金吾(父)はどこというはっきりした症状はないが、次第に衰弱していき、ほとんど布団を敷きっぱなしにして、横になっていることが多くなった。床を離れることができなくなったのは、昭和七年の春先である。
金吾は一人で便所に行けないほど弱っていた。ある日、彼は女中を呼んだのであろうが、声に力がなく、誰も気がつかなかった。寝たまま小水をもらした金吾を、好子(伯母)は癇性をおこして布団をはいで放りだした。
病んだ老犬のように小さく縮こまった痩せ衰えた金吾、傍らでそれを見ているだけで、何もできない私は、身を切られる思いで同情し、好子を憎んだ。このときの痛烈な印象はいつまでも心に残り、彼女へのしこりとなって消えなかった。
その年の八月二十日、真夏の暑さに金吾の体力は耐えられなかった。ちょうどその時、中学二年生の私は夏休みで上京していたが、太郎は士官候補生として、麻布の歩兵第三連隊に在隊中だった。私は金吾の容態に異変を感じ、声を掛けたが返事はなかった。好子が医者を呼ぶ間に、私は麻布の連隊に急行した。
太郎の室で話していると、一人の将校が入ってきた。その顔をみて、私は驚いた。写真で知っている秩父宮だ。秩父宮は、太郎の所属する第六中隊長だった。殿下は優しく太郎を慰め、すぐ家へ帰るように命じた。そして、傍らにいた私にも声を掛けた。
「弟さんだね、気を落とさないように」
太郎は、直立不動の姿勢で秩父宮に外泊の申請をした。殿下を目の前にして、親しく謦咳に接した私の感動は、写真でしか見たことのないスターに対面したファンの興奮だった。私はたちまち熱烈な秩父宮ファンになった。
私たちは連隊から車を走らせたが、時すでに遅く、金吾の顔には白布がかかっていた。枕元に座った太郎は瞑目して動かなかった。涙が流れ落ち、膝を濡らしていた。かたわらで私は声をあげて泣いた。
「治郎!しっかりするんだ」
悲しみを吹っ切るように、太郎の言葉はきつかった。時に昭和七年八月二十日、太郎十九歳、治郎十四歳である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/38/d73dc2b02dc564c8eebcca29c223989a.jpg?1635419163)
高橋太郎
太郎が親しく秩父宮の謦咳(けいがい)に接したのは、昭和七年四月から十月までの士官候補生時代である。彼が本科生として陸士へ復校すると間もなく、秩父宮は参謀本部へ転出し、歩三から離れられたので短い期間だが、この六ヶ月は意義深い。
思想的に無色透明の、まだ少年と言っていい純真無垢な太郎が、軍隊生活の第一歩から、秩父宮を“父”としたことは、彼の尊皇精神をいやがうえにも強固にした。天皇のために命を捨てることを絶対とした彼の生きざまがうなずける。
秩父宮にまつわる忘れえない想い出がある。金吾の葬儀にさいして、秩父宮の懇篤な弔慰を受けたことは既述したが、いまなお私の脳裡から離れないのは、秩父宮両殿下おそろいの晩餐会に招かれたときのことである。
ちょうどその時、夏休みで上京していた私は、宮廷から帰ってきた太郎と夜を徹して語り合い、感激を共にした。
食卓に出た鮎の塩焼きを両殿下とも片身だけ食べて、裏返しされないのを見て、太郎はあわてて箸を引っ込め、我慢したという。また、食後の閑談に、
「これからの軍人は、国際社会にどんどん進出しなければならない。ダンスぐらいできなければ、外国の将校と対等に話も出来ない」という話が出て、勢津子妃殿下みずからがレッスンをされたが、妃殿下に手をとられた太郎は、緊張のあまりコチコチになって、妃殿下の靴を思い切り踏みつけてしまい、どう謝っていいか困ったという。
身振り手振りで語る上気した太郎の顔が、今も目に浮かぶ。太郎とダンス、なんと微笑ましい情景であろう。
外出してくるたびに太郎が私に語るのは、秩父宮の事ばかりだった。秩父宮は彼の太陽だった。秩父宮を語る熱っぽい眼差し、恍惚とした相貌、それは、あたかも恋人を想うそれに他ならなかった。
秩父宮はまだ少年の面影を残す太郎を愛し、高橋、高橋と言って目をかけられたという。
「四月には高橋士官候補生が入隊してきた。秩父宮はこの高橋太郎の将来を特に嘱望されていた。事件を知った宮様は、高橋も、と言って絶句された」(芹沢紀之『秩父宮と二・二六』より)
秩父宮と二・二六を結びつける諸説は、粉々として多大の興味を呼んでいるが、その真否を詮索することに私の関心はない。
ただ、太郎のような平凡な人間を、想像も出来ない非合法な暴力行動をとるまでに高揚させたものは、彼の心底にひそむ秩父宮に対する敬慕心であり、彼の恩寵にこたえたい一心であったと私には思えてならない。
しかし、彼がいちばん敬し、信じ、愛した秩父宮も、遥か雲の上の無縁の存在でしかなかった。そのことに彼が気付くのは、遠いことではなかった。
「将校は自決すべし」
事件を知って秩父宮は、蹶起将校を厳しく難詰した。
裁判を待たずして早くに死を決し、死を急いだ太郎。事件についてなにも語らず、なにも書き残そうとしなかった太郎、絶対の人に叱責された絶望感が絶えずつきまとい、言葉に尽くせない寂莫とした思いを抱いて、死んでいったのではないだろうか。
(出版時)秩父宮はすでに亡く、勢津子妃らご健在だが、若き日、みずから手をとってダンスの手ほどきをされた年少の軍人の非情な最期を耳にされ、勢津子妃はいかなる感慨を持たれただろうか。
当時の国民感情からすれば、雲の上の神のような皇弟殿下とのふれあいは、随喜して子々孫々に伝え残したいところだが、今の私にはそれがかえって悲しい。
太郎が蹶起するまで卓上に飾ってあった秩父宮の写真は、家宅捜索の憲兵に押収されたまま戻ってこない。
《一青年将校 高橋治郎》
秩父宮に可愛がられた部下といえば安藤輝三が有名だが、高橋太郎も同様に気にかけていた。
真崎同様、秩父宮も事件の黒幕であるという研究家もいたが、さすがに厳しいだろう。