二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

彼等は反乱軍だったか

2021-01-25 16:21:00 | 二・二六事件

二・二六がクーデターである以上“反乱部隊”にはちがいはないが、勅命に反対したかどうか、そのキメ手として、いまもなお、「法勅命令は下達された」かが歴史の盲点となっている。
立野信之氏は小説「叛乱」の中で「奉勅命令は小藤大佐に内示しただけで、戒厳司令部は情勢を顧慮して未だ握りつぶしているという」と記したが、「事実はこのわたしが小藤大佐と図ってウヤムヤにしたのだ」と名乗りをあげた関係者がいる。
問題の奉勅命令とは、天皇の“みことのり”を奉じてなされた軍命令である。決起将校は「陛下が死を賜うとご命令になったら自決する」と事件最中に語っていたというから、現在でこそ考えられぬが、当時の青年将校にとって、奉勅命令はまさに絶対的なものであった。事件発生当初、決起部隊は、第一師団管下に包含され、師団から食糧、燃料、衣類の支給さえうけ、れっきとした皇軍として通ったが、やがて二十八日夕方五時にこの奉勅命令下達が決定された。


【奉勅命令】二十六日朝来行動セル部隊ハ速カニ明治神宮外苑ニ集結スベシ勅ヲ奉ズ



わすが三行の命令である。結局決起部隊はこの“三行命令”に従わなかったというので、反徒ということになったものだが、二・二六法廷は、同命令が決起部隊に伝えられたという見解で、大量十三名の将校と四名の民間人に死刑を言い渡したのである。“三行命令”ゆえの極刑というわけだ。
ところで、「それは下達されなかった。従って裁判そのものの根拠はない」と関係者は言う。その頃朝鮮の羅南(現在北鮮領土)にいた本庄繁大将の女婿、山口一太郎大尉はこういっている。
「小藤連隊長と示し合わせ、たしかに奉勅命令は握りつぶした。だから決起将校は命令の内容を知らぬはずだ。
またあの当時は叛乱将校達に電話を利用させないために、電話は外部で切断していたし、ラジオは叛乱将校の方で、兵士に外部の雑音を聞かせぬために、取り外していたから、叛乱将校達は奉勅命令を知らなかったのが本当である。」
というのは、旧陸軍において、命令下達の責任者は副官であると勅命による「軍隊内務書」で定められている。山口氏は、小藤連隊長の副官に臨時に任命され、決起部隊の陣中にシバシバ出入りしたが、奉勅命令を伝えなかったという。
副官が命令下達を怠った場合、同内務書の罰則規定で禁固二ヶ月に処せられることになっている。
「なぁに、禁固二ヶ月ですむものなら、と思って下達しなかった」
という。にもかかわらず、勅命は下達されたという前提のもとに、暗黒裁判は進められた。この一事だけでも軍首脳がいかにあわてふためき、善後策をとったかがうかがわれるわけだ。



引用
週刊読売 生きている二・二六
日本週報 悲涙落つ



彼等は、天皇の軍隊を勝手に動かした時点で天皇に背いたことになるが、勅命に従わなかったのではないことは明らかだ。
そして日本は当時から法治国家であるから、事実はきちんと上げていき、それに基づいて裁判を行うべきだろう。

事件中傍受された電話音声の中でも栗原は
「向こうもとにかく奉勅命令で来るんでしょうから。そういう状況ですか?」
と斎藤瀏少将に訪ねている。これは二十九日早朝の会話である。
恐らく来るであろうことは予想していたようだが、下達されていたらこのような言い方はしないだろう。



結論、奉勅命令は下達されていなかった。これははっきりと当事者から証拠が上がっているのだから、裁判においては陸軍に非があったのは間違いないだろう。


山口一太郎大尉




追記

戦後になり、遺族が「叛乱」という名だけは取り除いてくれと申し出たところ、「そんなものはとっくにない」と返ってきた。遺族には何の知らせもなく、官報か何かに載っていたらしい。
これが無くなっただけで遺族の心情はいくらか軽くなったのではないかと思う。