二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

ホトケがホトケにあやまっているんですよ

2021-04-23 16:47:00 | 二・二六事件

(昭和二十八年一月二十七日朝日新聞所載)
仏心会の人たち 立野信之

二・二六事件の関係者が折々集まっている「仏心会」といふのがある。永田軍務局長を切った相沢中佐や、民間の北一輝や西田税を含めて、銃殺刑に処せされた二十二名の遺族を中心に、事件関係者が参加している。
二・二六事件の受刑者の遺骨は、当時どこの寺院でも引取ることを拒まれた。最初義士になぞらえて高輪泉岳寺に持ち込んだが、断られ、転々としたあげく(筆者註、こうした事実はない)麻布一本松の賢崇寺に引取られた。住職藤田俊訓師の義挙である。だが、ここでも墓を建てることは許されず、遺骨は寺院の一隅に安置されたまま、空しく二十年余の歳月が流れた。昨年の初秋、講和発効を機会に、遺族らの手で合葬が行われ、ささやかな墓が造られたが、その間仏心会の人々は、毎月命日の十二日には参集してひそかに法要を営んでいた模様である。
昨年の二月二十六日、私はこの仏心会から、突然参集の案内をうけた。こんど直木賞になった『叛乱』を小説公園に書き出して間もない時で、私は事件関係者には、大蔵栄一大尉に一面識のあるほかは、まだ誰にも会っていなかった。それに反『叛乱』の書き出しの部分で皇道派青年将校の反対分子である辻政信(当時大尉)一派の行動をよく書きすぎだといって、一部から非難の声を聞いていたので、いささかたじろいだ。私は呼び出されて、材料の出どころを追及されるか、悪くいえばなぐられるかもしれない、と思ったのだだが、私はそんなことでしり込みするのも大人気ないと思ひ、出かけて行った。
私が賢崇寺におもむいた時には、すでにバラック建ての本堂で読経が行われていて、十数名の男女が熱心に経文をしようとしていた。間もなく読経は終りに近づき、住職が慰霊者の名前を読み上げたが、何気なくきいていた私は、ハッと自分の耳を疑った。殺された高橋蔵相その他の犠牲者の名前が先ず読みあげられ、それが終ってから二十二名の受刑者の名前が次々としようされたからである。
法要が終って、別室で座談会が行われたが、そこで私は大蔵元大尉の紹介で、遺族や関係者の何人かと言葉をまじえた。なごやかな集りで、私は全くの異分子であったが、別段だれからも詰問をうけず、もちろんなぐられもしなかった。相沢中佐の未亡人が素ぼくそのものの和服姿で、洋装の娘さんと二人ひざをそろえて座っていたが、娘さんは、事件のころはまだ右も左も知らない幼児であったろう。未亡人が、その姿と同じような素ぼくな東北弁で、そちこちの人たちと近況を語り合っていたのが、はなはだ印象的であった。
私は紹介された山口一太郎元大尉(終身禁固刑)に、読経の際、殺された高橋是清以下の名前を読みあげたのは、どういうわけか、とたづねてみた。
すると、山口元大尉は言下に、
「あれはね、ホトケがホトケにあやまっているんですよ」
と答へた。
仏が、仏にあやまっている。私は、そこにいかにも日本人らしい温かな気分を感じたのだった。これは明らかなことだが、二・二六事件の青年将校の行動は未熟ではあったが、個人的な、または派閥的な「怨讐」に出たものではなかったのである。ー中略ー
そのうちに山口元大尉が急にひざをたたいて、
「そうだ、殉職した首相官邸の警官たちも慰霊すべきだったなあ」
といった。
「とにかく拳銃の全弾を撃ちつくして死んだんだからね。立派なものだよ」
とにかくなごやかな集りで、私はしまいには事件関係者の二、三の者と旧知のように話すことができた。そしてそれを機会に、私はそれらの人たちからも心置きなく材料の提供を得ることができたのだった。(第二十八回直木賞受賞作家)



法要時に撮られた写真
(中央墓石の左が栗原中尉御尊父、その上が河野司氏、墓石の前にしゃがみこんでいるのが末松太平氏)



立野氏のこの寄稿のうちには、事実と相違する点もある。文中、「註」記の泉岳寺に断られ他にも話を持ち込んだ挙句の賢崇寺の件りは、まったく誤りであり、最初から賢崇寺藤田住職の「義挙」であったことは記述のとおりであり、これは立野氏の何かの誤聞によるものだろう。
又、山口元大尉との話の後の部分は、作家立野氏の筆の遊びと思う。私たちは既に事件後の法事から、二月二十六日には事件で斃れた全ての犠牲者の霊を怨親平等に弔ってきていた。重臣はもちろん警察官(五名)や叛乱軍との板ばさみにあって自決した天野少佐他二名、さらには事件に連座し、その後病死した人々の霊も併せて祀ってきていることを付記して誤りのないようにしておきたい。


ある遺族の二・二六事件
河野司
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ちなみにこの「叛乱」という小説は映画にもなっているので、興味がある方は是非ご覧頂きたい。