黄金の華の秘密 その2
要約
主人を招き入れるだけでいい。
そうすれば、自分の生に秩序をつくりだそうと努める必要はない。品性を培う必要はない。品性は意識の後からついてくる。品性を培おうとすれば、あなたの品性は偽物に、まがい物になり、あなたは偽善者になってしまう。
ひとたび高次元のハートが働き始めたら、魔法のような奇跡が起こる。
あなたの感覚にはまったく秩序がなかった。
あなたのハートはつねに混乱していた、緊張していた。
しかし、高次元のハートが働きはじめたら、一切の混乱は消え、明晰さが生まれ、生は透明になる。
あなたは為すべきことをただやる。あなたのすることはすべていい。あなたは過ちを犯せない、しかし、それまでは絶対不可能だ。
品性と偽物
主人を招き入れるだけでいい。
そうすれば、自分の生に秩序をつくりだそうと努める必要はない。
品性を培う必要はない。
もてるすべてのエネルギーをもっと意識することに注ぎこむだけでいい。
影があなたに付き従うように、品性は意識の後からついてくる。
品性を培おう努力すれば、あなたの品性は偽物に、まがい物になり、あなたは偽善者になってしまう。
天上のハートが機能し始めたら
あなたの感覚には全く秩序がなかった。
あなたの心は常に混乱していた。
あなたは常に、これをするべきか、あれをするべきか、とためらっていた。
あなたは絶えず、どこへ行くべきか?何を選ぶべきか?と緊張していた。
しかし、ひとたび天上のハートが機能し始めたら、あなたのすることはすべていい。あなたは過ちを犯すことができない。
至上の秘術のは3つの構成要素がある。
一つは、性エネルギー。
今現在、それはあなたに揉め事しか引き起こさない。
それは、あなたをますます惨めさに導く。
それは、あなたを新しい監獄に連れ込むだけだ。それはあなたを消耗させる。
しかし、自然な状態の性エネルギーは、あなたの内側で黄金の華となる。
そのエネルギーが上に向かい始めたら、それは新しい生を、豊かな生をもたらす。
あなたは、それを直接上昇させることはできない。
あなたの霊的なハートが働き始めたら、初めてエネルギーはひとりでに動きはじめる。
今現在、あなたのエネルギーは外に向かっている。
なぜなら、あなたが内側に持っている磁石よりはるかに大きな磁石が外にあるからだ。
美しい女性を目にすると、エネルギーは外に動き始める。
その女性は磁石のように作用する。
第3の目が機能しているときは、誰も外に引き寄せることができないほど強力な磁石があなたに備わっている。
すると、エネルギーは内へと向かうようになる。
外に向かえば、あなたは二元性の世界に入っていく。内へ向かえば、不二の世界に入っていく。
2番目は、顕在意識だ。
人間の実相
人間は孤島ではない。
あらゆるものが相互に関連し合っている。相互に依存し合っている。
万物は他の万物とあまりに深く結びついているので、何一つバラバラでは存在しえない。
存在は躍動する流れだ。それは川のようなものだ。
どこで一つのものが終わり、どこで別のものが始まるか、その線を引くことはできない。
生と死の本質
花を樹から切り離すことはできない。切り離した瞬間、花は死んでしまう。
樹は大地から切り離せない。地球は太陽から切り離せない。
太陽は他の星から切り離せない。それが果てしなく続いていく。
死とは分離しているということだ。
生とは分離していないということだ。
それゆえ、自我は死なざるをえない。
なぜなら、それは自分は分離しているという観念だからだ。
あなたの内側で息づいているものは死ぬことはない。
生命は永遠だ。
だが、生命はあなたのものではない。あなたはそれを所有できない。
生命は全体に属している。生命は広大で、無限なるものだ。
死はちっぽけで、個的なものだ。
生命は宇宙的なものだ。
だから生きているときは、あなたは宇宙の一部であり、自分は分離していると思うからこそ死んでいく。
豊かな生の秘密とは?
全体の一部であると感じれば感じるほど、あなたは一層多くの生を得る。
イエスが言った、私のもとに来なさい。私はあなたに豊かな生を与えよう、と。
その意味は、自我として死に、分離した実体としては消えなさい、だ。
そうすれば宇宙に含まれる一切のものがあなたのものになる。
所有することをやめなさい。
そうすればすべてがあなたのものになる。
所有すれば、あなたはちっぽけなもの、有限なものとなり、やがては死ななくてはならなくなる。
もっと生き生きとする秘訣は、分離という観念を落とすことだ。
それが起きるたびに、あなたは内側で生が炎のように燃え上がるのを感じる。
自分自身を分離させ、自己中心的に生きるあまり、愛することができない人たちがいる。
彼らはこの世でもっとも惨めな人たちだ。
私は地獄をこう定義する。
分離した状態で生きることが地獄だ。
分離のない状態で生きることが天国。
全体のなかへ完全に跡形もなく消え去ることが解脱、涅槃、究極の自由だ。
放棄
世間を生きなさい、とことん生きなさい。
そうすれば、うんざりし、疲れ果て、あなたは世間にけりをつける。
とことん生きれば、ある日突然、世間は一切の意味を失い、放棄が起こってくる。
哲学、宗教
哲学はおもちゃ、赤ん坊を泣き止ませるための玩具だ。神学もまたそうだ。
宗教とは、本当は体験。
それは憶測とは一切、関係がない。
まず、光が内側に向かって流れなければならない。
そうすれば光があなたの実存を照らし、あなたの存在が開示されて、あなたは自らの実存のなかに入っていける。
それは、神の王国に入っていくことだ。
そこにはあなたは存在せず、神が存在している。
あなたが存在するのは、真の自己に気づかないままでいるからだ。
真の自己とは至高の自己だ。
それはあなたとは一切関係がない。
それを得るためには、大いなる変容が起こらなければならない。
宗教とは、人が自らの足で立ち、自らの存在に責任を持つようになり、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し始めることをいう。それは単なる好奇心であってはならない。
哲学は好奇心から生まれる。
宗教は極めて誠実で、真正な探求だ。それは問いかけだ。
好奇心は幼稚なものだ。頭の些細な痒みにすぎない。掻いてしまえば満足して終わりになる。哲学はそんなものだ。
宗教は生死の問題だ。哲学は玩具で遊んでいるだけだ。知識をかき集めるだけだ。けっして実行することはない。
宗教が問題にするのは知ることではなく、それを生きることだ。
それを生きない限り、それが何であるか何一つ知ることはない。
探求者であるためには、一切の哲学を落とさなければならない。
先験的な知識は落とさなければならない。それはすべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。問いかけは不誠実なものになる。
その最初の一歩から問いかけは曇らされてします。
すでに結論を出していながら、どうして問いかけることができようか。
キリスト教徒でありながら、宗教的であることはできない。
すでに結論を出していて、何が真理であるかをすでに決めてしまっているからだ。そうならば問いかけても仕方がない。
あなたがやることは、すでに結論付けている事柄の裏づけ、論証を探しだすことでしかないからだ。
その結論はあなたのものではなく、社会から渡されたものだからだ。
社会はあなたに結論を与えようとする。
あなたが問いかけることを阻もうとする。
その問いかけは危険だからだ。
問いかけない人間は扱いやすい。問いかけない人間は従順だ。
彼は法を遵守し、因習を守る。
そういう意味で信仰は麻薬だ。
彼は一旦、信じ込むと、どこまでも信じ込んでいく。
やがて、彼はその信仰が自分自身の体験であると思い込むようになる。
だから、生は二元的で、逆説に満ちており、多次元的だ。
この世にこれほど多くの哲学、主義、神学が存在するのはそのためだ。
そしてどの神学も独自の結論の殻に閉じこもり、自分が一番正しいと信じている。
宗教とはあなたを本来の源泉へと連れ戻すこという。
それは好奇心ではなく、とても誠実な探求だ。
自分を知らずに生きていくなど死んでいるも同然だ。自分自身を知らずして、生にどんな意味があるというのだろう?
自分の天命が何であるかを知らない。
騒音ばかりで音楽というものがない。
計算ばかりで祝福というものがない。
あちこち慌しく駆け回っているが、どこにも行き着きはしない。
生まれてから死ぬまで一種絶えざる緊張の中を生きていくが、生と存在の美、祝福を知ることはない。最初に知るべきことを知らない。
だが、世間の人たちを見よ、神について尋ね、真理について尋ねるが、彼らの目を見れば、その尋ね方をみれば、本気でないことがわかる。
天気の話しでもするように、神について話す。
だが、探求に大いなる情熱をかけ、全身全霊をあげて、完全にその身を投入しない限り、実存の秘密を知ることはできない。
決して満足しない
人間は決して満足しない。満足することなどありえない。
それは人間が複数だからだ。
ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるから、不満足はやむをえない。
あなたは複数いるから、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消えうせる。我が家に帰り着いている。
思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば、外に向かう必要はない。
あなたが外に向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が欲しい。
そうなると、あなたは外へ向かう。
欲望がなければ、内側に向かう。
180度の転換が起こる。
生きているものを所有したとたん、あなたはそれを殺してしまう。
何かが財産となった瞬間、それは生命を失ってしまう。
樹を所有すれば、その樹はもう生きていない。
女を所有すれば、あなたは相手を殺してしまう。
何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
所有できるものは死だけだからだ。
生は自由だ。
生を所有することはできない、銀行に預けるわけにはいかない。
生こそが私たちを所有している。
構図がそっくり変わらなければならない。
宗教的な人は参加する。生とともに踊る。歌う。
彼は存在に明け渡しており、どんな質問もしない。
要約
主人を招き入れるだけでいい。
そうすれば、自分の生に秩序をつくりだそうと努める必要はない。品性を培う必要はない。品性は意識の後からついてくる。品性を培おうとすれば、あなたの品性は偽物に、まがい物になり、あなたは偽善者になってしまう。
ひとたび高次元のハートが働き始めたら、魔法のような奇跡が起こる。
あなたの感覚にはまったく秩序がなかった。
あなたのハートはつねに混乱していた、緊張していた。
しかし、高次元のハートが働きはじめたら、一切の混乱は消え、明晰さが生まれ、生は透明になる。
あなたは為すべきことをただやる。あなたのすることはすべていい。あなたは過ちを犯せない、しかし、それまでは絶対不可能だ。
品性と偽物
主人を招き入れるだけでいい。
そうすれば、自分の生に秩序をつくりだそうと努める必要はない。
品性を培う必要はない。
もてるすべてのエネルギーをもっと意識することに注ぎこむだけでいい。
影があなたに付き従うように、品性は意識の後からついてくる。
品性を培おう努力すれば、あなたの品性は偽物に、まがい物になり、あなたは偽善者になってしまう。
天上のハートが機能し始めたら
あなたの感覚には全く秩序がなかった。
あなたの心は常に混乱していた。
あなたは常に、これをするべきか、あれをするべきか、とためらっていた。
あなたは絶えず、どこへ行くべきか?何を選ぶべきか?と緊張していた。
しかし、ひとたび天上のハートが機能し始めたら、あなたのすることはすべていい。あなたは過ちを犯すことができない。
至上の秘術のは3つの構成要素がある。
一つは、性エネルギー。
今現在、それはあなたに揉め事しか引き起こさない。
それは、あなたをますます惨めさに導く。
それは、あなたを新しい監獄に連れ込むだけだ。それはあなたを消耗させる。
しかし、自然な状態の性エネルギーは、あなたの内側で黄金の華となる。
そのエネルギーが上に向かい始めたら、それは新しい生を、豊かな生をもたらす。
あなたは、それを直接上昇させることはできない。
あなたの霊的なハートが働き始めたら、初めてエネルギーはひとりでに動きはじめる。
今現在、あなたのエネルギーは外に向かっている。
なぜなら、あなたが内側に持っている磁石よりはるかに大きな磁石が外にあるからだ。
美しい女性を目にすると、エネルギーは外に動き始める。
その女性は磁石のように作用する。
第3の目が機能しているときは、誰も外に引き寄せることができないほど強力な磁石があなたに備わっている。
すると、エネルギーは内へと向かうようになる。
外に向かえば、あなたは二元性の世界に入っていく。内へ向かえば、不二の世界に入っていく。
2番目は、顕在意識だ。
人間の実相
人間は孤島ではない。
あらゆるものが相互に関連し合っている。相互に依存し合っている。
万物は他の万物とあまりに深く結びついているので、何一つバラバラでは存在しえない。
存在は躍動する流れだ。それは川のようなものだ。
どこで一つのものが終わり、どこで別のものが始まるか、その線を引くことはできない。
生と死の本質
花を樹から切り離すことはできない。切り離した瞬間、花は死んでしまう。
樹は大地から切り離せない。地球は太陽から切り離せない。
太陽は他の星から切り離せない。それが果てしなく続いていく。
死とは分離しているということだ。
生とは分離していないということだ。
それゆえ、自我は死なざるをえない。
なぜなら、それは自分は分離しているという観念だからだ。
あなたの内側で息づいているものは死ぬことはない。
生命は永遠だ。
だが、生命はあなたのものではない。あなたはそれを所有できない。
生命は全体に属している。生命は広大で、無限なるものだ。
死はちっぽけで、個的なものだ。
生命は宇宙的なものだ。
だから生きているときは、あなたは宇宙の一部であり、自分は分離していると思うからこそ死んでいく。
豊かな生の秘密とは?
全体の一部であると感じれば感じるほど、あなたは一層多くの生を得る。
イエスが言った、私のもとに来なさい。私はあなたに豊かな生を与えよう、と。
その意味は、自我として死に、分離した実体としては消えなさい、だ。
そうすれば宇宙に含まれる一切のものがあなたのものになる。
所有することをやめなさい。
そうすればすべてがあなたのものになる。
所有すれば、あなたはちっぽけなもの、有限なものとなり、やがては死ななくてはならなくなる。
もっと生き生きとする秘訣は、分離という観念を落とすことだ。
それが起きるたびに、あなたは内側で生が炎のように燃え上がるのを感じる。
自分自身を分離させ、自己中心的に生きるあまり、愛することができない人たちがいる。
彼らはこの世でもっとも惨めな人たちだ。
私は地獄をこう定義する。
分離した状態で生きることが地獄だ。
分離のない状態で生きることが天国。
全体のなかへ完全に跡形もなく消え去ることが解脱、涅槃、究極の自由だ。
放棄
世間を生きなさい、とことん生きなさい。
そうすれば、うんざりし、疲れ果て、あなたは世間にけりをつける。
とことん生きれば、ある日突然、世間は一切の意味を失い、放棄が起こってくる。
哲学、宗教
哲学はおもちゃ、赤ん坊を泣き止ませるための玩具だ。神学もまたそうだ。
宗教とは、本当は体験。
それは憶測とは一切、関係がない。
まず、光が内側に向かって流れなければならない。
そうすれば光があなたの実存を照らし、あなたの存在が開示されて、あなたは自らの実存のなかに入っていける。
それは、神の王国に入っていくことだ。
そこにはあなたは存在せず、神が存在している。
あなたが存在するのは、真の自己に気づかないままでいるからだ。
真の自己とは至高の自己だ。
それはあなたとは一切関係がない。
それを得るためには、大いなる変容が起こらなければならない。
宗教とは、人が自らの足で立ち、自らの存在に責任を持つようになり、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し始めることをいう。それは単なる好奇心であってはならない。
哲学は好奇心から生まれる。
宗教は極めて誠実で、真正な探求だ。それは問いかけだ。
好奇心は幼稚なものだ。頭の些細な痒みにすぎない。掻いてしまえば満足して終わりになる。哲学はそんなものだ。
宗教は生死の問題だ。哲学は玩具で遊んでいるだけだ。知識をかき集めるだけだ。けっして実行することはない。
宗教が問題にするのは知ることではなく、それを生きることだ。
それを生きない限り、それが何であるか何一つ知ることはない。
探求者であるためには、一切の哲学を落とさなければならない。
先験的な知識は落とさなければならない。それはすべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。問いかけは不誠実なものになる。
その最初の一歩から問いかけは曇らされてします。
すでに結論を出していながら、どうして問いかけることができようか。
キリスト教徒でありながら、宗教的であることはできない。
すでに結論を出していて、何が真理であるかをすでに決めてしまっているからだ。そうならば問いかけても仕方がない。
あなたがやることは、すでに結論付けている事柄の裏づけ、論証を探しだすことでしかないからだ。
その結論はあなたのものではなく、社会から渡されたものだからだ。
社会はあなたに結論を与えようとする。
あなたが問いかけることを阻もうとする。
その問いかけは危険だからだ。
問いかけない人間は扱いやすい。問いかけない人間は従順だ。
彼は法を遵守し、因習を守る。
そういう意味で信仰は麻薬だ。
彼は一旦、信じ込むと、どこまでも信じ込んでいく。
やがて、彼はその信仰が自分自身の体験であると思い込むようになる。
だから、生は二元的で、逆説に満ちており、多次元的だ。
この世にこれほど多くの哲学、主義、神学が存在するのはそのためだ。
そしてどの神学も独自の結論の殻に閉じこもり、自分が一番正しいと信じている。
宗教とはあなたを本来の源泉へと連れ戻すこという。
それは好奇心ではなく、とても誠実な探求だ。
自分を知らずに生きていくなど死んでいるも同然だ。自分自身を知らずして、生にどんな意味があるというのだろう?
自分の天命が何であるかを知らない。
騒音ばかりで音楽というものがない。
計算ばかりで祝福というものがない。
あちこち慌しく駆け回っているが、どこにも行き着きはしない。
生まれてから死ぬまで一種絶えざる緊張の中を生きていくが、生と存在の美、祝福を知ることはない。最初に知るべきことを知らない。
だが、世間の人たちを見よ、神について尋ね、真理について尋ねるが、彼らの目を見れば、その尋ね方をみれば、本気でないことがわかる。
天気の話しでもするように、神について話す。
だが、探求に大いなる情熱をかけ、全身全霊をあげて、完全にその身を投入しない限り、実存の秘密を知ることはできない。
決して満足しない
人間は決して満足しない。満足することなどありえない。
それは人間が複数だからだ。
ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるから、不満足はやむをえない。
あなたは複数いるから、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消えうせる。我が家に帰り着いている。
思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば、外に向かう必要はない。
あなたが外に向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が欲しい。
そうなると、あなたは外へ向かう。
欲望がなければ、内側に向かう。
180度の転換が起こる。
生きているものを所有したとたん、あなたはそれを殺してしまう。
何かが財産となった瞬間、それは生命を失ってしまう。
樹を所有すれば、その樹はもう生きていない。
女を所有すれば、あなたは相手を殺してしまう。
何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
所有できるものは死だけだからだ。
生は自由だ。
生を所有することはできない、銀行に預けるわけにはいかない。
生こそが私たちを所有している。
構図がそっくり変わらなければならない。
宗教的な人は参加する。生とともに踊る。歌う。
彼は存在に明け渡しており、どんな質問もしない。