真の動物福祉牧場を目指して

子ども達 色の違いを 乗り越える

いきなり私事で恐縮ですが、私は日本人にしてはかなり、肌の色の違いによる壁を乗り越えられる方だと思います。
私が最初にこの壁に突き当たったのは、16の才をアメリカで交換留学生として過ごした時です。

私はアメリカの高校ではけっこう問題児で、それは意外にも向こうの高校が日本の高校(私は高専)よりもずっと規則が厳しくて、学校の外を自由に散歩する事すら許されなかったからです。(私はそんなの無視してた)
これは恐らく、学校に薬物や凶器を持ち込ませない為だと思われ、どんな田舎の平和な地域でもそれは徹底されていました。 アメリカの自由な国というイメージは、こと義務教育(高校まで)に関しては全く当てはまりません。

そんな問題から私は向こうの高校を3つ転校する機会に恵まれ(2回退学)、山奥の高校から牧草地帯の高校、そして町中の高校と一通り体験できました。
私が行ったのは、いわゆる南部のど田舎 州であるケンタッキーで、初めの2つの高校では人種の壁は存在しませんでした。山奥の高校では僕だけが外人で他はみんな田舎の白人という構図で、かなり珍重されました。
次の牧草地帯の高校では黒人の女の子が1人だけ居て、私と2人だけ周りと肌の色が違うので親近感がもてました。

問題は3番目で、ここはそこそこ大きな町の高校だったので、黒人と白人がくっきりと分かれて学食を陣取っており、私はどちらにも属さなかったので非常に居ずらく、ほぼ毎日お昼は学校を抜け出して外で食べてました。

こうした肌の色の壁をのり越えられたのは、後にネパール、インドを永く旅して、現地の人と仲良くなろうとホームステイを積極的にした事によります。
ネパールの場合は肌の色はそんなに違いませんが、貧富の壁はどうしようもなく立ちはだかり、この壁に挑戦した後ではもう人種の壁などいかほどのものでも無いと感じられる程の経験を持てました。(これは話すと長くなるので端折ります)

実際に経済的な格差は人種の違いよりずっと高い壁で、これは百年前には白と赤に人類を分断して戦わせていました。
いわゆる白色テロというのは、権利を主張する持たざる者達を権力が弾圧する事で、シリア内戦やウイグル人弾圧がこれに当たります。赤色テロはその反対で、これがロシアと中国では革命まで発展し権力を奪いましたが、どちらの赤い政権も約束していた明るい未来は、来ないどころか逆に暗黒の時代を創ってしまいました。

物語ではこの肌の色と貧富の色分けの、両方を飛び越える子ども達の連帯を描こうと思います。
日本に亡命して来られたロシア人と中国人は、主に貴族-資本家階級で革命を目の敵にしており、日本も当時は共産主義革命を恐れて弾圧していたので、革命で滅んだ支配階級の亡命を寛大に受け入れていた経緯があります。
一方、中国からは国共内戦から発生した難民も長崎に押し寄せ、それは主に国民党に敗れた貧しい共産党の人民で、密入国によるものでした。

浦上ではその白と赤の両方の家庭を描く必要があり、そこでは対立は一切無くして、中国の内戦を早く終わらせる努力に力を合わせ、これ以上外国から弱みにつけ込まれる事の無いようにする、といった思想を子ども達に伝えようと思います。

肌の色については、話がガラッと変わるので次の回にします。


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