ん~・・・・・・・・・・・・・・・・・・
う~む・・・・・・・・・・・・・・・
これは、どういう映画なのか・・・・?いや、タイトル通り明らかに恋愛映画であることは分かる。しかし話の筋や結末、登場人物の奇怪さなどから製作者の意図を正確に汲み取るのが難しい作品でもある。製作者インタビューを聞かないと、かなり幅広く解釈できる余地がある。わざとそういう意図で作ったというのなら話は別だが・・・・。
多分、この映画くらいではないだろうか?恋愛映画であるのに男性主人公が途中で完全に交代しているのは。最初はA君の恋愛視点全開で描写されていて、これはA君の恋愛模様を最後まで見守る話なんだな、と誰もが思う。ところが途中でA君があるバーで見つけた気になる女は、別のB君に恋し始める、という説明と共に、男性主人公は完全にB君へとバトンタッチする。あまりにもA君の恋愛事情が中途半端な形で終わるので、あとでまたA君のエピソードに戻るのかなと思いきや、全く再登場の出番なくエンディング。なんだこれは?と呆気にとられてしまう。
が、ここで放心状態になっているわけにもいかない。昨日の鑑賞から一日経ち、頭も冷静になったところで、文を書きながら物語を少し真面目に分析してみるとする。
A君はなかなかの好青年であるが、B君の印象も悪くない。A君主人公にすっかり感情移入している我々にとって、突然現れたB君は下手すると間男のように見えてもいいはずなのだが、ちょっと彼を観察し続けると、こいつもなかなかいい男であることが分かる。なかなかどころか、かなりいい男である。俺がもし彼女に「ごめんなさい、あなたとは別れるわ。私、B君の方が本当は好きなの」と言われても、「あいつなら仕方ないかな」と思えるほどだ。俺の彼女は男を見る目があるよ、その彼女の目がB君と言うのなら仕方ない、むしろその彼女に惚れた俺は健闘したといえるだろう、畜生・・・・悔しいが・・・・。こんな気持ち。(現実に自分がそういう状況になったら、ストーカー上等で彼女に復縁を迫るかどうかは、分からないが)
A君もB君も出来すぎなくらいいい男なのだが、彼らの職業はそれぞれ刑事と制服警官、というこれまた好青年像を作り上げるために適した設定になっている。裏表がなく、真っ直ぐな人間なのだ。
オチをいうと、この映画は最終的に誰の恋愛も成就しない。恋愛映画において、その愛が報われない、というタイプのモノは主人公たちに感情移入し擬似恋愛をすることで満足を得るタイプの作品ではなく、恋愛とは何か、といった恋愛について考える作品であると見ていい。つまり、これは恋愛哲学映画である。・・・・と決めてかかることで、初めてこの映画の意図や価値に接近できる。
この映画は序盤、割と心理描写の説明が多い。一般的に説明台詞やナレーション、心理描写の解説が多い作品は、俺の尊敬する映画評論家・町山智浩に言わせれば「観客にいちいちこうやって説明しないと、観客が理解出来ないと思ってるんだよ。つまり、製作者側が観客の理解力を舐めてるんだ」ということらしい。これは一般的に正しい評論だと思うが、絶対的な基準ではないと思う。つまり、この映画のように、恋愛映画なのに誰の恋愛も報われない形で終わると、「え?何コレ?ハッピーENDでもなく、かといってあからさまなバッドENDでもない。つまり、何が言いたいの?」と観客は途方に暮れてしまう。この映画のナレーションは、登場人物の恋愛が最終的にどこにも着地しない浮遊的状態を補う意味で、大切な役割を果たしていると俺は思う。
たとえばこんな心理描写がある。
<どんな物にも期限がある。この世に期限がないものはないのか>
<僕はあることを確信した。メイ(A君が別れた元恋人)にとって、僕は缶詰と大差ないのだと>
この世に期限がないものはないのか・・・・・明らかに「愛でさえ期限があるなんて(なんて悲しいんだ)・・・・愛に期限が無ければいいのに」という意味を含んでいる。
彼は伝言センターへの合言葉を「1万年愛す」というフレーズに設定している。伝言センターなんて、ケータイ全盛期の現代ではもはや無用の長物だが、公衆電話がまだ市民の主要な連絡手段である時代は使い道がある。また、伝言センターといっても、そこに集められるメッセージは、恋人同士のすれ違いを防ぐ、いわば愛や気遣いメッセージの溜まり場である。だからこそ、彼はその恋人のメッセージが届いているかもしれない伝言センターの合言葉を「1万年愛す」と設定した。
恋人を1万年愛す者は、恋人のメッセージを聞く資格があるし、その利用資格もあるだろう。1万年愛す、というフレーズもよくよく考えれば期限を設定しているのだが、人間の通常の寿命から考えると、1万年といえば100回以上生まれ変わっても愛し続けるレベルの長さだ。これは、いくら愛に期限があるといっても、十分過ぎる愛情の深さであるようには思う。少なくとも、俺は100回生まれ変わってもこの女を愛し続ける自信がある!というほどの女性に会ったことはない。
この「1万年愛す」というフレーズが、ただの恋愛素人による馬鹿げたロマンチズムととるか、これぞ愛の理想!ととるかはハッキリと分かれるところだろう。とはいえ、少なくとも現代日本で後者が多くの支持を集めるとは思いにくいが・・・・。
俺はこれが、かなり行き過ぎた幻想・理想であることは頭では理解しつつも、恋愛は頭で理解するようなものなのか?という逃げ道から、荒唐無稽にも思えるこの考えを支持したい。支持できなければ、恋愛において本当に甘美な時間というものは訪れないだろう。「いつか終わりが来る」「そのうち、こいつにも飽きるのかな」なんて心の底で思っていて、相手を真剣に愛することが出来るはずがない。愛とは本物のロマンチストだけの特権である。
更に、彼女にとって、僕は缶詰と大差ない、というフレーズ・・・・・・・酷い自虐だが、これが事実というものである。
彼女が<僕>との愛を、当初は永遠に続くものだと思っていたのかどうかは、今となっては知る由もないが、結果として彼女は<僕>をフッったし、<僕>を捨てた。何度も何度もやり直そうと、せめて話し合う機会でももうけようと彼女にかけあったが、彼女は冷たく無視した。
何故なんだ、あんなに真剣に愛し合ったのに、何故同じ相手に時間が経っただけでこうも冷たくなれるんだ。あの時間は全て嘘だったのか?<僕>は彼女をまだ愛している、だから、それがまるで分からない。
<僕>は彼女からの返事を待ち続け、やり直せる僅かの可能性にすがり続けた。しかし、待てども待てども、彼女からの連絡は来ず、そうしてある日<僕>は全てを悟った。<僕>は、彼女にとって、<僕>が今食べているこの缶詰と一緒だ。賞味期限が来るまでは「美味しいね」と食べてもらえる。喜んでもらえる。しかし期限が来たら、「お前は、もう食えない」「ハッキリ言ってマズイ」「期限切れのモノなんて、見るのも不快だ」と冷たく宣言される。今までのように手にとってもらって、パカッと中身を見てもらうことさえ叶わず、廃棄物と同じように捨てられる。
あんまりじゃないか、<僕>は人間だ。心を持った人間だぞ。缶詰と同じように扱うなんて、酷すぎるじゃないか・・・・・<僕>らの愛に賞味期限なんて無いんだ、なんて思い込んでいた<僕>がただのお子様だったとでもいうのか?だとしてもあんまりだ・・・・・。
これが、俺の想像するA君の心理描写である。
ああ・・・・A君、あまりに不憫・・・・ああ、可哀想。彼は純粋なのに・・・・なんで彼女はこんな誠実な男を捨てたのだ?
それが大人の恋愛ってもんなんだよ、何ガキみたいなこと言ってんだ?そんな野次が横から聞こえてきそうである。ガキで結構、お前は大人らしい情欲にまみれた恋愛をせいぜい楽しめばいい。俺とA君はそうやって、居酒屋の片隅で共に涙を流すのである。
お前が、恋人と長続きしない理由(=死ぬまでもたない理由)、それはその愛を本当に信じていないから。
どこかで現実と比較してしまっているから。
勿論、お前が本気で愛を信じていても、相手が信じていなければその愛は破綻する。自分に真の愛が備わっていたとしても、理解し、受け取ってくれる相手がいなければ、ただの妄想か自己満足とみなされる。
されとて、それでも自分に真の愛が備わっていなければ、少なくとも愛を信じていなければ、愛し合う男女も生まれないのである。
だが、人間はそんなに簡単に本当の愛、つまりいつまでも変わらぬ愛、永遠の愛などというものを信じられないのだ。
だが、愛を信じることができず、人を愛せなくとも、恋は出来る。なんか君のこと気に入っちゃいました。こんな気持ちがちょっと芽生えるだけで恋が成立する。
そして、こういう気持ちは、ある日突然冷めても、人でなし扱いはされない。「あれは恋だったんだよ」こう言っておけば、言い訳として十分である。
そうして、こういう気持ちの人々によって埋め尽くされているこの地球・・・・・・・・・ちょっとした期間、ちょっと恋をして、理由も分からず突然冷めて、また別の誰かへと恋が始まる。そして、これを飽きることなくいつまでも繰り返す。 まさしくこれこそ「恋する惑星」である。
この映画はあからさまに女性向けに作られた、と解釈することも出来る。
その理由はこうだ。俺が女性だったとしよう。映画を真面目に鑑賞し、没入していくにつれ、作品内で全く姿を現さないA君の元カノを、同性視点から見ても酷いやつだとか、理不尽なことをする女だ、と思い始める。別れてもまだ元カノに一途な彼に、段々と親愛の情が芽生え、彼と付き合ったら、私もこんな風に一途に想ってもらえるんだ、素敵だな、と思う。そして、中盤あたりにはすっかり彼の人柄に惹かれる。つまり恋のような感覚が芽生える。
ところがここで急展開。A君は作品中からすっかり姿を消し、今度は完全にB君の物語となる。彼もA君同様、彼女にフラれたばかりで少し元気がない。彼を見てると、彼もまたA君に負けず、誠実で素敵な男性であることが分かる。あ~B君、カッコイイなぁ・・・・とウットリ。
はい、ここでストップ!
お前、さっきまでA君がいいとか言ってなかったんかい?こんなわずか1時間かそこらの間でもうB君がいいなんて心変わりしている。つまり恋心が溢れんばかりにお盛んで、浮わついている。 観客が女性で(男性であっても)、知らぬうちにこんな気持ちにハマっていたら、あなたもすっかり恋する惑星の住民である。こうした女性、男性たちの恋する気持ちの総体が我々の暮らす惑星、地球なのだ。
あ、ちなみに・・・・
ヒロインがどこからどう見ても裏社会の人間であることや、B君の元カノがスチュワーデスであることなど、これらの話はどういう意味を持っているのか?という考察も面白い。肉屋と物語の関係性、電気が止められてロウソク生活になったことや、B君の音楽の趣味が変わったことなど、考え出したらキリがないくらい、この映画は様々な示唆に富んでいる。 長くなるので書かないけど。