二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

訪問記

2021-04-07 17:11:00 | 二・二六事件

決起将校や被害側の重臣についての書籍は数多く世に出ているが、参加した兵士達の事件中やその後を追ったものは、先の大戦を生き抜いた一部の人の手記が遺されているのみで、ほとんど知られずにいる。


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元歩兵軍曹 新正雄氏家族訪問記
現住所 埼玉県大里郡吉見村(以下略)
原隊 歩兵第一連隊
行動先 斎藤内大臣私邸
処刑 禁固二年、豊多摩刑務所服役


八月一日、池袋から東上線で武州松山で下車、所要時間約一時間なり、松山は吉見の百穴にて有名なる所なれど、これより訪ねんとする吉見村は、百山とは反対に松山より熊谷に至る沿道なり。駅前にて約十五分小憩の後、熊谷行バスに乗り、車中住所を示して尋ぬれば、幸い乗客中に承知の人ありて、冑山の坂下なりと教えてくれる。「此処で聞いてごらんなさい」と車掌が車を止めてくれた。坂下の雑貨屋に飛込んで、新家を訊ねれば、「此処です」と答えられて聊か調子悪し。

店頭にありし実兄に来意通じ挨拶を述ぶ。同家は県道に面した雑貨屋にて一般雑貨、たばこ、飲料品、肥料類まで販売し、傍ら田地もあるように見受けられ、平常の生活ならば経済的にはさして支障ありとは看取されず。

生憎父親、農作氏不在中にて面会出来ず遺憾なりしも、母親在宅し挨拶をなす。店頭にての会談暫しにして、先ず上れとの勧めに奥に通る。奥というも店の背中合せに四畳半、八畳の二間のみなり。一足入れば、八畳庭先に面し胡座端然と座せる屈強の青年あり、かねて栗原(勇)氏への書面にて、正雄氏精神病のため帰宅中と聞き及びありしため、正雄氏なりと直感す。果して然り。眼を閉ぢ稍々首をうなだれ両手を整然と膝頭に当て、薄き座蒲団の上に胡座し、一見何事か沈思黙考せらるが如き、姿勢なり、然れどもなほよく看取すれば、容貌生気なく、口許締りなく、時々垂涎する有様制止するにしのびず。当時勃然たる憂国の意気に蹶起せる志士の相貌尋ねるに由なし。唯、其頑強勇ましき肉体のみ、僅かに面影を案ずるのみ、悲惨の至りなり。

家人の語る所によれば、起床より寝につく迄、終日このままの姿勢にて端座するのみにして殆ど言語を発せず移動することなく黙々として終始するといふ。長兄の幼児等騒然として正雄氏の周囲を跳び廻るも、平然として動ずる所なし。

母親来りて正雄氏の耳もとに、小生の来意を告げ、向きを変えしめんとするも「ウウンウウン」と云いて恰も三、四歳の小児の如し。垂涎鬚に伝はりて落つ、目をそむければ母親は汚れたる手拭いを取り来って口辺を拭ふ。何たる光景ぞ、誰かかかる正雄氏を予期し来たる、心中暗然として言葉なし。果してこれ誰の責任に帰すべきか、単に偶発的発作として運命なりとして諦むるほど、大悟解説せる心境の人、幾人かある。ましてやその親とし兄弟とし唯、単に事件に連座し、忌はしき汚名の下に服役するさへ堪え難き心痛を抑え難きものを、まして加ふるに、かくの如き悲惨なる姿となりて帰り来りたる時、煉獄にも勝る其の心中の苦衷、想像するだに涙ならざるを得ない。天を呪い人を呪ふに至るとも、誰かこれを不当なり、非理なりとのみ断じ得べき。

「正雄は一番の末っ子で、男三人女四人の七人兄弟の中で最も可愛がって育ててきました。七人の子供を一人も落伍させることなく仕上げました私は、自分ではもちろん、世間に対しても自慢の種にしてきたのです、それがあの事件に取られたのみか、こんな姿になって帰ってきませうとは……」

母親は老の眼に一杯の涙を堪えて、何事も知らぬ気な無心の正雄氏の頭を撫でながら袖で涙を覆って口ごもった。不動黙々たる正雄氏の口脣から又しても涎が垂れ落ちた。私も思はず滲み出る涙を抑止することができなかった。

一昨年の暮、帰宅した時、正雄氏は「今度選抜されて弾薬庫を受け持つことになって責任が重いので心配になる」といふことを漏らしていたそうだ。重い責任と、末っ子の気の弱い性格が生んだ、正雄氏の今度の事件での悲劇の姿を見る思ひだった。

正雄氏の行動は判決理由によれば
「新正雄は二月二十五日夜、所属中隊週番士官たる坂井直より蹶起の趣旨を告げらるるや自ら進んで本行動に参加する意志なきも、上官の言辞に魅惑せられ且、平素の命令服従関係に拘束せられ、その違法なることを推知しつゝもやむなく斎藤内大臣邸襲撃参加せり」
「尚、新正雄は出発前、坂井直の指揮により連隊弾薬庫を開扉し実包を取出し、これを各中隊弾薬受領者に交付したる後、指示に基き分隊長として、斎藤内大臣私邸襲撃に参加し、同邸内に侵入して同家裏側の警戒に任じたり」と。

斯くて裁判の結果、禁固二年を言渡され豊多摩刑務所に収容された。判決当時は何等異常なく、七月十五日頃、宇田川町刑務所から面会が出来るやうになったと通知が来て、事件後初めて長兄が面会に赴きたる際は、平常と異らず家族の様子を聞き、元気な顔を見て帰宅せりといふ。

其後、身柄は豊多摩刑務所に移され、八月上旬、父豊作氏及び次兄が面会に赴きし際は、既に聊か異状を来せるものか相当に昂奮しあり「今後は絶対に面会に来るに及ばず」と申述べたる由、此頃より精神錯乱の兆候ありし模様なり。

其後旬日を出でずして、八月十五日午後三時頃、突如、刑務所より通知ありて、正雄氏の容態不審に付、直ちに来所すべき旨なりしにより、長兄は直ちに急行せるもすでに刑務所長帰宅後にて会へず、やむなく自宅に訪れて様子を聞くに、精神異状を来せるとの事、面会するも無駄なれば自宅に引取る手配をするやうにと申渡されたり。突然の事に当惑せるも、止むなく準備手配を整へ、八月十七日身柄を引取り、直接埼玉県入間郡毛呂村の毛呂脳病院に入院せしめたり。爾来十二月末迄同病院にて治療に努めたるも、平態に復せず。且自宅に帰りたき旨を時々口走る事ありしため同年末に自宅に引取るに至れり。

帰宅後は服薬を続けあるも、病状膠着のまま好転せず今日に及べり。狭隘なる家屋に両老親を始め、長兄夫婦三児を抱へる同家の実状に、正雄氏の薬餌に栄養更には療養に、恐らく事欠く状況は否定できず、現状のままに放置せんか。正雄氏の病状回復は到底望み得ざるを悲しむものなり。特に精神的安静を必要とする病気にあって、現在の環境は極めて不当にして、斯くては憂国慨世の志士も遂に甦生の途なからんことを恐る。名医の診断を仰ぎ、早急に善処することを切望に堪えざるものなり。

昨春、既に代え難き貴重なる犠牲を払えるに加えて、更にまた新たなる悲劇を目の辺りにす。これらのもの果して誰の罪ぞや、或者は国を憂へて罪に泣き、或者は国を蝕んで栄ゆ。「理」は「権」に勝てずといふも、「権」も遂に「天」に勝つ事能はずとか。吾人「天」を所期する所久しと雖も、未だこれ「天」の時に非ざるか。徒らに長嘆之を久しうするのみなり。

呆然として沈思する時、熊谷行のバスの来れるを報ぜらる、蒼惶として辞す。正雄氏一人平然として動ぜず。(八月五日記)


※新正雄氏の原隊が歩兵第一連隊となっているが、他の裁判資料を照らし合わせ、上官が坂井直であること、襲撃場所が斎藤内大臣私邸であることから正確には歩兵第三連隊であると思われる。

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元歩兵軍曹伊高花吉氏実家訪問記
現住所 埼玉県大里郡三ヶ尻村三ヶ尻(以下省略)
原隊 歩兵第三連隊
行動先 警視庁
処刑 禁固二年、豊多摩刑務所服役


前記、新正雄氏家族訪問を終へ、バスにて熊谷市に入る。駅前にて小憩、三ヶ尻飛行場行バスにて赴くべき事を教へらる。待ち合わせ中、熊谷駅は折柄召集に応じて、出征の途につく勇士の歓送に雑沓を極む。北支の風雲急にして時局多難なりを思ふとき、一兵もこれ尊しとする事態を招来せんとしつつある今日、多数将校の命を奪ひ、幾多将士の身を繋ぐに至りし結果こそ、返す返すも遺憾千万なり。

バスは約十五分にして三ヶ尻村に入る。車を降り雑貨屋にて伊高と聞けば、「花ちゃんかい」と、親しげの言葉なり。この一語にて近隣の好感を寄せることを察知し先ず満足に堪えず。精しく道順を教へられるままに伊高留守宅を訪る。道側を流るる小流に下着を洗う一少年あり。聞けば「伊高は此処です」と快活に答ふ。案内されて家に入り花吉氏の母に面会す。四十五、六歳と見受けられ、来意を告げれば欣然として応接せられ、先程の少年と共に、懐かしげに種々当方の質問に答へらる。聞けば少年は花吉氏の弟(二番目、十六才)にて、今春、高等小学校を卒業せしといい、態度、言語共に明快にして事件に対する認識乃至は、兄、花吉氏に対する理解も、少年とは見受けられざる確然たるものあり。「花吉の事件に対する責任上、世間に対しても肩身の狭く覚える」旨を述べれば、之に対し決然として「お母さん、そんな事はない、家の兄ちゃんは悪い事をしたんぢゃない、良い事をしたんだね、小父ちゃん………」と、余の方を顧みて云ふ。肯けば更に語をつぎ、「家の兄ちゃんは佐倉宗五郎のやうなものなんだね、困っている百姓のためにやったんだ、お母さん、決して心配する事はないよ」と、母親を慰める如く、力づける如くに語れり。頼母しき第二世を目前にして、慰問のために訪れし余の方が、却って慰めらるるの奇を感ずる有様なり。

父親は生憎不在にて遂に面会するを得ず、残念なりしも約一時間にして辞す。家庭は相当に困窮しあり。狭苦しき一家に両親、二男、二女起居しありて、小作の傍ら僅かに養蚕を営みつつあり、刑務所への面会も、経費の関係が事欠き、事件後一、二度面会したるに過ぎずといふ。其の窮状の中より、余のために特に氷水を馳走せらる。冷たかるべき氷も、余の咽喉を冷やさず、心苦しき限りなるも、母子の心中を想ひ万金の馳走もこれに及ばず、感涙禁ずる能はず真に麗しき人情に触れたるの喜びを感ずるのみ。

花吉氏より時々、便りあるも出所後も帰宅する意志なき由を伝え来り、何事か期する所あるものらしく、目下房中に読書修養に努めつつありとの事なり。

尚、花吉氏は二十七歳、実母は早く死し現在の母は、継母にして村中に於ても、一同より慕はれたる好青年らしく、弟が「家の兵隊さんに会ったことありますか」と、得々として取出したる在営当時の写真帳の中より数々の兄花吉氏を示して余に紹介せるが、写真より見るも温厚たる容貌の中に毅然たる所あり。頼母しき勇士なるを思はす。

夕色漸く落ちんとする頃、三ヶ尻村を後にす。微風田圃を過ぎりて漸くに涼気を送る。帰京せるは七時を過ぎたり。(八月九日記)

伊高花吉軍曹の事件中の行動を、判決理由書にみやう。
「伊高花吉は安藤輝三の思想にやや共鳴しありしが、二月二十五日夜、所属中隊鈴木金次郎に伴われ、第七中隊長亡野中四郎の許に至り参加の決意を促さるるやこれに同意し、且統帥を紊ることを察知しつつ、第十一中隊付須田軍曹に参加を勧誘せり。出動後は警視庁選挙部隊に加わり、継機関銃分隊長として平二十名を率ひ、同庁前の警戒に任ぜり。」

薄茶色に古びた三十余年前の原稿用紙のこの訪問記を読みながら、同時の心境、環境の種々相がのぞき見られる思いである。新正雄氏の病気は、いわゆる拘禁性精神病で、獄中生活者の中にままある精神障害といわれるが、それにしても、病気になったから連れて帰れと引取らせて
あとの事は知らない軍のやり方には、いくら叛乱軍とはいえ慷慨を禁じ得ない。現在では考えられない処置である。私が見舞ったあと、二ヶ月後には正雄氏は遂にこの世を去った。

私の服役者留守宅慰問行はこの後も続いた。

千葉の宇治野時参軍曹、埼玉の黒田昶氏、黒沢鶴一氏、麦屋清済少尉、柳下良二中尉、深川の宮田晃氏等の留守宅を訪ねては家族の方々と語り合った。しかしその訪問記は残っていないのは残念なことである。

いつの間にか私の訪問には尾行がつくようになっていたことが判った。それは確か秩父の山村に黒田家を訪ねて帰った翌朝だった。例のように私の家に廻ってくる特高が、
「昨日はご苦労様でした」
とにやにやしている。
「何ですか」
と返すと、秩父行きのことをいう。どこへ行き、何をしたかを知っている。

私は訪問に当って、わずかであるが見舞金を置いてきた。その見舞金を送り返してくる人が出たとき、私は胸のつまる思いをした。私が訪問することは、かえって家族の人々に迷惑をかけることになるのではないかと思った。私が帰ったあと、警察の人がその家人を訪ねて、私の言動を訊問するらしい。叛乱軍将士の家族として世を狭めている家族にとっては、警察の目は恐ろしいことだった。気に病む家族の人のうちには、見舞金を返す人の出るのも肯けることであった。

こういう善意さえも歪められる姿は、情けない思いで私たちを悲しませた。栗原さんと相談して、私の留守宅慰問は、しばらく見合わせることにした。




河野司 ある遺族の二・二六事件
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新正雄氏が若くして逝去されていたことは非常にショックな事実だった。これも一部に過ぎないが、河野司氏が動き、遺していなければ誰にも知られずに埋もれていた歴史のひとつだった事だろう。

現在、埼玉県熊谷市冑山の地図を見ると、該当する辺りに同じ名前の商店を見つけることができたが、それが新氏の親族関係の店であるかまでは判らない。


以前の記事
で紹介した常盤少尉の

「ついに我が事終われり。私は部下を集めて原隊復帰を命じた。部下は全員泣いていた。私も泣いた。この部下のなかには、一度も学校へ行けなかった為にかたかなさえ読めない兵がいた。子供の頃からの座職の為に下半身が衰えて、五十メートルの駆け足さえ出来ない兵がいた。脱走して家に帰り、働き手のない家業のトウフ屋を手伝っていた兵がいた。
この兵たちの為にこそ、私は起ったはずだった。この兵のために、何とかしてやれる世の中をつくるために。それが、かえって、これらかわいい兵に迷惑をかける始末になってしまった。私は負けた」

というセリフが思い出される。


決起将校らはあの世で部下にどんな思いで詫びているだろうか。



歩兵第三連隊兵舎に原隊復帰する兵士達