前回に引き続き、週刊朝日平成28年8月19日号の「サンミュージック創業50周年特別企画」という中で
福田時雄名誉顧問(元専務)が岡田有希子さんについて語っていることを取り上げます
「1986年4月8日の朝、サンミュージックの当時の相澤秀禎社長から
『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。
駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた
ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。
幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると
『事務所がいい』と言うので、四谷へ向かったのです」
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。
しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。
その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです・・・・」
「有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨んだ」
「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部答えようと相澤と話し合って臨みました。
私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ。
彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。
相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません・・・」
福田さんはスター誕生で岡田有希子さんをスカウトした人です。福田さんもとてもつらい気持ちだったようです・・・
福田時雄名誉顧問(元専務)が岡田有希子さんについて語っていることを取り上げます
「1986年4月8日の朝、サンミュージックの当時の相澤秀禎社長から
『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。
駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた
ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。
幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると
『事務所がいい』と言うので、四谷へ向かったのです」
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。
しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。
その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです・・・・」
「有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨んだ」
「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部答えようと相澤と話し合って臨みました。
私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ。
彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。
相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません・・・」
福田さんはスター誕生で岡田有希子さんをスカウトした人です。福田さんもとてもつらい気持ちだったようです・・・
一番辛かったのは言うまでもなく、最愛の1人娘に先立たれた御家族でしょう。
自分はリアルタイムでは、まだ小学校に上がったばかりなので何とも言えませんが、やはり
どんな形でも良いから生きて欲しかったです。
こんな天使のような女性は二度と現れないでしょうね。また遊びに来ます。お邪魔しました。
そうですね・・・18才の娘が先立たれることは親の世代になっている当時のファンにもわかるようにあまりにも悲しすぎます。
岡田有希子さんのような天使のような存在を後世に残して行きましょう!
本当にお父さんの言葉は胸に刺さりますね・・・
さて、社会心理学では亡くなることを環境が後押しすると言っています。
小さなことですが1人暮らしを始めて物理的に1人になったこと、忙しい仕事がオフで休みだったことなどもあの日に実行してしまった環境だったのかもしれません・・・
そうですね・・・ご本人がいないので、永遠の疑問となるのでのでしょう・・・