二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

憧れの秩父宮

2021-10-28 20:13:00 | 二・二六事件


金吾(父)はどこというはっきりした症状はないが、次第に衰弱していき、ほとんど布団を敷きっぱなしにして、横になっていることが多くなった。床を離れることができなくなったのは、昭和七年の春先である。
金吾は一人で便所に行けないほど弱っていた。ある日、彼は女中を呼んだのであろうが、声に力がなく、誰も気がつかなかった。寝たまま小水をもらした金吾を、好子(伯母)は癇性をおこして布団をはいで放りだした。
病んだ老犬のように小さく縮こまった痩せ衰えた金吾、傍らでそれを見ているだけで、何もできない私は、身を切られる思いで同情し、好子を憎んだ。このときの痛烈な印象はいつまでも心に残り、彼女へのしこりとなって消えなかった。
その年の八月二十日、真夏の暑さに金吾の体力は耐えられなかった。ちょうどその時、中学二年生の私は夏休みで上京していたが、太郎は士官候補生として、麻布の歩兵第三連隊に在隊中だった。私は金吾の容態に異変を感じ、声を掛けたが返事はなかった。好子が医者を呼ぶ間に、私は麻布の連隊に急行した。
太郎の室で話していると、一人の将校が入ってきた。その顔をみて、私は驚いた。写真で知っている秩父宮だ。秩父宮は、太郎の所属する第六中隊長だった。殿下は優しく太郎を慰め、すぐ家へ帰るように命じた。そして、傍らにいた私にも声を掛けた。
「弟さんだね、気を落とさないように」
太郎は、直立不動の姿勢で秩父宮に外泊の申請をした。殿下を目の前にして、親しく謦咳に接した私の感動は、写真でしか見たことのないスターに対面したファンの興奮だった。私はたちまち熱烈な秩父宮ファンになった。
私たちは連隊から車を走らせたが、時すでに遅く、金吾の顔には白布がかかっていた。枕元に座った太郎は瞑目して動かなかった。涙が流れ落ち、膝を濡らしていた。かたわらで私は声をあげて泣いた。
「治郎!しっかりするんだ」
悲しみを吹っ切るように、太郎の言葉はきつかった。時に昭和七年八月二十日、太郎十九歳、治郎十四歳である。


高橋太郎


太郎が親しく秩父宮の謦咳(けいがい)に接したのは、昭和七年四月から十月までの士官候補生時代である。彼が本科生として陸士へ復校すると間もなく、秩父宮は参謀本部へ転出し、歩三から離れられたので短い期間だが、この六ヶ月は意義深い。
思想的に無色透明の、まだ少年と言っていい純真無垢な太郎が、軍隊生活の第一歩から、秩父宮を“父”としたことは、彼の尊皇精神をいやがうえにも強固にした。天皇のために命を捨てることを絶対とした彼の生きざまがうなずける。
秩父宮にまつわる忘れえない想い出がある。金吾の葬儀にさいして、秩父宮の懇篤な弔慰を受けたことは既述したが、いまなお私の脳裡から離れないのは、秩父宮両殿下おそろいの晩餐会に招かれたときのことである。
ちょうどその時、夏休みで上京していた私は、宮廷から帰ってきた太郎と夜を徹して語り合い、感激を共にした。
食卓に出た鮎の塩焼きを両殿下とも片身だけ食べて、裏返しされないのを見て、太郎はあわてて箸を引っ込め、我慢したという。また、食後の閑談に、
「これからの軍人は、国際社会にどんどん進出しなければならない。ダンスぐらいできなければ、外国の将校と対等に話も出来ない」という話が出て、勢津子妃殿下みずからがレッスンをされたが、妃殿下に手をとられた太郎は、緊張のあまりコチコチになって、妃殿下の靴を思い切り踏みつけてしまい、どう謝っていいか困ったという。
身振り手振りで語る上気した太郎の顔が、今も目に浮かぶ。太郎とダンス、なんと微笑ましい情景であろう。
外出してくるたびに太郎が私に語るのは、秩父宮の事ばかりだった。秩父宮は彼の太陽だった。秩父宮を語る熱っぽい眼差し、恍惚とした相貌、それは、あたかも恋人を想うそれに他ならなかった。
秩父宮はまだ少年の面影を残す太郎を愛し、高橋、高橋と言って目をかけられたという。

「四月には高橋士官候補生が入隊してきた。秩父宮はこの高橋太郎の将来を特に嘱望されていた。事件を知った宮様は、高橋も、と言って絶句された」(芹沢紀之『秩父宮と二・二六』より)

秩父宮と二・二六を結びつける諸説は、粉々として多大の興味を呼んでいるが、その真否を詮索することに私の関心はない。
ただ、太郎のような平凡な人間を、想像も出来ない非合法な暴力行動をとるまでに高揚させたものは、彼の心底にひそむ秩父宮に対する敬慕心であり、彼の恩寵にこたえたい一心であったと私には思えてならない。
しかし、彼がいちばん敬し、信じ、愛した秩父宮も、遥か雲の上の無縁の存在でしかなかった。そのことに彼が気付くのは、遠いことではなかった。
「将校は自決すべし」
事件を知って秩父宮は、蹶起将校を厳しく難詰した。
裁判を待たずして早くに死を決し、死を急いだ太郎。事件についてなにも語らず、なにも書き残そうとしなかった太郎、絶対の人に叱責された絶望感が絶えずつきまとい、言葉に尽くせない寂莫とした思いを抱いて、死んでいったのではないだろうか。
(出版時)秩父宮はすでに亡く、勢津子妃らご健在だが、若き日、みずから手をとってダンスの手ほどきをされた年少の軍人の非情な最期を耳にされ、勢津子妃はいかなる感慨を持たれただろうか。
当時の国民感情からすれば、雲の上の神のような皇弟殿下とのふれあいは、随喜して子々孫々に伝え残したいところだが、今の私にはそれがかえって悲しい。
太郎が蹶起するまで卓上に飾ってあった秩父宮の写真は、家宅捜索の憲兵に押収されたまま戻ってこない。
《一青年将校 高橋治郎》




秩父宮に可愛がられた部下といえば安藤輝三が有名だが、高橋太郎も同様に気にかけていた。
真崎同様、秩父宮も事件の黒幕であるという研究家もいたが、さすがに厳しいだろう。




貧困と近衛兵

2021-10-10 01:52:00 | 二・二六事件


昭和の農村部の疲弊は、現在では想像もつかないほど凄まじかった。
少尉の給与が70(約14万)円、中尉85(約17万)円の時代に、地方では米も確保できず、具のないほぼ水のような汁をすすり、娘を売って売春婦にさせる。このような事が常態化していた。

軍人は比較的裕福な家庭の出身が多かった。不自由なく育った彼らが、部下として地方の貧しいところから徴兵されてきた兵士の家庭の現状を知り、胸を痛め決起に至った事は想像に難くない。現に安藤輝三(処刑)は、貧しい兵の家に現金を配り、さらに軍を辞めた元部下の就職活動まで面倒を見ていたこともあり、涙を禁じ得ない。

「例外なのは近衛兵」と、池田俊彦、赤塚金次郎両少尉は語った。
「近衛連隊は全国の裕福な家庭から選抜していた」
「近衛兵は家庭が裕福だったし、全国の名門の子弟が多かった」《2.26事件の謎》

実際はどうだったか。

近衛師団の所属だった今泉義道は、
「元来、近衛師団の歩兵連隊に入隊する壮丁は、各都道府県知事の推薦によって選ばれた人々であった。これは禁闕守衛の任務につくための配慮によるものである。従って裕福な家庭に育った青年ばかりであろうと想像していたが、身上調書が出来上がるにつれて、家庭の事情欄には、小作農、生活貧困が多く、私の心を暗くした。
当時の社会記録を繙く迄もなく小作農の生活は悲惨そのものだった」《二・二六事件と郷土兵》
と語る。

近衛兵は必ずしも富裕層というわけではなかったようだが、知事の推薦がないと入隊できなかったということは、かなり優秀であったことは間違いない。


近衛師団は、帝国陸軍の師団のひとつで、天皇及び宮城(現・皇居)を守るための組織である。敗戦による日本軍解体と共に消滅。現在は、皇宮警察が後を継ぐ形になっている。


近衛歩兵第三連隊の連隊旗




けもの道

2021-10-03 22:28:00 | 二・二六事件



両国駅に到着した千葉・佐倉連隊




二・二六事件の研究資料を漁っていると比較的新しい物に多いのだが、
“青年将校は、五・一五事件で刑が軽かった為、自分達も減刑されるであろうという甘い考えで事件を起こした”
という意味合いのものをよく見かける。
本当にそうだろうか。

確かにそういう風に取れるところもある。
坂井直は決起後に陸大を受験するつもりで勉強に励んでいた事は良く知られる。

一方で、丹生は事件前奥様に「お前は俺が死んだら保険金が入るからいいね」と言い残しており、間もなく訪れる死を連想させる。
栗原は、奥様に遺書を渡している。
野中は連隊の自身の机の中に遺書を用意している。
常盤は、もう生きて酒を呑むことはないと考え、末期の酒と称してギリギリまで酒を呑んでいた。


計画が曖昧で稚拙だったのは事実であるが、もともとは決起した将校の多くは自決する覚悟で起っていたのであり、法廷論争へ望みをかけ方向転換したのは決起終盤だった。よってそのような認識は必ずしも正しくはないと言えよう。