夢実現研究会2009

団塊世代の生き方を考えよう。

健康維持:心の健康:黄金の華の秘密その1

2009-03-16 11:50:18 | 健康維持:心の健康
黄金の華の秘密
要約

人間は機械だ。機械のように生きて、機械のように死んでいく。
人間は大きく花開く意識の種子を宿している。
人間は神になる可能性を秘めている。
だが、それは実現しない。
それが起こらないのは、社会によって、国によって、組織化された教会によって、既得権益を有する者たちによって、人間が催眠術にかけられているからだ。
社会は奴隷を必要としている。

あなたは自分の内にある肉体以上の何かを知っているだろうか?
生まれるより先に自分の中にあった何かを見たことがあるだろうか?
もしそれを見たことがあるなら、あなたは不死だ。

魂の人は危険だ。
なぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ。
彼を奴隷に貶めることはできない。
みずからの内に不死なる魂をもつ人は存在そのもの、神そのものにより深く身を委ねている。
彼は人間が作り上げた社会、文明、文化の構造など少しも気にかけない。
これらのものは彼にとっては監獄だ。
彼はキリスト教徒、ヒンドゥ教徒、イスラム教徒としては生きていない。
彼は群集の一部ではありえない。
彼は個として存在している。

もし、あなたが魂を得ようと努力し始めたら、それは社会にとって非常に危険だ。
そうなったら、あなたの関心が変わってしまうからだ。
あなたは外向的な人間から内向的な人間になってしまう。
社会は、あなたのエネルギーが外に向かって流れ続けるように、あなたが外向的な人間であり続けることを、金や名声や権力や、そういったすべてのものに興味を持ち続けることを望んでいる。

社会はあなたが内側に入っていくことを妨げる。
その最良の方法は、自分は内側に入りつつあるという偽りの観念をあなたに与えることだ。
教会に通っても、内側に入っていけるわけではない。
だが、教会はあなたに催眠術をかけ、内側に入りたければ教会に通わなければならない、と信じ込ませてきた。
しかし、教会は他のすべてのものと同じくらい外側にある。
社会はあなたに催眠術をかけて、内側に入りたければ聖職者のもとに来なければならないと信じ込ませてきた。
しかし、聖職者とは国家や社会の代理人だ。

神秘家はまったく違う生き方をしている。
神秘家の元に来る人は、その神秘家と波長が合うや、自然に、すみやかに、内発的に、内側へと動き始める。
そもそも、師とともにある目的はそこにある。

黄金の華、それは象徴だ。
花は完全さ、全一性を表している。
花は潜在能力の最大の表現、潜在能力の実現を表している。

いいかね、あなたは遠くまで行かなければならない。
いいかね、あなたは社会があなたの周りに仕掛けた罠から抜け出さなければならない。
いいかね、あなたはそのためにこの世に生まれてきた為すべき仕事をまだやり遂げていない。
いいかね、あなたは単なる種子であって、まだ、魂ではない。

種子は死ななければならない、そして初めて種子は成長することができる。

あなたは、まず、理解しなければならないことは、あなたが催眠術にかけられているので、その催眠術を解くプロセスを通り抜けなければならないということだ。
いいかね、あなたは条件付けられているから、その条件付けを解かなければならない。
死がやって来つつあるということを覚えていなさい。
実際、全ての物事は常に今、起こる。
すべての物事は、常に現在において起こる。
過去では何も起こらず、未来でも何も起こらない。
現在が存在する唯一の時間だからだ。

過去とはあなたの記憶にすぎない、未来とはあなたの想像に過ぎない。
ところが、あなたは過去に生きるように催眠術をかけられている。
あなたは、未来に生きるように催眠術をかけられている。
どの社会も現在に生きなさい、今、ここを生きなさいとは教えない。
真の探求者であるとは、今ここを生きるということだ。
今ここを生きる以外に生はない。
だが、そうするためには、かけられた催眠術を解かなければならない。
あなたは機械でなく、人間にならなければならない。
あなたは意識的にならなければならない。

だが、人間は、夢を見、空想にふけり、欲望を未来に投影しながら暮らしている。
だが、それは、この美しく、途方もない価値のある生を生きる道ではない。これはまったくの浪費だ。
あなたは瞬間に、現在にもっと注意深くならなくてはならない。
あなたは自分の意識をふり絞らなくてはならない。意識はあなたの宝だ。
人は鈍感な生を生きている。人は上の空で生きている。留意が欠けた状態は闇だ。留意は光だ。

たとえ話
二人の精神科医が路上で出会った。やあ、元気そうだね、ところで僕の調子はどうだね?
人は互いに尋ねあっている。誰も自分の調子がわからない。彼らは互いに目を覗き込み、自分自身に関する情報を他人から集めている。
他人の意見がこれほど重要になっているのはそのためだ。
誰かに馬鹿だと言われたら、あなたは怒り出すだろう。
なぜだろう?
あなたは打ち砕かれる。自分を賢い人間だと思っていたのは、他人から、あなたは賢い人だと言われたからだ。
あなたが拠り所にしているのは、他人の意見だ。
他人がどう思うかを絶えず気にしているのは、あなたが他人が考える自分しかしらないからだ。
あなたは自分自身のことは何も知らない。
これは何という状況だろう。
この私に私のことが分からないのに、他の誰に私のことが分かるというのだろう。
だが、人々は実に無意識に生きている。彼らはただ他人の意見に従って生きている。人々は乞食のままでいる。
あなたは自分自身について何かを直接知ったことがあるだろうか?
ないとしたら、あなたはまだ生きていない。
自己に遭遇することで、初めて生は息づき始める。
自分自身のぼんやりとした状態を見守りなさい。
あなたの中に注意深さが生み出される。
自分の中に何が起こっているのか見守りなさい。
思考が通り過ぎてゆき、怒りの雲が湧き起こり、悲しみの暗夜が訪れ、あるいは素晴らしい歓びがやってくる。
もっともっと注意深くなりなさい。

人は水のように自在に姿を変えて流れ、新鮮なままで、つねに太洋に向かって進んでいかなければならない。
水のように柔らかく、女性的で、受容的で、愛に満ち溢れ、非暴力的でなければならない。

タオという言葉は、本質的には道を意味する。
目的地については何も語ることができない。
目的地は捉えがたく、表現できず、言語を絶している。

真理はあなた自身の体験でなくてはならない。
師はあなたに真理を授けることはできないが、道を指し示すことはできる。

イエスは何度も、悔い改めなさい、と言った。
キリスト信者は、誤った解釈をされてしまった。
彼らは、過ちを悔い改める、解釈した。それは過ちとは何の関係もない。
悔い改めるとは、引き返すこと、内に向かうこと、戻ることを意味する。
自分の本来の姿を取り戻すということだ。
光は外に向かって動いている。
目を閉じると、光は内側に向きを変えはじめる。悔い改め、回帰が起こる。
そして光があなた自身の実存に降り注ぐとき、自己認識、自己知が生まれる。
その自己知はあなたに自由をもたらす。
一切のしがらみからの自由、一切の執着からの自由、死からの自由、肉体からの自由を。
それはあなたの内部に魂をつくりだす。
光が内側に向かって動き、あなたの実存の中を巡るとき、それが瞑想だ。
あなたは静かに座り、全ての扉を閉める。すると光が内側で巡る。
そのとき、肉体は召使になる。
五感は従順な召使になる。それらをコントロールする必要がない。
それらはひとりでにあなたに従う。
これがタオの美しさだ。けっして何も強要することがなく、品性を磨きたいという欲求もない。
タオは言う。ただ光に満ち溢れればいい。そうすればすべてのものはついてくる。

二つのことが求められている。
第一に、人は知性と明晰さを必要とする。
第二に、あなたには受容性と静謐さが必要だ。
知性については、気にかけなくていい。
人は皆、知性をそなえて生まれてくる。聡明な人もいれば聡明でない人もいるという考えは完全に間違っている。
むろん、一人一人の知性の表われ方は違う。音楽に知性を発揮する者もあれば、数学に知性を発揮する者もいる。音楽に基準を合わせると、数学に知性がある人は馬鹿に見える。逆もそうだ。
人々は明晰さを欠いたままで生きている。
自らの知性を受け入れたら、自分自身を受け入れたら、あなたは明晰になる。
二つが同時に必要だ。
知性が欠けていたら、理解できない。
受容性がなかったら、吸収することができない。

生とは、死と彼方の世界にそなえて身支度を整える機会だ。

本当の生に根ざさずに生きることは、大地に根をもたない樹のように生きることだ。
美が、優美さが欠けているのはそのためだ。ブッタたちが語る人間の輝きがあなたに見えないのはそのためだ。
イエスは言う、百合は何と美しいのだろうと。
なぜ百合は美しく、人間はかくも醜いのだろう。
なぜ、人間だけが醜いのだろう、醜いオウム、醜いライオン、醜い鹿を見たことがあるだろうか。
醜さは人間特有のもののように思われる。
みずからの全一な存在に気づいて初めて人間だといえる。そうでないならあなたは無意識の暗い洞窟の中に生きている。

あなたは意識があるように見えるだけだ。
それは非常に移ろいやすい。それはとても薄い表層だ。
誰かがあなたを侮辱する。ほんの一言、些細な眼差しで、あなたの意識はすっかり影を潜めてしまう。
あなたはカッとなり、腹を立てて、凶暴に、攻撃的になる。
一瞬で、あなたの人間性は影を潜め、野生に戻ってしまう。そして獣以下まで落ちてしまいかねない。
なぜなら、人間が落ちるときは歯止めがかからないからだ。

実に多くの人々が、生まれては死んでいく。
だが、決して生きていない。彼らの生は見かけに過ぎない。
彼らは無意識のなかに根を下ろしたままだからだ。
あなたは上辺で何をやろうと、それはあなたに関する真実を何一つ含んでいない。

あなたが思考を超越して、しかもなお目を見張り、醒めたままでいられたら、あなたは本来の自分を見る。それはエデンの園に戻ることだ。
あなた方はたくさんの仮面をつけている。状況が変われば、仮面を変える必要があるからだ。社長に話しているときは、仮面が必要だ、使用人に話しているときは別の仮面が必要だ。
社長に話しかけるときは、満面に笑みを浮かべ、たとえ気分を害しても、腹を立てていても相手の足に口付けさえしかねない。
使用人のときの尊大な自分の顔に気づいたことはあるだろうか。
彼は奴隷だ。社長の前ではあなたは奴隷だ。友人の前では違う仮面を。
あなたはたくさんの仮面を持っていて、周囲の状況が変わるに従って、次々と仮面を取り換えなければならない。
あなたの人格は、たくさんの偽りの顔からなっている。

では、本質とは何だろう?
本質とは、仮面をつけていない、あなたの本来の顔のことだ。
人格は社会、両親、学校、文化からの贈り物だ。
人格はあなたではない。それは偽物だ。
私たちは人格を磨き続け、本質を完全に忘れ去っている。
この本質を想起しないかぎり、あなたの人生は空しい。
本当の生とは本質を生きることだからだ。
それを魂、内なる神と呼んでもいい。

依存している人間はうまく操ることができる。
なぜなら、依存している人は、常に寄りかかる相手を必要としている。
片時でさえ寄りかかる相手なしではいられない。彼は幼稚だ。
彼は、両親に、政治家に、宗教家に、寄りかかり、自分の足で立てない。

あなたの真の動機は何なのか?
ただ鏡になって、自分の行動を見守るのだ。
なぜ自分はあることをしているのか、それはどこから来ているのか?
つねに注意深く見守るのだ。すると、自分が二人いることに気づくだろう。
ひとりはあることを言う人格。もうひとりはまったく逆のことをやり続けるあなたの本当の姿だ。
そのふたつは何とか互いにやりくりをしなければならない。
それゆえの葛藤であり、軋轢であり、エネルギーの浪費だ。

ひとつの願望を内に抱きながら、外側ではまったく逆の行動をしてしまう。
なぜか? それはあなたが逆の行動を通してその願望を抑圧しているからだ。
奥深くで劣等感を感じている人は、外部では非常に優れているフリをする。
優秀でありたいと思うのは劣った人々だけだ。
本当に優れた人は少しもかまわない。
劣等感で苦しんでいる人はみんな政治家になる。
なぜなら、自分たちが大いに優れていることを証明する方法はそれしかないからだ。

真の聖者は、他人のことなど少しも気にしていない。
彼は自分が誰であるかを知っている。全世界が彼は聖者ではないと言っても、どうということはない。彼は直に自分自身に遭遇している。
彼の体験は間をおかない、実存的なものだ。
そして自らの本質を知ることは、神を知り、死を超えていく最初のステップとなる。

自分の本質について、教会や寺院に行くことは助けにならない。
あなたは自分自身の中に入っていかなければならない。
すべての顔が消え、本質のみが残されたとき、あなたは一切の二元性、時間と空間の二元性すら超越している。
深い瞑想に入っていくと、そこには時間も空間もない。

愛しながら、その中に失われてはならない。
関わりながら、しかも独りで、完全に独りでありなさい。
あらゆる関係がゲームだということを熟知していなさい。
ゲームを演じなさい。それは美しく演じられなければならない。
そしてゲームのすべても規則に従いなさい。それはゲームに過ぎないということをいつも覚えていなさい。それに愛着を覚えては、深刻になってはいけない。誠実であっても深刻であってはいけない。いつもユーモアを漂わせなさい。
そうすれば、ゆっくりゆっくり両極が消えていくだろう。

第三の目、アジュナ・チャクラ、に真のハートがある。
第三の目から来たものは、直ちに実行に移される。肉体全体がそれに従う。実存全体がそれに従う。それは命令が発せられるセンターだ。
だが、それは深く眠り込んでいる。
あなたは、肉体のハートから生きている。あなた自身の霊的なハートをまだ知らない。

だが、もっともっと注意深くなり、さらに一層意識し始めると、第三の目から機能し始める。
一度、覚醒が第三の目を機能させたら、あなたの実存に偉大な革命が起こる。
低次元のハートは直ちに高次元のハートにひざまずく。
低次元のものが支配するのは、高次元のものが不在の時だけだ。
それが真の宗教と偽の宗教の違いだ。
偽の宗教は、言うだろう。自分自身を統御しようと努力しなさい。自分の感覚を統御しなさい、と。
真の宗教は言う、ただ、第三の目の中に入っていきなさい。そして霊的なハートを働かせるのだ。そうすればすべてが統御される。主人を到着させななさい。そうすれば、即座にすべてが落ち着くだろう。


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