二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

国賊!朝日新聞襲撃秘話

2021-01-28 15:52:00 | 二・二六事件


大河ドラマ「いだてん」でもそのシーンが組み込まれていたので知ってる方も多いと思うが、現代でもデマ、捏造、反日工作を繰り返す国賊朝日新聞がかつて85年前の二・二六事件で襲撃されていたのである。



当日朝、社会部にいた磯部記者が朝早く七時頃僕のところに電話をかけてきて、今暁軍のクーデターがあって、高橋蔵相、斎藤内大臣、岡田総理等が殺された。戒厳令が出るかもしれぬから直ぐ来てくださいという。
(中略)
行ってすぐ僕は、当時主筆だったが、編集局長室に入って編集幹部と話をしていると、そこへ何か兵隊が非常な大声でがたがたやっているというので、ベランダに出てみると、日劇の前で団陣を作って、日比谷の方に銃口を向けて、伏射の姿勢をしている。八時五十分だったと記憶する。これは何か市街戦が始まって朝日新聞を守ってくれるのじゃないかという気がした。すると、社の守衛の一人が飛んでやって来て、今下に叛乱軍の将校がやって来て、代表とここで会見したいといっている。どうしましょうかという。僕が代表者だから、僕が会おうということになり、同時に大阪に電話をかけた気がする。「こういうことで残念だが、これが最後の電話になるかも知れぬ」というようなことを、大阪側に対して言った。はっきり覚えはないが…。それからエレベーターで下りていこうとすると島越君が追いかけてきて、大丈夫ですかという。大丈夫だといって下りて行った。下りていくとエレベーターを出たすぐ前の一段低くなったところに、一人の青年将校が立っている。目が血走って疲れたような格好。右手にピストルを持ち、左に紙を持っている。
(中略)
ピストルが危ないから、なるべく身体を接近させた方が無事だと思って、ほとんど顔がつく位に立って、名刺を出して、僕が代表のこういうものだといった。
そうすると、その若い将校はひょっと目をそらしてしまって、物を言わないのだ。僕がそういったときに、ちょっと何というか、会釈したような感じがしたので、これは大丈夫だなと感じたことを記憶している。これを新聞に載せてくれとかいうのかとも予期して行ったところが、そういうことも言わない。その間に非常に長い沈黙が続いたような気がするが、恐らく十秒か二十秒だろう。すると急にピストルを上に向けて「国賊朝日新聞を叩き壊すのだ!」と叫んだ。それで撃ったかと思ったが、玉は出ない。そこで、ちょっと待ってくれ、中には女も子供もいる。そういうものを一応出すから、待ってくれ、といって三階に上っていくと、久野印刷局長や島越君が死んだものが上ってくるとでも思ったか、びっくりした顔をして、よかったよかったと寄ってきた。
それから皆一応近くのニュー・グランドに避難させようじゃないか、
(中略)
それで社員一同は外へ出てしまった。僕の部屋は四階にあったが、一番後ろから僕が下りようとすると、剣付鉄砲の兵隊が上ってきた。その間を抜けて表に出たが、表は静かだ。ところが、暫く玄関に立って中の様子を見ているうちに、三三五五兵隊が社内から外に出てくる。この調子では大したことはないと思っていると、やがてその連中はトラックに乗って行ってしまった。それから早速僕は社の階段を駆け上って見ると、電話の机の上に蹶起趣意書が貼りつけてあった。アトで聞いた話だがこの連中は前の日に朝日新聞に見学に来ているのだ。しかも屋上で写真を写している。それから見るとこれは只気紛れに来たのではなく、計画的に来たものと見る他はない。撮った写真で見て、その将校が中橋基明という中尉であることが判った。



中橋基明中尉


それからずっと後になるが、田中軍吉という大尉が私を訪問してきたことがある。何かと思って会った所が、自分も奉勅命令を知っておったということから気違いにされて代々木の軍刑務所に入れられておったが、今日出てきた。刑務所の中で中橋基明中尉に便所で会ったときに「お前いずれ出るんだろうが、出たら、朝日新聞に行って緒方という人に甚だ無作法をしたが、よろしくと言ってくれ」という言伝を受けたから来たということであった。この田中軍吉も大東亜戦争の後で支那で戦犯になって南支で銃殺されたと聞いている。



緒方竹虎 「叛乱将校との対決」より


この田中軍吉という名前は聞いたことがある人も多いのではないだろうか。
戦後、百人斬りで有名な向井敏明少尉と野田毅少尉と共に南京で戦犯の罪で裁かれ処刑された人物である。
もちろん、百人斬りなどは毎日新聞の捏造であり事実ではない。


南京方面の件で名が知れている田中大尉は、こういったところでも名が上がっていたのは正直意外だった。




彼等は反乱軍だったか

2021-01-25 16:21:00 | 二・二六事件

二・二六がクーデターである以上“反乱部隊”にはちがいはないが、勅命に反対したかどうか、そのキメ手として、いまもなお、「法勅命令は下達された」かが歴史の盲点となっている。
立野信之氏は小説「叛乱」の中で「奉勅命令は小藤大佐に内示しただけで、戒厳司令部は情勢を顧慮して未だ握りつぶしているという」と記したが、「事実はこのわたしが小藤大佐と図ってウヤムヤにしたのだ」と名乗りをあげた関係者がいる。
問題の奉勅命令とは、天皇の“みことのり”を奉じてなされた軍命令である。決起将校は「陛下が死を賜うとご命令になったら自決する」と事件最中に語っていたというから、現在でこそ考えられぬが、当時の青年将校にとって、奉勅命令はまさに絶対的なものであった。事件発生当初、決起部隊は、第一師団管下に包含され、師団から食糧、燃料、衣類の支給さえうけ、れっきとした皇軍として通ったが、やがて二十八日夕方五時にこの奉勅命令下達が決定された。


【奉勅命令】二十六日朝来行動セル部隊ハ速カニ明治神宮外苑ニ集結スベシ勅ヲ奉ズ



わすが三行の命令である。結局決起部隊はこの“三行命令”に従わなかったというので、反徒ということになったものだが、二・二六法廷は、同命令が決起部隊に伝えられたという見解で、大量十三名の将校と四名の民間人に死刑を言い渡したのである。“三行命令”ゆえの極刑というわけだ。
ところで、「それは下達されなかった。従って裁判そのものの根拠はない」と関係者は言う。その頃朝鮮の羅南(現在北鮮領土)にいた本庄繁大将の女婿、山口一太郎大尉はこういっている。
「小藤連隊長と示し合わせ、たしかに奉勅命令は握りつぶした。だから決起将校は命令の内容を知らぬはずだ。
またあの当時は叛乱将校達に電話を利用させないために、電話は外部で切断していたし、ラジオは叛乱将校の方で、兵士に外部の雑音を聞かせぬために、取り外していたから、叛乱将校達は奉勅命令を知らなかったのが本当である。」
というのは、旧陸軍において、命令下達の責任者は副官であると勅命による「軍隊内務書」で定められている。山口氏は、小藤連隊長の副官に臨時に任命され、決起部隊の陣中にシバシバ出入りしたが、奉勅命令を伝えなかったという。
副官が命令下達を怠った場合、同内務書の罰則規定で禁固二ヶ月に処せられることになっている。
「なぁに、禁固二ヶ月ですむものなら、と思って下達しなかった」
という。にもかかわらず、勅命は下達されたという前提のもとに、暗黒裁判は進められた。この一事だけでも軍首脳がいかにあわてふためき、善後策をとったかがうかがわれるわけだ。



引用
週刊読売 生きている二・二六
日本週報 悲涙落つ



彼等は、天皇の軍隊を勝手に動かした時点で天皇に背いたことになるが、勅命に従わなかったのではないことは明らかだ。
そして日本は当時から法治国家であるから、事実はきちんと上げていき、それに基づいて裁判を行うべきだろう。

事件中傍受された電話音声の中でも栗原は
「向こうもとにかく奉勅命令で来るんでしょうから。そういう状況ですか?」
と斎藤瀏少将に訪ねている。これは二十九日早朝の会話である。
恐らく来るであろうことは予想していたようだが、下達されていたらこのような言い方はしないだろう。



結論、奉勅命令は下達されていなかった。これははっきりと当事者から証拠が上がっているのだから、裁判においては陸軍に非があったのは間違いないだろう。


山口一太郎大尉




追記

戦後になり、遺族が「叛乱」という名だけは取り除いてくれと申し出たところ、「そんなものはとっくにない」と返ってきた。遺族には何の知らせもなく、官報か何かに載っていたらしい。
これが無くなっただけで遺族の心情はいくらか軽くなったのではないかと思う。



悲壮の老将軍

2021-01-21 23:53:00 | 二・二六事件

叛乱軍将校、坂井直(なおし)中尉の厳父、坂井兵吉少将は、日露戦争では旅順攻囲軍勇士と称された名将だ。

事件当日、息子が蹶起に参加していることを知るや直ちに三重から上京、我が子の姿を探し求めたが、その苦労も水の泡となる。








今日は日比谷方面、次の日は永田町と軍の占拠地を彷徨ってはみたが、その度に歩哨の銃剣に妨げられ、とうとう我が子との面会を果たせずに二十九日も暮れ、あっけなく三重に戻ることとなった。

我が子に会って、その順逆の理を説き、聞き容れぬ場合は一刀の下に息子を斬り、そして自分もその場に割腹して果てよう…その覚悟であった。

少将は息子の自決を信じておられた。だが擾乱鎮定の後、意外にも中尉はその期待を裏切って、生き存えたいという知らせを受け、少将は驚く。

君国に一命を捧げた軍人の身でありながら、何たる女々しい行為ぞ、無断で皇軍を動かし、上宸襟を悩まし奉り、国家を擾乱の大事に導きながら、その責めを負わずして、生命を完うした我が子の不甲斐なさに、少将は呆然自失してしまい、ひたすら謹慎の日々だったという。



哀愁漂う姿に袴をつけ、訪れた記者に少将は軽く会釈をし、やわらかい関西弁で「この度は皆さんに御心配をかけました。相済まぬ事だと思っております。」
と挨拶した。
「あのとき東京においでになられたようですが…」
「お恥ずかしいことです。市中をさ迷いましてな。あのことが新聞に出たりして、飛んだ笑い者になりました。」

少将の温顔は曇り、和らいだ口調は打ち湿っていった。



少将が上京して立ち寄られた中尉の住まいには、この年二月に結婚されたばかりの孝子夫人の若妻姿が淋しく、風呂なども新しく新調されてあって、一人涙を誘われたという。

夫人は目下宇治山田の実家に帰っておられるが、夫坂井中尉の行動に関しては何ら愚痴かましいことも言わず、家の人も却って少将のもとに同情を寄せているような手紙をくださるのがまた一層自分の心を苦しめていると、少将は悲痛な面持ちで語った。

また、世間からも慰めの手紙が届いたが、少将は謹慎という身である為、なんと返事をして良いか全く迷ってしまった

さらに、三重郡在郷軍人分会の会長や、その他の栄職も一切辞し、深く謹慎して世間に詫びる少将の心境には、坂井家断絶の決意もしたが親戚に反対されている。

中尉の御母堂は前年から中風を病んでおり、ほとんど寝たきりであった。

「お母様もさぞご心配のことで…」
「いや、あれももうすべて諦めているようですわい…」

「とにかく、この頃の若い者の気持ちや思想は、わしには了解できぬことばかりです。」

往時の自分達の時代を回想し、我が子との間に大きな隔たりがあることが淋しいらしかった。



かつては国家の忠臣として勇名を馳せた父と、叛乱軍の烙印を捺された息子。

叛乱軍として処刑された彼等の、遺されたご遺族の心境は想像を絶するものだったと思われる。


主婦の友より



高橋、コレ、着よ

2021-01-19 16:35:00 | 二・二六事件



高橋是清蔵相



高橋是清は東北の生まれなので、裸で寝る習慣があった。反乱軍が暴れこんだ朝も、指揮の将校が夜具をはぐと是清爺の裸の姿が現れた。はっと思った将校は、そばにあった爺の着物を抜身の軍刀の先へぶら下げると、大喝一声していわく、

『高橋!コレ、着よ!』




相次ぐ重臣の悲報を天皇陛下に奏上すると、陛下は思わずよろめかれた。そして仰ることには

『朕は重臣(重心)を失った!』



二・二六事件の頃は、重苦しい時代に反発するかのように、ナンセンスを喜ぶ空気が強かった。そこで二・二六事件が起きると、すぐにこれをタネにしたナンセンス問答が流布された。


特集 文藝春秋
昭和の35大事件より



重苦しい時代だけに遠慮しがちなのだと思っていたが、意外にも事件当時からふざけた風潮は許されていたらしい。




焼かれる兄の唸り声

2021-01-15 17:24:00 | 二・二六事件


当時の日本では、死刑の場合、絞首刑なら一定時間経過しても息のある者は手当てをして釈放、銃殺刑なら一発目で絶命しない場合はこれ以上は撃たずに手当てをして釈放するのが軍の習慣だと伝えられていた。

だが二・二六事件で処刑されたものたちは、一発で絶命しない者には二発、三発と死ぬまで撃ち込まれた。三発目まで撃たれたのは、安藤輝三、栗原安秀、中橋基明の三名とも言われており、栗原に関しては三発とも急所を外れ、出血多量で絶命した。


ご遺族は「こんな殺し方はない。これこそ暗黒裁判であり、暗黒処刑の証拠だ。死者は闇に葬られた」と涙した。


処刑後、遺体は棺桶に収容後トラックで搬出され、処刑場の近くの渋谷幡ヶ谷火葬場で焼かれたのちご遺族に引き渡された。
その時刑場からトラックで火葬場まで同行した対馬勝雄中尉の実妹、石橋きみさんは
「あっ、兄さんのうめき声がする、兄さんは生きている!」
と狂気のように叫んだ。
対馬中尉は、一発目で死んでいたはずだが、急所を外れた為か内出血が多く、恐らく仮死状態にあったものと思われる。銃殺後約十時間で火葬されたが、火葬中
「うー、うー、うー」という苦しみを帯びた唸り声がしていたという。







当時の火葬場の規則として、死体は死後四十八時間経過しなければ焼却出来ないことになっていた。ただ、例外として“変死等”の場合は四十八時間経過しなくても焼却可能となっている。
青年将校等は死後すぐに焼かれた事実がある。
これを踏まえてご遺族は、北昤吉代議士や前田幸作代議士に相談、前田氏は議会に立ち、「息があるうちに焼却したのではないか」との趣旨の質問をした。それに対し陸軍省は「変死等は四十八時間経過しなくても違法ではない。銃殺は“変死等”の“等”に該当する」との見解を示し、前田氏の質問はウヤムヤのうちに葬られた。


実際に生きたまま焼却させられたのかは分からないが、もしそうだとしたら二度も地獄の苦しみを味わった事になる。