長崎大学でのシンポジウム(絵本を媒介とした活動から子どもの発達を問う-障害のある子どもの支援としての絵本利用の可能性3-)の打ち合わせ中の風景。
人が座っていないPCの席が私の場所。ちょっと抜けてパシャッと1枚撮らせていただきました。お気づきでしょうか?皆さんのパソコン。新旧(Windows XPあるいは7)の違いはあるものの、全員申し合わせたようにPanasonicなのであった。\(◎o◎)/!
しかも発表中、このメンバーは自分のパソコンをプロジェクターにつなぐことで話すことに拘る、つわものばかり。入れ替え作業に手間取らないプロ集団。発表の内容は兎も角としてそのことがなんといっても印象深かった。
ちなみに余談であるが、長崎空港のお手洗いで私は、自分のパソコンをリュックサックごと落としてしまった。あまりのショックに頭が真っ白になった。とりあえず、人の迷惑も顧みず、高速バスの中でパソコンを立ち上げ安否を確かめた。無事である。ほ~っ、と胸をなでおろしたのであったぁ~(おしまい)。ではなくて、そのことをみんなさんに話したら、この写真の中のお一人、大六先生がいった、ひとこと。
「それは・・・・・、しばらくしてから出るんです。寿命が短くなりますよ・・」
が~ん。
まあ、シンポのときまで生きていてくれれば、とりあえずは・・・・。それにしても、頭を打ってしまった人間みたいだなぁ、とひそかに思ってしまいました。
シンポジウムの開始時間は、16時30分から、打ち合わせの集合時間は14時半という約束であったのになぜか13時前には、待ち合わせ場所に集合してしまった私たち、始まるまで、延々と話をし始め、シンポの時間にはすでに話疲れていたのかもと思うほどでした。
そのとき思いました。真剣に話を聞き、シンポのかたちを作り上げていこうとしてくださる方たちによって、自分でも気づかなかった何かに私は気づき始めたということ。
内容もさることながら、それ以上の何かが今ここにあるかもという感覚、それは、新鮮であるけれども、かなり厳しいものだなぁと思いました。でも、楽しかった。久々に感じる楽しさでした。楽しいという感情は、実は、複雑な感情でできているのでしょう。
今回のシンポでは、話題提供する研究者が、すべて、自分で分析したデータを示した。絵本を利用することで子どもは発達するのだという漠然とした神話のようなお話ではなく、それは本当の話なのか?そうだとしたら、どこがどんなふうにか?
いろんな疑問の投げかけ方があるだろうが、障害をもつ子どもの発達支援を考えるなら、神話だけで、何の責任もなく絵本がいいよとは言えない。避けては通れない部分である。が、そのような絵本の分析の仕方には、一般的、常識的な絵本読み合いをイメージしている方たちには、とても違和感があるだろうし、強烈に批判する方もいることを承知のうえでである。
私自身がぐうたらであり、しかもへたれな研究者なので、子どもにも親御さんにも楽して成長してもらう、ぐうたら支援の方法をずっと考え続けてきた。その結果が、活動という視点、そして人の活動は常に具体性の中でしか生じない。対象物との具体的なかかわりの中で、という視点なのである。その対象物、つまり心理的道具(認知的道具)のひとつが絵本という文化・歴史的ものなのである、わたしにとっては。
自然志向的な絵本の利用、目的志向的な絵本の利用と二分法的に企画を示したのは、一般的な絵本の利用をイメージしている方や絵本の利用に大人の意図性を極力排除しようという信念をもたれている方たちとの本筋とは異なる部分での議論を避けたい意図があったためともいえる。しかし、そこに指定討論のお二人が、あたかも真逆であるかのように、そこが重要、いいやそんなことは重要ではない。たいしたことではないと言い切って下さった。その結果、絵本を利用するおとなと子どもの活動が、ある一般常識的な範囲にはとどまらない事をはっきりと見えるかたちで示してくださったようだった。私以外の人々の働きの上に生かされている私をちょっと感じたような・・・でした。
ちょっとこれも余談です。、真剣なメンバーであったせいだろうと思うのですが、私はいつもより緊張しておりました。そんな中で、恩師がフロアーの中にいることに気づいたときの衝撃はかなりなものでした。物語と想像性、子どもの行為の意味、いろいろな宿題を残して去っていかれましたが、とてもありがたいなと思いました。それとともに、何かを求めてきてくださるフロアーの方たちの存在が、きっとシンポに大きな意味を持たせてくれていることにも、私は感謝しなければならないのだろうと思っています。舞台の上の俳優だけでは、演劇は成り立たないように観客の力というものがあの場にも確かにあったと確信しています。
いろいろ書きたいけれど、今日はこの辺でおしまい。
次の日、いろいろな文化が混ざり合った、長崎の町を歩きに歩いて、空っぽになった心に沸いてきた言葉は、
絶対矛盾的自己同一、ゲシュタルト心理学、要素と全体について・・・だった。
私の中で矛盾するものが統合したときに、自然の本来の働きが生まれていくんだろう・・・と。ふと。
すぐに忘れるけど・・・。
感謝の代わりに。
いつもありがとうございます。そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。