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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

ブログ移転する予定です

2014年11月26日 08時14分57秒 | 日記

友人と共同ブログ始めました。

http://blog.livedoor.jp/koguchichan/

個人ブログだとご覧の通り、更新ペースが遅いので、数人でブログ運営すれば、ボリュームや更新頻度もアップするんじゃない?ということからスタート。
恐らく、今後の俺っちの記事はこちらの共同ブログで書くことになると思います。
世間的にみれば結構イカれたことを書き続けてきたようにみえますが、世界の偉人たちに比べると、まだまだ鼻タレ小僧だと思うわけです。精神を限界まで酷使し、狂人になることを恐れ、孤立を恐れ、どこかまだまともな世界に、自分の居場所を欲しているのではないか、と。


・・・・・・・・・・まぁ、今は多くを語っても仕方ないでしょう。移転先で、もっと過激に、もっと洗練された記事を目指すので興味があれば、よろしく。

 


考えを改めた

2014年11月09日 21時43分53秒 | 日記

先日、「監督に作品の解説書を作って欲しい」と書いたが、その後youtubeで監督インタビューを聞いて、「あ、こいつら書く気ないわ」という事を瞬時に悟った。

人間は考えが変わるものだし、特に頭の良い人はその変化速度が異常に早い。なので、彼らも考えが変わって「俺のあの意図が伝わらないまま死ぬはいやだ」と、丁寧な解説書を作る可能性がないわけではないが、少なくとも現段階では「どうしても知りたいんだったら、俺の作品何度も観て自分の頭で考えな」というメッセージをビシバシ感じる。
それが観客のためでもあるし、秘密性を持たないと作品としての質も下がってしまうという計算もあるようだ。全てを剥ぎ取られ、謎が明るみにされた作品は、裸になった人間や羊のように無様なものであるのかもしれない。
そもそも全容や全意図を理解してもらいたい、という想いがあるのなら、作品をもっと易しい内容として作るはずだ。常人に理解出来ないような、難解な表現をする者の意図は、俺が考える限り、以下の理由による。

・単なる傲慢。「観ても分からない馬鹿は分からなくていい」「俺は馬鹿に懇切丁寧に教えるほどお人好しではない」といった立場。
・「難しく作ったけど、きっと分かるだろう」「分かってくれたらいいな」という期待がある。
・インタビューなどで「あのシーンはどういった意図で作ったんですか?」という質問が来たら答えればいい、くらいに考えてる。
・後で解説するつもり


こうしてみると、製作者が作品解説するのは、一番親切なケースである。しかし通常、表現者にとっては「そんな時間あったら次の作品作っとるわ」というのが本音だろう。
以前ミュージックグループのpoliceが「君をいつも見つめてる」という歌詞の出てくる大ヒット曲を作ったが、多くの人はそれをある男の一途な片想いを意味する美しいフレーズだと思っていた。実はそれは誤解であり、本当はストーカーの男を意味する歌詞だったのだが、あまりにもその解釈が世間一般に定着してしまったので、作曲家は「いや、あれはそういう意味じゃないんだ」とわざわざ解説した。
こういう事でも無ければなかなか作品解説というのはないのかもしれない。
一応ヒントとして、その人の過去作や新作を見ると、似たような演出やストーリーを使いまわし、以前やりきれなかったこと、伝え切れなかったことを再度盛り込む、ということが多くある。それに気付けば、例えばラピュタでわからない点があっても、ナウシカやもののけ姫と見比べることで理解出来るようになる場合がある。
もちろん普通の人は同じ作品を何度も観たり、類似作品を見比べるほどの時間的余裕や情熱は無い。あるのはファンやマニアだけだ。何度も見返すことで、「そうか、製作者はこういうことを言いたいんだ」「このシーンの意味が分かれば、この作品の深みがより増すな」ということが分かってくる。俺はアニメファンに対して、観るものが幼稚だとかキモイだとかいった批判に負けず、そういった建設的なモノの見方をもっと広く一般に向けて発信する態度を望む。


法の正当性の入り口&軽く映画批評

2014年09月15日 01時34分56秒 | 日記

人は誰かに教えてもらうということは出来ない。自分自身で悟るしかない。
それくらい、他人からの教授と、自分の自覚には大きな差がある。
目覚めてない人間の耳元に何を言おうと、意味は無い。

 

 

韓国映画「親切なクムジャさん」、凄いシナリオだと思った。<親切な>という意味の持つ二重性を見事に表現している。
俺が映画監督だったら、この映画に触発された作品を一本作りたいくらいだ。
真の親切とは、その場の行為のみで完結しているものをいう。つまり、後の見返りや、周りの目線や評判も気にしない。あるいは、その行為が相手にとってありがた迷惑だったかどうかなどということも問題にしない。
ある目的があって・・・・ましてや自分の野望のために行う善行は親切とはいえない。しかし、自分自身の目的のためだとしても、その親切さが、現実的に他者の救いになることはある。
親切とは、真の善人の行為でもあり、徹底的な現実主義者の道具でもある。親切を受ける人間は、相手がどちらの人間であるかなどどうでもいいことかもしれない。
しかし、善人によらない親切は、その場で完結してないが故に、後に恐ろしい結果を招く種ともなる。
一般人に哲学などやってる暇などはない。現実と現実的結果のみが全てである。その意味で現実的結果に強い保障を与えるお金や親切といったモノは、これからも人々の望まれる対象となるし、それを利用する者たちも後を絶たないだろう。それは、かつての宗教心を利用する行為と全く同じことなのだ。

 

 


この1年、法の正当性というものがどのように基礎づけられているのか、急に興味を持つようになった。
されとて、どこから手をつけていいのか分からず、読みかけの本もたくさんあるから、そのテーマに対する気がかりが頭の片隅にありつつも、しばらく放置していた。が、小林よしのりの本を読んでとっかかりが出来た。
小林は、論敵が法学者ハンス・ケルゼンの理論を批判し、国際法以上の価値があることを強調する論理を用いていることから、ケルゼンの本を律儀に読み、本当にケルゼンの法解釈は間違っているのか検証にかけていた。


ケルゼンの法解釈は以下のようなものになる。

法と道徳は引き離す必要がある。
言うまでも無く、それによって、法が道徳的であるべきだとの、即ち、善くあるべきだとの要求を排斥するのではない。この要求は当然のことであり、それが本当に意味するところは右のことと別の問題である。

道徳と法を分離する必要がある理由。
正義とは人としての永遠のあこがれではあるが、一般に合理的認識によって到達し得ないからだ。
もしも、合理的認識によって基礎づけられる正義があれば、そもそも法律が存在する意味がない。立法行為自体が「赫々と太陽が照っているのに、人工的な点灯を敢てするような馬鹿げた試み」だ。


俺は、法というのが順調な形で発展していくのならば、最終的には純粋な「善」と全く区別のつかないものになるのではないのか?少なくとも、そうあるべき努力を法に携わる者はするべきなのではないか?と思った。
ケルゼンの立場は、俺と全く同じ考えではないが、基本的立場は同じだといえる。
人間は確かに完全な正義を実行することは恐らく出来ない。完全な正義はいわばファンタジーに近い。しかし、現実に無理だからといって、正義を目指す努力を無視した法というのもありえない。それは、当然織り込み済みのこととして、法に組み込まれるべきであるし、もしその正義を無視している法というものが現実にあるならば、俺個人はそれをむしろ積極的に破るべきだと考える。
人間の内在的な正義の心が、明文化されている法の示す正義よりも十分に強いのならば、法がそこで運用される理由も、適用される理由もない。まさに、「赫々と太陽が照っているのに、人工的な点灯を敢てするような馬鹿げた試み」だ。

しかし、思えば法というのも不思議な存在だ。誰からともなく教えられたわけでもないのに、良いとも悪いとも積極的に言うやつはいないが、いつの間にか我々は当然守るべき事として認識している。
疑ったり否定したりすると、それを疑うお前は正気か?というような反応が普通だ。
法を作った人間が天使か悪魔か、凡人か天才かもどうでもいい。ただ、俺たちは守ってればいい、守ってればそんな悪いことは起こらんさ、というような調子である。
誰からも文句を言われず、誰からも否定されない存在こそ、実は最も疑わしい。その意味で、法の正当性を問いただす必要は十分にある。

 

 


ジブリ映画の中でも酷評されている「ゲド戦記」をようやく観た(少なくともゲド戦記良かったよ、オススメだよ、という話を人から聞いた記憶が一度もない)。皆がつまらんという理由がとても良く分かった。
だが、俺の評価とは全く異なる。
正直言って、映画は娯楽であり、特にアニメ映画などその最たるものであると思い込んでる連中がこき下ろしているだけだ。これは今の少年たち、あるいは大人たちに向けたメッセージとして理解すれば、なかなかいい映画だ。もちろん、この作品のメッセージ性に気付いたとしても、それはどこか説教くさいし、現代社会で消費活動やネット的コミュニケーションなどによって生み出される価値観を疑わない人々にとっては、そもそもそんな意図を察知出来ないだろう。
ジブリのゲド戦記は、どこからどう見ても我々観客に娯楽を提供してない。世界こそ壮大だが、主人公たちの物語事情はむしろ平凡であり、更に拍車をかけるように退屈な話題や展開が終始続く。アクションシーンも、練習不足の新人がスタントをやっているかのような出来栄えだし、とても興奮できるようなものではない。
が、それらは単なる演出ミスではないと俺は思う。原作の方も機会があったらそのうち読んでみて、それを踏まえてジブリのゲド戦記批評をしてみたいと思う。あまりにも世間にボロクソ言われてて気の毒に感じる。
俺はメッセージ映画として観るならば、ゲド戦記は悪くない作品だとみてる。もちろん、「お前の小うるさいメッセージなんて興味ねぇや」と構えている観客や、まさかジブリアニメに説教されるとは思ってない人々にとってはゴミ同然の作品である。


ツイッターについて

2014年08月19日 17時50分11秒 | 日記

ブログは長文でなければならない、というルールがあるわけでもないが、俺が感銘を受ける素晴らしい文章というのは総じて長文であり、俺もああいうエレガントな文章が書きたい、という影響を強く受けているせいか、俺の文はついつい長文化しがちである。

最近、ツイッターで要点だけまとめてスパッと主張するスタイルを少しだけ練習してみたが、文字制限に引っかかりまくって全然上手くいかない。
何度も何度も、制限内におさまりきらん・・・ボツ!ということを繰り返し、正直なところ、ツイッターが最大のウリとしているつぶやきの気軽さ、快適さよりも、制限・・・制限・・・制限!というストレスのほうが大きい。これぞ正に本末転倒!
@Yukihiko80 で少しばかりつぶやいたが、フォロワーいないし、制限強すぎ、ストレス溜まりすぎ、という結果から、もう撤退だ。
文章量にこだわらず、ブログでコツコツやっていく方がやはり俺には合うらしい。

たとえば今日のつぶやきはコレだが
<スポーツ選手は、例えば水泳の場合、練習中に平気でプール内で小便するくらいの傲慢さが必要だ。
これはある意味、小利口であるよりは大馬鹿である方が結果を残せるスポーツの特徴でもある。
もちろん、自分の小便入ったプールで練習できねぇ、とかほざく繊細な奴は論外だ。根性が根本的に足りない。>
この発言を皮切りに根性論を軽く展開しようと思ったが、これがまた全然140字に収まりそうもない。
勿論、この文章も何度か添削して日本語的に少し雑多だが、何とか140字に収めるために無理矢理調整した。

何度かツイッターで練習してみたが、やはり最初の方でつぶやいたこの主張にまた立ち返る結果となった↓
<ツイッターの文字制限とかマジで不都合すぎる制約だな。 こんな短い文で自分の満足いく主張が出来る人間は頭の中がカラッポ過ぎる。>
宮沢賢治や夏目漱石にツイッターを強要したら、彼らは何をつぶやくだろうか?
そりゃ、140字に収めることも可能だろうが、彼らもまた、俺と同じような不満を持つに違いないと思う。
俺のような人間でさえ制限が強すぎてつぶやきに苦労すると言うのに、俺より更に文章のエキスパートである彼らが、その文章の自由度がハナから強く縛られてるツイッターに不満を持たないわけがない。
まぁ夏目漱石はパリ万博で当時の歩く歩道に感動していたから、先駆的な感覚、興味の強さから、もしかするとツイッターのような技術にもうまく馴染める可能性があるかもしれない。

さて、根性論の続きを軽く(ツイッターではなく!)こちらで書くとしよう。う~ん、この何も気にせず書ける伸び伸び感!この開放感に気付かせてくれただけでもツイッターは俺にとって意味あるツールであったといえる。
あのようなスポーツ観を主張したが、俺は自分を根性論者というよりは理論派であると思っている。ただ、理論というものは行き詰まったときや、不完全度が強い場合、しばしば根性主義に敗北する。そして俺は勝つためや、実践のために理論を用いるのが好きなのであって、最終的に理論を詰める事で根性主義より上に立てるという信念からその立場をとっているに過ぎない。
しかし、信念や理論と現実は大抵食い違うものであることは、まともな理論派はわきまえている。特にスポーツではそれが顕著だ。
スポーツは最終的には理論の勝利になる。しかし入門や中級者の段階では理論通りに行うことの難しさや、純粋な動物的気力が自分自身の活力となることなどから、根性が極めて重要である。また個々の相性の良さから根性主義で最後まで通用する場合もあるだろう。だから、根性主義はスポーツにおいては有効といえるし、理論派といえども認めざるを得ない面も多い、これが俺の考えである。
しかし、どちらかというと根性論に今回触れたのは、むしろこの後の理由の方が強いかもしれない。
その理由・・・・・つまり、最近の人々の基本的な根性の無さ。相手に遠慮したり、強い自己主張を控えるということを、かなり若い時期から覚えてしまい、その事無かれ主義にベッタリ依存する人が増えたと俺は感じる。そのせいで、ちょっとイレギュラーなことがあったり、周囲の環境や人と合わないだけで気力が急速に下がる。つまり理論に入る以前の基本的根性が致命的なほど足りてない。だから勉強しない、スポーツしない、遊ぶときでさえ生き生きしてない、何も楽しくないので家に引きこもって根性ゼロでも楽しめる事柄を見つけ、その殻に閉じこもる。仕事柄、最近の若者にこういう傾向を感じてならないのだ。
俺は彼らに人間的な欠陥があるとは思ってない。つまり、潜在的にはきちんとした能力が眠っているが、現代は楽なこと、楽な道、逃げ場を探そうと思えばいくらでも見つかる時代なので、ついそこに甘えてしまう。根性を発揮しなくても何とかなる、という前提がこの日本社会では肯定されやすくもある。
それはある面では正しいのだろう。だが俺は知識や教養など全く無くとも、闘争心や情熱を持つ人間こそを最も人間らしく思う。そしてそれら闘争心、情熱の源は根性である。今は人間が熱くならなくとも、機械を熱く稼動させておけば事足りる。だから相対的に人間が熱くなる理由が奪われたともいえる。勿論、こんな時代でも熱く生きている人は大勢いるし、尊敬できる人も多くいる。しかし平均的な情熱のレベルは下がってしまったのではないか?事なかれ主義こそ最も賢い生き方であると、そこに人間性はいらないのだと、トラブルを回避する知恵こそが人生では重要なのだと、我々は機械的に考える。
俺はたとえ業績において人類における最大の成功者となろうとも、先に述べたような闘争心や情熱を失ってしまったら、俺自身は全くの失敗の人生であったと断ずる。

根性は人間が人間であるためのともし火である。どれだけ理論を完成させようとも失ってはならないものである。
そもそも人は先駆的な主張をする際や、主張者の数で劣勢の立場である場合、根性が必要とされる。理論同士の勝負に根性が必要となるのは、いささか奇妙なことなのだが、理論もまた人間の根性による産物であるし、最終的に人間は自分自身の根性に対してその報いを期待するのだと思う。それは、愚かで、ムシの良い期待だろうか?

色々話が膨らんでしまったが、ツイッターの根性論から連携させると、とどのつまり結論はこうである。
プールの水の比率からいって、人間数人の小便の量などたかが知れている。そんな小さいことを気にして「泳ぐ気がなくなった。萎えた」などと言うのは、あまりに軟弱だ。試合の際はそんな出来事など霞むレベルの凄まじい緊張感、ストレスに襲われるし、悪質な妨害工作だってありうる。それらの精神的圧力に屈して、パフォーマンスを著しく下げる自分に対して情けないとは思わないのか?
スポーツは本質的に自分自身や他人との闘争であり、それは肉体のみならず精神的な勝負、鍛錬の場でもあるのだ。その自覚が足りなすぎる人間はそもそもスポーツをする資格もないし、やるだけ無駄だ。
俺はプールに小便どころか「小便プール」で意気揚々と泳ぐくらいの胆力が無ければいけないと思っている。肝っ玉の強さで相手を圧倒するのは、勝負における基本中の基本である。お前、スポーツで真面目に勝つ気あるのか?と言いたい。 
小便プールが勝負の場であり、「そんなところに入れねぇ!」と言い出したら、クロール世界1位泳者であろうが、敗者となる。これは精神的な負けが実質的な負けになるという好例である。 精神論、根性論を舐めるなよ?根性の足りない奴にはケンシロウの名台詞、「お前はすでに死んでいる」が、まさしく相応しい。
最後に、忘れっぽい人のために、もう一度この言葉を繰り返しておこう。 「俺は根性論者ではなく、理論派である」
美辞麗句や他人の応援如きで質が変わる根性は、本物の根性ではない。また、本物の根性は理論では成長しない。理論を理解する頭も、自分を支えてくれる味方も、己の成果に報酬を与えてくれる人も何もなくとも、挫けず生き、へこたれずに前向きになれるもの、それが「根性」なのである。そして、そういう根性は本気で何かに取り組む人にはすでに備わっている、という前提が俺にはある。 だから、俺は根性側をあまり支持せず、もっぱら理論に取り組む。


タイトルが適切でない。ツイッターの話題より根性論の方に力点が置かれてるような内容になっている。
しかし、最初はツイッターの方が比重が大きいはずだった。このような自分自身にも読めない文章展開が俺の持ち味であり、欠点なのだ。 


12/11~12/17

2011年12月19日 21時10分00秒 | 日記

ネタはたくさんあるんだけどいつものよ~に、ブログ更新をサボっております。

TVでもネットでもニュースを全然見てないので時事ネタが殆ど分からないが、それでも今年は本当に収穫が多い一年だった。毎日、毎週のように新たな発見がある。
でも、メモを残してないのでその多くを忘れてしまった。週に一度はなるべく気付いた事なんかをメモに残したいところだ。取りあえず、先週のまとめを・・・。

先週観た映画は『四月の涙』『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』『借りぐらしのアリエッティ』。アリエッティは思想性がペラッペラで、想像以上につまらなかった。俺が使う「つまらない」という単語は単にマイナス査定であることを意味しない。逆に言えば、何の知識が無くても楽しめる作品であるということなので。
前者ふたつは極限状態での人間の愛を試すような、狂気的、あるいはそれ故に純粋な形の愛情を映し出している。オススメは『四月の涙』。
ゲーテとベートーヴェンの引用によって、ストーリー全体の暗喩をしているため、その方面の知識・教養が必要。ゲーテはまだひとつしか読んでないので、ちょっと勉強不足を感じた。ゲーテは特にヨーロッパ、アメリカの知識人に多大な影響を与えているので、抑えておく必要があるだろう。
最近はマニアックな映画ばかり見ているせいか、TV放映する映画やロードショーなどで話題になる映画が、いかに映像表現という広い可能性の中のほんの僅かの部分だけで構築されているかが分かるようになってきた。拷問や生々しすぎるSEXシーンがあると、茶の間で流しにくいという事情があるにせよ、本当の理由はそれだけじゃないように思える。
プロパガンダ映画、という言葉があるが、実際にはこれはまやかしであって、映画はどんなものであれそれ自体がプロパガンダである。ミッキーマウスやナウシカのような映画だけを人々に見せ続ける、またそうした作品へのアクセスを良くしておく、という事自体がプロパガンダ的といえる。映画には環境破壊を訴えたものや、政府批判、戦争反対、メディア批判などをテーマにしたものなど様々なものがあるが、そうしたものは全くといっていいほど注目されない。つまり、現在のシステムや我々の生活や意識を変えることに繋がる映画は、ヒットしてもらっては困るという事情がある。そのため、ソ連やナチスのような露骨な政府ヨイショのプロパガンダ映画でなくとも、我々が我々自身を疑うことのないような種類のものが今も昔ももてはやされている。我々が我々を疑わない事、これが持続的に働いてさえいれば、そこでの統治機構がどれだけ腐ってようと揺らぐことは無い。プロパガンダ映画とは、正にそうした目的を促進するためのものであるわけだが・・・・さて、では今大衆が多く目にする映画はどのようなタイプであろうか?

ヒトラーの天才的アイディア、それは企業や土地を社会主義化するのではなく、人間を社会主義化しようとしたところ。
これは凄まじく巧妙なやり方だ。自分自身が進んで国家のために奉仕する事を厭わないマシーンになったとしても、個人は私的所有物と娯楽さえあれば、満足する。人はパーソナリティが自由であるより、私的所有物が自由であるほうがマシだと考えるらしい。無論、これには良い面もあるが、ヒトラーのようなタイプに利用されると悲劇となる。人間のパーソナリティを預かる宗教家が無欲でなくてはならない理由がここにある。
無神論者は神などというくだらない対象に依存も奉仕もしない自分を実に賢明だと思っている。しかし、一方で無神論者は神の代わりに別のものに依存し、奉仕しており、個人のエネルギーを何事かに向けているという点では同じ事を演じているのである。お金、神、組織、国家・・・これらに共通しているのは、強力で、依存、奉仕するに相応しいと我々に思わせるだけの十分な魅力である。たまにこれらがただの虚構であることを見抜き、距離を置こうとする変わり者がいるが、世間の拠り所を批判するような人が世間に歓迎される筈が無いのは、全く当然のことといえる。

1933年12月、天皇暗殺未遂事件が起こる、という記述を見たのだが、現在のところ真偽は未確認。ウチの学校の日本史の先生に聞いてもよく分からないという。しょうがないので大学教授に問い合わせる事にする。
この情報がマジだとしたら、学校の日本史の記述に何か作為的なモノを感じる。いや、実際のところ、特高警察に左翼や共産主義者が殺されているという事実だけで十分でもあるのだが。政府が都合に応じて市民を殺す国家・・・・どこかと非常に良く似ていますねぇ。一部の急進左翼が政府の動向にヒステリックになるのは、恐らくこの時代のトラウマがあるからなんだろうと思う。
この時代は、平和主義や人権を主張した教授が何人も免職になっているし、今でも平和主義は甘っちょろい主張のように扱われがちだし、人間の根本的な部分は何も変わっていないんだな、と痛感する。それもそのはず、当時の人は殆どがもうこの世にいないし、現在の人間は当時の歴史的教訓なんてほとんど生かそうと思っていない。侍やローマ時代のキリスト教徒たちを、自分達とは違う種類の人間だと思い込んでいる。そうでなければ、こうも現代人が現代人の動向のみに夢中であるはずがない。過去の人に夢中になっているのは、俺のような歴史オタクだけだ。ジジイになってから大河ドラマに興味を持つようになっても遅いんだよ!

市場における貨幣と商品の交換についての考察。
重要なポイントを知った。もし、貨幣と商品の交換が公正に行われているとすれば、同等の交換ゆえに金持ちはずっと金持ちのままだし、貧乏人はずっと貧乏人のままのはずだ。労働によって貨幣を獲得し、その貨幣で同一価値の商品しか買えないとなれば、人はどのようにしてお金持ちになっていくというのだろう?転職?昇進?現実には人は低所得者から高所得者になりうるし、その逆もある。
俺は労働を商品とみなすことにまず倫理的な問題と論理的な欠陥があることを認めているが、主流の経済学においては概ね労働者はその労働力を商品として企業に売り込んでいる(その対価として給料を貰っている)という考え方がある。
しかし、ある労働にどれほどの価値があるか?という点については、その労働によってどれだけの貨幣が稼げるか?という非常にお粗末な論理しか大方の人は持ち合わせてないし、人は間に合わせの知識のみで納得してしまうのが常なので、労働価値=支払われる貨幣価値という単純構造が巷に蔓延っている。
ダルビッシュの年俸は5億円だから、彼の労働・・・つまり数日に1度マウンドに立って何球か投げる仕事が5億円の価値があるということに?冗談じゃない!w実際には5億円どころか、野球やることで飯なんて食えない。野球プレイヤーに何億円ものお金を払ってくれる奇特な人がいるから生計が立てられるだけだ。え、ダルビッシュに5億円払うのは奇特じゃないって?あなた、ダルビッシュに月1万円でも払いますか?
こう考えたらどうだろう。ダルビッシュの本当の価値=給料は、毎月彼にお金を払ってでも彼のプレーを見たいと思う人の融資によって成立するとする。すると、日本ハムのファンや彼個人のファンによるお金が全国から集まるはずだ。で、一体いくら集まるのだというのだろう?ビル・ゲイツのようなスーパー金持ちが彼に5億円ポーンと払うのはわけない事だが、彼が一般人とはかけ離れた財力の持ち主であることは誰もが知るところだ。そういった、一人の変わり者が彼の給料の面倒をみてやれることができるということと、彼自身がその金額に相応しい価値を持っているかどうかということとは何の関係も無い。実に皮肉な事だが、そういった特別な人しか彼の給料の面倒を見ることができない=一般人には到底支払えないという事実が、一般人にとって彼に対する貨幣価値はほとんど無い事を示している。全国の野球ファンからお金を集めれば億はいくだろうって?仮にいったとしても、それもまた普遍的な価値を示した事にはならない。彼に金を全く払わない人もまたたくさんいるからだ。
哲学的に考えてみよう。価値とは、その対象に価値を見い出している人たちの価値観、つまりこの場合でいえばダルビッシュにお金を融資する人、というマイノリティたちの意見によって決まって良いものだろうか?良くない、どころかナンセンスだ。お金を積んででも女子高生とSEXしたい男は山ほどいる。でも、当たり前の事だが世界中の女性にとっては、その女子高生にSEX対象としての価値はまるでない。性に目覚めてない男児、あるいは老人などにとっても対象外だろう。じゃあ、その女子高生を一晩10万円で買うオヤジがいるからといって、それがその女子高生の稼ぎ能力の正当性を保証しているだろうか?答えは言うまでもない。
野球と日本ハムが相当好きなファンの中でもダルビッシュ個人に月1万円コンスタントに払える意欲のある人は稀だろう。ところで、その人の月々の食費はいくらだろうか?まさか、1万円以下?普通は3万円以上は使うだろう。と、なると一般的な個人にとっての毎月の価値は、ダルビッシュより食べ物であるということになる。食べ物を作っているのは?農家や工場の人たちだ。でも農家や工場で働いている人の中で年俸5億円貰ってる人なんて、多分一人もいない。我々個人はダルビッシュよりも食べ物の方に金をかけているのに、その食べ物を作る人々はダルビッシュより遥かに低賃金で働いているし、それを普通の人は当然だと思っている。「ダルビッシュの年俸が5億円なら、農家の人には1000億円払え!」なんて主張している人はどこにもいない。なんででしょうか?
このテーマについて、答えはふたつしかない。つまり、ダルビッシュと農家の人のこの現在の賃金水準は正当なものであるということ。そしてもう一つは不当なものであるという事。さて、どちらでしょう?

優れているとか、立派であるといった事とは一切関係なしに、マイノリティであるというだけで、天下を取れる可能性がある。ダイヤモンドやお金が価値の勝者のように君臨しているのは、それらが市民社会ではまだまだマイノリティであるからだ。誰もがそれを足りない、足りない、と渇望している状況が、それらのマイノリティ的立場を少なくとも心理的に支えている。お金やダイヤモンドが(実際の量とは関係なしに)我々の心理にとって十分あると感じられるならば、それらの天下は終わる。終わっちゃまずいから中央銀行が貨幣の引き締めなどを行う。
学問を本気で理解し、面白いと思っている人はまだまだマイノリティだから、何らかのジャンルで頑張っている学者(発明家でもいい)がある日突然天下を取ったりする。もし、世の中の人々がみんな学者のように学問好きだったら、逆に女と娯楽にしか興味の無いチャランポランな男が天下を取れる世の中になる。人間はまだ猿やゴリラと変わらない、欲望中心主義のオツムの生物だから、そんなことはまずありえない。おかげで俺が人間と社会の予測が立てやすくなるという寸法だ。ありがとうございまぁ~す!

最近また音楽聴き始めました。ま~もっぱらトランスですが。洋楽も模索中。
↓トランスはこういうところで適当に探っている
http://www.nicovideo.jp/mylist/16425460

<土曜>
日大の先生に聞いたところ、どうも1933年の天皇暗殺未遂というのは、1923年の虎の門事件の誤りではないか、という指摘を受けた。もしそうだとしたら、あまりにもお粗末過ぎる・・・。
念のために1933年12月の新聞記事をあたって、そういった事件が報道されてないかを確認する予定。


映画を観る

2011年07月26日 16時55分55秒 | 日記

昨日、早稲田松竹という映画館へ行って来た。
アメリカのアニメをもう何年も見てないから、最近のはどうなってんだ?という気持ちで3Dアニメの二本立てを鑑賞。ここは映画二本を1300円で観れるリーズナブルな場所。もう、暫くは新橋と早稲田の二本立て映画館しか行くつもりはない。(だって金無いし)

http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/schedule.html

『ヒックとドラゴン』『塔の上のラプンツェル』・・・どちらも割とベタな話なんだけど、凄く良かった。感動し過ぎて結構泣いちゃいましたね。今度からはハンカチかタオル持っていこうと思った。
今、人生で一番貧乏な時を過ごしているから、感性がビンビンに鋭くなっている。前にも増して食べ物が旨いし、ちょっとした出来事に対する感性の揺れ幅も非常に大きい。貧乏が、感覚的緊張状態を生み出しているのだろうか。修行僧が悟りという(恐らく)「究極の感覚的知覚」を手に入れるために自らを苦境に追い込むのもよく分かる。小林秀雄は「分かる、ということと、苦労する、ということは同じ意味なんです」と言ったが、この言葉は俺の今の心境を見事によく表している。

『塔の上のラプンツェル』を見ていて『フィフスエレメント』を思い出した。あれもヒロインが特別な力を持っていて、無垢で純粋な性格をしている娘だった。
それで気が付いた。このヒロインとその他の登場人物の関係って、現代社会でいうところの、機械と人間の関係じゃない?と。
機械も特別な力を持つヒロインも、あまりにも純粋で、世間知に染まっておらず、自己決定をする余地に乏しいために、悪人にも善人にも利用される。悪人は巧みにヒロインをそそのかし、その力を自分のものにしようとする。一方、主人公たちはそうした企てを阻止しようとする。そういえば『ラピュタ』でも似たようなやりとりがあった。
“もし、人間の力を遥かに上回った力を持つ存在が意志を持っていたら”それは神と呼ばれるだろう。しかし、“意志は持っていないが、人間を遥かに上回る力”というのは現実に存在する。ロボットや爆弾、自然などがそれだ。古代の神々が、自然を司る存在として例えられていたのは、これで合点がいく。彼らはそれらのパワーを統率する存在を擬人化して理解しようとし、また畏敬の念を抱いた。一方、現代の我々は人間に似せた形のロボットを作り、より強大なパワーを与える事に躍起になっている。そして、人工知能という形で彼ら固有の魂を宿そうとしている。我々は聖書に記されているところの、神が人間を創造したときと同じプロセスを無意識的に模倣しているのだ。
無論、人間の魂にも似た、精度の高い人工知能が生まれたら、他生物にとってはどうであれ、少なくとも人間の存在が脅かされる状況になっていくことは、間違いないだろう。最初はペット的な愛玩用としてその人工知能を面白がって使える。しかし、いずれそうした事態は終わる。手塚治虫の『PLUTO』・・・・丁度あんな感じの社会的狂いが生じてきて、いずれそれは本格化する。もっとも、あそこまで世界の科学技術が発展した世の中になるまで、自分は見届けられないのが残念だが。

あ、そうそう『塔の上のラプンツェル』はディズニーアニメなんだが、ディズニーアニメの特徴として、歌や踊りが多いことが挙げられる。無論、この作品も所々ミュージカルチックに歌や踊りが挿入されているのだが、吹き替えだと歌詞などが強引で(その上声優が下手糞なので)歌が台無しになっている点が相当痛い。字幕は子供には少々荷が重いとはいえ、やはり吹き替えはよろしくない。
最近、高校生の語彙力の低下も酷すぎるものがあるし、こういう娯楽作品やゲーム、漫画もどんどん敷居を高くして、ちょっとは勉強しないと理解できないようにするべき。語学と同じで、人は必要に迫られたり、強制によるものではない学習においては、驚異的な成果を発揮する。なんでもかんでもレベル下げればいいってもんじゃないよ。実際、大衆消費物のレベルがドンドン下げられていった弊害がそこかしこに現れている。

最近は、国会図書館で色んな映画観れないか、と考えております(というか、こういうところでないと到底見れそうも無い古い作品がたくさんある)。近日調査に行く予定。
中野中央図書館は、VHSビデオしか置いてなく、借りても家で再生出来ないのが大問題。しかも、館内で視聴できる設備は無いという。どうにかしろ~。近隣の地区の図書館を巡って、好条件の所とか探ってみるかね~。


近況報告

2011年03月29日 11時52分58秒 | 日記

あの・・・・なんか・・・・俺、教師になれるらしいです。まぁ非常勤ですが。

おお神よ!、毎日、白騎士ばっかりプレイしている俺にこんな大儀を与えて下さっていいのでしょうか?
お前の偉そうな御託を実践してみやがれ!!という、天の意志でしょうか?

舐めんなよ。俺は神をリスペクトするが、服従はしない。女の子にモテないのが神のせいだろうと、俺のせいだろうと、自分も運命も呪わない。
どんな立場に置かされようと、俺はただ、その状況を利用してやる事しか考えない。
幸せでも不幸せでも与えるがいい。俺はそれを森羅万象の現象の一部として解明の素に組み込むことしか興味が無い。
俺は個人として幸せになりたい欲望もあるが、幸せでない人々が常にいる以上、俺だけが幸せになっても意味が無い。人々の屍の上に玉座を設けても仕方が無い。それよりは、俺は屍になりながらも、玉座をちゃぶ台返しする、意志あるゾンビでありたい。
「屍は動いてはいけない、死んでなければならない」なんてルールは、神のルールに従わない俺には関係ない。俺をただのボンクラや無礼なならず者、うるさいハエのようにみなす連中もいるが、勝手に人を規定しても、何の意味も無い人間がいることを、俺は示そうと思う。

俺はいつでも悪にも善にも加担する。必要とあれば力を貸す。俺が善なるものを求めるのは、いつの時代も善なる精神が劣勢だから、ただそれだけの理由に過ぎない。劣勢である側につくほうが、自分の力を思う存分奮える。負け戦が濃厚な戦場においては、周りは皆敵だらけだ、遠慮はいらないぜ。全部倒せばいいんだろ?シンプルじゃねぇか。勿論、自分の命を天秤にかけてるやつには背負えないがな。

自分の幸せを考える者にとっては、まずそれだけで自分の命を勘定に入れてることを認めなくてはならない。負け戦には絶対に参加しないという、ひとつの自分の方針を認めなくてはならない。自分の命を考える事、すなわちそれは生命体であり、動物であるという事。動物であるという事、すなわちそれは宇宙システムの一部であるという事。システムの一部である内部の者が、システム自体を客観視できるだろうか?理解できるだろうか?

俺は社会システムの一部になろうとしている。にも関わらずシステムを客観視しようとしている。それは両立可能であろうか?ダチョウは自らが人間にどう見られているかを知っているだろうか?人間は、全宇宙を知る者からどう見られているか?それを考えるものが宗教であり、科学である。アプローチが多少違うようだが、究極を求める目的は実は一致している。

・・・・・・・こんなこと言っちゃってる俺が教師になって、本当にやっていけるのでしょうか。
まぁ、どんなものであろうとやるけどね。

 

あ、ちなみに白騎士のアバター名は「ユキヒコ」です。いつも個性的な戦法と格好を模索しながらのほほんとやっております。
最近はアメリカ人や、台湾人、中国人プレイヤーとも目下プレイ中。台湾流ストロングスタイルを習得した俺に隙はもうない・・・・。賞金首戦でチマチマ戦陣・天使なんてかけてるんじゃね~ぞ!オラ~!
白騎士はゲーム内でも日誌を書けるんだけど、NGワードが多すぎて、例えば今日の日記みたいな内容だと「文章を修正してください」みたいなことを言われて投稿できません。こんだけ長文書いといて、最後に投稿できません、ってそりゃないやろ~!日本にも表現の自由は無かった!絶望した!
もっと快活なコミュニケーションをとりたいので、ゲームのために英語や中国語スキルをもっと伸ばしたいな~などと邪なことを考えております。最近は和英辞書を置きながらプレイしていたり・・・w
大学のときの中国語の教科書がみつからね~!アレもう、いらないもんだと思ってどっかほっぽっちゃったよ・・・・。知識人としてあるまじき蛮行。天罰じゃ。

ニーハオ!サイチェン!


暑い世界と現代生活

2010年08月05日 09時04分04秒 | 日記

2~3年ぶりに部屋のエアコンを動かしてみたら、壊れてしまっていて、全然冷風が出ない。
知り合いの電気屋さんにちょっとみてもらったら、どうもガス欠が関係しているらしいとのこと。ナヌ、エアコンってガスも必要だったのか。

数年ぶりにエアコンを起動させてみて色々気付いた事がある。
まず、当たり前なのだが部屋が無茶苦茶涼しい。毎日、部屋の窓を開放しつつ風乞いをしながら暮らしていた日々がまるで嘘のよう。
そして、その効能も凄い。前は設定温度を20℃以下くらいにして、風速を強、風向きも固定にしないと涼んだ気がしないくらいだったが、今では28度設定、風速、風向き全て自動くらいでも非常に快適に感じる。明らかにこの数年で身体の耐性が変わっている。ま、こんな事は前から気付いていたけど。100日階段を使い続けて、1日だけエレベーター使ってみるとか、そういうことをすれば誰でもすぐに気付く。101日エレベーター使う奴は絶対気付かない。俺は大学でエレベーター使ったのは友人と一緒のときの数回だけだけど・・・エレベーターって自分個人がラクしたいというよりも、人と話しながら移動するのに便利な乗り物なんだな、アレ。短距離型の無料電車と変わらないと思った。しかしサンシャインのぼるわけでもあるまいし、あれくらいの距離、階段使えよ・・・と思う。まぁ、サンシャインクラスでも階段使ったほうがいいと思うけどね。いい運動になるし。
エアコンが作り出した異常世界は、数年ぶりの浦島太郎的体感によってよく分かる。異常世界では“敢えて正常(普通)に暮らす事”でその実態が見えてくる。子供時代からの順当な成長だけが社会の変化を感じ取れる感性なのではない。浦島太郎になりきることで、強く感じ取れるものもたくさんある。外国生活などが、ある面で浦島太郎効果をもたらしているのは、主に文化的な面についてであるが、やり方次第で我々はこの世界を如何ようにも捉えられる。

 

熱中症で死人が出ているということをニュースで見かける。俺はこのことを割と真面目に受け止めている。人命が失われている事に対する驚きにではなく、もはや地球が人間の住める環境ではなくなりつつあるということに。
愛知や和歌山でも感じた事だが、日本全国どこでも暑い。そして街を歩いている人は非常に少ない。それは勿論、徒歩でチンタラ移動するわけにもいかないという時間節約的な事情もあるだろうが、歩いていて感じることは、暑過ぎてとにかく何らかの活動に対して体力を大きく消耗しすぎるという事。駅前の石のオブジェに腰掛けたときは、尻に火がつくんじゃないかと思うほど熱かったし、日向では活動のみならず、休むことにさえまともにできない。
休息のためには、よく冷えた飲み物を買って飲んだり、エアコンが効いた施設に逃げ込むのが一番手っ取り早い。しかし、問題なのはどれも人工的な休息ポイントであるということ。動物と同じ条件で、すなわち日陰で休むくらいだと、体力の消耗スピードは抑えられるものの、やはり日中外で過ごし続けるのはそれなりに疲れるものだ。
でも、エアコンなんてここ数十年の間の技術だ。エアコン無しでも暮らせない事には人間の生活上の保証なんて何も無い。その意味で、熱中症による死者は、その環境上の圧迫がどれほど人間の限界耐性に迫っているのかを教えてくれる。もっとも、殆どの現代人が動物みたいに一日中食い物と日陰だけで過ごしているわけじゃないから、全然指標としては甘いと思うんだけど。全ての施設と家屋からエアコンが消えたとき、もっともっと多くの死者が出るだろうと思う。もしそうなったとき、人間はこの地球上で生きるに相応しい生物であるといえるのだろうか。

車を効率よく走らせるためのアスファルトは裸足で歩くのが苦行ともいえるほど暑い。家屋はエアコン無しだとどこも暑い。日向でジッとしていると、それだけで体力を奪われるほど暑い。そういう苦痛を避けるために、人間は様々な文明の利器で対応していくが、アイスやビールを冷やす冷蔵庫も壊れ、食べ物の保存もままならなくなったら、いよいよ生命の危機が始まる。
俺は人間がこの暑さに参る前に、食べ物の生産への影響がかなり気になっている。暑過ぎて野菜の収穫などに影響が出たりはしないのか?動植物の生態系に変化が出てくるだろうし、もし従来通りの生産量を実現できなかった場合、食べ物の確保はどうなる?人間は建物に備え付けてあるエアコンで冷やしてやれば快適であるかもしれないが、環境や天候まではどうしようもない。ビニールハウスなどで高コスト生産をしなければいけないハメになる食べ物なども出てくるかもしれない。今は食べ物の流通も世界規模で行われているので寒い地域で採れる食べ物は北方の人に任せ、暑い地域で採れる食べ物は南方の人に任せ、貿易によって帳尻を合わせる事が出来るかもしれないが、それはあくまで楽観的な予測に過ぎない。世界規模で対応しきれるうちは大丈夫?それはとても変な理屈だ。生物は本質的には自分の活動圏内のみの環境で対応できなければ死ぬのみだ。科学や文明でその環境とやらを都合いいように(しかしツケはどこかに回して)いじくっているだけに過ぎない。この事が分からない奴は、ロビンソンクルーソーでも読めばいい。
熱中症で人がバタバタ倒れたら、ニュースはああすればいい、こうすればいいと熱中症対策を親切にも教えてくれる。しかし、それが真の対策になっているのだろうか?我々自身が熱に対抗できるよう進化しましょう、そのためにも冷暖房に頼るのをやめましょう、と言うのが本質的な議論ではないのか(そんなこと言うはずないと分かってはいるが)?アイテムを使ってどうにかこの暑い夏を乗り切りましょうなんて、後先の事を全く考えてない人間の言う事だ。ま、本当に後先の事考えてない人なら言ったっていいと思うけど。
我々は整形技術によって明日から美人に生まれ変われるくらいのことは出来るようだが、明日から熱に強い人間になるようなことは出来ない。そもそも、科学的な技術への依存は、その技術が素晴らしければ素晴らしいほど、生物的には物凄く卑怯なことをしていることになる。スポーツに何か機械文明が入ってくる事を想像したらいい。人間が目的のために科学を用いるという事は、マラソン選手が目的のためにフェラーリを使うようなものだ。スポーツ界でそういうことをしたら興ざめだが、一般市民の生活ではそういうことが許されている。許されているどころか、むしろ推奨されている。だから、スポーツ界と一般生活の乖離が著しくなる。一般生活の中で不健康になったり、肥満になったり、精神障害を患ったりといったことが多発するようになる。一般生活が科学に依存しなければしないほど、スポーツ的・・・すなわち生物的な活動へと接近することへとなる。スポーツの本質は生物的な能力の向上と挑戦である。スポーツ選手に対するリスペクトは、そういう点に普通は向けられる。だから、「機械使って達成しました」、「薬使って記録出しました」が認められないのである。
薬や機械への依存がスポーツ界では許されていないことくらい、誰でも知っているし、それがなんとなく正しい事も分かっている。けど、一般生活でもそれを許さないぞ、という論調になるとどうもついていけないようだ(無論俺は、機械製品を窓から全て放り投げろ、というような強硬派ではない。最初に自分がエアコンを使用していることを述べた)。何故?同じ人間であるのに何故分ける?スポーツ選手と一般人は根本的に何か違うから?スポーツは一般生活とは別のルールが適用されているから?こういったものは全て表面的な理由だ。本当の理由は別にある。科学、生物、社会、人間に対する哲学が無ければ理解は出来ないだろうが・・・。いや、答えを出し渋っているんじゃない、こんなことはどんな哲学書にも書いてある。本屋にこれ見よがしに陳列されている流行の啓発書でも、ちょっとは触れている。前者は難解だが深い。後者は平易に書かれてはいるがその分薄っぺらい。どちらを選ぶかはあなた次第だ。

 

神から見た宇宙を、人間から見たDQ5で表現してみる。
4000000年ほどDQ5を起動し続けていたら、コンピューターの学習能力かバグか何かの影響でスライムのHPが1だけ上がっていた。最初、人間はあまりそれを深刻に受け止めなかった。そうして更に10000000000年ほど放置していたら、スライムがデスピサロに進化していた。パパスと主人公の一行は港からサンタローズの村に着く事は出来ず、全ての望みは絶たれた。途方にくれていたビアンカにヘンリーが色目を使い出した。サンチョはとっくに別の主人に仕えていた。ミミックは食料が来なくて死滅していた。武器屋と宿屋は客が来ないので値下げを始めたが、そのうち営業不振で潰れた。こうした経済不況を脱却しようと各国の王は行政改革に乗り出すようになった。こうしてDQ5のルールの全ては壊れた。
しかし人間はこうも思っていた。「こういう混沌としたDQ5も面白いな」と。

 

最近、自分の性感覚がカントに非常に近い事を知った。やっと・・・・やっと俺の理解者が現れたか(といってももう死んでいるけど)という嬉しい気持ちでいっぱいだ。
ところが、よくよく見てみるとカントより更に俺のほうが若干厳密でさえあるような気がしてきた。

ハーバード大教授、マイケル・サンデルの著書においてこんな記述がある。

カントが行きずりのセックスを好ましくないと考えるのは、それが相手の人間性を尊重するのではなく、単に性欲を満たすための行為だからだ。

男性が女性に欲望を向けるのは、彼女が人間だからではなく女性だからだ。その男性にとって彼女が人間であるという事実はどうでもよい。彼女の性別だけが彼の欲望の対象なのだ。

行きずりのセックスは、たとえ当事者同士が満足していたとしても、「お互いに相手の人間としての性質を汚している。二人は人間性を自らの劣情と傾向性を満足させるための道具に貶めているのだ」

性道徳をめぐる現代の議論において、自律の権利を訴えている人々は、自分の肉体をどう使うかは自分で自由に決められるべきだと主張している。しかし、カントの言う自律は、そのような意味ではない。
(中略)
自分を含めたあらゆる人格を、単なる手段ではなく、それ自体を究極目的として尊重する事を求める。カントにとって、自律的な行動とは自分自身を尊重し、物扱いしないことだ。自分の肉体だからと言って、好き勝手には出来ないのである。
カントの時代には臓器移植市場は一般的ではなかったが、当時でも金持ちは貧しい者から移植用の歯を買っていた。この慣習は人間の尊厳を侵害するものだとカントは考えていた。人間には「肉体の一部を売る権利は無い。たとえ一本の歯でも」それは自分を物として、ただの手段として、利益をもたらす道具として扱う事だ。
カントは同じ理由から売春も好ましくないと考えていた。「他者の性欲を満たすために自分の人格が営利目的で利用されるのを許すこと、すなわち自らを要求の対象とすることは、自分を他者の欲望を満たすための物とすることだ。まるで飢えを満たすステーキのように」
人間には
「他者の性的嗜好を満たすための物として、自らを営利目的で供する権利は無い」

カントは夫婦間のセックスだけが「人間性を貶める」のを避けられると結論している。二人の人間が性的能力を利用するためだけでなく、自分の全て捧げ合うことによって初めて、セックスは相手を物扱いする以上の行為になる。パートナーである二人が、「人格も肉体も魂も、良いところも悪いところも全て」共有してはじめて、性行為は「人間同士の結びつき」になりうるのだ。カントは全ての結婚がこの結びつきに至るとは言っていない。


カントの性道徳はこのように、現代社会ではちょっと受け入れがたい主張を展開している。でも、受け入れ難い人というのは、「な~に、固い事言ってんの。もっと緩くいこうよ」と思っている人だけだろう。カントと限りなく近い考えの俺には全くナンセンスに聞こえない。カント並の過激派である俺(「過激派」という表現も相対的なものだ。一般的な日本人から見れば俺は性倫理の過激派に見えるかもしれないが、俺から見れば一般人がセックス過激派だ)は更に色々付け加えたい事もあるけど、原書をまだ読んでないので結論は差し控える。『純粋理性批判』を読んでいる限りではまだ性道徳の話は出てこないのだが・・・もしかすると別の本かもしれないな。カントの『永遠平和のために』は物凄く短いけど、とても良い本なのでオススメ。


“世の中をどう捉えるか”という思考自体が、はからずも世の中を知る一番の方法になる

2010年08月04日 11時18分20秒 | 日記

「馬鹿と天才は紙一重」、こんな言葉が広く認知されているせいで相当混乱させられてしまった。この言葉は中途半端な納得と満足感を与えてくれるところがタチが悪い。これは答えギリギリの所で寸止めさせている極めて悪質なフレーズだ。「紙一重」なんていう紛らわしい言葉のせいで、違いを強調するような文意になってしまった。
「馬鹿と天才は紙一重」を正しく言い直そう。天才とは馬鹿そのもののことをいう。じゃあ、なんで同じものにふたつの単語が割り当てられているのかという話になる。単語の意味に思考が縛られているから、そういう疑問が出てくる。辞書の定義が、馬鹿と天才の全てを表現しているわけじゃない。自分の何が天才と馬鹿に仕分けしているかを考えてみよう。辞書を最上に据えると、思考はそこで止まる。

 

「関係ない」という言葉ほどムカつくものはない。
「文系のオレには理系のことは関係ない」とか「外国の法律?日本人のオレには関係ない」とか、そういった類の使い方をされたら頭が痛くなってくる。使って許されるのはギャグとしてだけだ。マジで言う奴は、自分のフィールドに病的に固執し過ぎていて、しかもその事に気づいていないちょっと可哀相な人だ。でも、社会的にはそういう偏向が許されているし、更に我慢ならないのは、そういう生き方の方が自国で毎日決まりきった仕事をしながら悠々自適に過ごす分にはしばしば有利でさえあるということ。
効率的であるという事は実は限定的であるということでもある。効率を選ぶなら、あなたから広い視野は消える。広い視野を持つ人は効率性を失う。さて、どうすればいい?「どうすれば?」なんて質問自体が効率至上主義の産物なんだが・・・・。人間は考え方が既に効率化に染まってしまっている。
効率的であることと、きちんと思考し結論を出す事は似て非なるものであることに我々はちっとも気付かない。効率的に考えてもロクなアイディアは生まれない。

 

人間の究極とは何か・・・・?それは、一言で言うなら「如何なる事にもダメージを受けない事」これが究極。ダメージを受けた瞬間、その人にとっての全ての不幸や不快が始まる。
成功者や偉人といわれるタイプの人は共通してこの能力が著しく高い。そして漫画のキャラクターがインパクト大で映えるのは、この特徴をどのキャラクターも備えているからだ。くだらないことでいちいちダメージを受けない。それは端から見れば厚かましく、不感症で不節操にさえ見えるかもしれない。でも、それは世間の尺度で語っているだけで、全然真実を突いてはいない。
人間は最終的には死さえも受け入れなければいけないのに・・・・しかもその事を・・・いつか受け入れなければいけないと知っているのにも関わらず、「死より遥か手前にある何か」さえ受け入れらない。ここから全ての混乱がスタートする。(多分これ、ハイデッガーと同じような結論だわ。難し過ぎて『存在と時間』まだ全部読んでないんだけど。ちくま文庫よりいい訳本ないものか・・・・。)
言うほど簡単ではないし、もし完全に何事に対してもダメージを受けない人間がいたら、そいつは神だ。しかし、この神性を人間が手に入れようとするとき、人間の能力が飛躍的に向上することは事実だ。

 

凡人は人が凡人に見える。
これによって、世の中が規定される。凡人が発してる言葉になんて大した価値なんてありゃしねぇよ・・・と、思ってしまったら全ては終わり。
「我々が真に自由になるためにはこの世の全ての法律家を殺す必要がある」
という言葉がある。実はこれ、“ヒトラーかシェイクスピアのどちらかが”言った言葉なんだけど・・・・・言葉の意味を色々取ってしまいそうでしょ?もっと言うと、俺がブログで何の脈絡も無く、一言こう書くと、なんだか危ないヤツに見えてしまうでしょ?言葉ってこういうもん。
だから、教養が必要になる。ありとあらゆる世界観、人間観が必要になる。人をどう捉えるか、世界をどう捉えるかで、この言葉の価値が決まる。

ある発言によってオレが危ないヤツに見えようが、実際にオレが本当に危ないヤツであるかどうかという事とは根本的には関係が薄い。
ただ、一般的な感性の持ち主であれば、「そう思われること」や「そう思われるようなリスクがあること」は避けようとする。でもこういう意図が働く事で、言葉の威力(オフェンス面:伝えたい事←→ディフェンス面:発した言葉の反映によって自分がどう思われるかということ)のバランスが変化する。
一般的に、偉人の言葉に重みを感じるのは、自身の発言の自分に対するリスクを顧みず、徹底的にオフェンスに回しているからだ。そういう事ができるのは、自分に対する自信と、先に述べたダメージ耐性の話がここでも絡む。


フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」

2010年07月07日 09時30分09秒 | 日記

初めは若々しい希望を抱いていた青年たちが、そのうちに、いわゆる分別のついた人々の・・・期待そのままの人間になってしまったという事実を、私自身も、自分のさほど長くない人生経験を通して、いくたびとなく見てきている。
青年諸君、こういうことを繰り返すのは、もう止めにしよう。いつまでもこんなことを繰り返していたら、一体いつになったら、よりよき人類の時代が来るであろうか?

ナポレオン占領下のベルリン学士院で一般大衆に向けて演説した、哲学教授フィヒテの講演内容。
200年も前の講演だが・・・・・古臭さを全く感じない。若者の世俗的迎合化はいつの時代もあった。そして、それを嘆く者の存在も。人間は堕落しうるものであるが、若者の時期に堕落することほど悲劇的なことは無い。
しかし・・・不思議なものであるが堕落というものは過程の段階では気付かないものらしい。底辺まで堕ちて初めて「ああ・・・俺は堕落の道を歩んできていたんだ」と気付く。底辺を味わうのは悲惨ではあるが、堕落を自覚し、這い上がるためには、この方法以外に有効な手立ては無いかもしれない。人からの指摘では生ぬるい。本人の覚醒無しに堕落に対抗出来る術は無い。
物事の全ては人間の覚醒にかかっている。外界の出来事は全て、その助けとなるか、妨げとなるか・・・その程度のものでしかない。