妄想ジャンキー。202x

あたし好きなもんは好きだし、強引に諦める術も知らない

夏目漱石『こころ』

2015-01-10 21:05:52 | 読書
 
15年前の日付で出てきたレビューというか読書感想文。中2臭がプンプン漂っているのだが、投下して成仏していただきます。





夏目漱石『こころ』


「自己の心を捕らえんと欲する人々に、人間の心を捕ら得たるこの作物を奨む」──漱石は自身の小説をこのように評し宣伝している。そんな彼の目論見はどうやら成功したようだ。

「こころ」が二元化された世界に成り立っていることは言うまでもない。そのうち一つ「先生」の生きた明治は乃木大将の自殺と共に終わっている。だが本来の主人公「私」の物語は、「私」が「遺書」を片手に夜汽車に飛び乗った時点から中に浮いてしまっている。この小説におまけやエピローグなんてものは付いていない。「私」が「先生」の「遺書」を読んでどう思ったかとか、奥さんはどうなるのかなどは一切語られていない。あえて一箇所を挙げるとすれば、上編冒頭にある「よそよそしい頭文字などはとても使う気になれない」の一節であろうか。ここでいう「よそよそしい頭文字」は「K」のことに他ならない。生前の「先生」が「私」に語っていた内容に、「K」や「お嬢さん」との過去は一切登場しない。あの一節は「遺書」を読んだ「私」の感想ということになる。

 過去を「先生」が語らないというよりも、漱石が「先生」に語らせないという方法で読者の興味を欠きたてているような気がする。漱石は「こころ」全編において、Kの自殺の原因や彼が年頃抱いていた疑問の答え、すなわち「遺書」を読んだ「私」を含む読者が抱くであろう小説の本質に迫るような質問の明白な答えを、一切器用に排除している。だからこそ何度読んでもこれといった完璧な身障理解が得られないのだ。きっとこれから先。卒業した時や結婚する時もこの物語を読むのだろうが、そのときもまたきっと違った感想を持つのだろう。

 謎を謎のまま放置する、こうした手法で私達を虜にしてきた。「K」の自殺の動機は「K」にしか判らないし、「先生」の自殺だって同じだ。一見真実を語っているかのように思えるあの「遺書」だって、所詮は「先生」の主観で描かれている。「私」は「先生」のフィルターを通して過去の話を知るしかなく、それは「先生」にとっての真実だったとしても「奥さん」や「K」のものとは大きく異なっているかもしれない。この「かもしれない」が漱石小説、特にこの「こころ」の面白い部分であり、ウィークポイントであると私は思っている。

 絶対の事実は、漱石がこの小説に「人間のこころ」を描いたということだ。時に冷たく暑く、激しく揺れ地に根を生やすこともある。この化け物は人間を支配・統制して、その存在をしきりに主張する。「こころ」とはそういうものだ──漱石はそう語っているように聞こえる。漱石自身は修繕寺の大患で制止の酒井を彷徨っていて、自分自身の命と精神限界といったようなものを知ったはずである。そんな彼の描いた2人の男、「先生」と「K」の心には重苦しい中にもかすかな優しさがあるように思える。


 どのような形であれ、2人はあまりにも強烈過ぎるその人柄を遺している。
「先生」の死後は一切語られていないが、上編の「私」が過去を振り返る一節からして、影響を与えていないはずがない。まして「K」のそれは格別であったろう。

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