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真実を 語る責務を 持つ男 革命の業 浄化できるか

この文革期(66~76)、社会は混乱して人民は何が真実か見極められなくなっていました。

良心的な国家主席だった劉少奇は失脚して獄死し、毛沢東の右腕(次期トップ)とされた林彪はクーデター未遂を起こし逃亡中に亡くなりました。

文化大革命は大躍進政策の大失敗により失脚した毛沢東が、巻き返しを図って起こしたモノとされ、それは共産党を二分する権力闘争となりました。
巧みに人心を掌握して紅衛兵などを操った毛一派がこれに勝ち抜きますが、76年に毛の死と共にこの一派は断罪されて文革は終わります。

これは前に、資本家や知識人を駆逐し尽くしたプロレタリア達が、革命の矛先を向ける相手がもう自らしか無くなって、身内を互いに革命し合った悲劇と書きました。

こうした混乱を国中にもたらしたのは、国のトップとその手足の役人達が大躍進の失敗を認めず、それを台湾国民党による裏工作のせいにしてみたり、架空の自然災害のせいにしたりして、真実と向き合えなかったのが大きな要因かと思います。

なので当時総人口の三割に過ぎなかった都市住民達は農村が破壊し尽くされた事を知らず、七割の農民達は何故収穫の全てを都市に奪われて飢え死にしなければならなかったのか、なんの説明も謝罪も受けられませんでした。

こうした無明から革命は必然的に分裂して行き、人民の心も分裂して何が革命で何が反革命か分からなくなりました。
派閥闘争は理性を失って過激化し、それは革命の聖地重慶において最も熾烈になります。

重慶は日中戦争中に臨時政府が置かれた旧首都で、国共内戦では熾烈な争奪戦が行われ国民党が最後まで優勢を保ってましたが、民衆が共産党に味方した事でひっくり返ります。

この際、国民党は重慶の共産主義組織を徹底的に弾圧し、それに打ち勝った民衆の闘いを描いた「紅岩」という本は国が推奨するロングセラーになってます。

こうした革命の聖地としての業が、文革期の派閥闘争をエスカレートさせたと思われ、重慶大学の学生達は幾つもの紅衛兵組織に分裂して殺し合いを演じました。

曹希聖にはそうした混乱に終止符を打つ役割を演じて貰います。
希聖は共産党の初期から労働運動を組織し、外国資本や地元の軍閥と闘って来た烈士であり、共産党を勝利させた立役者で毛沢東の後継者と目された程の英雄なので、学生達は彼の自己批判に特別な敬意を表します。





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