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西やん中洲にいます。

西やん67歳、ameba blogに引越しました。

思い出話74 【仕事の辞め方6】

2016-12-18 19:30:32 | 思い出話
こんばんは。

今日は、休日出勤でしたが、夜の仕事は休みです。
ただ今、洗濯タイム。です。

『仕事の辞め方』を何度か書いてきましたが。福岡に来るまでは、家族が居た間は心掛けていた事があります。

間を空けない事。
家族が居るので、収入のない期間を作らない事です。

熊本で7年、勤務しました。
前回、書いたように、『東京に来なければ、上にあがる事はない』と言われた事もあるのですが、ある噂がありました。

『熊本事業所を閉める』と言う噂でした。

私が九州の熊本に来た目的は、かみさんの両親の近くに居ること。

私は、再度の転職を考えたのですが。
かみさんに話はしましたが、ほとんど独断。

熊本で、県営の団地に住み、友達もたくさん出来たかみさん。
長男を、熊本信愛女学院幼稚園に行かせたいと、年中で行かせたばかり。
かみさんは反対しました。

でも、私は進めました。

当時、すでに熊本には、私の技術者としての経歴でも、転職できる会社の求人はなく、範囲を福岡まで広げました。

当時あった、技術者向けの転職情報誌の『テック・ビーイング』を買い、福岡での転職先を探しました。

最初に目を止めたのが、博多区にある専門学校。情報処理の教員の募集でした。
ここで、高校ではありませんが、教員への道に魅力を感じて、応募しました。

博多に来て、最初の面接で、コンビュータのソフト開発経験がある事と、高校の商業科教員免許を持っている事が評価され、専門学校役員の最終面接の日が決まりました。
両方を教えられる人が居なかったようです。

もう1つ、大きな要素がありました。
私たちの仕事で必須ではないのですが、客観的な評価の基準として、『情報処理試験』があります。
今は細分化されていますが。

当時は、二種、一種、特種の3つでした。
熊本に居る間に、一種に合格できました。
上場しようという規模の会社でしたので、一種に合格した社員を集め、特種に合格するための研修をしてもらえました。
特種には論文があり、その研修でした。

幸い、翌年に特種に合格できました。

今は、マイクロソフトやオラクルなどの資格が重宝されますが、当時は、情報処理試験の合格者が何人居るかが、企業の評価に繋がる時代でしたので、この『特種』の資格は大きな要素になりました。

ただ、専門学校の先生になれそうな時に、熊本の家で、転職情報紙をもう一度見て、ある会社に応募しました。

専門学校の先生の役員面接の日に、その会社の面接も入れました。

役員面接を終えて、その会社へ行き、面接を受けました。

面接して下さったのは、当時の所長で、話をする間に、同郷の福井出身の方と知りました。
防衛大学校卒の自衛隊にいらっしゃった方でした。後に分かったのですが、ある自動車メーカーの米国法人の社長をされ、後にそのメーカーの社長をされた方の兄弟でした。

その後、両方から『採用』の通知を頂き、迷いました。

先生として、教える立場と、開発の現場に居る立場と、自分にはどちらが合ってるのか。
どちらがやりたいのか。

悩んで、悩んだ結果、私が選んだのは『現場』でした。
専門学校に断りを入れ、後から見付けた会社に入る事にしました。

こう言う決断は、かみさんとの相談ではなく、独断。それは、責任を負う事。
相談して決めて、もし、いい方向に行かない時に、『あの時、・・・』と思いたくないからです。全て、自分の責任。

『自分勝手』だと言われましたが。

福岡の会社に転職して半年。
熊本の事業所が閉鎖される事になりました。

残った人達は、再就職が大変だったと聞いています。ちょうど、バブルがはじけた時期で、転職先がなかなか見つからなかったそうです。

こうして、福岡に転職した私ですが。
『仕事の辞め方』からは、少し離れますが、私の本性を、次回から書きたいと思います。

ちょっと、赤裸々に。

YouTubeで見る、私から、想像できるかとうか。赤裸々に。

今日は、これで。

では、また。


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思い出話73 【スペースワールド】

2016-12-17 19:56:19 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
前回の寒さに比べて、今日はずいぶんましです。

毎年恒例なのですが、お店でケーキを用意して下さり、持ち帰ります。
でも、一人では食べきれないんですよね。

本当は明日だったのですが、今日、用意して下さっていました。

『仕事の辞め方』はお休みして。
今日は、『スペースワールド』です。

北九州市にある『スペースワールド』ですが、来年末での閉園が決まりました。
少し前に、スケートリンクの氷の中に5000匹の魚を氷づけにして、批判を浴びたところです。

私がスペースワールドに行ったのは一度だけ。だいたい、あまり遊園地の乗り物とか、苦手なんです。

大阪に住んでいる頃に、かみさんと結婚する前ですが、生駒山の頂上にドライブで行き、そこに、山の上にループコースターがありました。
怖がりのビビりの私は、地上にあってもダメなのに、山の上なんてとんでもなくて、いっしょに乗ろうと言うかみさんの誘いを頑なに拒否。

結局、かみさんは一人で乗りに行って、私は下から見ていました。

かみさんは、平然と笑いながら降りてきたのですが、いっしょに乗っていたカップルの男性の方が、降りてへたりこんでいました。
乗らなくて良かった。

話をスペースワールドに戻すと。
行ったのは、長女が小学生の頃で、息子が小学の低学年かな。次女はまだ小さい時でした。
かみさんが、下の二人をみて、私は長女について乗り物の所に行くのですが。

最初に行ったのが、なにやら垂直に落ちるやつ。
いっしょに乗ろうと言う娘の誘いを頑なに拒否した私でした。ビビり。
私にあきれた娘は、一人で乗りに行き、垂直に落ちてきました。
そして、満面の笑みで戻ってきました。

生駒山の再現。

かみさんに、
娘『おとうさん、怖がってのれないんよ』
と報告。
かみさん『おとうさん、ビビりやから』

家族みんなに、笑われ、バカにされました。

スペースワールドの思い出が、もう1つ。

晴れた日だったのですが、午後に突然の雷雨。雷が鳴り、一時間くらい乗り物がストップ。

これが、スペースワールドたけではなかったんです。

社員旅行で、大分の城島高原などに行き、城島高原遊園地に行ったのですが、その時も、途中で雷雨。
私は、すでに雨男で有名だったので、みんはに私のせいだと言われました。

その少し後で、家族で城島高原遊園地に行ったのですが、この時も、雷雨で乗り物が一時ストップ。

家族と遊園地なとに行くと、予報にない雨。それも、雷雨。

スペースワールドでも同じだったので、これまた、家族に恨まれました。
『おとうさんと行くと、いつもこうやね』って。

それから、スペースワールドに行く事はなかったのですが。

いざ、閉園となると。
地域への影響が気になります。

もちろん、遊園地の乗り物嫌いのビビりの私が、一人で出掛ける事はあり得ませんが。

みなさん、よろしければ、来年中にお出掛け下さい。


では、また。


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思い出話72 【仕事の辞め方5】

2016-12-13 20:06:17 | 思い出話
こんばんは。

今日は、奇数日。
夜の仕事の日です。

では、熊本に引っ越し、転職してからの話です。

熊本で入社したのは、本社が東京にあり、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡に支社があり、そこに、大型のコンピュータを置いて、全国をネットワークで結んでいた会社でした。

入社後何年かして、最初に東証2部に上場し、更に東証1部となった会社です。

横浜にソフトウェア開発拠点があり、私が勤務した熊本は、『熊本ラボラトリ』と言う名称で、福岡支社とは組織上は全く別で、横浜の開発部隊の直轄として、新しく作られた部署でした。

私が入社した時点で、私を含めて8名。
課長と、他に2名が元々の社員で、残りの5名が中途採用でした。

事務所の場所は、熊本城の近くで、熊本市役所とは、道路を挟んで反対側。熊本市の中心部のビルの7階でした。

『熊本ラボラトリ』が開設された目的は、システムの設計と、製造・試験を分離し、東京の仕事を東京で設計し、製造・試験を東京に比べ、人件費、単価の安い地方でする、分離のための実験的試みでした。

ネットワークも繋がっていたので、物理的には可能でしたが、失敗に終りました。
東京で設計をする部隊が、自分達で開発する要領で設計したため、その部隊の中での『暗黙の了解』部分が伝わらず、熊本からの質問の量が半端ない量になり、設計書に書いてない事は作れないので、結果として、『熊本に出してもダメだ』という評価。

何度か試みましたが、結局、熊本のメンバーが東京に出張して対応する事になり、当初の目的は達成できませんでした。

その後、名称も『熊本事業所』に変更となり、熊本のメンバーが東京に出張して、いっしょに設計をして、熊本に持ち帰り、製造・試験を行い、最後の試験は、また出張して対応するスタイルとなりました。

仕事の内容も、基本ソフトに近いものから、業務アプリケーションに変わっていきました。


ブライベートな面では、最初は民間のアパートに住んでいましたが、近くに出来た新築の県営団地に当たり、引っ越しました。
かみさんは、長女が生まれてからは、専業主婦となり、団地に引っ越してから、長男が生まれました。

かみさんは、団地に引っ越したことで、近所の同年代のお母さん達と友達になり、子ども同士も同級生だったりで、同じ熊本と言っても、天草の生まれなので、知らない土地と同じでしたが、いい環境のところに引っ越しができました。

結局、熊本には7年住みました。

私の年齢も30代半ばになった頃です。
その時の熊本事業所は、メンバーは入れ替わりがありましたが、人数的には10名程度で、そんなに増えてはいませんでした。

管理職は、課長が一人でした。
私が、年齢的に30代半ばになり、管理職登用が近づいた頃の事でした。
課長との面談で。
『熊本にはポストがないから、更に上に行きたいなら、東京に来いと本社は言っている。東京に来なければ、上は当面ないそうだ。』と言われました。

管理職になる事より、元々は、かみさんの実家に近い所に住み、いつ何どきでも、実家に帰れるようにすることが目的での転職でした。

その言われ方もあり、その会社を辞めて、再度、転職する事を考えはじめました。


今日は、動き出したので、この辺にします。
続きは、またの機会に。

では、また。


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思い出話71 【仕事の辞め方4】

2016-12-09 19:53:03 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。

これまで、3回、辞めた事を書きましたが、今日は、私が『教員』に戻る事を考えなくなった経緯の様な事を書きます。

大阪のコンピュータソフト会社に入社し、東京のメーカーに新人研修にいったのですが、そこで教わった言語が、アセンブラと言う、技術者が使うコンピュータ言語では、一番レベルの低い言語でした。

なので、ある程度、仕組みを理解しないと記述が出来ません。
この言語からのスタートだったことが、私には幸いしました。レベルが低いと言うことは、簡単ではないので、逆にハマりました。

研修を終えて、初めて担当した仕事が、ユーティリティーの開発でした。ファイルをコピーしたり、作成したり、削除したり。
これは、主に技術者が使う機能で、あらかじめマニュアルがあります。そのマニュアルに記述されている通りの事が出来ないといけません。

この仕事で、コンピュータの中で、ファイルがどう管理されているかを知ることができました。
この時の知識で、削除したファイルを復活させた事があります。

この仕事で、もう1つ得た事は、何でもノートに記録する事。マニュアルを読み、調べ、知った事を、次に同じ事があった時に、マニュアルを読み直さなくていいように、ノートにまとめた事です。

最初の仕事から、私は一人で任されまさた。
夜中に仕事する事が多く、トラブルが起きても聞く相手が居ないので、自分で調べるしかありませんでした。
それから、マニュアルを読んで、必要そうな事は、簡潔にノートに記録して、備えるくせもつきました。

次の仕事も、ユーティリティーの1つでした。索引ファイルと言う、キー付きのファイルです。
例えば、社員番号をキーとして。索引(インデックス)を見て、ダイレクトに目的のレコードを読み込めるものです。

メーカーが、新しいコンピュータを開発し、ある病院に納めたところ、以前の機種より、処理スビードが遅くなり、苦情が来て、調べた結果、索引ファイルを処理するプログラムに無駄があり、時間が掛かっていたため、チューニングする事になりました。

これも、私一人で担当。
上司から、チューニングの案を伝えられ、それち合わせて、ブログラムを作り替えした。
目標は、3分の2の処理スビードにする事でしたが、結果は半分以下にする事ができました。削れるところは削りました。

この仕事でも、索引ファイルの仕組みを理解する事ができ、最初の仕事と合わせて、今も役立っています。


転職して入った、熊本の会社で、最初に担当したのが、コンピュータ言語の1つ。コボルと言う言語のライブラリーの開発でした。

技術者が、コボルで描いたプログラムを実行した時に、文法書に記述された通りに動かすためのブログラムをアセンブラで開発しました。
何人かで分担しての開発でしたが、文法書は、隅から隅まで読みました。

今、私は主にコボルのプログラムを扱っています。なので、この時の経験が、ずっと活きています。


この様に、私の出足は、ユーティリティーや言語など、基本に近い部分を担当し、それも、アセンブラで開発できたため、多くの基礎の部分を覚える事ができました。

また、難易度も高かったので、やりがいもあり、それがハマった理由です。

その後は、業務プログラムへと担当が変わっていきましたが、コンピュータの仕組みを理解できた分、応用ができて、楽しめました。

それで、いつの間にか、『教員』に戻る事は考えなくなり、更に、熊本への転職は、コンピュータソフトの仕事についた事で、そのチャンスが増えた結果でした。

でも、熊本で勤めた会社も、辞める事になります。それは、また次回。

では、また。


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思い出話70 【仕事の辞め方3】

2016-12-05 20:29:51 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
今月は、奇数の日が夜の仕事です。

さて、非常勤講師をしていた大阪の女子高を辞めて、商業の教員になるには、そろばんが出来ないし、せめて、コンピュータを覚えないと。と思いました。

ただ、結婚していて、2人ともアルバイト生活。専門学校に行く余裕はなく、素人で雇ってくれる会社を求人雑誌で探して、面接を受けに行きました。

それで採用されたのが、社員数70人ほどで、大阪に本社、東京に支社のある会社に入社しました。

4月1日に入社し、翌日から1ヶ月間、東京の田町駅近くにある沖電気の工場敷地内で、メーカー研修を受けました。

中途採用の新人でしたので、年齢は上から2番目。妻帯者は私だけ。大半が専門学校卒の二十歳くらいの若い人ばかり。
ただ、こちらは2人分の生活がかっていますから、勉強しました。

研修から戻って、1ヶ月も経たない内に、一人で、また、東京への長期出張。帰るのは月に一度くらい。3週間、休まず働いて、1週間もどるような生活。
今では、考えられないような残業。
だだ、残業代は、残業した分をきっちり払ってくれる会社でした。

それで、収入が安定してきたので、子供を考え、かみさんが長女を妊娠、出産しました。
でも、その間は、東京や富山などに出張ばかりでした。

仕事の面では、一人で出される事が多く、苦労した分、身に付いたものも多く、この世界にハマってしまいました。
教員にはこだわらなくなっていました。

入社して、2年が経過する手前のある日。
たまたま、かみさんが見ていたテレビ番組で、熊本県の『Uターンアドバイザー制度』が紹介され、その事をかみさんから聞きました。

さっそく、熊本県大阪事務所に連絡し、訪ねて、私は熊本県の出身ではありませんが、かみさんが熊本出身なので、登録可能とのことで、私の履歴を登録しました。

まもなく、面接の連絡があり、東京が本社で保険会社系列の会社の大阪支社で面接を受け、熊本勤務での採用がきまりました。

次の採用が決まってから、仕事の切れ目になる3月末で退職することとして、上司に話をしました。

退職の理由は、かみさんの両親の面倒をみるために、熊本に帰ると言う事です。
かみさんの両親は、二人とも聾唖者で、かみさんの妹たちはすでに実家を離れていたので、これは本当の話です。

幸い、上司も社長以下、役員の方も理解して下さり、私の最後の出社日には、社長をはじめとする上司が、送別会をして下さり、大阪北新地のスナックにも、初めて、連れていってもらいました、

ただ、最後に担当した仕事について、何かあったら連絡するからと、段ボール一箱ぶんのプログラムリストを持たされました(笑)

結局、そのリストを使う事はありませんでしたが、円満退職をする事ができました。

4月に入り、大阪から熊本市内に、一才になったばかりの長女を連れて、引越をしました。


今日は、この辺で。

では、また。


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