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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

『首』レビュー

2024年01月09日 01時27分23秒 | 映画

娯楽作品としては大して面白くない。・・・のだけれども、観て損はない映画かな、と思う。特に時代劇をそんなに見てない人にとっては。

というのも・・・これは監督が発言してしまってるのだけども、この作品は大河ドラマに対するアンチテーゼとしての立ち位置をとっており、大河ドラマのような英雄的で凛々しく、礼儀正しい戦国大名像というのは果たして正しいのだろうか?という結構強烈なテーマが描かれているからだ。
また一方でたけしのお笑い芸人魂ともいうべき演出が随所で施されており、人の死やパワハラ的行為がブラックジョークのようなノリで展開されている。しかし、それすらも戦国大名の発言や振る舞いを取り締まる法や組織というものが存在しない当時にあっては、それが一定のリアリティや説得感を持つから不思議なものである。
いみじくもホッブズが「リヴァイアサン」で語ったように、巨大な法や権力が働かない場においては、人はケダモノ同然となり、万人による万人に対する闘争が起こる、といった世界観に近い。庶民も大名も本当にしょうもない理由で行動し、人を弄び、殺し、我欲全開で人生を謳歌する。信長も「人間、生まれた時から全て遊びだわ」などと言い、これはあたかも晩年のたけしの人生観そのもののようにも感じる。

女、子供、老人といえども反逆者一族なれば容赦なく処刑する冷酷な一面。部下にさえも残虐性を発揮し、こんな信長に嫌気がささないものか?と観客は疑問を持つことだろう。男同士で性に耽る戦国大名の一風変わった性癖。もちろんそこには教科書や大河ドラマで描かれるような名君らしさは微塵も無い。さしずめ、SMクラブで変態プレイを楽しむ俗物といった風体である。こういった描写をふんだんに盛り込むことで、「あれ?戦国大名ってもっと強くて賢くて、突出した人間なんじゃないの?」と思ってた観客のイメージは次第に崩れていく。そして、こうしたかつてのイメージの破壊こそがたけしの狙いでもある。

戦国武将を神格化するな、これこそがこの映画最大のテーマだ。
フランスでナポレオンを英雄扱いするのと同様に、日本では信長、秀吉、家康などを英雄視する。しかし、この映画では3者ともロクでもないオヤジとして描かれており、一時代を築いた傑物、といったイメージからは程遠い。何故、こうした戦国大名像が今まであまり無かったのか?
それは我々日本人が日本の歴史や、日本人としてのアイデンティティに自信を持つために敢えて教育上、彼らのダサい部分を語らなかったという国家的な戦略も働いており、また現代の政治家や官僚など国家運営に関わる者たちを過度に軽視しないように(=革命防止のために)そう植え付けている側面もある。人の上に立つ者が実は我々庶民と大して変わらない俗物だった、あるいは変態だった、という情報は為政者にとっては都合が良くない。
しかしお笑い芸人というものは「そんなこと知らねぇよ」という態度で彼らを笑い者にするわけである。人が恐れ、敬う存在を小馬鹿にし、庶民を笑わせる、という姿勢こそが本物の芸人魂というものであり、権力に擦り寄る連中はただの太鼓持ちである。たけしのそんなメッセージ性が伺える興味深い作品でもある。


『三度目の殺人』レビュー

2024年01月08日 02時15分39秒 | 映画

これはかなり大きいテーマを2つ扱っている哲学的な映画であり、そして多くの人がこの2つに気付かず「退屈だった」という感想を述べる映画。その2つとは「死刑制度」と「人が殺意を持つとはどういうことか」という点。


役所広司演じる三隅は殺人の容疑で裁判中であり、当初は犯行を認めていたが、実は「殺害を認めた方が刑が軽くなる」などと検事や弁護士から迫られていたためであり、本当は自分は殺害してない、と突然供述を一転させる。これに対し、彼の弁護人である重盛は当然の如く酷く動揺し、「これでは裁判に勝てない」と吐露する。そして彼の心配通り裁判官は心証を悪くし、「最初は犯行を認めていたのに、これは一体どういうことだ?」と不機嫌に語る。
この犯行否認後の検事、弁護士、裁判官3者で交わす事務手続きはこの映画上極めて重要な場面である。何故かといえば、ここでのやりとり次第で三隅の運命が大きく変わるからである。三隅は強盗殺人の罪で起訴されており、過去にも人殺しの嫌疑をかけられていることから、今回の件で有罪になると死刑濃厚であった。そしてこの事件では三隅が犯人だという物的証拠は一切無く、ただ三隅の自供があるのみである。
しかし三隅はその自供を180度翻し、「自分は殺してない」と言った。しかし裁判は三隅有罪の結論ありきに進行し続け、三隅の犯人性は争わない、という流れでアッサリ片付けられてしまう。
観客は気付いただろうか?この事務的に人を殺す、当然のように殺す、裁判をやり直すのが面倒だから時間節約のために人を殺す、という自分が殺意を抱いたことさえも自覚せずに、法と権力の名の下に一人の人間の死を淡々と決定したという事実に。そしてこの殺害方法が、強盗殺人や強姦殺人といった自分勝手で快楽のために人を殺す、という殺害方法よりもある意味でタチの悪い殺人であるということに。
死刑制度のタチの悪さ、それは正義の冠を被った人間がそれを決定し、実行することである。怨恨や強盗殺人は身勝手で悪そのものの行為だとされ裁かれるが、正義の下に執行された殺人は決して裁かれない。
我々一般人は殺人といえば強盗や強姦、怨恨など強い悪意を伴いつつ行うものであり、警官や死刑執行人が然るべき手順で行う殺人は殺人としてみないことがしばしばある。つまり三隅に対して下される死刑判決や、その後実行されるであろう絞首刑は街中で行われる野蛮な殺人とは別物である、と考える。いや違うよ、同じ殺人だよ。殺害する当人が正義を信じ切ってるから殺人だと気付かない場合が多いけど、立派な殺人だよ。観客よ、この殺人を自覚せよ。という強烈な監督からのメッセージが三度目の殺人というタイトルに表れたのである。

そしてこの映画の裁判上の問題点は更にある。三隅は罪を否定した。そして物的証拠は何も無い。なのに何故彼は死刑になるのか?「推定無罪」の原則はどこにいったのか?という点である。彼は犯人ではないかもしれないという微かな可能性があるのなら、彼を有罪にしない。そうしなければ、疑わしいという理由だけで人は拘束され、国家の正義の名の下に命を奪われてしまう。道の片隅で通り魔に刺されて殺される人と、国家権力に疑われて絞首刑にされてしまう人はどう違うのか?理不尽に命を奪われるという意味と結果では同じではないか?という問いかけがこの作品ではなされている。あなたは後者のような形であれば、納得して死んでいける、と堂々と宣言出来るだろうか?三隅とは正にそのような状況に晒されてしまった人物であり、そして日本国民はいつでも誰でも彼のような立場になりうるのだ。
それは正義だろうか?良識ある殺人だろうか?そしてこのような裁判を国民は見て見ぬフリをしていいのだろうか?

また、この作品は思考実験的な要素もあるのが面白い。
ギャンブルで金をスったので強盗殺人を犯した、と聞くと何て身勝手な人間だ、こんな奴は当然死刑だ。と考える人は多いが、「こんな人間は死んで当然だ」とか「こんな奴は生まれて来なかった方が良かった(=だから今すぐ殺しても問題ない)」という考えに至る無邪気性、無謬性を疑わない心のまま殺意を抱くという人間心理をあぶり出しており、つまり殺意とは怠惰な人間や傲慢な人間、身勝手な人間の専売特許ではなく、人間社会に対して厳格性を求める人間にも強く芽生えるものでもある、という意外な発見を観客にもたらす。
・・・が、多くの観客はそのことに気付かず、法律を犯したのだから三隅は死刑になって当然っしょ、くらいの気持ちで彼の最期を見届ける。自分の三隅に対する自然なまでの殺意に全く気付かないまま映画館を後にし、「何だか大して盛り上がる展開もなかった映画だったな」などと呑気に考え、今はもうその殺意を持ったことなどすっかり忘れ、カフェで一杯しけこむのである。
こんなにも簡単に殺意を出したり引っ込めたりしながら街を練り歩く存在、それが我々善良な市民というやつの正体なのだ。

 

三度目の殺人は映画館で上映された。フィクションで良かった。では四度目の殺人は・・・?


『サテリコン』

2014年10月16日 02時06分55秒 | 映画

凄くエグイ(ホラー的な意味ではない)し、一見不可解な作品。しかし描写ひとつひとつを冷静に分析すると、この映画が秘める潜在的爆発力に気付く。
特にラストシーンが示すものは実に残酷な予言だ。人類の最後はどうなるか?絶望に耐え切れず、虚無を貪りつつ共食いをする。もしかすると、それに気付いた一部の人間はその地獄から何らかの形で逃れているかもね、という可能性を残しているのがせめてもの救い。うわーとてもリアルだわ。
ああ・・・この映画の凄さを誰かに伝えたいなぁ。文章で書くのはとても時間がかかるし、何より語り尽くせない。
ひとつ言えるのは、これは栄華を極めた人間たちの末路を描いた、それ故、実に破滅的で不気味な作品として仕上がっているという事。ただ単に観客を気持ち悪がらせたいだけのものではない。「悪趣味な監督だ」と言い放つのは簡単だが、人類の最後が華々しいわけないよなぁ?
サテリコンは紀元前1世紀に作られた文学であるらしい。こんな時代に人類の最後を見て取った作者の恐るべき観察力と感性の鋭さに敬服する。


『サテリコン』名言集

芸術への情熱は金を生まぬ  天才に貧乏はつき物だ

詩人は死ぬ だが構うもんか 詩は残る

この退廃をもたらしたのは? 金だよ

わしは幸福に毒されたのだ これがその結果だ

古の人々の理想は徳だった

(SEXの)体位は様々 どんどん発明される 全て試したがもうろくして忘れちまった

我々は酒と女だけ 芸術を見る目も失った

人がアペレスの作品より黄金を美しいと感じた時に 友よ絵画は終わったのだ

ハエより劣る私たち 抵抗力もなく まるで泡のよう

 


体位の発言が傑作。娯楽は無限に発明され、我々はそれを堪能しつくそうとする。でも結局、最後にはボケて無駄になる。ボケなくとも死んで無駄になる。
じゃあ娯楽をやる意味ってなんだ?という哲学的問い。
あと、娯楽の本質って、確かに「体位の発明」という一言に集約されている。気持ちいいことにまず励んで、フーそろそろこの姿勢も飽きてきたな、次はこの体位をやってみようか、というその繰り返しなのだ。 イエス!モンキー!

まぁだからといって虚無主義に陥っても問題だし、かといって娯楽馬鹿もタチが悪い。 やるにしても、知性と節度は必要だ。


『砂と霧の家』

2014年10月13日 20時43分28秒 | 映画

難しい映画だった。登場人物の誰にも感情移入出来なかったのがその一因だが、途中で保安官に逆らうシーンも理由がよく分からんかった。別に銃奪わなくてもいいんじゃね?っていうか人に銃向けてたら、銃社会アメリカではああいう展開になるだろ?
ただ、あまりにも悲劇的な形で話が終わるし、登場人物が皆様々な形で失敗をするので、教訓はたくさん引き出せる映画だった。
得意の深読み解釈もいくらでも出来るが・・・・なんかそんな深い意味ないような気もする。深読みしまくり、教訓引き出しまくり、登場人物に感情移入出来れば高評価の作品だが、それらナシだと完全に駄作となる。
案の定、ネットの評価では登場人物の対応に苛立ち、厳しい評価をしている人がチラホラいるが、それに対して俺なりの反論を言おう。
この作品は確かにいい人がほとんど登場しない。というより、全員本来そこまで悪い人じゃない筈なのだが、日常の些細な不満やルーズさが原因でそれが結果的に自分以外の人を巻き込んだ不幸な結末へと発展してしまっている。
しかしなんというか・・・・・こういう風に日常のあちこちで手を抜いたり、いい加減に暮らしたり、他人に対して毒はいたりちょっとキツく当たったりするのがリアルな一般人のライフスタイルというもので、日常で全く隙なく生きている人間というものの方が、むしろ異常というものではなかろうか?もちろん、社会で様々な人が様々な形で手を抜いたり、適当に生きていると、自分にもその不利益が降りかかって来る。しかし、だからといってそれを「許すまじ」と厳格に処罰する社会というのも、窮屈なものである。
我々は市民として、他者にもっと寛容であるべきではないだろうか?他者のミスやルーズさに対し、度を過ぎたものでもないなら優しく救いの手を差し伸べ、悩んでる人がいれば愚痴の聞き役になったり、励ましたりする。そんなほんのちょっとの気配りで、驚くほど人は癒されるし心が軽くなるものである。自分の利益ばかりに目が行き、他者への思いやりを忘れてはならない。この映画はそういったことを言いたいのではないだろうか。

深読みしすぎかもしれない解釈を交えると・・・・・・この映画の登場人物の誰にも感情移入出来ないのは計算によるものと考えることも出来る。通常、映画作品において、誰にも感情移入出来ない作品というのは、興行的成功という面から見て致命的な欠陥商品といえる。なのに、こんなストーリーとキャラクターで挑んだこの作品の真意とは何か?
つまり、我々の社会において欠けてるモノは、そういった欠点ありきの人間を労わる気持ちなのだ。我々は欠点が目に付く人間を罵倒したり排除したり、イジメの対象にしたり、無視したり、断罪したり、様々な形で圧迫するし、またそれをだらしのない奴なんだからして当然の事だとも思っている。つまり、「あいつは悪い奴なんだから、こういう報いを受けるのは当然だ」という、昔からある正義論である。それは人間の感情として分かる。
しかし、それでも許せ、というキリスト教精神の原点をここでは説いているのではなかろうか。この映画を観終わって、各々の登場人物に対し、あいつのせいでこうなった、とか自業自得さ、という思いを持つ観客はきっと多いと思う。しかし、それでも許さなければならない。たとえば、イラン人の男は、かたくなに投資用の家を、元の持ち主に返すことを渋り続けた。その結果、持ち主の女性は家の前で拳銃自殺を図る。これは持ち家を奪われ、ホームレスにまで堕ちた彼女に同情せず、「税金を滞納してたから家を差し押さえられ、競売にかけられたんだ、彼女の自業自得だ」という姿勢を貫き続けた、彼の強硬な態度が招いた結果でもあったのだ。このような、「人が人を許しさえすればそんなことは起こらなかった」そういう悲しい展開が随所にある。
神よ、人間を許したまえ。人間の愚かさを許したまえ。人間は他の人間を許したまえ。
こういった精神が、この作品内では語られているのではないだろうか。


これぞスーパーB級映画「エクスペンダブルズ」

2014年10月05日 10時32分08秒 | 映画

黒澤明の「七人の侍」を参考にしてるとスタローンが言ったが、黒澤の作品は「夢」「羅生門」「素晴らしき日曜日」しか観てないので、よく分からん。


ミッキー・ロークの昔話のシーンがこの映画で一番良い。


古い木の橋の所で  見たんだ
女が立っているのを
女は橋の手すりに近付くと
俺の目をじっと見た
俺も女の目を見返した
すぐに分かったよ
橋から飛び降りる気だと
なのに俺は背を向け
歩き始めた
水しぶきが聞こえたよ
その女は死んだ
敵を皆殺しにしたあと
1つの命を救えたのに俺は背を向けた
あの時の後悔は忘れない
あの女を救っていたら
もしかしたら
俺の魂も救えたかもしれない

 


あの時、本来勇気を出して善き事を行うべきだったのに、自分は臆病だったからそれが出来なかった。その後悔ゆえに今自分は苦悩している。その苦悩から逃れるために、今必死にその贖罪をしようとしている、というエピソードは、キリストの弟子たちがキリストを見殺しにした出来事が元になっている。
世俗にすっかり染まり、子供のような純粋さや善良さを失ってしまった大人が再び善行を行うには、こうした罪悪感がそのきっかけとなる。罪悪感こそが、人間の善への道への出発点となるのだ。心が落ちきった人間は、後は前を向くしかないという、ひとつの心理テクニックにも思える。
このエピソードだけで、この映画において30点分の価値がある。
じゃあ、この映画全体の点数はいくつかって?それは俺の口からはとても言えないなぁ・・・・・。

 

 

 

 

ほぼグロ漫画家といってもいい沙村広明の短編ギャグ漫画が本当に面白い。本職のギャグ漫画家より面白い。
ただの猟奇馬鹿だったらクソみそに叩くつもりだったが、ギャグが面白かったので、天才に昇格。
グロでもギャグでも負けてる富樫は、少し見習ったほうがいい。

 


間違いだらけの単語を使用し、間違えても「ネタでした」とか「わざと」と言えば体裁を取り繕えると勘違いしてるネット住民は、本当に社会に通用しない馬鹿げた体裁を捏造している。
更に、ネットを教科書代わりに使い、代わりになると思ってる純粋で分別のない人たちが、その二次災害に遭っている。
真に受けなければ、間違ったものを見ても自分に被害はないと思ってる人は、自分に対する客観性が足りない。


娯楽に思想など必要ないと考えるのは、犯罪である

2014年09月26日 09時49分37秒 | 映画

ゴーギャンの人生を描いた映画「シークレット・パラダイス」を見て感動。ゴーギャンの感情に隅から隅まで共感し、激しく泣いた。
と、同時にゴーギャンの偉大さも理解でき、当然の如く絵画にも興味を持ち出した。自宅にあった様々な画集を見てみたが、う~ん・・・・・面白いね。
しかし、これ以上趣味や興味が広がっても全然対応出来ないよな。ここ2年くらいは映画を通してアニメ(特に外国アニメ)に興味を持ち出したけど、アニメといえど様々な知識を持っていないと、その作品の奥深さを理解出来ないものはある。10代の頃はアニメに脳みそを使う必要があるとは微塵も思ってなかった。必ず小学生レベルの知識と感性で完全に理解できるものだと思い込んでいた。
最近、とある監督が言っていたことに強く共感したものがある。「娯楽に思想が必要ないと考えるのは、ある種の犯罪であるといえると思う」という言葉だ。
これは、非常に重い意味を含んでいると思う。思想無視の、単なるバイオレンスやSEX的快楽を提供し続ける娯楽は、結果として人間を退廃させ、長期的な立場で見れば間違いなくその精神を破壊する。ジャンキーのように更なる刺激を求める嗜好が自然に身に付き、それを求める行為を無意識的に続け、ちょっとモノを考えたかと思えば、「自分はそういう(考えることを面倒くさがったり、快楽に身を委ねるような)弱い人間なのさ」という言い訳を繰り返しながら、同様のルーチンワークに戻る。

俺はこの監督の言葉で確信したが、思想性のない娯楽は意味なき暴力と同じである。つまり、それ自体を楽しんでいて何故殴るのか、何故そんな作品を作り、人々に見せるのかということに深い意味など無い。あるとすれば、他人を殴るとスカッとするから、俺の作品で人が気持ちよくなってくれればそれでいいから、金になるから、などといった短絡的な理由である。
それぞれ、他人の肉体を無遠慮に傷つけ、精神を傷つけるという意味で同列的な犯罪なのだ。
グロテスクな表現やバイオレンス描写それ自体が悪いわけではない。何故それを見せるのか、何か製作者の深い意図があるのか、教訓としてもらいたいのか、そういう意味もなく見せる娯楽は無価値であるどころか有害である。

俺はPTAの潔癖おばさんのように、過激描写自体NG主義ではない。異常性愛、社会犯罪、戦争、暴力をテーマにした作品はガンガン観てるし、それらを見る事でどこか高揚感を覚える自分自身も自覚している。しかし、それに飲み込まれてもならないのだ。
観た結果、自分の世界観が豊かになり、残酷な話であったとしてもそこから教訓を得て、自らの善良なパワーに結び付けなければ意味は無い。それらを観る事で俺がモンスター化してしまっては、社会にとってはただ迷惑であるし、俺だってそんな自分も人生も嫌だ。世界に俺しか人間がいないなら別にどうでもいいけど。勝手に暴れて勝手に自滅するのも悪くない。一人しかいない世界においてはパワーに善も悪もない。全ては自分に直接返るからだ。
恐らく、思想性の無い作品は人のネガティブな側面と相性がいい。実際、考えても意味などないのだから、そこから何かポジティブなものを学べない。ただ、描写されてる目前のモノに対して、意味も無く目の前で家族が暴力に遭ってる光景を眺めるかのように、事実のみを受け入れる。意味も無く行われる破壊や暴力は、当事者にとって理不尽過ぎる事なので、精神崩壊を起こさないためにも積極的に考えることをやめ、動物的な防衛本能を全開にしつつ生き残りに集中しなければならない。いきなり斧を振り下ろされて、咄嗟に手で払ったり、身をかわしたりするように。考えてる暇はないぞ、まず身を守れ!だ。
理由なき快楽や娯楽は、頭を使う馬鹿馬鹿しさを、直接肉体に訴えかける。それも強烈な刺激によって。我々はそれに一人で抗えるほど十分な精神的強度は殆ど無い。世界が人間に自動的に提供する痛み、快楽はとてつもなく激しい。

娯楽といえど健全さは必要である。相手の頭を腐らせる娯楽も現実には存在するし、同じスプラッタ映画を100回観て人生観が豊かになることなどあるのだろうか?俺は少なくとも、そういうことが可能な人間ではない。むしろ人を切り刻むことに慣れる自信がある。
俺はこのゴーギャンの映画のように、一本の映画だけでもとてつもない影響を受ける、という自分を自覚している。だから、観る映画は選ぶし、あまりにも無意味な恐怖や残酷さや暴力のみを描く作品は避けているし、知らずに観てしまった場合などは非常に不快な気分になる。どうしてあんな残酷な事が行われたのか、という解釈が難しく、感情的・思考的納得が行き着く場がないからだ。

人に見せる作品を作るクリエイター達は、自分たちの生み出す作品を人々が見ることで、どういう影響が出るか、どのような影響を望むか、ということを自覚的に行うべきである。理由なんてありません、俺がただこういうもの作りたかったから作っただけです、見せたかったから見せただけです、金になるから作っただけです、というのではあまりに幼稚すぎないか?子供の自由工作と同じ動機・・・いや、薄汚い計算がある分、大人の方がタチが悪い。露出狂や麻薬の売人と同じレベルだ。子供の露出狂など可愛いものである。下手すると、お姉さんに「あら、可愛いわね」と性器を愛撫してもらえるかもしれない。だが、大人のやるそれは、ひたすらに醜悪である。
そもそも大した理由もなく、ましてや金稼ぎのために生み出された作品に感動する自分がアホに思える。「お前を感動させるための作品じゃねーからこれ!俺が金欲しいだけですから!」これが本音のものなのに・・・。

 

 

 

俺以上に優れた内容で漫画や映画やゲームを評論しているブログを見付け、あまりのレベルの高さに今かなり嫉妬している。
経歴を見てみると、大学では英文学を専攻し、元新聞記者だったらしい。う~む、道理で記事も紳士的なわけだ。ただ、洞察力は凄いが、根本的な文化や表現に対する価値観の違いが割とあるなと感じた。例えば、人間の表現力とその認知にはリミットがあるかないかという問題や、「けいおん!」の評論は素晴らしく見事なのだが、その世界観を最終的に“良し”と評価している点などで、俺としては異議がある。
俺も今でこそこういった評論まがいの事をやっているが、本心は自らの手で作品を生み出したいのだ。ただ他人の作品にあーだこーだ言うだけでなく、むしろあーだこーだ言われるモノを作りたいという欲求が明確にある。そして、その作品を酷評されたとしても「テメーみたいな奴に俺の作品の価値が分かってたまるかよ!」と不遜に突っぱねる可能性が極めて高い。小林よしのりは漫画の中で、彼にしては実に謙虚に「わしに、論理もへったくれもない陰湿な抗議文を送ってくる連中が多い」とか「最近の若者はわしの漫画の文章量を見て参ってしまうようだ」などと言っているが、平たく言えば「そんな馬鹿どもにわしの作品を理解できるわけがない。理解出来ない馬鹿どもが、感情任せで見当違いの抗議文や脅迫状を度々送りつけてきて鬱陶しいったらありゃしない。ふざけんな!」こう言いたいのである。俺は彼の思想に共感できない部分は多いが、彼のこの気持ちはほぼ100%理解できる。
クリエイターとはいささかなりとも、こういった傲慢さ、強引さが必要になる。そもそも自分の主張を染み込ませたハンカチを他人の鼻に押し当てようと目論む行為に、下品さ、イヤらしさ、傲慢さがないわけがない。新約聖書といえども、表現によって我々に訴えている以上、そうした要素を含むのである。しかし、好奇心や人から教えを乞いたいという気持ち、期待や他人との一体感などを求めて我々は様々な表現に触れ、理解や共感に至った場合、それまでの製作者の無礼を帳消しにするだけの愛や寛大さを示し、またそれ以上の収穫を自分自身も得るのである。愛を持って接することは、結局自分自身にも益を与える。

・・・・・まぁ、その人のブログは勝手に宣伝するのもマズイっぽいから、ここでは伏せておく。
俺としては、レベルの高いものに触れ、ジェラシーは溜まるが、「よし、俺のレベルも負けじとどんどん上げていこう」というポジティブな刺激にもなるので、これは大変好ましい出会いだと思った。 それにしても、ポニョの解説は見事だった・・・・。


映画 サイレント・ヒル

2014年08月26日 00時35分11秒 | 映画

俺が記憶する限り、初めて自発的に借りたホラー映画。ホラー映画は私の守備範囲ではございません。
なのに何故借りたか?俺がゲーマーだから。ゲームに興味ある男だから。だからゲーム原作のこの映画を観たくなった。ゲームの方も未プレイだし、ちょっとどういう内容か知っておくか、という・・・・。
結果的に、そこまで怖い内容じゃなかったので、ホッとした。ただ、色々設定が凝っていて、なかなか理解するのが難しい映画だと思った。
あと、今回は特に自己流の憶測・推測が強い批評になってると思う。何故なら、この映画はキリスト教徒でないと分からないところが多いんじゃないか?と睨んでいるから。


そもそも、この映画は、どうも思想的色合いが強い映画ではないのか、と思える。
理由その1。ホラー映画なのに、大して怖くない。なんか、真剣に怖がらせようというような演出をしているように思えない(ラスト近くでは少しドキッとする演出が入るが)。むしろ観客を怖がらせず、頭がパニックにならないように配慮していて、その冷静な頭でストーリーの核となる部分を理解し、この映画のメッセージを理解して下さいね、と誘導しているように思える。
理由その2。聖書や信仰篤き者達のメッセージがそこかしこで挿入されている(看板や表札などで)。明らかにこれは、単なる表面的なホラー映画としてだけでなく、その裏のメッセージもありますよ、という露骨なサインである。キリスト教徒であれば、尚更これらのメッセージの意図に敏感であろう。
理由その3。ストーリーの後半、人外の亡者のようなものが人を襲うより、人間たちの狂信的な活動の方がむしろ怖さ、不気味さを増している。これはエイリアンや幽霊のような非現実的なモノの登場をアリとする設定の物語なのに、モンスターからの恐怖より、人間からの恐怖を強めに描いてしまっていたら、その設定も一体何だったの?となってしまう。
ハッキリ言って、この映画で一番怖いのはモンスターではなく、モンスターたちを恐れる余り、汚れた人間を生贄に捧げることが必要だと言い出し、女性警官をリンチして縛りつけ、火あぶりにしようとしている村人たちの方なのだ。なかなかの美人である女性警官の顔を血まみれになるまで殴りつけ、縛って火にくべようとしているのに、これ以上無いくらい興奮している村人たち(笑ってる者さえいる)は、論理や正義も通用しない原理で動いているモンスターと同じにしか見えない。


・・・・・と、ここまで書いて、色々と自分としては謎が残る部分も多いのでこれ以上、あまり語らない方が良いと思った。
ただひとつ思うのは、この映画は、魔女狩りにとりつかれた村人たちが、少女の怨念によって残虐に処刑されていくというシーンがあり、これはキリスト教原理主義者などから抗議が来るのではないか?ということ。彼ら村人がいかに狂信的で、無垢な少女や警官の処刑に手を貸した人間たちとはいえ、それでもキリスト教徒である。そのキリスト教徒たちが、神の家である教会内で、無残に悪魔のような異形な者に抵抗する間もなく次々と虐殺されていくというのは、あまりにもやり過ぎなのではないか?キリスト教徒でない俺でもそんな印象を持つほど、ラストの村人虐殺シーンは凄まじかった。
魔女狩りというのは、随分過去のこととはいえ、かなり陰湿で凄惨を極める行為であった。現代のキリスト教徒たちはあの出来事をどう捉えているのだろうか?それが、分からないことには判定が難しい映画でもある。自分が西洋人であり、かつキリスト教徒であるなら、そこらへんの事情も感覚的に理解しているのだろうが、何せ東洋人にはこの歴史感覚が知識として以上に理解しづらいものがある。俺が想像するに、大きな罪の意識を日々感じたまま生活している人は少ない。しかし、いざ魔女狩りの話題になったり、資料、映像などを見せられると、さすがに胸がチクリと痛むのではないだろうか。つまり、見ていて感じのいいものではない、という嫌悪感はあるのではないだろうか。
サイレント・ヒルは、魔女狩りによって無実の罪を着せられ処刑された(正確には処刑されかけた?)少女の復讐劇であり、キリスト教徒たちは少女の動機を知ることで、歴史における魔女狩りの出来事を誰もが思い浮かべるはずだ。この際問題となるのは、クリスチャンたちは、あの忌まわしい出来事を思い出すことで、如何なる感情が呼び覚まされるのか?ということ。まだその償いは完全に済んだとは思ってないかもしれない(少なくとも魔女狩りの犠牲者に対して十分な償いをした、という記録を俺は知らない)。さすればこそ、地獄の底から魔女狩りの犠牲者が復活し、自分たち現代キリスト教徒たちに、亡者を従えた少女の怨念が復讐しにくるというのは、それだけで、十分に罪の意識を揺さぶる強烈なホラーとなりえるのかもしれない。
「貴様らキリスト教徒共は偽善者だ。神の名の下に、何の罪もない私を集団で嬲り殺した。今こそ、その罪を贖ってもらおう・・・・死ねぃ!!!」こんな風に魔女狩り犠牲者の亡霊から迫られる、キリスト教徒たちの心中や如何に、といったところだろう。この映画がホラー映画として怖いとすれば、この点に関する恐怖心であろうと思う。
俺は、日本人だし祖先も西洋の魔女狩りとは関係ないもんね。俺を呪うのは筋違いってもんでしょ。と呑気に構えてられるが、もしかすると祖先が魔女狩りに関与したかもしれない、という西洋人は、何か違った恐怖を感じるのかもしれない。この歴史観補正の差は大きいと思う。


ラストシーンの解釈について。
ラストの村人処刑シーンで、悪のアレッサが善のアレッサに接近してくる。善のアレッサは母親に抱きかかえられ、母親は「見ちゃ駄目よ。これは現実のことではないの。」と娘に目を閉じさせる。しかし、子供の好奇心は強いもの、人に見るなと言われるとますます見たくなるの法則により、善アレッサは薄目で目前で何が起きてるのかを見ようとする。そこで、悪のアレッサとバッチリ目が合ってしまい、直後、そこで善アレッサはフッと意識を失う。
意識が戻ったアレッサ・・・・・ここをよ~く観察してみると、先程までの恐怖への怯えがすっかり消えている。これは、素直に解釈すると、善アレッサと悪アレッサが融合したと見ていいのではないだろうか?これなら、さっきまでビクビクしていたアレッサが、何事も無かったかのような真顔の表情になっているのもうなずける。
それが確信に変わるのは自宅に戻ったときである。自宅のリビングでは父親が二人の帰りを待って仮眠をとってるのに、サイレント・ヒルの世界から戻ってこれない母とアレッサの二人はサイレント・ヒル側の自宅(誰もいない)に戻ってくる。ここのアレッサの表情がとてつもなく不気味なのだ。口元に妖魔のような笑みを浮かべ、凄まじいカメラ目線でにじり寄って来る。明らかに、悪の要素が入っている。しかも、こんな魔女狩りの復讐心を持った少女が、サイレント・ヒルという廃墟の隔絶空間ではなく、普通の市街地に入ってきている。これが恐ろしいのだ。正に、魔女狩りに対する復讐の悪魔が街に解き放たれた、そんな風にも解釈できる。
父親のいる現実世界では、玄関のドアがいつの間にか開いてた(サイレント・ヒル世界側で母子が自宅に帰ってきたせいと思われる)。サイレント・ヒル世界と現実世界が、こういう形で今後も関係し合うという演出である。ジョジョの写真オヤジみたいな世界観か?
しかし、繰り返すが、東洋人は「俺そんなことし~らね♪関係ないもん」 西洋人は「ギャァァァァ!勘弁してください!許してください!成仏したって~!」この温度差である。キリスト教徒でない者に魔女狩りの罪意識や、その復讐の恐怖など感じようがないのだ。


つ~か、ゲームの方もやらないと色々分かりませんわ。そもそもこの映画の脚本は明らかに西洋人が書いたものだと思うけど、日本のゲーム版はどうなってんの?映画のシナリオとゲームのシナリオは大体合ってるの?ということも気になる。


恋する惑星

2014年08月21日 12時05分03秒 | 映画

ん~・・・・・・・・・・・・・・・・・・
う~む・・・・・・・・・・・・・・・
これは、どういう映画なのか・・・・?いや、タイトル通り明らかに恋愛映画であることは分かる。しかし話の筋や結末、登場人物の奇怪さなどから製作者の意図を正確に汲み取るのが難しい作品でもある。製作者インタビューを聞かないと、かなり幅広く解釈できる余地がある。わざとそういう意図で作ったというのなら話は別だが・・・・。
多分、この映画くらいではないだろうか?恋愛映画であるのに男性主人公が途中で完全に交代しているのは。最初はA君の恋愛視点全開で描写されていて、これはA君の恋愛模様を最後まで見守る話なんだな、と誰もが思う。ところが途中でA君があるバーで見つけた気になる女は、別のB君に恋し始める、という説明と共に、男性主人公は完全にB君へとバトンタッチする。あまりにもA君の恋愛事情が中途半端な形で終わるので、あとでまたA君のエピソードに戻るのかなと思いきや、全く再登場の出番なくエンディング。なんだこれは?と呆気にとられてしまう。
が、ここで放心状態になっているわけにもいかない。昨日の鑑賞から一日経ち、頭も冷静になったところで、文を書きながら物語を少し真面目に分析してみるとする。

A君はなかなかの好青年であるが、B君の印象も悪くない。A君主人公にすっかり感情移入している我々にとって、突然現れたB君は下手すると間男のように見えてもいいはずなのだが、ちょっと彼を観察し続けると、こいつもなかなかいい男であることが分かる。なかなかどころか、かなりいい男である。俺がもし彼女に「ごめんなさい、あなたとは別れるわ。私、B君の方が本当は好きなの」と言われても、「あいつなら仕方ないかな」と思えるほどだ。俺の彼女は男を見る目があるよ、その彼女の目がB君と言うのなら仕方ない、むしろその彼女に惚れた俺は健闘したといえるだろう、畜生・・・・悔しいが・・・・。こんな気持ち。(現実に自分がそういう状況になったら、ストーカー上等で彼女に復縁を迫るかどうかは、分からないが)
A君もB君も出来すぎなくらいいい男なのだが、彼らの職業はそれぞれ刑事と制服警官、というこれまた好青年像を作り上げるために適した設定になっている。裏表がなく、真っ直ぐな人間なのだ。


オチをいうと、この映画は最終的に誰の恋愛も成就しない。恋愛映画において、その愛が報われない、というタイプのモノは主人公たちに感情移入し擬似恋愛をすることで満足を得るタイプの作品ではなく、恋愛とは何か、といった恋愛について考える作品であると見ていい。つまり、これは恋愛哲学映画である。・・・・と決めてかかることで、初めてこの映画の意図や価値に接近できる。
この映画は序盤、割と心理描写の説明が多い。一般的に説明台詞やナレーション、心理描写の解説が多い作品は、俺の尊敬する映画評論家・町山智浩に言わせれば「観客にいちいちこうやって説明しないと、観客が理解出来ないと思ってるんだよ。つまり、製作者側が観客の理解力を舐めてるんだ」ということらしい。これは一般的に正しい評論だと思うが、絶対的な基準ではないと思う。つまり、この映画のように、恋愛映画なのに誰の恋愛も報われない形で終わると、「え?何コレ?ハッピーENDでもなく、かといってあからさまなバッドENDでもない。つまり、何が言いたいの?」と観客は途方に暮れてしまう。この映画のナレーションは、登場人物の恋愛が最終的にどこにも着地しない浮遊的状態を補う意味で、大切な役割を果たしていると俺は思う。

たとえばこんな心理描写がある。

<どんな物にも期限がある。この世に期限がないものはないのか>
<僕はあることを確信した。メイ(A君が別れた元恋人)にとって、僕は缶詰と大差ないのだと>


この世に期限がないものはないのか・・・・・明らかに「愛でさえ期限があるなんて(なんて悲しいんだ)・・・・愛に期限が無ければいいのに」という意味を含んでいる。
彼は伝言センターへの合言葉を「1万年愛す」というフレーズに設定している。伝言センターなんて、ケータイ全盛期の現代ではもはや無用の長物だが、公衆電話がまだ市民の主要な連絡手段である時代は使い道がある。また、伝言センターといっても、そこに集められるメッセージは、恋人同士のすれ違いを防ぐ、いわば愛や気遣いメッセージの溜まり場である。だからこそ、彼はその恋人のメッセージが届いているかもしれない伝言センターの合言葉を「1万年愛す」と設定した。
恋人を1万年愛す者は、恋人のメッセージを聞く資格があるし、その利用資格もあるだろう。1万年愛す、というフレーズもよくよく考えれば期限を設定しているのだが、人間の通常の寿命から考えると、1万年といえば100回以上生まれ変わっても愛し続けるレベルの長さだ。これは、いくら愛に期限があるといっても、十分過ぎる愛情の深さであるようには思う。少なくとも、俺は100回生まれ変わってもこの女を愛し続ける自信がある!というほどの女性に会ったことはない。
この「1万年愛す」というフレーズが、ただの恋愛素人による馬鹿げたロマンチズムととるか、これぞ愛の理想!ととるかはハッキリと分かれるところだろう。とはいえ、少なくとも現代日本で後者が多くの支持を集めるとは思いにくいが・・・・。
俺はこれが、かなり行き過ぎた幻想・理想であることは頭では理解しつつも、恋愛は頭で理解するようなものなのか?という逃げ道から、荒唐無稽にも思えるこの考えを支持したい。支持できなければ、恋愛において本当に甘美な時間というものは訪れないだろう。「いつか終わりが来る」「そのうち、こいつにも飽きるのかな」なんて心の底で思っていて、相手を真剣に愛することが出来るはずがない。愛とは本物のロマンチストだけの特権である。


更に、彼女にとって、僕は缶詰と大差ない、というフレーズ・・・・・・・酷い自虐だが、これが事実というものである。
彼女が<僕>との愛を、当初は永遠に続くものだと思っていたのかどうかは、今となっては知る由もないが、結果として彼女は<僕>をフッったし、<僕>を捨てた。何度も何度もやり直そうと、せめて話し合う機会でももうけようと彼女にかけあったが、彼女は冷たく無視した。
何故なんだ、あんなに真剣に愛し合ったのに、何故同じ相手に時間が経っただけでこうも冷たくなれるんだ。あの時間は全て嘘だったのか?<僕>は彼女をまだ愛している、だから、それがまるで分からない。
<僕>は彼女からの返事を待ち続け、やり直せる僅かの可能性にすがり続けた。しかし、待てども待てども、彼女からの連絡は来ず、そうしてある日<僕>は全てを悟った。<僕>は、彼女にとって、<僕>が今食べているこの缶詰と一緒だ。賞味期限が来るまでは「美味しいね」と食べてもらえる。喜んでもらえる。しかし期限が来たら、「お前は、もう食えない」「ハッキリ言ってマズイ」「期限切れのモノなんて、見るのも不快だ」と冷たく宣言される。今までのように手にとってもらって、パカッと中身を見てもらうことさえ叶わず、廃棄物と同じように捨てられる。
あんまりじゃないか、<僕>は人間だ。心を持った人間だぞ。缶詰と同じように扱うなんて、酷すぎるじゃないか・・・・・<僕>らの愛に賞味期限なんて無いんだ、なんて思い込んでいた<僕>がただのお子様だったとでもいうのか?だとしてもあんまりだ・・・・・。
これが、俺の想像するA君の心理描写である。
ああ・・・・A君、あまりに不憫・・・・ああ、可哀想。彼は純粋なのに・・・・なんで彼女はこんな誠実な男を捨てたのだ?
それが大人の恋愛ってもんなんだよ、何ガキみたいなこと言ってんだ?そんな野次が横から聞こえてきそうである。ガキで結構、お前は大人らしい情欲にまみれた恋愛をせいぜい楽しめばいい。俺とA君はそうやって、居酒屋の片隅で共に涙を流すのである。

 

お前が、恋人と長続きしない理由(=死ぬまでもたない理由)、それはその愛を本当に信じていないから。
どこかで現実と比較してしまっているから。
勿論、お前が本気で愛を信じていても、相手が信じていなければその愛は破綻する。自分に真の愛が備わっていたとしても、理解し、受け取ってくれる相手がいなければ、ただの妄想か自己満足とみなされる。
されとて、それでも自分に真の愛が備わっていなければ、少なくとも愛を信じていなければ、愛し合う男女も生まれないのである。


だが、人間はそんなに簡単に本当の愛、つまりいつまでも変わらぬ愛、永遠の愛などというものを信じられないのだ。 
だが、愛を信じることができず、人を愛せなくとも、恋は出来る。なんか君のこと気に入っちゃいました。こんな気持ちがちょっと芽生えるだけで恋が成立する。
そして、こういう気持ちは、ある日突然冷めても、人でなし扱いはされない。「あれは恋だったんだよ」こう言っておけば、言い訳として十分である。
そうして、こういう気持ちの人々によって埋め尽くされているこの地球・・・・・・・・・ちょっとした期間、ちょっと恋をして、理由も分からず突然冷めて、また別の誰かへと恋が始まる。そして、これを飽きることなくいつまでも繰り返す。 まさしくこれこそ「恋する惑星」である。
 

この映画はあからさまに女性向けに作られた、と解釈することも出来る。
その理由はこうだ。俺が女性だったとしよう。映画を真面目に鑑賞し、没入していくにつれ、作品内で全く姿を現さないA君の元カノを、同性視点から見ても酷いやつだとか、理不尽なことをする女だ、と思い始める。別れてもまだ元カノに一途な彼に、段々と親愛の情が芽生え、彼と付き合ったら、私もこんな風に一途に想ってもらえるんだ、素敵だな、と思う。そして、中盤あたりにはすっかり彼の人柄に惹かれる。つまり恋のような感覚が芽生える。
ところがここで急展開。A君は作品中からすっかり姿を消し、今度は完全にB君の物語となる。彼もA君同様、彼女にフラれたばかりで少し元気がない。彼を見てると、彼もまたA君に負けず、誠実で素敵な男性であることが分かる。あ~B君、カッコイイなぁ・・・・とウットリ。 
はい、ここでストップ!
お前、さっきまでA君がいいとか言ってなかったんかい?こんなわずか1時間かそこらの間でもうB君がいいなんて心変わりしている。つまり恋心が溢れんばかりにお盛んで、浮わついている。 観客が女性で(男性であっても)、知らぬうちにこんな気持ちにハマっていたら、あなたもすっかり恋する惑星の住民である。こうした女性、男性たちの恋する気持ちの総体が我々の暮らす惑星、地球なのだ。

 

あ、ちなみに・・・・
ヒロインがどこからどう見ても裏社会の人間であることや、B君の元カノがスチュワーデスであることなど、これらの話はどういう意味を持っているのか?という考察も面白い。肉屋と物語の関係性、電気が止められてロウソク生活になったことや、B君の音楽の趣味が変わったことなど、考え出したらキリがないくらい、この映画は様々な示唆に富んでいる。 長くなるので書かないけど。 


バグダット・カフェ

2014年08月20日 15時33分54秒 | 映画

人生でベスト10に入るかもしれない名作映画。アメリカ・ラスベガスの近くで喫茶店兼モーテルを営んでいるある一家と、そこを訪れる旅行者たちの素朴な物語である。
何故「バグダット」カフェなのか?バグダットって、イラクの首都のバグダットだよな?バグダットに何か特別な意味でもあるのではないだろうか?と思ったら案の定出てきた。バグダットとは「神に与えられた(土地)」という意味があり、それを考慮すると、この映画のタイトルは神に与えられた喫茶店、神の祝福を受けた喫茶店、というように解釈できる。そして、それは内容にまさにピッタリなのだ。
強烈なキャラクターのおばちゃんやその旦那、息子、娘たちは、黒人一家であり、荒野のど真ん中に建っているカフェとはいえ、とても現代的な感覚で生活している今の日本の人々を想起させる。家は貧しく、財産もほとんどない。その結果精神も貧しくなり、周囲の人々に「あ~イライラする~!なんでこんなにイライラするんだ!なんで俺の周りにはこうアホしかいねぇんだ!」と当り散らしているのだ。
そこに、とある一人のドイツ人旅行客のおばさんが現れ、彼女の人柄と努力によってカフェが再生していくという話。

これはいわゆる西洋思想の根幹を成している「救世主」的ストーリーだ。問題を抱えたある地域などに、突如として都合の良い人間や、とてつもなく能力の高い人間が現れて問題を解決する。周りの人々は救われ、そしてハッピー。
が、それをあまり露骨にやらずなるべく繊細に描こうとしているのがとても良い。大抵、この救世主役はすごいハンサムだったり、ありえないほど良い人過ぎたり、ヒーローみたいな特殊能力を持ってたりして、分かりやすいほど救世主的である。ところが、この映画ではその救世主役が、どこからどう見てもそこらへんの近所のおばさん。体形に関しては、性的魅力を感じようのないほどのデブだ。カフェ経営者の息子が「あんなデブ、お客扱いすることないよ」なんてことまで言っている。貧しい黒人一家にお客扱いされないほどの人物が、まして救世主扱いされるわけがない。しかし、このおばさんは紛れも無くこのカフェの救世主なのである。
この、一見従来の映画とは異なる不釣合いな人間模様が、逆にこの映画に躍動的生命感を与えている。我々はスーパーマンでなくともいい、普通のおばさんでいい、それでも誰かの救いになりうるのだと・・・・。
我々は誰でもどうしようもない悩み・・・・・どうしようもないは言い過ぎでも、スパッと切れ味良く解決するのが難しい問題を大抵抱えている。しかし、人はその困難な問題を直視し、日々その問題から逃げずに立ち向かおうとする気力をみなぎらせるのはなかなかに大変なことである。だからこそ、その点に関して、救われたいのである。たとえフィクションであるとしても、救いの物語がどこかにあると、いつか来るのではないかと信じたいのである。信じなければ生きていく希望がないのだ。

ダイハードやランボーはガサツで極端でいかにも作り物的ストーリーで、頭の悪い人向けか子供向けだ、なんて得意気になろうとも、根底に救いの精神がある限り、我々の希求するものは同じなのだ。
ただ、あまりにも子供の頃からそういうストーリーに慣れすぎてしまったので、何度も何度も似たような話を見せられるとさすがにウンザリする。だからマトリックスみたいに壮大な世界観や哲学に楽しみを見出したり、バグダット・カフェのように繊細な表現がされてるモノに製作者の技巧の見事さを見出す。しかして、その基本とするところは同じだ。そして「アバター」が大衆映画だとか、ありきたりの内容だとか批判しようとも、俺が主人公に強く共感し、あの青い部族が救われることで俺の心も同時に救われるなら、それは作品としてとても優秀なのだ。製作者は観客に対してそれをまさに狙っていて、その狙い通りに観客が誘導されること、それがベストな映画製作と映画鑑賞である。映画はそれ自体が高度なプロパガンダである。

派手な演出はほとんどないが、シーンひとつひとつが実に示唆的で良いのだ。旅行者の一人である青年がブーメランを放り投げて、それをキャッチするシーンが何度も映される。これは何を意味しているのか?人がブーメランを投げて、それを自分でキャッチする。2ちゃんねら~はこれを「相手を攻撃するつもりで投げた武器が、自分自身に返ってくる」という意味で使用することが多いが、この映画はもちろんそうではない。映画全体から考えると、このブーメランもまたひとつの啓示的、儀式的行為に見え、その意味を理解したとき、自分が神の意図を理解した預言者のように感じる。
映画作品にとっての神は映画監督である。そして、監督は作品を通じて我々観客に何かメッセージを残す、時には大胆に残し、時には繊細に残し、時には発見が凄く難しいように残す。神の残した極めて繊細なメッセージ、発見困難なメッセージに気付いたとき、我々はえもいわれぬ高揚感に包まれる。それは神に見つめられているような、あるいは自分が神に近付いたような感覚。
・・・・・・・・気付けば、図らずともこのバグダット・カフェのタイトル通りの感覚を観客は手に入れる。一風変わった救世主ストーリー、俺は非常に高く評価する。95点。


『ブルーバレンタイン』

2011年09月28日 00時14分26秒 | 映画

「バレンタイン」の名の通り、恋愛モノです。しかしこれ、恋人とウキウキランラン気分で軽々しく見に行っていいような類のものではないと思う。ちょっと見てるとすぐにその異様な雰囲気に気付くと思うのだが、これはいわゆる「私たちのこの輝かしく、力強い愛を見よ!」という、恋愛の素晴らしさを描いたものではない。「なんで男女の愛情ってこうなっちゃうんだろうね・・・」という尺度から恋愛を見ている。うっかり恋人と見に行って、お互いブルーな気分になってしまっても、誰も責任取れません。

また、この映画はそうした男女の恋愛が冷え切ってしまう哀しさの他に、もっと重要なテーマとして、“恋愛における女性の悪さ”、非というものを描いている。俺はあまり恋愛小説や映画、ドラマなどを見ないので、こういう切り口が今流行っているのかどうか知らないが、自分にとっては非常に斬新なテーマを持ってきているように見えた。一般的に、恋愛映画における愛の崩壊といえば、男性の甲斐性のなさ、だらしなさ、不節操な浮気、金や権力にモノを言わせた強権的手段などを中心に、好き勝手に振る舞って女性の気持ちを無神経に踏みにじり、「本当に男ってヤツはどうしようもないもんだ」という印象を我々に与えるものが多かった。ところが、この映画はそうではなく、女性の身勝手さが時に恋愛をぶち壊してしまうという、女性が恋愛ゲームにおいて力をつけてきた現代的恋愛の側面を描いている。

女性は歴史的に見ても・・・・どの国、どの時代でもとりわけ近代以前は、生活のかなりの部分を男性の都合によって支配されていた。恋愛相手や結婚相手選びについて、本人の意思が強く反映されるようになったのはつい最近の出来事といえる。・・・それにしても、人間の適応スピードは驚くほど早い。人は歴史的潮流を、自分の皮膚感覚を通して経験していないというもっともな理由によって、ほぼ完全に無視している。かくして、かつて、女性が恋愛から出産に至るまでの過程でどれだけ不利益を被ったかなどおかまいなしに、SEXを楽しむようになるわけだ。避妊法が無い時代、女性にとってSEXとは何を意味するか?母体を危険に晒してでも子供を産むリスクだ。今は避妊さえすれば、SEXをしても妊娠~出産、そして出産時の母体にかかるダメージを無視して気楽に行えるだろうって?・・・その通りだ!そして、男性はSEXによる快楽を楽しむためだけにおいては、相手の女性が避妊しているかどうか、交尾の日が排卵日かどうかなど、あまり気にしない。有体に言ってしまえば、男性は女性が自分の子供を妊娠してくれるかどうかより、まずは手頃な理由としてSEXさせてくれるかどうかを念頭に置く。“俺の子供を産んでくれ”という理由が最優先であるのではない。“(産む産まない以前に)SEXさせてくれ”これが、男性にとってのポピュラーなSEXモチベーションである。

女性はこうした男性のシンプルな動機を、利用できることに気付いた。SEXの度に妊娠~出産のリスクを背負うならともかく、避妊という方法がかなり信頼できる手段として使えるなら、“妊娠しない自分の身体”は武器として使える・・・・こう考え始め、それは実際に戦略として使われるようになった。
 

この映画では、この点に関する深いアプローチはあまり行っていないが、それでもその一端は垣間見える。ヒロイン、シンディは学生時代、当時付き合っていたボーイフレンドにうっかりゴム無しSEXを許容してしまい、膣内射精までされてしまう。当然、彼女は子供を作るつもりでいたわけではないから、「なんてことをしてくれた」と彼氏を罵るが、男はあまり深刻に受け止めていない。後日、妊娠検査薬によって、妊娠していることが判明。彼氏が全然協力的でないことから、彼女は堕胎を決意する。

一方、男性主人公ディーンは、日雇いの運送業で生計を立てている若者。高校も出ておらず、父親の影響による楽器演奏などを趣味に、日々楽しく暮らしている。シンディとは運送の仕事中にフッと顔を合わせた程度の出会いであったが、それだけなのにディーンは一目惚れ。名刺を渡して再会のチャンスを期す。

話を端折って、二人がそれなりに仲良くなった頃、この妊娠騒動が起こる。シンディが病院へ行き、寝台に寝かされ、局部麻酔を打ち、いざ堕胎するという場面になって「Stop it・・・Stop it・・・・please・・・・(やめて・・・やめて・・・お願い・・・)」と、涙ながらに医師に訴えていたのが本当に悲壮的だった。望まない妊娠とはいえ、彼女は土壇場で我が子を殺す決断を下すことを躊躇った。シンディに限らず、恐らく女性は頭の中では望まない妊娠であれば堕胎するのが妥当な選択肢である事を分かっている。でも、体感的には、それがどんなに重く、罪深い行為であるかも感じている。自分の行為、自分の決断が、ともするとひとつの生命を弄ぶ形になるということを、“身体で”感じ取るのだと思う。その点、男性は生命の価値を頭でしか理解できない哀れな存在だ。男性は女性の身体によって製品化されたモノにしか触れることが出来ない。それを作り上げた職人としてではなく、ただの一消費者として歓迎する事しか出来ない。男性と女性で、子に対する愛情が違うのも無理からぬことだ。

 

・・・・続く