2~3年ぶりに部屋のエアコンを動かしてみたら、壊れてしまっていて、全然冷風が出ない。
知り合いの電気屋さんにちょっとみてもらったら、どうもガス欠が関係しているらしいとのこと。ナヌ、エアコンってガスも必要だったのか。
数年ぶりにエアコンを起動させてみて色々気付いた事がある。
まず、当たり前なのだが部屋が無茶苦茶涼しい。毎日、部屋の窓を開放しつつ風乞いをしながら暮らしていた日々がまるで嘘のよう。
そして、その効能も凄い。前は設定温度を20℃以下くらいにして、風速を強、風向きも固定にしないと涼んだ気がしないくらいだったが、今では28度設定、風速、風向き全て自動くらいでも非常に快適に感じる。明らかにこの数年で身体の耐性が変わっている。ま、こんな事は前から気付いていたけど。100日階段を使い続けて、1日だけエレベーター使ってみるとか、そういうことをすれば誰でもすぐに気付く。101日エレベーター使う奴は絶対気付かない。俺は大学でエレベーター使ったのは友人と一緒のときの数回だけだけど・・・エレベーターって自分個人がラクしたいというよりも、人と話しながら移動するのに便利な乗り物なんだな、アレ。短距離型の無料電車と変わらないと思った。しかしサンシャインのぼるわけでもあるまいし、あれくらいの距離、階段使えよ・・・と思う。まぁ、サンシャインクラスでも階段使ったほうがいいと思うけどね。いい運動になるし。
エアコンが作り出した異常世界は、数年ぶりの浦島太郎的体感によってよく分かる。異常世界では“敢えて正常(普通)に暮らす事”でその実態が見えてくる。子供時代からの順当な成長だけが社会の変化を感じ取れる感性なのではない。浦島太郎になりきることで、強く感じ取れるものもたくさんある。外国生活などが、ある面で浦島太郎効果をもたらしているのは、主に文化的な面についてであるが、やり方次第で我々はこの世界を如何ようにも捉えられる。
熱中症で死人が出ているということをニュースで見かける。俺はこのことを割と真面目に受け止めている。人命が失われている事に対する驚きにではなく、もはや地球が人間の住める環境ではなくなりつつあるということに。
愛知や和歌山でも感じた事だが、日本全国どこでも暑い。そして街を歩いている人は非常に少ない。それは勿論、徒歩でチンタラ移動するわけにもいかないという時間節約的な事情もあるだろうが、歩いていて感じることは、暑過ぎてとにかく何らかの活動に対して体力を大きく消耗しすぎるという事。駅前の石のオブジェに腰掛けたときは、尻に火がつくんじゃないかと思うほど熱かったし、日向では活動のみならず、休むことにさえまともにできない。
休息のためには、よく冷えた飲み物を買って飲んだり、エアコンが効いた施設に逃げ込むのが一番手っ取り早い。しかし、問題なのはどれも人工的な休息ポイントであるということ。動物と同じ条件で、すなわち日陰で休むくらいだと、体力の消耗スピードは抑えられるものの、やはり日中外で過ごし続けるのはそれなりに疲れるものだ。
でも、エアコンなんてここ数十年の間の技術だ。エアコン無しでも暮らせない事には人間の生活上の保証なんて何も無い。その意味で、熱中症による死者は、その環境上の圧迫がどれほど人間の限界耐性に迫っているのかを教えてくれる。もっとも、殆どの現代人が動物みたいに一日中食い物と日陰だけで過ごしているわけじゃないから、全然指標としては甘いと思うんだけど。全ての施設と家屋からエアコンが消えたとき、もっともっと多くの死者が出るだろうと思う。もしそうなったとき、人間はこの地球上で生きるに相応しい生物であるといえるのだろうか。
車を効率よく走らせるためのアスファルトは裸足で歩くのが苦行ともいえるほど暑い。家屋はエアコン無しだとどこも暑い。日向でジッとしていると、それだけで体力を奪われるほど暑い。そういう苦痛を避けるために、人間は様々な文明の利器で対応していくが、アイスやビールを冷やす冷蔵庫も壊れ、食べ物の保存もままならなくなったら、いよいよ生命の危機が始まる。
俺は人間がこの暑さに参る前に、食べ物の生産への影響がかなり気になっている。暑過ぎて野菜の収穫などに影響が出たりはしないのか?動植物の生態系に変化が出てくるだろうし、もし従来通りの生産量を実現できなかった場合、食べ物の確保はどうなる?人間は建物に備え付けてあるエアコンで冷やしてやれば快適であるかもしれないが、環境や天候まではどうしようもない。ビニールハウスなどで高コスト生産をしなければいけないハメになる食べ物なども出てくるかもしれない。今は食べ物の流通も世界規模で行われているので寒い地域で採れる食べ物は北方の人に任せ、暑い地域で採れる食べ物は南方の人に任せ、貿易によって帳尻を合わせる事が出来るかもしれないが、それはあくまで楽観的な予測に過ぎない。世界規模で対応しきれるうちは大丈夫?それはとても変な理屈だ。生物は本質的には自分の活動圏内のみの環境で対応できなければ死ぬのみだ。科学や文明でその環境とやらを都合いいように(しかしツケはどこかに回して)いじくっているだけに過ぎない。この事が分からない奴は、ロビンソンクルーソーでも読めばいい。
熱中症で人がバタバタ倒れたら、ニュースはああすればいい、こうすればいいと熱中症対策を親切にも教えてくれる。しかし、それが真の対策になっているのだろうか?我々自身が熱に対抗できるよう進化しましょう、そのためにも冷暖房に頼るのをやめましょう、と言うのが本質的な議論ではないのか(そんなこと言うはずないと分かってはいるが)?アイテムを使ってどうにかこの暑い夏を乗り切りましょうなんて、後先の事を全く考えてない人間の言う事だ。ま、本当に後先の事考えてない人なら言ったっていいと思うけど。
我々は整形技術によって明日から美人に生まれ変われるくらいのことは出来るようだが、明日から熱に強い人間になるようなことは出来ない。そもそも、科学的な技術への依存は、その技術が素晴らしければ素晴らしいほど、生物的には物凄く卑怯なことをしていることになる。スポーツに何か機械文明が入ってくる事を想像したらいい。人間が目的のために科学を用いるという事は、マラソン選手が目的のためにフェラーリを使うようなものだ。スポーツ界でそういうことをしたら興ざめだが、一般市民の生活ではそういうことが許されている。許されているどころか、むしろ推奨されている。だから、スポーツ界と一般生活の乖離が著しくなる。一般生活の中で不健康になったり、肥満になったり、精神障害を患ったりといったことが多発するようになる。一般生活が科学に依存しなければしないほど、スポーツ的・・・すなわち生物的な活動へと接近することへとなる。スポーツの本質は生物的な能力の向上と挑戦である。スポーツ選手に対するリスペクトは、そういう点に普通は向けられる。だから、「機械使って達成しました」、「薬使って記録出しました」が認められないのである。
薬や機械への依存がスポーツ界では許されていないことくらい、誰でも知っているし、それがなんとなく正しい事も分かっている。けど、一般生活でもそれを許さないぞ、という論調になるとどうもついていけないようだ(無論俺は、機械製品を窓から全て放り投げろ、というような強硬派ではない。最初に自分がエアコンを使用していることを述べた)。何故?同じ人間であるのに何故分ける?スポーツ選手と一般人は根本的に何か違うから?スポーツは一般生活とは別のルールが適用されているから?こういったものは全て表面的な理由だ。本当の理由は別にある。科学、生物、社会、人間に対する哲学が無ければ理解は出来ないだろうが・・・。いや、答えを出し渋っているんじゃない、こんなことはどんな哲学書にも書いてある。本屋にこれ見よがしに陳列されている流行の啓発書でも、ちょっとは触れている。前者は難解だが深い。後者は平易に書かれてはいるがその分薄っぺらい。どちらを選ぶかはあなた次第だ。
神から見た宇宙を、人間から見たDQ5で表現してみる。
4000000年ほどDQ5を起動し続けていたら、コンピューターの学習能力かバグか何かの影響でスライムのHPが1だけ上がっていた。最初、人間はあまりそれを深刻に受け止めなかった。そうして更に10000000000年ほど放置していたら、スライムがデスピサロに進化していた。パパスと主人公の一行は港からサンタローズの村に着く事は出来ず、全ての望みは絶たれた。途方にくれていたビアンカにヘンリーが色目を使い出した。サンチョはとっくに別の主人に仕えていた。ミミックは食料が来なくて死滅していた。武器屋と宿屋は客が来ないので値下げを始めたが、そのうち営業不振で潰れた。こうした経済不況を脱却しようと各国の王は行政改革に乗り出すようになった。こうしてDQ5のルールの全ては壊れた。
しかし人間はこうも思っていた。「こういう混沌としたDQ5も面白いな」と。
最近、自分の性感覚がカントに非常に近い事を知った。やっと・・・・やっと俺の理解者が現れたか(といってももう死んでいるけど)という嬉しい気持ちでいっぱいだ。
ところが、よくよく見てみるとカントより更に俺のほうが若干厳密でさえあるような気がしてきた。
ハーバード大教授、マイケル・サンデルの著書においてこんな記述がある。
カントが行きずりのセックスを好ましくないと考えるのは、それが相手の人間性を尊重するのではなく、単に性欲を満たすための行為だからだ。
男性が女性に欲望を向けるのは、彼女が人間だからではなく女性だからだ。その男性にとって彼女が人間であるという事実はどうでもよい。彼女の性別だけが彼の欲望の対象なのだ。
行きずりのセックスは、たとえ当事者同士が満足していたとしても、「お互いに相手の人間としての性質を汚している。二人は人間性を自らの劣情と傾向性を満足させるための道具に貶めているのだ」
性道徳をめぐる現代の議論において、自律の権利を訴えている人々は、自分の肉体をどう使うかは自分で自由に決められるべきだと主張している。しかし、カントの言う自律は、そのような意味ではない。
(中略)
自分を含めたあらゆる人格を、単なる手段ではなく、それ自体を究極目的として尊重する事を求める。カントにとって、自律的な行動とは自分自身を尊重し、物扱いしないことだ。自分の肉体だからと言って、好き勝手には出来ないのである。
カントの時代には臓器移植市場は一般的ではなかったが、当時でも金持ちは貧しい者から移植用の歯を買っていた。この慣習は人間の尊厳を侵害するものだとカントは考えていた。人間には「肉体の一部を売る権利は無い。たとえ一本の歯でも」それは自分を物として、ただの手段として、利益をもたらす道具として扱う事だ。
カントは同じ理由から売春も好ましくないと考えていた。「他者の性欲を満たすために自分の人格が営利目的で利用されるのを許すこと、すなわち自らを要求の対象とすることは、自分を他者の欲望を満たすための物とすることだ。まるで飢えを満たすステーキのように」
人間には「他者の性的嗜好を満たすための物として、自らを営利目的で供する権利は無い」
カントは夫婦間のセックスだけが「人間性を貶める」のを避けられると結論している。二人の人間が性的能力を利用するためだけでなく、自分の全て捧げ合うことによって初めて、セックスは相手を物扱いする以上の行為になる。パートナーである二人が、「人格も肉体も魂も、良いところも悪いところも全て」共有してはじめて、性行為は「人間同士の結びつき」になりうるのだ。カントは全ての結婚がこの結びつきに至るとは言っていない。
カントの性道徳はこのように、現代社会ではちょっと受け入れがたい主張を展開している。でも、受け入れ難い人というのは、「な~に、固い事言ってんの。もっと緩くいこうよ」と思っている人だけだろう。カントと限りなく近い考えの俺には全くナンセンスに聞こえない。カント並の過激派である俺(「過激派」という表現も相対的なものだ。一般的な日本人から見れば俺は性倫理の過激派に見えるかもしれないが、俺から見れば一般人がセックス過激派だ)は更に色々付け加えたい事もあるけど、原書をまだ読んでないので結論は差し控える。『純粋理性批判』を読んでいる限りではまだ性道徳の話は出てこないのだが・・・もしかすると別の本かもしれないな。カントの『永遠平和のために』は物凄く短いけど、とても良い本なのでオススメ。