慎語が平和なセラの故郷で3年を過ごし健康を取り戻した頃、国共内戦が終結してチベット侵攻が始まりました。
これは邪魔になった国民党の生き残りを僻地に投げ捨てる意味合いが強く、謀略と闘争を常に行って来た共産党は、政権を握ってからも常に戦争を求め続けました。
上記の概説では背景として回民蜂起が出て来ますが、これは太平天国に連なる反乱で、イスラム教徒はキリスト教徒の起こした反乱に加勢します。
これは回民地区の人口が2000万人(7割)も減ってしまう大変な戦乱で、中国西部地方に殺伐とした色合いを長く留めました。
これは勿論いまでも残っており、私は中国西部に何度も出かけてますが、漢民族と回教民族の間の軋轢は否応なしに伝わって来ます。そして当然チベット人と漢民族の軋轢も沢山感じて来て、こうした民族間の対立に対して旅行者はどんな立場を取るべきか大いに迷ったものです。
話しをチベット侵攻に絞りますと、そこにはチベット内部での対立が多々あった事が目に付きます。
それは西と東チベットの対立だったり、パンチェンラマ(親共)とダライラマの対立だったり、一緒に戦うべきだった回教民族とチベット人の対立だったり。
こうした対立を作り出すのが共産党の得意とする情報戦で、裏切者を常に探し求める汚いやり方です。
とにかくそんな汚い争いには関わらないのが一番で、トゥルクの故郷は山間の辺境の地だったので戦乱から免れます。
戦争は東部チベットの占領でいったん落ち着きますが、その間に中国は道路をラサまで整備して、59年には一気に軍隊を送り込んで占領し、ダライラマはインドへ亡命します。
この戦わずして亡命する姿勢は、一時的には屈辱を舐めますが、歴史的な役割を担うという意味でダライラマは一気にその求心力を高めました。
慎語の暮らす村も戦うか逃げるかで意見が割れますが、慎語の存在が大きく亡命派を後押しします。
この日本から来た特別なラマの命を危険にさらす事は避けようと、村の意見はまとまって亡命の準備を進めます。
元々が人間の住める限界的な土地なので、持って行くモノはいかほども無く、捨て去る農地には愛着がありますが、そこで後続の人民が暮らして行けるものなら上等だと考えます。
実際に新たに入植した漢民族はちゃんと農地を引き継ぎ、人口の多さを活かして灌漑水路も拡大し頑張って住んでます。
漢民族には進歩への信仰心があり、その理想を持ってチベットに開拓に来た人達も沢山おり、チベット高原はそうした漢民族を吸収して半世紀たって、その子孫達は政治的な争いを克服し新たな時代を創ろうとしております。