雑記zaki

日々の雑記

自己肯定感という病

2021-02-19 01:48:00 | 日記
そういえば玄侑宗久というお坊さんの方が書いた本、なぜか途中で読むのを中断していたことを思い出した。
まわりみち極楽論という本。

この人のないがままで生きるとい本も気になっていた。

あるがままではなくないがままである。

努力型の自己啓発と対置されるのがあるがまま系の自己啓発だと思う。
努力が強調されればされるほど疲れてあるがまま系の本に走りがちである。
ただし、あるがままもまた役に立たない。
生まれてからあるがままの状態であったことなんて誰もないからだ。どれをあるがままの自分と呼ぶかは結局その人次第の思い込みに過ぎない。

自己肯定感という話にもつながる。昨今自己肯定感が大事だと言われるが、それもやはり無理があるのではないか。無論自分に価値はないとかそんなこと思う必要もない。だからといって自分が大好き自分が大切だと無理に思い込もうというのも違う。
別に思い込んでそれで幸せなら構わんけど。
でもどっいにしろ思い込みに過ぎないからどっちに振り切っても無駄で。
自己になんか肯定させてないで、他人に肯定されるような生き方をした方がよっぽどいい。
自己肯定感なんていうものは他人に受容されればされるほど上がるのだから、他人抜きで自己肯定感だけを求めてるのは病的である。

ただ仏教的なものを学んだときに思ったのがそれ自体ではあまり楽しく生きられないなぁとも思ったんです。社会的成功と仏教はやはり相反すると思う。
昨今では前にも書いたが生産性や利益のためにマインドフルネスをするという煩悩丸出し仏教も流行っているが。そういう偽物を除くと理論と合わせた上で、社会的な成功に繋がるように教えを活用できるものは無いと思う。
やはり現世利益の部分を考えるには密教も必要なってくると思う。どこまでそれを受け入れるかというのはかなり難しい。
煩悩を煩悩と認識した上で煩悩を楽しむというのはかなり高度。
かといって煩悩丸出しで金!暴力!SEX!などと言って生きることもできないのが俺という人間。
それで生きられる人はそりゃ経済長者になる。金とか女とか地位に本当に価値を感じてそれのために突っ走ることが出来る人は金持ちになれる。残念ながら俺はそうは思えない。普通の人は思えないですよ。そりゃあればみんな欲しいに決まってる。でも絶対になきゃいけないものだまでは思えないと思うんですよね。
なきゃないで別にそこそこ生きていけるわけだし。それが正常なんですよ。

なのでバランスとりながら広げていくのがよく生きるのには必要なのかな。
煩悩に乗りつつそれに乗っていることを意識する。煩悩ばかり追いかけて見失うとそれが手に入らないことに辛くなる。手に入っても入らなくてもどっちも同じだという意識をもってその上で求める。
それが唯一理論と実践を成り立たせるものだ。


コメントを投稿