せられた。
式典は再埋葬を歴史的、象徴的出来事と捉えている。 
ナジと裁判で有罪となった政治家の正当な評価。
ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。
ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。
事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解のシンボルとならなければならない。
ハンガリーはこの年をもって社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、冷戦の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみならず、西欧資本主義社会とも和解を演出した(鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調)。1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨ててハンガリー共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰するのである。この10月23日は1956年、ハンガリー動乱が発生したその日である。


 参考文献 [編集]小島亮 『ハンガリー事件と日本-1956年・思想史的考察』 
現代思潮新社、2003年 ISBN 978-4329004291/旧版中公新書、1987年
 外部リンク [編集]「ハンガリー1956」50周年シンポ・ニュースNo.1(2006年6月14日) (PDF)
 脚注 [編集]^ 事件の名称については発言者の事件への評価によっても変化する。小島亮 『ハンガリー事件と日本-1956年・思想史的考察』 現代思潮新社、2003年 ISBN 978-4329004291/旧版中公新書、1987年参照
^ 草思社「フルシチョフ 封印されていた証言」
^ 1905年のロシアや1917年のロシア革命で結成されたソビエトと酷似し、1919年にクン・ベーラが率いた革命政権でも主導的な役割を果たした
^ 国民評議会は労働者評議会と似ていたが、地理的な面で統治を行った
^ 殆どの国民は、ソビエト軍の撤退・伝統的な民族のシンボルの使用・民主的な議会・カトリック教会の自由・法整備を要求したが、一方で社会主義体制自体については継続を望んでいた
^ の侵攻作戦に参加した兵士の多くは中央アジアから連れてこられた読み書きのできない人かロシア語の話せない人であり、 彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。 1956年に起こっていたスエズ戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた兵士すら存在した
^ ラカトシュ・イムレ、ヘッレル・アーグネシュ、リゲティ・ジェルジ、アンドルー・グローヴなど
^ この見方は歴史的信憑性があまりないのだが、この傾向は革命について書かれた多くの文書で見受けられる
^ a b ちなみに、日本の社会主義協会は、非難声明を出している。
^ この見方はアメリカで一般的で、特にTIME誌は1956年のマン・オブ・ザ・イヤーにハンガリー動乱で蜂起に参加した市民をノミネートしている
^ なお、呼称に関する論争については、シンポジウムを参照のこと。[リンク切れ]
^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』
^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』
^ 雑誌『世界』「歴史のなかで」(1957年4月号)
^ 『中央公論』1957年2月号「地球儀とハンガリア」
^ 雑誌『世界』「歴史のなかで」(1957年4月号)
^ 雑誌『世界』「歴史のなかで」(1957年4月号)
^ 『世界』1957年2月号「ハンガリア動乱をめぐって」
^ 雑誌『世界』「歴史のなかで」(1957年4月号)
^ 小島亮は「ニューレフト」と称している

 

 

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