二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

こめかみの衝撃

2021-04-28 21:21:00 | 二・二六事件



片倉衷少佐


当時、(陸相官邸)玄関正面には軽機関銃が据え付けられ、内部には軍服をまとった村中孝次、その他二、三の将校の姿も見えた。私は大臣がこれらの将校や外部からの強圧で参内上奏するのでは大事と思い、玄関先で大臣に一言せんと決意した。
たまたま左側に人の気配を感じたと思った瞬間、ガンと鉄棒で左頭部をなぐられたような衝撃を感じ、思わず右によろめくと、プンと鼻先に異臭がする。とっさに私は狙撃されたなと感じ、皮手袋をしていた左手で左頭部を押えながら「撃つ必要はない」と大喝した。斜め左前方一間半くらい、玄関石畳のところに、先刻、私に近づいた白面の大尉が、左手に抜刀して正眼に構え、私に対している。私と彼との間には短銃が落下しているのが映じた。私は引き続いて大喝し「話せばわかる、刀をおさめろ」と、どなった。彼は、いったん、刀をおさめたが、私がちょっとそのほうへ進む気配を示すと、再び抜刀した。私は「刀を抜く必要はない」としったし、もし、寄らば一撃を与えんものと身構えたが、瞬間、傷は浅い、彼迫らざる限り、抜刀すべきでないと信じ、さらに大喝し、「きさまは香田大尉だろう。兵力を動かすのは、天皇陛下のご命令によってやらなければいかぬぞ」と叫んだ。その時、真崎大将か、古荘次官かが、「お互いの間で血を流してはいかんぞ」
と言われたのを耳にした。時は午前九時ごろであった。
山崎大尉、そのほか居合わせた二、三の将校たちが、私を擁して玄関から引き離したが、私は陸相乗用車が目につき、「それに乗れ」と指示して官邸表門へ向かった。憲兵がそこにいたので一名を乗せ、山崎、谷川、生田の三大尉付き添いのもとに門外に出た。
車中でだれかが「衛戍病院か軍医学校へ」と叫ぶ声を耳にしたので、私は「市内の民間病院のほうへ行こう」といい、赤坂見附下の前田病院に収容され、すぐに尾形医師によって局部麻酔で手術を受け、ピストルのタマを摘出した。
当時、私が再度にわたり陸軍大臣に面会を求めようとしたのは「事態かくなるううえは、大臣は身命を睹するも、蹶起部隊を原隊に復帰させ、軍紀確立の措置を講じ、統帥権を確立し、一方、この機において、昭和維新遂行のため、重大な決意を成すこと」促さんとするにあった。
また、二十五日、相沢事件に関連して意見を述べんとしたのは、「国法を守り、国憲を維持するのは、究極的には統帥権の確立である。原因、動機は諒としても、軍紀破壊のことがあったら、その責任は許されない。相沢事件の審理でも、この点を明らかにしないと、採決へ禍根を残すであろう。
今日の事態は好むと好まざるとにかかわらず、軍、ことに陸軍が中核となって国家の現状を打開すべき使命を持っており、一党一派に偏せず、積極的に邁進することが大切だ。情勢に屈して名分を明らかにしないときは、ますます純真な将校をして、混迷に陥らしめ、粛軍も統制も期しえないだろう」ということであった。
なお、二月二十八日夜、田中軍吉大尉(※)は、私を病床に見舞って、狙撃者は磯部浅一であることを知らせてくれた。
私は前田病院で初療を受けたが、反軍攻撃の議が決定されると、危険防止から二十九日午前四時、第一衛戍病院へ、ついで同日午後四時、軍医学校へと病状を移された。
(編集部註・前田病院では、一階に片倉少佐、二階には反乱軍の安田少尉がいて、衛戍病院に移送するときは、危うく同車するところだった。さらに衛戍病院では、隣室に自決をはかって果たさなかった安藤大尉が入室し、軍医学校では真崎大将が盲腸で入院、どこでも見舞い客は呉越同舟の形だった)


週刊読売 1968年2月23号

(※)田中軍吉大尉は、終戦後南京で処刑されている。

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午前九時過ぎ、田中勝が「片倉が来ています」と告げる。直ちに正門に出て見たが、どれが片倉が不明だ。約十四、五名の軍人が丹生其の他の同志と押問答をして、なかなかラチがあかないのを実見して、広間に引き返す。余は登庁の幕僚との間に、斬り合い、撃ち合いが起ると、折角真崎、川島、山下、斎藤等の将軍が好意的援助をしそうにみえるのに、流血の一事によって却って同情を失い、余等の立場が不利になりはしないかと云うことを、ヒョット考えついた為に、片倉をヤル事をチョウチョせねばならなかった。然し、門前に於ける同志と幕僚との折衝が極めて面倒になって来た事を考えたので、二たび室外に出て片倉を見定める事にした。
幕僚の一群はその時、ガヤガヤと不平を鳴らしつつ門内に入り来って、丹生の静止を聞こうとしない。此処で余は一人位殺さねば、幕僚どもの始末がつかぬと思い、片倉を確認した。その頃、広間では、陸軍省の者は偕行社、参謀本部は軍人会館に集合との命令を議案中であったので、成るべくなら早く命令を下達してもらって、血の惨劇をさけようと考えたので、又、広間に引き返した。丁度集合位置に関する命令案ができて下達しようとする所であった。その時丹生が来て、とても静止する事が出来ません、撃ちますよと云う。余が石原、山下、その他同志と共に玄関に出た時には、幕僚はドヤドヤと玄関に押しかけて不平をならしている。山下少将が命令を下し、石原が何か一言云った様だった。成るべく惨劇を演じたくないというチョウチョする気持があった時、命令が下達されたので、余はホットして軽い安心感をおぼえた。
時に突然、片倉が石原に向って、「課長殿、話があります」と云って詰問するかの如き態度を表したので、「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグズグズと文句を云うか!」と云う気になって、イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をあてて射撃した。彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった。余は刀を右手にさげて、残心の型で彼の斃れるのを待った。血が顔面にたれて、悪魔相の彼が「射たんでもわかる」と云いながら、傍らの大尉に支えられている。やがて彼は大尉に附添われて、ヤルナラ天皇陛下の命令でヤレ、と怒号しつつ去った。滴血雪を染めて点々。玄関にいた多数の軍人が、この一撃によってスッカリおじけついたのか、今までの鼻意気はどこへやら消えてかげだにない。一中佐は余に握手を求めて、「俺は菅波中佐だ。君等は其れ程に思っているのか、もうわかった、俺等もやる」と非常なる好意を示した。余は「私は粛軍の意見書を出して免官になった磯部です、貴下の令弟三郎大尉にはクントウを受けました、国家の為によろしく御尽力下さい」と懇願した。何だかハリツメた気がユルンダ様だった。栗橋主計正に会ったので、「菅野主計正によろしく伝言をしてたのみます、片倉を殺しましたと云う事を一言お伝え下されば結構です」と云ったら、主計正は「死なないだろう」と云う。余はハットした。しまったと思った。頭に銃口をつけて射った程だからきっと斃れる、三十分とはもてまい位いに考えて、致命傷だと信じ切っていた時、「死なないだろう」の一言は、冷水を背に浴びる程の思いがした。この一言をきいてイライライラして立っても居ても居れぬショウソウを感じた。
二十五日、午后西田氏と訣別するとき、「失敗しましたらコレをやって、他の人に迷惑をかけないようにする」と云って、自分の頭部を射撃する真似をした程で、頭部を撃てば一発で死ねるものだと信じ切っていたので、片倉が「射たんでもわかる」「天皇陛下の命令でヤレ」等と云って、死なないで去って行くのを目げきしながら、微塵の疑問を起さなかったのだ。恥ずかしながら自分でもわけがわからぬ、格別あわてたとも思わないのだが。


獄中手記
磯部浅一



ホトケがホトケにあやまっているんですよ

2021-04-23 16:47:00 | 二・二六事件

(昭和二十八年一月二十七日朝日新聞所載)
仏心会の人たち 立野信之

二・二六事件の関係者が折々集まっている「仏心会」といふのがある。永田軍務局長を切った相沢中佐や、民間の北一輝や西田税を含めて、銃殺刑に処せされた二十二名の遺族を中心に、事件関係者が参加している。
二・二六事件の受刑者の遺骨は、当時どこの寺院でも引取ることを拒まれた。最初義士になぞらえて高輪泉岳寺に持ち込んだが、断られ、転々としたあげく(筆者註、こうした事実はない)麻布一本松の賢崇寺に引取られた。住職藤田俊訓師の義挙である。だが、ここでも墓を建てることは許されず、遺骨は寺院の一隅に安置されたまま、空しく二十年余の歳月が流れた。昨年の初秋、講和発効を機会に、遺族らの手で合葬が行われ、ささやかな墓が造られたが、その間仏心会の人々は、毎月命日の十二日には参集してひそかに法要を営んでいた模様である。
昨年の二月二十六日、私はこの仏心会から、突然参集の案内をうけた。こんど直木賞になった『叛乱』を小説公園に書き出して間もない時で、私は事件関係者には、大蔵栄一大尉に一面識のあるほかは、まだ誰にも会っていなかった。それに反『叛乱』の書き出しの部分で皇道派青年将校の反対分子である辻政信(当時大尉)一派の行動をよく書きすぎだといって、一部から非難の声を聞いていたので、いささかたじろいだ。私は呼び出されて、材料の出どころを追及されるか、悪くいえばなぐられるかもしれない、と思ったのだだが、私はそんなことでしり込みするのも大人気ないと思ひ、出かけて行った。
私が賢崇寺におもむいた時には、すでにバラック建ての本堂で読経が行われていて、十数名の男女が熱心に経文をしようとしていた。間もなく読経は終りに近づき、住職が慰霊者の名前を読み上げたが、何気なくきいていた私は、ハッと自分の耳を疑った。殺された高橋蔵相その他の犠牲者の名前が先ず読みあげられ、それが終ってから二十二名の受刑者の名前が次々としようされたからである。
法要が終って、別室で座談会が行われたが、そこで私は大蔵元大尉の紹介で、遺族や関係者の何人かと言葉をまじえた。なごやかな集りで、私は全くの異分子であったが、別段だれからも詰問をうけず、もちろんなぐられもしなかった。相沢中佐の未亡人が素ぼくそのものの和服姿で、洋装の娘さんと二人ひざをそろえて座っていたが、娘さんは、事件のころはまだ右も左も知らない幼児であったろう。未亡人が、その姿と同じような素ぼくな東北弁で、そちこちの人たちと近況を語り合っていたのが、はなはだ印象的であった。
私は紹介された山口一太郎元大尉(終身禁固刑)に、読経の際、殺された高橋是清以下の名前を読みあげたのは、どういうわけか、とたづねてみた。
すると、山口元大尉は言下に、
「あれはね、ホトケがホトケにあやまっているんですよ」
と答へた。
仏が、仏にあやまっている。私は、そこにいかにも日本人らしい温かな気分を感じたのだった。これは明らかなことだが、二・二六事件の青年将校の行動は未熟ではあったが、個人的な、または派閥的な「怨讐」に出たものではなかったのである。ー中略ー
そのうちに山口元大尉が急にひざをたたいて、
「そうだ、殉職した首相官邸の警官たちも慰霊すべきだったなあ」
といった。
「とにかく拳銃の全弾を撃ちつくして死んだんだからね。立派なものだよ」
とにかくなごやかな集りで、私はしまいには事件関係者の二、三の者と旧知のように話すことができた。そしてそれを機会に、私はそれらの人たちからも心置きなく材料の提供を得ることができたのだった。(第二十八回直木賞受賞作家)



法要時に撮られた写真
(中央墓石の左が栗原中尉御尊父、その上が河野司氏、墓石の前にしゃがみこんでいるのが末松太平氏)



立野氏のこの寄稿のうちには、事実と相違する点もある。文中、「註」記の泉岳寺に断られ他にも話を持ち込んだ挙句の賢崇寺の件りは、まったく誤りであり、最初から賢崇寺藤田住職の「義挙」であったことは記述のとおりであり、これは立野氏の何かの誤聞によるものだろう。
又、山口元大尉との話の後の部分は、作家立野氏の筆の遊びと思う。私たちは既に事件後の法事から、二月二十六日には事件で斃れた全ての犠牲者の霊を怨親平等に弔ってきていた。重臣はもちろん警察官(五名)や叛乱軍との板ばさみにあって自決した天野少佐他二名、さらには事件に連座し、その後病死した人々の霊も併せて祀ってきていることを付記して誤りのないようにしておきたい。


ある遺族の二・二六事件
河野司
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ちなみにこの「叛乱」という小説は映画にもなっているので、興味がある方は是非ご覧頂きたい。


叛乱幇助

2021-04-21 18:25:00 | 二・二六事件


斎藤瀏は昭和五年三月、予備役仰せ附けられその後明倫会の理事になりたるものなるが、かつてわが国当時の情勢、なかんずく政界に幾多の欠落を存じ混濁するところありとして深く憂慮し、須らくその積弊を打破しもって皇道国家の精神を基調とする制度に改革するの要ありとなし、これが実現を期せんには軍の力、特に純真なる青年将校の運動によるのほかなしと確信し恰も眠懇の関係にある当時陸軍歩兵中尉栗原安秀らをして、これに当たらしめるをもって最も適当なりと思惟し、青年将校の国家革新運動に関する研究などのため同人に資本その他の援助を与え来りしが
昭和十一年二月廿日、栗原安秀よりいよいよ近々直接行動をもって決起し昭和維新を断行する旨を告げられ、その資金調達などの依頼をうくるや遂に同人ら軍人の叛乱行為を幇助せんとの意を生じ、直ちに資金を斡旋調達し、翌廿一日現金千円を栗原に供与し叛乱の資金に充当せしめ、ついで同月廿六日朝栗原より只今決起せしにつき速やかに出馬し、軍首脳部に折衝し事態収拾に努力せられたき旨の懇請をうくるや叛乱行為を支援せんと欲し、軍服着用の上急遽首相鑑定に赴き、叛乱者に対し慰問の言を発してこれを激励し、さらに陸軍大臣官邸にいたり大臣に対し青年将校の主張および終極の目的とするところを活かす如く臨機徹底的に措置せられたき旨を進言し、また同官邸において陸軍次官に対し将校らの決意を告げ、さらにかれらは維新の曙光を見るまでは断じて現位置を撤退せず、いわゆる惟神(かんながら)の政治を要望しておる旨を力説して、その善処方を要請するなど叛乱者の主張を擁護声援し、また翌廿七日首相官邸に至り叛乱将校数名と面談し、その際栗原に行動資金として現金百円を供与し、次いで同人より昭和維新の促進のため叛乱部隊をなるべくこの付近に集結せしむよう戒厳司令官に交渉方の依頼をうけ、直ちに戒厳司令部に至り司令官にこれを進言し叛乱者の目的達成を容易ならしめ、もって叛乱行為を支援しこれに利益を与えたるものなり。



昭和十二年一月十九日
大阪毎日新聞号外


※原文は句読点がほとんどなく読み辛かった為少し追加してます。



斎藤瀏予備役少将





「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」

2021-04-18 00:09:00 | 二・二六事件


田中勝中尉

七月七日、面会が許可になったとき、田中たちの生きる時期はもはや一週間もなかった。面会が出来たのは、七日から十一日まで、わずか五日しかない。妻の妊娠を非常に喜びはしたが、事件の詳細も語ろうとせず、近づく死を前に、家族に会えて嬉しい、すべてに感謝するとにこにこ笑っている夫を、都妻は遠くに感じた。「男子としてなすべきことをしたので、せいせいしています、死刑の宣告を受けて目方が一貫目増えました」と面会の家族や知己に語る夫を、身籠った妻はもどかしく見守っていた。「志士」としての体面、家族に心配させまいという配慮、そう考えて得心しようとしても、夫の心をつかみきれなかった。

その一日、夫人は思い返してもう一度、一人で面会に行った。田中はこの思いがけない訪問を「一人で来てくれてよかった」と喜色いっぱいに受けた。生きた表情の夫がようやく戻ってきたと夫人は思い、夫の顔を凝視した。向かい合ってテーブルについての面会である。田中は妻の手をとると、
「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」
と言った。この言葉が田中の口をついて出た瞬間、改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男の心情が、堰を切ったように溢れ出した。おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、独房の田中は悶々として眠れぬ夜を重ねたのであろう。立ち会いの看守はいるが、この瞬間のほかに夫婦二人だけになる機会は来ない。夫と妻は二人だけになった。田中は立派に死ななければならない男であった。未練があっても言ってはならなかった。ひたむきに見つめる妻の瞳の中で、厳しく己れを律している男の本心がやっと言葉になったのである。

二人の結婚の実生活はほぼ四十日、その一日一日が愉しく充実していたと妻にたしかめながら、
「一日を一年と思えば、四十日は四十年になる。そう思って堪忍してくれ
そう夫は言った。拘禁百三十余日、静座して目を閉じながら、田中は妻との短い蜜月をかぞえあげたのだろう。それがわずか四十日しかないことに、覚悟の上ではあってもいい知れぬ、悲哀と執着を感じたに違いない。「一日を一年と思えば」という言葉は、夢破れ、死んでも死にきれない男が、自らを得心させるためようやく辿りついた平安・慰めともめれる。

「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねぇ」そういわれて、夫人はもやもやと胸にわだかまりつかえていたものが一瞬に消える思いであったという。死にきれないほど思われている女の、悲しい充足感が、ひたひたと夫人の胸をみたした。同時に「この人を失いたくない」という烈しい思いが、胸からほとばしりでた。しかし一審即決上告なしの裁判ですでに夫の運命は定まっている。余命いくばくもない。冷厳な現実がまさに夫と都妻を永遠に引離そうとしている。握りあった手の確かなぬくもりも、明日はない。身悶えするようなせつない時間のうちに、別れの瞬間が来た。


妻たちの二・二六事件
澤地久枝

憲兵へ一喝

2021-04-12 18:28:00 | 二・二六事件


菅波三郎は陸軍士官学校在学時代、仲兄の病没に際会し懐疑思想に捉われ、自来宗教、歴史、社会科学などに関する文献を捗獵(しょうりょう)しありたるが、日本改造法案大綱を閲読におよび深くその所説に共鳴し、概してその主旨にのっとり政治経済などの諸機構を改造して、国家革新の実を挙げんことを決意し、右所見を披瀝(ひれき)して同志の獲得に努めつつありしが、昭和六年ごろから軍内外の一部に起れる急進的国家革新運動の渦中に投ずるにおよび、青年将校間に急進的革新思想を鼓吹してその横断的結束を強固にし、また民間の同志に接触して革新意識を披瀝し、いわゆる昭和維新実現の機運醸成に努めていたるが、昭和九年十一月村中、磯部が叛乱陰謀の嫌疑により検挙せらるるや同志とともにこれが対策を講じもって同十年
相澤事件発生するや同志とともに公判闘争によって素志を貫徹せんことを期し、また運動資金の調達をはかり資金数千円を村中、西田などに交付して画策運動しいたるものなるところ
昭和十一年二月廿六日任地鹿児島市において、今次事件勃発を知り叛乱者の目的達成を支援し事態を維新実現に導き、もって叛乱者の地位を有利ならしめんことを決意しいたるが、同日鹿児島憲兵分隊長が叛乱者と同志関係にある同人に対して、その身邉を監視するや大いに憤激しこれを中止せしめんとして、同分隊長に対し強硬に折衝を試みたるも右監視の要否は、憲兵の職務上の事に属し明答の限りにあらずやとして一蹴されたるを怒り、廿八日憲兵分隊付近において所属中隊の夜間演習を実施したる際憲兵分隊長を訪問の上、わが背後には一個中隊の部下現存する旨を放言して同分隊長を脅威し将来尾行を付せざることを強要しもって叛乱拡大を予防すべき憲兵の職務上の行為を制肘しさらに右夜間演習終了後中隊兵一同を憲兵分隊前の路上に集合せしめ当夜の演習に対する講評の後、部下並びに一般市民に対し叛乱者の行動を是認せしむべき意図をもって暗にこれを正当視すべきゆえんを訓話し「もし余の命ずるところに誤りあればまづ余を殺せ、もし間違いなしと確信するものは従い来れ、余は何時にでも先頭に立つべし」と追加し翌廿九日午前十時頃同市熊本歩兵第十三連隊付歩兵中尉志岐孝人の旨を承けて来麑せる常人某の来訪をうけ今次事件に対応すべき行動上の指示を乞わるるや「各自の信念において独断決行すべきのみ、速やかに帰熊の上断乎たる決心をもって事にあたれ」と激励し旅費として金四十五円を同人に供与しもって叛乱軍を利するため軍事上の利益を害したるものなり。


昭和十二年一月十九日
大阪毎日新聞号外


※原文は句読点がほとんどなく読み辛かった為追加してます。
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以上が事件後の菅波三郎の主な動きとなっている。事件の一報は寝耳に水だった事もあり、動揺しただろうか。兵を背後に威嚇するというのは、堅実温厚な菅波らしくないような気がしてならない。




菅波三郎大尉