永遠のアイドル岡田有希子さんの紹介~ユッコのページ~ 

1984年にデビューした永遠のアイドル岡田有希子さんの本当の姿を後世に残すためのブログです
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岡田有希子さんの誕生~生まれた場所&幼少の性格~

2019年08月23日 | ユッコ
8月22日は岡田有希子さんの誕生日です
そこで、今日は岡田有希子の生まれた頃から幼少時代を振り返りましょう

岡田有希子さんは名古屋から北へ電車で15分ぐらいのところにある一宮市の「さくら助産院」で生まれました
*上の写真(今はもうありません)
生まれた当初はかなり危ない状態だったそうでこのままちゃんと育つか心配されていました

岡田有希子さんにはふたつ年上の姉がいてよくケンカをしたそうです


小さいころから強情だったと自分で言っています。
電車に乗っても座る所がないとダダをこねたそうです
そして、家に帰ると親から怒られる前に押し入れに入って出てこなかったそうです。
母親は「ひっぱり出すのに苦労した」と語っています

岡田有希子さんの小さいころからのこの性格は、逆に言えば「意志が強い」とか「何事も最後までしっかり行う」ということにつながります。

岡田有希子さんは実際に努力家で歌手のオーデション番組に出るために
親が学校の成績で1番にならなければ出させないという難関をクリアーしてしまいます

自分の目標のために努力し続ける、そんな性格の岡田有希子さんはかといって堅物でなく自分のことより他の人のことを優先してしまうようなとっても性格の良い人でした

生きていたら、きっと素敵な大人の女性になっていたでしょうね・・・
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竹内まりやさんが33年の時を超えてユッコを語る・・・

2019年04月08日 | テレビ
今日「2019年4月8日」は岡田有希子さんが亡くなられて33年です(1986年4月8日から)
今回33年の時を超えて竹内まりやさんが岡田有希子さんについて語りセルフカバーをしました
先日、NHKで放送された「竹内まりや Music&Life」という番組です

「一口坂のスタジオでユキコちゃんがやって来て「初めまして」って言ってた笑顔とか、着てた洋服とかも思い出しますよね。なんか・・・つぶらな瞳の・・・」
と岡田有希子さんのデビュー曲ファーストデイトを作詞作曲した竹内まりやさんが岡田有希子さんと出会った時のことを話し始め、後悔の念も同時に口にしています

「なんかもうちょっと色んな事を話せたら良かったのになーて後で思いましたけどね・・・
 もし、あの頃こう色んな悩みとかそういうことをこう聞けたら違っていたのかと思いましたしね・・・

そして、なぜ今まで岡田有希子さんの歌を歌わなかった理由を話しました
「ユキコちゃんの曲を何回か歌おうかなーと思うこともあったんですけど、なんかこう思い入れが深い分だけ逆に歌えなくて・・・」
「だけど、もう33回忌が過ぎてやっとユキコちゃんのメロディを歌える気持ちにはなれたって感じですかね・・・


「天国で彼女が聞いてくれたら喜んでくれるかなーと思いながら一生懸命歌ってみようと・・・」

岡田有希子さんのデビュー曲「ファーストデイト」から「リトルプリンセス」「恋はじめまして」までは竹内まりやさんが作詞作曲し三部作と言われています。
そんな、岡田有希子さんへの想いが強かったからなかなか竹内まりやさんは岡田有希子さんへの曲を歌えなかったんですね・・・




 



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ユッコ誕生日記念その4~特番「栄光のスター最期のメッセージ」エピローグ~

2018年08月31日 | テレビ
8/22は岡田有希子さんの誕生日。その誕生日を記念して、特番「栄光のスター最期のメッセージ」のブログ再掲の最後です。

『~岡田有希子さんは絵が大変うまく小学校の時に本格的に美術の先生に習いに行っていたほどです
お姉さんが言っています。
「朝日新聞の写生大会があって、私もつきあって熱田神宮に写生をしに行ったんですが
 あまりにもうまいんでみんなが佳代(岡田有希子の本名)の周りに集まってきちゃって、
 びっくりした思い出があります

岡田有希子さんの墓標に刻まれている詩があります。
「もしもゆっくり休みがとれたら・・・油絵を描きたい
 ファーストビデオで行ったスイスの山々を真っ白なキャンパスに描きたい
 幼いころ、どうしても画家になりたかった私
 今、素顔の私に戻ってキャンパスに色をほどこして行く時
 いいようのない安らぎを覚えるのです・・・・・」

そして、芸能界に入って書いていた日記は2年目の途中で終わっていたそうです
ちょうどコンサートがあった日の気持ちを書いていました

「・・・今日はうれしかった・・・一生忘れないだろう・・・・・」

これが18歳岡田有希子さんの最後の日記の言葉でした・・・・・

詳しくは 
http://beauty.geocities.jp/okadayukiko1967/angel-smile5.wmv


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ユッコ誕生日記念その3~特番「栄光のスター最期のメッセージ」より③~

2018年08月29日 | テレビ
8/22は岡田有希子さんの誕生日を記念して
引き続き、特番「栄光のスター最期のメッセージ」を取り上げたブログを再掲します

「~岡田有希子さんが所属していたサンミュージックの相沢社長(当時)のインタビューがあります
相沢社長はその人だけに力を入れているという誤解を受けないため社長室に所属の芸能人の写真をかざりません。
しかし、あの後岡田有希子さんだけは例外で大きな写真を飾っています
また、手帳にも岡田有希子さんの写真だけはずっと入れていたそうです。

「清潔感がすごくあふれていましたね。本当にすばらしい知性を持った子だと・・・
ほんとにおつきあいというか会えば会うほど・・・一緒に話せば話すほど・・・
こう・・・深みがあって引きつけられていくような・・子だったですね・・・
と相沢社長は答えていました。

岡田有希子さんが新人キャンペーンの時にも似たような話を聞いたことがあります。
当時はアイドル全盛期、かわいい人は当たり前の時代。
キャンペーンでは歌と当時に人前で話もすることにもなります。
岡田有希子さんの話す様子を見ているうちにお客さんの反応が変わっていったそうです
岡田有希子さんは性格が大変良く控えめながら一所懸命で・・・・そんな姿から内面の良さを感じとったのかもしれません
結婚していたらきっと旦那さんを陰で支える素敵な女性になっていたでしょうね・・・・~」

詳しくは
http://beauty.geocities.jp/okadayukiko1967/angel-smile2.wmv
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ユッコ誕生日記念~特番「栄光のスター最期のメッセージ」より②~

2018年08月25日 | テレビ
8/22は岡田有希子さんの誕生日
誕生日記念として前回に引き続き、特番「栄光のスター最期のメッセージ」を取り上げたブログを再掲します

『~当時の事務所の福田専務が新人キャンペーンの話もしています。

レコード会社への挨拶まわりで最初は何月何日にどんな曲でデビューする
ということを一生懸命言っていたそうです
しかし、福田専務は
「ユッコちゃんね、キャニオン(レコード会社)の人はそんなことは全部わかっているの。向こうは・・・
それよりはあなたの自分はこういう女の子ですとか、自分はこういう気持ちでいますとか、そういう話の方が・・・向こうもね、わかってくれるから・・・」と注意をしたそうです
福田専務は多くの新人を育成しているのでその経験からのアドバイスをしたのでしょう。

すると、次のあいさつからすべてを変えたそうです
「・・・奥様のいらっしゃる方は奥様に対する愛情の半分だけでも、恋人のいらっしゃる方は3分の1でも、愛情を有希子にください」とあいさつしたそうです

この挨拶は大変評判が良かったそうである宣伝の人は
「僕は女房も恋人もいないから100%あなたにあげます」と言われたそうです。
福田専務はこれを見てとても頭のいい子だなーと感心したそうです
岡田有希子さんも本当は一生懸命考えた末の言葉だと思います。

岡田有希子さんは色々なスタッフからも好感を持たれていたようですね・・・ 』
続く・・・

詳しくはこちらへ↓
http://beauty.geocities.jp/okadayukiko1967/angel-smile4.wmv
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8/22は岡田有希子さんの誕生日(特番「栄光のスター最期のメッセージ」より①)

2018年08月22日 | テレビ
8月22日は岡田有希子さんの誕生日です(1967年生まれ)
生きていたら51才ですが性格がとってもいい岡田有希子さんですから年をとっても素敵な女性になっていたでしょう。
そこで、このブログの最初の頃に取り上げた岡田有希子さんがテレビで特集された1997年の番組をのことを4回に分けて再掲したいと思います。

『~テレビで岡田有希子さんが取り上げられることは大変少ないです。
しかし、正面から取り上げていただいた番組もあります
これは「栄光のスター最期のメッセージ」という特番で夏目雅子さんなど亡くなられた方を特集しました。

その中で岡田有希子さんは「よみがえる天使の笑顔」というタイトルで
生い立ちから芸能生活、またその後のことまでまとめられていました

この中で岡田有希子さんが所属していたサンミュージックの当時の福田時雄専務の話があります。
福田時雄専務は岡田有希子さんを「スター誕生」というオーデション番組でスカウトした方です
「スター誕生」の舞台に出てきた岡田有希子さんをそのかわいらしさと歌のうまさに惚れ込んだそうです。

「ユッコちゃんが出てきただけでもう胸がワクワクした
 早く歌わないかと・・そんな感じだった・・・かわいくて・・・
 それで歌い出したらね・・・声がとってもいい声だったんで・・・
 もう他の子どうでもいいぐらい・・
 もう佐藤佳代(岡田有希子の本名)っていう名前が頭にこびりついて帰ってきたのを覚えているんですけどね・・

岡田有希子さんは芸能のプロの方から見ても
デビュー前からそのかわいらしさと歌のうまさは天下一品だったようですね・・・・・~』
続く・・・

詳しくはこちらへ↓
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岡田有希子さんを堀越学園同級生達が語る

2017年07月11日 | ユッコ
岡田有希子さんの堀越学園での同級生が沈黙を破って集まったお話です。
それは平成28年12月2日、TBSで放送された爆報フライデーという番組で岡田有希子さんが取り上げられた時です

集まったのは・・・・
岡田有希子さんとデビュー同期の田中久美さん、1年2学期に岡田有希子さんと一緒に編入し女優デビューした南きよみさんなどです


南きよみさんは当時の岡田有希子さんについて後悔の念を涙ながらに語りました
「何でもやっぱりため込んじゃうというか・・・人に言わなくて・・・自分でがんばっちゃうって子だった。
今だから言えるけど学校にいる時にもっとね、今日顔色が優れないけどどうしたの?とかもっともっと聞いてあげることができてたら・・そうしたら、ねぇ・・・全然違ってきたのかなって・・・」

田中さんは堀越学園卒業後引退し実家へ帰りましたが、そのことを忙しそうな岡田有希子さんにあえて伝えなかったと・・・もしかしたら、事務所に電話していたかもしれない・・・ちゃんと連絡先など伝えておけばよかったと後悔していると・・・

そして、岡田有希子さんの色々な資料を見て岡田有希子さんのコンサートパンフレットの文字を見つけたらみな「(ユッコは)こういう字~、そうそう!なつかしい~」と口にしていました。


そして、プライベート写真の中でこの一番上に掲載した写真を見つけると
「この瞬間の顔はいつもっぽい」「私たちはこっちの顔しかしらない」と言っていました。
テレビで見る岡田有希子さんより同級生の皆さんにはこの写真こそが親友佐藤佳代(岡田有希子の本名)なのでしょう

最後に、岡田有希子さんが主演したドラマ「禁じられたマリコ」に出演していた生田智子さんがゲストに来ていて涙ながらにこう語っています
「私も同じ年だったのでショック過ぎて実はあんまり覚えていないんです・・・。最後に話したのはその日の夜(亡くなる日の前夜)、引っ越し祝いのプレゼント渡したいと電話をして・・・・。でも、短い時間でしたけど幸せな時間とやりたかったことが達成できたと良い方向に考えて「幸せだったよね・・・」と言ってあげたいです」と・・・

私たちもそんなふうに捉えて行きたいですね・・・
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福田時雄さん(サンミュージック)が岡田有希子さんを語る(その2)

2016年10月22日 | ユッコ
前回に引き続き、週刊朝日平成28年8月19日号の「サンミュージック創業50周年特別企画」という中で
福田時雄名誉顧問(元専務)が岡田有希子さんについて語っていることを取り上げます

「1986年4月8日の朝、サンミュージックの当時の相澤秀禎社長から
『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。
駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた
ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。
幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると
『事務所がいい』と言うので、四谷へ向かったのです

「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。
しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。
その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです・・・・」

「有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨んだ」

「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部答えようと相澤と話し合って臨みました。
私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ

彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。
相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません・・・

福田さんはスター誕生で岡田有希子さんをスカウトした人です。福田さんもとてもつらい気持ちだったようです・・・
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福田時雄さん(サンミュージック)が岡田有希子さんを語る(その1)

2016年08月16日 | ユッコ
サンミュージックの福田時雄名誉顧問は「スター誕生!」のオーデション番組で当時岡田有希子さんをスカウトした人です

オーデションで岡田有希子さんがステージに出てきたら一目ぼれのように注目し
他の審査員にも合格点に達するよう「ほら、ボタン押して押して」と促したという。
そして、他のオーデション参加者のことは忘れるぐらい「佐藤佳代(岡田有希子さんの本名)」
という名前が頭から離れなかったそうです。

しかし、事務所ではオーデション通過者のうち岡田有希子さんともう1人の人とでどちらを採るか意見が分かれたそうです
結局、福田さんが推した岡田有希子さんを事務所として採用しデビューにいたります。

福田さんは「有希子は周囲に気を使う『繊細で優しい面』があった・・・」という
当時、新人賞はまず5人~8人ぐらいの「新人賞」を選び、その後「最優秀新人賞」を選ぶ流れが主流でした。
最優秀新人賞が2組ある賞を取るとニコニコしていたのに、1組しかもらえない賞だともらっても浮かない顔をした
どうしたんだと福田さんが尋ねると、「私がもらったら他の歌手のファンに悪い・・・」なんて言ってたそうです。

大晦日の1984年12月31日、日本レコード大賞で最優秀新人賞を1人受賞したとき
ステージを降りて家族のもとへ行き我に帰ると他に争っていた歌手に悪いと泣いたそうです

やっぱり岡田有希子さんは人を思いやり自分のことより他人のことを考える素敵な人だったですね
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芸能界に強く憧れて人生最初のステージ(岡田有希子さんの乙姫役)

2016年07月21日 | 
岡田有希子さんは小さい頃、学校の成績がよく清掃活動などもちゃんとする優等生
そして思いやりがあり人には優しく・・・でもちょっと恥ずかしがりやで人前に出ることは苦手な子供でした。
そんな岡田有希子さんも芸能界には強い憧れがありテレビを見てはあのようなステージたってみたいと秘かに思っていました。

そんな小学6年生の時、学校ではありますが人生最初のステージで主役級を務めることになりました。
学芸会の浦島太郎で圧倒的な支持を得て乙姫役に選ばれた時です

その日から、役作りに燃えたそうです
テレビの『ベルサイユのバラ』のマリー・アントワネットの話し方や歩き方をつぶさに研究したり
その本を買ってきて熱心に読んだり・・・
岡田有希子さんは実はするからには完璧を求めてしまう、そんな子供だったんです

「佐藤クン(岡田有希子の本名)がでる時は教えてください。僕も見たいから
と校長先生からも注目されて担任の竹内先生が頼まれたぐらいです。
そして、竹内先生から見ても普段の練習とは比べれられないくらい完璧に演じていて驚いたという
岡田有希子さんも文集の中で演じたことを残しています

 「ああ、失敗したらどうしよう。」
 舞台の幕の後で、手足がふるえるのを感じながら祈るような気持ちでいるうちに幕が開いた。
 歌をうたいながら舞台に進んでいき王座についた。
 照明がまぶしく、みんなの視線がいっせいに舞台へ集まってくるようで顔がほてってくる。
 せりふを言うたびにドキドキして言いおわるとホッとする。
 乙姫の独唱になり高ぶる気持ちをおさえて歌った。
 三幕めがおわり、はなやかなフィナーレ。六年生の音楽劇は、終了した。
 それが私にとって、この六年生で一番心に残っていることである。

「結局、あの時の体験が彼女に芸能界という道を選ばせたのかしら……」
と担任の竹内先生はよくそう思うのだった

子供の頃から完璧なほど物事に全力を尽くすことが垣間見えた岡田有希子さんでした

(岡田有希子さんに関する掲示板 http://snow.advenbbs.net/bbs/yukiko.htm)
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岡田有希子さんのことを当時の担任が語る(その2)

2015年10月27日 | 
前回に引き続き当時担任だった竹内先生が岡田有希子さんを語ることを納められた本のご紹介です

岡田有希子さんは愛知県名古屋市出身で名古屋市立高蔵小学校に通っていました。
何事にも一生懸命で努力する・・・そんな少女だったそうです
それは完璧を求めすぎた側面もあったという・・・

『竹内は、生徒としての佐藤佳代(岡田有希子の本名)を怒ったり、
 注意したりした記憶がない。とにかく、彼女はミスというものを犯さない生徒だった
 たとえば、彼女が誤解されるような事態が起きた場合も、
「あの佐藤はそんなことをするわけないだろう……」という雰囲気が自然にできる。
 また、その行ないが注目に値することであれば、
「ああ、佐藤なら当然のことだろう……」という評価が生まれる。
 そういう大人たちの空気の中で彼女は育ってきた

「それが、かえってあの子にとって、よくなかったのかもしれない……
 芸能界みたいな厳しい世界で生きてゆくにはあまりにも優等生すぎたのかもしれない」
 と竹内はいま思う……。』

竹内先生は子供として優秀な佐藤佳代を感じながら
大人になり芸能界へ入った岡田有希子さんを親のような気持ちで見ていたんでしょうね・・・

(岡田有希子さんに関する掲示板 http://snow.advenbbs.net/bbs/yukiko.htm)

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岡田有希子さんのことを当時の担任が語る(その1)

2015年07月20日 | 
誰もが子供の時をよく知る大人は親以外というと担任の先生ではないでしょうか
岡田有希子さんは愛知県名古屋市出身で名古屋市立高蔵小学校に通っていました。
当時担任だった竹内先生が岡田有希子さんのことを語ったことをおさめた本があります。

『彼女が出演している歌番組をみることがある意味でつらいという気持ちさえあった
次々と輩出されてくる新人の後ろで自分の出番を待っている彼女の表情がカメラでとらえられた時など……。
「ああ、佳代ちゃん(岡田有希子の本名)の気持ちがわかる気がする……」
それは、たいがいがさびしそうな表情だった。自分が追い抜かれるのでは……という危機感。
その顔は笑っているが、竹内先生にはさびしそうに映って仕方がない。その胸中が手にとるように感じられる。
「佳代ちゃんは、昔から、負けん気が強かったものね……」』

担任の先生は子供たちをよく見ていて一人一人の性格をよく把握していると聞きます
竹内先生はテレビで映る岡田有希子さんの姿や表情を親が見るような目で見ていたのでしょう。

また、岡田有希子さんの小学校時代のことを色々な側面からその性格を話しています。
「確かに無邪気な子ではあるが、天真爛漫とはどこかちがう。
 キャッキャッと騒ぐかと思うと、スッと自分の中に入りこんでしまう。
 大人のように頭のいい面を持っていた。なんでも手放しで喜ぶということはなかった。
 無邪気な反面、この教え子はすごく考えこむところがある」とも言っています。

竹内先生は当時色々な雑誌で岡田有希子さんと一緒に登場していました。
それは、名古屋という故郷に帰ってきた岡田有希子さんを取り上げているときです。
笑顔でみなと一緒に写っている竹内先生ですが10代で東京に行き芸能活動をする佳代ちゃんこと岡田有希子さんのことを
その性格を知ったうえで本当は大変心配していたんですね・・・


詳しくは、「I Believe In Yukiko」のホームページ http://yukko.digi2.jp
(岡田有希子さんの生涯や内面をBOOKのコーナーで知ることができますよ)


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母親が娘(岡田有希子さん)の姿を見送ったあの2日前の出来事・・・

2015年03月15日 | 
もうすぐ4月・・・気候も時折暖かい日がありますね・・・
岡田有希子さんのあの日が近づいてきました。あの1986年4月8日から今年で29年・・・
そこで、避けてはいましたが少しあの日の2日前のことを文献から触れたいと思います。

岡田有希子さんは4月6日に名古屋で里帰りコンサートを開いています
それも実家から歩いていける距離にある会場でした。

その日の夜に久しぶりに実家へ寄ったそうです。
岡田有希子さんは名古屋で仕事があっても必ずしも実家によらなかったそうです。
きっと、帰ると家族に甘えてしまう自分がいたから本心では帰りたい気持ちがあってもそうしなかったそうです

実家に帰り、最近の写真ということで姉の成人式の写真などを見ていたそうですが
ある1枚の写真を見た時、妙に黙りこんでいたと母親が語っています。
それは父母姉の三人で写っている写真だったという。

そして、帰り際にこんな一言をつぶやいたと言っています。
「お父さんかお母さん、どちらかひとりでも東京に来たほうがいいみたい。そのほうがお金がもらえるみたいだよ。ま、私は好きにやってるからいいんだけど……」
母親の手記によると「いままで決してそんなことをいう娘ではなかった」というように
岡田有希子さんは人に弱みを見せずつらいことがあっても自分1人で背負ってしまう性格だったそうです
母親は後になって妙にその言葉が気になったということです。

これが岡田有希子さんが家族に漏らした最後の弱音でもあったようで、それがメッセージのようでもあり母親は悔やんだそうです
現在、岡田有希子さんのファンだった人は子供を持っている方も多く気持ちは痛いほどわかるのではないでしょうか・・・

そして、名古屋駅発午後8時53分の新幹線で彼女は東京へ向かい、母親が見た岡田有希子こと娘「佳代」の最後の姿だったそうです・・・・・

詳しくは、「I Believe In Yukiko」のホームページ http://yukko.digi2.jp
(岡田有希子さんの生涯や内面をBOOKのコーナーで知ることができますよ)
 
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岡田有希子さんの生涯を取り上げた本(賞レース)

2014年12月24日 | 
今年もそろそろ終わりです。
年末と言えば当時は歌の賞レースというものが盛んでした
日本歌謡大賞や日本レコード大賞などです。

岡田有希子さんも新人賞を多く受賞していましたし本人もそれを欲していたようです。
しかし、あまりそれを表に出せない自分がいたようです

「中学校のころ、芸能界に入りたくて、あっちこっちのオーディションに応募の葉書を書いた。
 クラスメートの中にも応募する者はたくさんいたが、みな大半は面白半分で葉書を送っていた。
 しかし、彼女だけは本気だった。彼女は本気で応募していることを知られるのを恐れた。
 内心は胸がつまるほど真剣に思いつめていたのである
 賞獲りレースの場合もまったく同じだった。心の中では猛烈にそれを欲していた。
 だが、それを知られることが恥しくって、人前ではよけい引っ込み思案になってしまった」

そして、レコード大賞の最優秀新人賞を獲得し喜びにあふれていたのですが
その後の家族との会話では争った同期の歌手にお詫びする気持ちを口にしていたそうです。
「Kさんに申し訳ない。Oちゃんにわるい……と泣き叫んでしまった

岡田有希子さんは元々自分を犠牲にしても他人を優先するような人ですから
ふと終わった賞レースにわれに返り本来の自分に戻っての言葉なんでしょう。

やっぱり、本当は大変思いやりのあふれる人なんですね・・・

詳しくは、「I Believe In Yukiko」のホームページ http://yukko.digi2.jp
(岡田有希子さんの生涯や内面をBOOKのコーナーで知ることができますよ

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岡田有希子さんの生涯を取り上げた本(子供の頃)

2014年11月09日 | 
岡田有希子さんの子供の頃はどんな少女だったんでしょうか?

そこで、岡田有希子さんの生涯を取り上げた本からお話します

「母親にしかられた佳代(岡田有希子さんの本名)は、降りしきる雨の戸外に飛びだし、
 そのまま泣きつづけるといういじっぱりな面も見せた。」
「幼稚園の幼少組の頃、女の子でひとりだけ、鉄棒の逆上がりができる子がいた。
 佳代は燃えた。幼稚園から戻るとその下にゴザを敷き、
 午後2時から夕暮れまで練習してついに逆上がりをマスターしてしまった

ということから、「負けず嫌い」ということもできますが
「これと決めると最後までやり通す」というような「意志の強い人間」になる可能性が
幼少の頃から垣間見えるといえるかもしれません

それは、小学生になると成績や生活にも現れます。

当時の担任の竹内先生が語っています。
「どの科目を4にしようかと悩んだくらいである。オール5なのである。
 勉強ばかりか掃除の時間などでも手を抜くということがない生徒だった。」

勉強なども「やるぞ」と思うと全力を尽くして達成しようとしたのでしょう。
ただ、苦手なことも中にはあるようでしたから、
ひたむきな努力家といえるのではないでしょうか


詳しくは、「I Believe In Yukiko」のホームページ http://yukko.digi2.jp
(岡田有希子さんの生涯や内面をBOOKのコーナーで知ることができますよ



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