これは理想としては美しく、暴力革命を正当化するのには欠かせない偉大なテーゼ(教義)なのですが、現実にはそんなに良くありません。
人間はどうやら差別化を求める動物みたいで、周りと一緒ではつまらないと感じるサガが有るようです。
なので共産主義の理想は実現せず、無理に実現させようとしても咎を生むだけでした。
中国は毛沢東の時代、党や軍の幹部達を除いてほぼ全ての人民が平等な暮らしを強いられました。
もちろんその平等が、自由な精神と豊かさの溢れた社会においてならば理想的なのですが、冷戦期の中国社会はそんなに優しいモノではありませんした。
過酷な内戦を経て成立した中華人民共和国には多くの憎しみが残り、共産党はその憎しみの火を階級闘争によって焚き付け続けました。
そしてこの過度に理想化された闘争は、子供達の心を捉えて狂信的な紅衛兵を生み出しました。
今回は哲学的な面から共産主義を論じますが、この貧富の格差を無くそうとする運動を理解する為には、本当の貧困がどんなモノかをまず知る必要があります。
私は25歳の時にネパールで貧しい家族と共に三月程生活した事があります。(その内の1月は一緒に旅した)
彼らは貧しい田舎からカトマンドゥに出て来ており、その中の同年代の青年(土産用の石工)と親しくなり家に招かれました。
その一家は狭い1Kのアパートに4人で住んでおり、もう一人小さな娘もいたのですが、あまりに貧しいので養育院に預けられていました。
その一家の亭主は仕事にあぶれており、妻と青年(妻の弟)が稼いで生活を支え、なんとか大きい娘(17)を学校に通わせていました。
まずは亭主の仕事をなんとかしなければならず、彼は帽子作りの経験があったので自分で縫製工場を持ちたがり、私はその資金を提供しました。(5万円程)
この亭主は田舎から弟を従業員として呼び寄せ、その弟は家族を連れて上京して来たのでそのアパートも借り、家財道具や生活費も私が面倒をみました。
この帽子工場は結局利益を生まず、妻は自分で八百屋をやると言ってパートを辞め(これも援助した)、青年は結婚してその資金も私が払い、小さい娘が一緒に住めるように大きなアパートも借りました。
三カ月も一緒に住めばこうした流れになるのは当然で、お金に余裕があるのに出し惜しむのは恥だと思いました。
一家は私を引き留めようと結婚の相手まで紹介してくれ、むげに断る訳にも行かないので付き合いましたが、お金目当てなのが見え透き嫌気がさして振り切りました。
当時ネパールでは共産革命が地方で起きており、王が暗殺されて国情は騒然としていました。
観光立国ネパールでは資本階級が充分に権力を握っていたので、革命は都市にまでは及ばずやがて収束しましたが、当時の私は貧しい革命派の人々に同情的で、貧富の格差を無くす為に自分の旅行資金を投げ打ちました。
とは言っても30万円程度の話で、ネパールの物価が日本の1/10程だったから出来た話です。
この物価の格差は、一国内での貧富の格差よりも大きい気がし、生まれた国によって貧富が決まる世界に疑問を持ちました。
この貧しい山国が、他の国々に劣等感を抱かずに誇り高く生きる為には、ブータンの様にある程度鎖国政策を取る必要があるのかも知れませんが、すでにオープンにして観光立国と成っているので後戻りは出来ないでしょう。
ネパールの一部の山岳地帯には今でも、共産党(マオイスト)が立てこもって実権を握り政府軍と対立しています。
彼らは平等な世界を求めて闘っており、大自然に抱かれた山奥の村(電気来てない)でならば共産社会が理想的なのかも知れません。