和貴の『 以 和 為 貴 』

合理性の下に政治・経済は成り立たぬ


大局観のない人は国家や政治を語る力がない

「職業としての政治」「人間の条件」が示す本質
出口 治明 : 立命館アジア太平洋大学(APU)学長


2018年06月03日 東洋経済新聞

政治ニュースに接していても、「権力とは何か」「政治とは何か」と真正面から問われて、答えられる人は少ないのではないでしょうか。ビジネスは国家や政治と無縁ではありません。時代を見通す大局観を身につけるためには、国家や政治を考える力が不可欠です。

 中略

政治の大きいテーマの一つとして、「私」と「公」の問題が挙げられます。市場経済とは、個人が自由に活動することが基本であり、「私」の活動ですが、その影響は当然、社会つまり「公」につながります。

特に近年では、経済がわからないと政治もわかりません。米国の大統領選でも、直近の株価次第だといわれたりしています。株価と政治の関係は「私」と「公」の関係であって、株価が政治に影響するさまは個人や企業、経済といった「私」の肥大化だと考えることも可能だと思うのです。

「公」とは何か

政治とは、つまるところ税金の分配。税金を何に分配するかといえば、公共財や公共サービスの提供に分配するのです。であるならば、政治のベースにあるのは「公」であるはずです。民主主義は西洋で生まれたものですから、西洋の民主主義の長い歴史の中で「公」と「私」がどのように扱われてきたのか、「公」とは何かということを、きっちりふまえておく必要があります

それを学ぶには20世紀最大の哲学者の一人である、ハンナ・アレントの『人間の条件』(ハンナ・アレント/志水速雄<訳>ちくま学芸文庫/1994年)がオススメです。戦後の名著の一つです。

「公」とは何か、「私」とは何か。それが、国家や経済の発展、技術革新とともに変化し、「私」の領域だった活動がどのように「公」の領域を浸食していくか。そういったことを、実に緻密に論じています。

経済学をはじめとした社会科学に対する突き放した理解など、アレントが書いていることは全編にわたって、実に示唆に富んでいます。なかでも人間の行為を「労働」「仕事」「活動」に分けて整理しているところに新鮮な発見があります。

「労働」、すなわちレイバーは私経済であり、おカネを稼ぐための活動です。一方の「仕事」、つまりワークは作品をつくったり、モノをつくったりすることです。そして、「活動」、アクションとはモノや事柄の介入なしに人と人の間で成り立つ行為で、熟考して本質をとらえることも含まれます。活動は、古代にさかのぼれば、主として政治などの公的なものを指していました。

アレントはこの3つの存在を縦糸として、横糸にギリシャから現在に至る政治、社会状況の変化をふまえて、この3つの行為がどのように変貌してきたかを整理し、レイバーが資本主義の下でどんどん肥大化し、それに伴って公的な問題のために人間が活動する能力が次第に弱ってきた、という結論を導いています。

先に紹介したウェーバーはいわば原理原則のかたまりみたいなもの。それにアレント独特の分析を加味して、「公」というものについてじっくり考えてみましょう。



【 所 感 】

西洋の民主主義なるものは、支配する者と支配される側との調和を目指したものに過ぎないわけで、所詮は"奴隷ありき"の論でしかない。このような意味からしても、如何なる西洋哲学・思想の書物など、読むに価しない。さらにいえば、人間の行動とは、本来ならば「人間らしく生きる」ことに尽きるわけであるが、そうした考え方を記した書物というのは、筆者が知る限り、西洋にはない。仮にあったとしても、それは一部の支配層が主役の書に過ぎないことは、概ね想像ができる。

日本人、そして東洋人でありながら、まったくの西洋かぶれに陥ってしまっていては、それもやむ無しといったところか。全否定をするつもりはないが、このような学長の下に、指導を受けた学生がいるとするならば、日本国民ならず、世界人類すべてが幸福になることはないであろう。

如何に「経済学」だの「社会科学」などといってみても、所詮は"末学"に過ぎず、本質的な学問においては、いつも後回しだ。このことは合理性を重視する西洋的手法ともいえ、世界の歴史を見てみても、成功例などひとつもなく、いままさにわが国においても政治的混乱を拭いきれないでいる。

そして、戦後まもない、一面焼け野原状態からの経済復興は、政治力というよりも日本国民の頑張りのお陰だということを決して忘れてはならない。このことは、「公」というものに対する精神を、当時の国民(先人)の多くが強く抱いていたことの顕れであり、「私」は、二の次、三の次だったことの顕れでもる。

"自分らしく生きる=「私」"には、まずはそれ相応の働きがあってこそ。ゆえに働きがあり、仕事があり、活動がある。何事も順序というわけであるが、こうした考え方というのは、合理性にばかり心囚われているような者たちには、到底思いもつかないことであろう。

たしかに、労働・仕事・活動には、"合理性"という要素は必要不可欠ともいえ、新たな技術革新へとも繋がる。だが、政治・経済といったものに合理性など必要ない。どこまでも、国家国民の幸福と利益のために奉仕する、という心意気があってこそなのだ。


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