その目的意識には何ら悔いる所は生涯ありませんでしたが、目的の為に手段を選ばなかった事は彼をして僧とする程に後悔されました。
シーシェンの一家は体制から迫害されて山奥の里に追いやられ、そこでの厳しい暮らしの中で逞しい子供達を育て上げました。 彼は12人兄弟の7男として、一家の絆は革命で強く結ばれました。
希聖の兄弟は殆どが革命の途上で亡くなりますが、両親は生き残り息子の大出世を喜びます。
シーシェンは親の恩に報いる気持ちが強く、理想の平等社会を目指した大躍進政策を強く推進したのも、親から教えられた革命の聖なる大儀を果たして恩に報いる為でした。
しかしこの政策は大失敗して農村社会は崩壊し、シーシェンの両親も他の多くの農民と共に餓死します。
彼はこの失政を誰よりも深く悔いて総括し、それは「共産主義の総括」にもなりました。
この集団化政策は、お上から押し付けられた時点で既に失敗しており、農民が自主的に集団化(ブランド化)する時の創造性と、お上の机上の空論とでは全く訳が違い、現場に混乱と無気力を生んだだけでした。
こうした政策に従わない農民達を希聖は厳しく取り締まり、山に逃げ込んだ農民も狩り出して処刑しました。
この権力の誇示にはしばしば希聖みずからが手を下し、農民ゲリラ隊を率いて来た彼はこの道のエキスパートでした。
希聖は針金を受刑者の耳から耳へ貫通させ、一瞬にして人間を廃人にしてしまうマッチョな方法を用い、人民をして彼を魔王と呼ばしめました。
こうした罪を全て語り終えたシーシェンは、紅衛兵のリーダーに針金による処刑を要求します。
なかには処刑に反対し、希聖を真の英雄と崇める紅衛兵グループも在りましたが、本人の強い意向で処刑は遂行されます。
このシーンは、どうしても手を下せない紅衛兵から希聖が針金をもぎ取り、自らの手で処刑を完遂するのがドラマチックでしょう。
側頭葉と海馬を破壊したシーシェンは意識不明の植物状態となりますが、心臓は元気に動いて呼吸もしっかり経がります。
こうして文革末期の重慶大学スタジアムにおける批判大集合は幕を閉じ、そこで希聖が語った言葉は口づてで全市に広まります。
この希聖の遺言は、内戦の様相を呈していた街に残悔の雨を降らせ、共産革命は終わりを告げるべきだという合意を市民と学生の間に生みます。