昨日、意外な形で言う事になった。折角だからブログでも、その一端を記しておこうと思う。一昨日、ZAOの話をチラッと書いたら、偶然にも昨日ZAOがウチを訪ねてきた。ウチはZAOの自宅と職場の中間にあるから、たまにこういうことがある。
こういうとき、その後のパターンは大体決まってくる。そのまま適当に近場で晩飯食いながら談笑、近況報告などを行う。その日も、そんな風にたわいなく終わると思っていた。けど、経過は忘れたが、いつの間にやら話は人生論的な方向へ。多分、俺がそういうテーマが大好物だから、しらずしらずに誘導したんだろうが・・・・・。ZAOは俺の長文ブログに難色を示しており、小難しい話なんかには聞く耳持ってないと思ってた。事実、数ヶ月前立川のドーナツ屋で行ったような議論(ドーナツ屋だろうと、クリーニング屋だろうと、グループに俺がいると、大抵議論の場になる)は、もうこりごりだと言っていたし、ああいうのは生産的じゃない、ましてや俺らは社会人だ、そんな余計なこと考えてる暇なんざないぜ、と念を押されていた。
だから、俺のスタンスや思考は一生彼には理解されないものなのかもしれない、と半ば諦めていた。でも、昨日は話が色々と膨らみ、弾んだ。多分、俺がZAOの一番伝えたかったことを、すんなり理解することができたからだと思う。彼は独自の思考でその結論にたどり着いたようだったが、俺はもしかすると一人じゃ“その結論”に辿り着かなかったかもしれない。俺が彼の理論を知っていたのは、神田の喫茶店で勤めていたとき、たまたま店の前に捨ててあった「社会的ジレンマ」という本に、その内容が載っていたからに他ならない。
その理論っていうのは「真の怠け者は、誰よりも正確にスピーディに仕事を終わらせる理論」「情けは人のためならず理論:改」(暫定)とでもいうべき内容。興味あったら、聞いてくれれば俺かZAOが解説してくれるでしょう。恐らく、社会心理学系の本にも書いてあると思います。
俺は基本的にアイディアマンではないので、こうした取っ掛かりを基にして、理論やアイディアを生み出していく。俺があらかじめ、その本に出会っていて、事前にZAOの話の予備知識を偶然持っていた。それにより、両者の理解がスムーズに行われ、結果、普段なら「退屈だ」、「長い」などと言われて強制終了させられてしまう俺の話も聞いてもらえた。そういう上手い循環が昨日は働いたように思う。
俺が話した内容は、どれも大切(だと自分は思ってる)なことばかりなのだが、その中でも、「くだらない話理論」を取り上げたい。ネーミングセンスがまた酷いな、コレ・・・・。
俺の話はよく「くだらない」と言われる。実際くだらない。俺以外の話でも、世の中には「くだらない」と思う話はそこらに溢れている。そして、俺たちはそういう話にまとわりつかれてはかなわない、時間と体力の無駄であると、攻撃や無視などといった方法で無難に対処していく。それは、さながらバイオハザードのジルがゾンビを片っ端から撃ち殺し、ときにはダッシュでかわし・・・・といった処理方法に似ている。無益な話はゾンビのような、厄介なものなのかもしれない。これは、日々時間に追われている現代人にとって、致し方ない反応だとは思うが・・・・
ちょっと待て。
くだる、くだらね~の判断は誰がしてるんだ?勿論俺様だ。俺様の判断は的確だからな、俺がくだらないと判断したものはくだらない。誰もがそう思っている。だが、ここで大きな疑問がふたつ浮かぶ。
1:お前はくだらないものが分かるというが、じゃあ当然、何が重要か知っているよな?くだらないものが分かるということは、それ以外は重要なモノということ。じゃあ、重要なモノって何ですか?俺、重要なモノが知りたいので教えてください。と、言われても実はあんまり分かってなかったりする。俺らは“実用性”だとか“役に立つもの”、“人生において重要なもの”などをしきりに求めているが、それが一体どこにあるのかを知らない。一方で非実用的なモノ、役に立たないもの、重要じゃないもの、などはよく知っているという。全くおかしな話ではないか?
2:“人間が判断を下す”ということ、それ自体が実は既に危うい要素を持っていることを忘れてはいまいか?判断に誤りがなく、常に正確であるということは、人間のスキルではありえない。それが可能であるとすれば、そいつはもはや神だ。
人間の判断は成人ともなれば、それなりに正確になる。ここは危なそうな場所だ、コイツは胡散臭そうな人間だ、という判断はある程度当たっているだろう。だが、それ故に慢心を抱く。人は判断を迫られる局面に立たされたとき、「俺の判断は正しい」と誰もが思う。当たり前だ。「もしかすると違うかも・・・」とは思うだろうが「俺の判断はおかしい」と思いながら株を買ったり、仕事をする奴はいない。
くだるくだらないのカテゴリー分けも出来ない、そしてその判断力も疑わしい、人とはそういうものなのに、他人から突然投げかけられた話を「くだらね~」で片付ける。結果として、話はまったく膨らまず、ポップコーンを炒る前に「これ固くてくえねぇよ!」と捨ててしまうような行為を、コミュニケーションの場で事も無げに行う。
当たり前だ、調理しなきゃ食えねぇよ。でも、お前は調理法を知らないし、しかも何も試してもいねぇじゃねぇか・・・・と、突っ込みをいれても、聞く耳持たない。これが、コミュニケーションやアイディアの現場で起きている悲劇である。アイディアや言葉は、特別な道具など何もいらずに無料で幾らでも加工し放題なのだが、実際には皆面倒くさがって、何もしない。それは、「多分加工しても使いものにならないだろうな」という判断力(悪く言えば先入観)が働いているから。おそらく、その判断は大抵正しい。けど、その思考過程の先に自分の求めているモノがあったとしても、ゴミとして捨ててしまっている行為をも同時に行っている勿体無さには気付くべきだろう。重要なモノ、役に立つモノってのはそんな楽に、簡単に手に入るものじゃないと思うんですよ、俺は。
俺と会話すると、無駄でくだらない話に付き合わされて、さぞかし多くの人が迷惑していると思う。だが、勘違いして欲しくない。俺は無駄話やくだらない話が別段好きというわけではない。くだらない話、有益な話の判断が正確に行えないから、やむなくそういうプロセスを辿っているだけだ。そういう煩わしい手順をいきなりすっ飛ばして、天から答えが舞い降りてくるようにピコーンと閃く天才もいるんだろうが、生憎俺は凡人なので、ひとつひとつ検証し、加工していくしか術がない。これは、何も俺のひとりよがりの理論ではない。あの有名ミュージシャンB’zも、ハーバード大学の交渉術研究チームも行っている手法である。それらのエピソードをとりあげると、また更に長文化するので、ここでは控えるが・・・・。
俺は小学校や塾などの組織を一時期本気で「くだらない」と思っていた。それは俺の判断力が未熟だったからに他ならない。今、そういった過ちを二度と犯さないだけの叡智を身につけたか?と自身に問うてみたとき、「ノー」という答えが、どこからともなく返ってくる。そして、恐らくこの答えは俺の頭がおかしくなるか、ミラクルが起きて神の知恵を授かることがない限り、変わることはないだろう。つまり、こうした「無駄」は俺が学問の領域から完全撤退するまで続ける、続けるべき作業なのである。
刑事コロンボが、事件の容疑者に対して、アレコレと関係なさそうな話題を振るでしょ?アレはこれらの理論の無意識的な動作の表れだと思いますよ。何が正解か分からない、どんな話からボロを出すか、ヒントが掴めるか分からない、だから手当たり次第にどんな質問もする。話を膨らませようとする。こういう事を無意識に、あるいは本能的にやっている人を「有能な人」であるとか「天才肌の人」というんだと思う。凡人はいちいち理由が必要で、それが利益になるのかどうかとか確認をしないと行動しないからね。結局そういったプロセスは“コスト”として計上され、天才タイプより出遅れる原因となり、最終的な実力差へと繋がる。そういうことなんじゃないかと思います。
宇宙の映像って俺は好きなんだけど、ブログの背景にすると、全体的に暗い印象になっちゃって良くないね。ブログのタイトルと、好みに沿って宇宙の背景でずっとやりたかったんだけど・・・・。明るい背景の方が雰囲気的にはいい感じだよね。