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こころが生ずる場

絵本のこと、日々の生活のこと、研究のこと、折々に書き留めていきます。OCNから引越しを命ぜられ移り住むこととなりました。

シンポ「絵本を媒介とした活動から子どもの発達を問う」の余韻

2010-09-23 22:50:38 | こころに浮んだこと

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長崎大学でのシンポジウム(絵本を媒介とした活動から子どもの発達を問う-障害のある子どもの支援としての絵本利用の可能性3-)の打ち合わせ中の風景。

人が座っていないPCの席が私の場所。ちょっと抜けてパシャッと1枚撮らせていただきました。お気づきでしょうか?皆さんのパソコン。新旧(Windows XPあるいは7)の違いはあるものの、全員申し合わせたようにPanasonicなのであった。\(◎o◎)/!

しかも発表中、このメンバーは自分のパソコンをプロジェクターにつなぐことで話すことに拘る、つわものばかり。入れ替え作業に手間取らないプロ集団。発表の内容は兎も角としてそのことがなんといっても印象深かった。

 ちなみに余談であるが、長崎空港のお手洗いで私は、自分のパソコンをリュックサックごと落としてしまった。あまりのショックに頭が真っ白になった。とりあえず、人の迷惑も顧みず、高速バスの中でパソコンを立ち上げ安否を確かめた。無事である。ほ~っ、と胸をなでおろしたのであったぁ~(おしまい)。ではなくて、そのことをみんなさんに話したら、この写真の中のお一人、大六先生がいった、ひとこと。

「それは・・・・・、しばらくしてから出るんです。寿命が短くなりますよ・・」

が~ん。

まあ、シンポのときまで生きていてくれれば、とりあえずは・・・・。それにしても、頭を打ってしまった人間みたいだなぁ、とひそかに思ってしまいました。

 シンポジウムの開始時間は、16時30分から、打ち合わせの集合時間は14時半という約束であったのになぜか13時前には、待ち合わせ場所に集合してしまった私たち、始まるまで、延々と話をし始め、シンポの時間にはすでに話疲れていたのかもと思うほどでした。

 そのとき思いました。真剣に話を聞き、シンポのかたちを作り上げていこうとしてくださる方たちによって、自分でも気づかなかった何かに私は気づき始めたということ。

 内容もさることながら、それ以上の何かが今ここにあるかもという感覚、それは、新鮮であるけれども、かなり厳しいものだなぁと思いました。でも、楽しかった。久々に感じる楽しさでした。楽しいという感情は、実は、複雑な感情でできているのでしょう。

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 今回のシンポでは、話題提供する研究者が、すべて、自分で分析したデータを示した。絵本を利用することで子どもは発達するのだという漠然とした神話のようなお話ではなく、それは本当の話なのか?そうだとしたら、どこがどんなふうにか?

 いろんな疑問の投げかけ方があるだろうが、障害をもつ子どもの発達支援を考えるなら、神話だけで、何の責任もなく絵本がいいよとは言えない。避けては通れない部分である。が、そのような絵本の分析の仕方には、一般的、常識的な絵本読み合いをイメージしている方たちには、とても違和感があるだろうし、強烈に批判する方もいることを承知のうえでである。

 私自身がぐうたらであり、しかもへたれな研究者なので、子どもにも親御さんにも楽して成長してもらう、ぐうたら支援の方法をずっと考え続けてきた。その結果が、活動という視点、そして人の活動は常に具体性の中でしか生じない。対象物との具体的なかかわりの中で、という視点なのである。その対象物、つまり心理的道具(認知的道具)のひとつが絵本という文化・歴史的ものなのである、わたしにとっては。

 自然志向的な絵本の利用、目的志向的な絵本の利用と二分法的に企画を示したのは、一般的な絵本の利用をイメージしている方や絵本の利用に大人の意図性を極力排除しようという信念をもたれている方たちとの本筋とは異なる部分での議論を避けたい意図があったためともいえる。しかし、そこに指定討論のお二人が、あたかも真逆であるかのように、そこが重要、いいやそんなことは重要ではない。たいしたことではないと言い切って下さった。その結果、絵本を利用するおとなと子どもの活動が、ある一般常識的な範囲にはとどまらない事をはっきりと見えるかたちで示してくださったようだった。私以外の人々の働きの上に生かされている私をちょっと感じたような・・・でした。

 ちょっとこれも余談です。、真剣なメンバーであったせいだろうと思うのですが、私はいつもより緊張しておりました。そんな中で、恩師がフロアーの中にいることに気づいたときの衝撃はかなりなものでした。物語と想像性、子どもの行為の意味、いろいろな宿題を残して去っていかれましたが、とてもありがたいなと思いました。それとともに、何かを求めてきてくださるフロアーの方たちの存在が、きっとシンポに大きな意味を持たせてくれていることにも、私は感謝しなければならないのだろうと思っています。舞台の上の俳優だけでは、演劇は成り立たないように観客の力というものがあの場にも確かにあったと確信しています。

 いろいろ書きたいけれど、今日はこの辺でおしまい。

次の日、いろいろな文化が混ざり合った、長崎の町を歩きに歩いて、空っぽになった心に沸いてきた言葉は、

絶対矛盾的自己同一、ゲシュタルト心理学、要素と全体について・・・だった。

 私の中で矛盾するものが統合したときに、自然の本来の働きが生まれていくんだろう・・・と。ふと。

すぐに忘れるけど・・・。

感謝の代わりに。

いつもありがとうございます。そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

 


揚げ足

2010-08-02 23:09:57 | こころに浮んだこと

人の揚げ足を取ることばかりに気を取られている人は、

まさにその人に揚げ足を取られることになるのかもしれない、と思った今日。

どうでもいいけど、「せこい」だろう、

とは思う。

もっとやることがあるだろう。

・・・・

・・・・

*揚げ足をとるとは・・(相手が蹴ろうとしてあげた足を取って逆に相手を倒す意から)相手の言いそこないや言葉じりにつけこんでなじったり、皮肉を言ったりすること。

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パーマ屋さんの思い出

2010-07-11 17:31:32 | こころに浮んだこと

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実家の隣はパーマ屋さんだった。

毎日、隣に遊びにいき、髪を結ってもらう。

そんな小学校低学年までの私の日常が思い出されていた。

そこでは、確かに町内のお母さんたちが、世間話に興じている風景があった。

パーマ屋さんなのに、なぜかテーブルの上には、持ち込まれた漬物の数々がのっていった。

味噌漬けやら粕漬けやらの混じった匂いとともに、

聞いてはいけないかもしれないと思いつつも、聞き耳を立てていた子どものころの自分をぼんやりと思い出した。

 「パーマネント野バラ」という映画が、印象深く心に残った理由の1つには、すっかりと忘れかけていたそんな古い古い記憶が関与していたのだろうと思う。

 あんまり思い出したくない、昔の匂いがする。

青年期にこの町を出たい、この町には戻りたくないと思った、空気。

そんなものを映画を見ながら思い出していた。

ただ、昔と違うのは、知性など微塵も感じられないような情としがらみの世界には、あたかも知性でスマートに生きていますといわんばかりの人々からはあまり感じることが出来ない、人としての深い悲しみの中から生まれ出る、本当の(多分)やさしさを感じる、ようになったということだ。

もっとも自分が苦手とした空気、たぶんちょっとだけ軽蔑していたかもしれない世界、そこには、人間の本質的なものから生まれ出る力(弱さの力)のようなものがある、と理解し始めたことだろうか。

 


難癖・・・て

2010-06-28 23:43:55 | こころに浮んだこと

例えば、

〇 △ × という3つの記号自体には優劣がない。

けれど、そこに、よい、まあまあ、わるいという言葉をそえたら、

よいは〇

まあまあは△

わるいは×

というふうにほとんどの人は思えるだろう。

文化の中で生きてきたとき、暗黙の了解でそれを共有するようになるのが人である。

 文化の共有になんの問題もないと思われる大の大人が、明らかな文脈の中で示されているその記号の意味が分からないと言い張ったら、そのように言い張られた側の人間には、その人がどのような人間として映るのだろうか?

また言い張る人には、特定の他者に対してどんな意図があるのだろうか?

たかだかそんなことを素材に、眼に見えない戦をしているのが、人間というもののある一面の性質であるのだろう。

ところで、こういった現象を言葉にしたら「難癖をつける」ということになるのだろうか。


殺陣と型と

2010-05-23 18:40:37 | こころに浮んだこと

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一週間ぐらい前に「花のあと」という藤澤周平さん原作の映画を見に行きました。

映像にするのは難しいなぁと思ったのですが、

主演の北川景子さんと宮尾俊太郎さんの殺陣(たて)が印象的でした。

さまになっているという意味で。

テレビでみる若い俳優さんたちの殺陣には、ちょっといただけない・・・と思ったりしていたのです。最近は、龍馬伝で、んーと思い、いきなり顔が見えなくなると動きが変わるのがやっぱり、んーだったので、私的には。

振る舞いの(動き)の美しさには、やはり型というものが隠れて存在するのでしょう、と思いました。

・・

・・

上の記事とは関係ないのですが,・・・・もしかしたら関係あるのかもしれません。

自分でも分からないのです。でも、映画と写真が自分の中では結びついた・・という感じ。

スズメとヒヨとの間を結ぶと三角形が描ける。まるでヴィゴツキイの三角形だなぁと,しかもスズメの視線がちゃんと三羽を結び付けている。何かを感じて載せてみた写真でした!