凝然大徳 『八宗綱要』
小室直樹 『天皇の原理』
一般論として、大きな仕事をしてきた人物を観察してみますと、最初、そのシステムのなかでは簡単に認められないで、方向を模索するということがあるみたいですね。
天才というものは、どうしても自分を決まった軌道に乗せられないんじゃないかな。あまり疑いも無く軽くサッと乗ってしまえたら、それはそれで結構で、順調に一生を終わったらそれでいいけれども、天才というのは、そういうものではないんじゃないでしょうか。本来どうしても既定の軌道に乗れぬ、悪く言えば自我が強すぎるということになりますね。
いま弘法大師の10年の雌伏期を考えてみますと、ショート・ディスタンスにおける打算家でないということは、明確ですね。自分の思っていることを、合理的に最短距離を通って効率よく社会化してゆき、できるだけ早く出世階段を昇ろう、などというようなところは全然ない。
大天才というのは、打算をもって自分の欲望だけにふりまわれていてはできない才能ですね。そういう自己を離れ、かつ自己のもっているものを客観化して、社会的な有用な価値にまで仕上げてゆく。それには自分の欲望を突き放したところがどこかになければならぬ。
やはり学問というものは、直接実社会的利益と深い交流をし過ぎてはいけない、そういうところでは、本当の学問は完成しにくいという、そこに気付いておったと思うんですがね。
非常に優れたものというのは、技巧が見えなくなるということですね。
まぁ私は啄木ほど不幸せな人間ではないから、全然比較はできませんし、啄木と同定はできませんけれども、しかし、この世の中というのは、思うようにならんことが多い。一つすんだら、また面倒なことがぞろぞろ出てきて、なかなか思うようにならぬ。他の人を見ても、誰も思うようになっている人はいないという世の中である。だから、そういう悲しみみたいなものをもっている文学でないと訴えてこないわけや。
同時代の批判というものは、太陽を覗くレンズも、眼に見えぬ虫の動きを見せるレンズも、同じように素晴らしいものだという事実を認めないからであり、また、賎しい生活の中から取りあげた画面に光彩を添えて、それを創造の珠玉にまで高めるためには、精神的な深さが非常に重要であることを認めないからである。
我々は皆、多少なりとも何かを利用している・・・或る者は、官有林を利用し、或る者は会計の剰余金を着服する。また或る者は、旅回りの女役者に入れあげるため、自分の子供の物まで盗み、或る者は、ガムブスの家具だとか馬車を買うために、百姓から搾取する。さればとて、値段の滅法高い料理店だの、仮装舞踏会だの、行楽だの、ジプシー女とのダンスだのといった、いろんな誘惑がこう世間にザラにあっては、それも何とも仕方がない。どちらを向いても、みんなが同じことをやっており、それが流行りだしたとしたら、ちょっと己れを制することは難しかろう・・・・その自制が出来たら大したものだ!
ゴーゴリ『死せる魂』より
やはり天才的な才能に恵まれた人物というものは、この前の、啄木の場合にも同じことを言いましたけれども、なんらかの意味で時代に先んじるために、その感受性の鋭さが、当人の立場から申しますと、逆に自らをしめつけている、というような感じがいたしますがね。
一つの問題を徹底的に考えぬいていく。どうしてそんなことができるのか、やはりそこで多少とりつかれた状態になっていくわけですよね。
(ニュートンの万有引力や運動法則のように)そういうことは徹底的に、しかも持続的に考えたあげく出てくることですが、なにが彼をそういうふうに動かしているのかといいますと、私の非常に独断的な説ですけれども、神さんだと思います。
第一級のクリエイションとか、クリエイティヴの発現ということは、どうも多くの者とワイワイ仲良く協調してやれるようなものではない。なにか他にあるものを拒否し、そして自らはある種の精神的孤高を守り、一人で沈思黙考する、というようなことが、どこかで深く関わっていないと出来ない・・・。
若いうちに、ある時期になったら、人からなにかをやらされて、他律的に学ぶということではなくて、自律的に、したがって独学的にやる。そういう時期を通らなければ、やはりいかんのやと思いますね。
やはり繰り返しということでもあると思うんです。昨日も駄目だった、今日も駄目だったと繰り返し繰り返しやっているうちに、なにか飛躍のチャンスが訪れるということは、これは明らかにあることであってね。
それは一言で表しますと、自分をもはや意識的にコントロールできないような状況にまでいかんとあかんということだと思いますね。ある人が自分を一生見事にコントロールし続けたら、それはそれなりに立派ですけれども、それだけでは常人以上の仕事はできない。一生のどこかで自分をコントロールできんような状況に何度かなるわけです。
「自分が死ぬまでは世に出ないように隠しておきたい。なぜなら、人間は、新しいことは何も発表すまいと決心するか、でなければ、それを弁護するための奴隷になるか、どちらかだということが分かったから・・・」
byニュートン
私はその気持ちはものすごくよく分かります。
やはり創造的な仕事をした人というのは、それに全てを賭けているので、あまり安易に、俗世間的な感じの妥協はしない。
私は外国の物理学者にも知人が多いから、よく知っておりますけれども、日本以外の国の人たちで、テレたり恥ずかしがったりする人にめったに出会わないんです。たまにはありますが、非常に少ない。むしろたいして独創的でもない考えを、なんで偉そうに主張してばかりいるのか、不思議に感じることが多い。ぼくは必ずしも悪口をいうているわけじゃないんですけれども、なにか自己主張をもっておりまして、こっちがそれを聞いて受け入れると、ものすごく喜ぶわけや。ところが、日本というのは非常に例外でして、むしろ、どうぞいうてくださいといわなければ自分の主張をいわぬ。勝手に先に言い出したりしたら、あれはあほなやつやといわれる。今はとにかく、戦前はそうだったわけです。その点で日本は非常に例外的だったわけですよ。
あるときニュートンは、友人にユークリッド幾何学の本を貸した。そしてその友人に、今あなたはどこまで読んでいるか、その本をどう思っているかと質問したわけですね。するとくだんの友人は、ニュートンに向かって、一体あのような勉強があなたの生活に、なんの役に立ち、どんな利益があるのかと聞いた。そうすると、ニュートンはたいへん大声をあげて笑いとばして、非常に嬉しそうにしたというんですけれども、これはやはり、逸話としては大変面白い。私にもこのときのニュートンの嬉しさが存分に分かるんですがね。
一生多数意見みたいなことだけいうている人は、決して創造者というものではない。まして、天才でもあり得ないことは自明です。
好き嫌いというものは、一生の間に相当変わりますな。私自身反省してみましても、わりあい変わっていますよ。それがひとつも変わらへんというのは、成長しておらんということじゃないかと思う。
今年の締めくくりとして、この本から、印象深かった言葉を紹介したいと思います。
俺は、この本を読んで、ベートーヴェンをより一層好きになった。
立派な高潔な行動をする人は誰でも、ただそれだけで不幸に堪えうるものだということを、私は証明したいと思います。
思想あるいは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。心によって偉大であった人々だけを、私は英雄と呼ぶのである。
私は善良さ以外には優越さの証拠を認めない。性格が偉大でないところには、偉人はない。偉大な芸術家も、偉大な行動家もない。そこにあるものは、卑しい大衆のための空虚な偶像だけである。成功は我々にとっていっこうに重大なことではない。問題は偉大であることであって、偉大らしく見えることではない。
出来るだけの善を行うこと、何にもまして自由を愛すること、そして、たとえ王座のためであろうと、決して真理を裏切らないこと。
ぼくの芸術は貧しい人々の幸福のためにささげられねばならぬ。
へつらいよりも死を、屈従よりも貧しさを愛する、自由なる魂こそ必要なり・・・しかして我が魂は、かかる魂の最後のものにあらざることを知りたまえ。
人間はまだ何か善行をすることができる限りは自ら進んで人生から去ってはならぬ、という言葉をどこかで読んでいなかったら、僕はもうとっくにこの世にはいなかったであろう・・・もちろん自分自身の手によって。
生活の愚かな瑣事を常におまえの芸術のために犠牲にせよ、犠牲にせよ!
自分の芸術によって、不幸な人類のために、未来の人類のために働き、人類のために尽くし、人類に勇気を与え、その眠りを揺り覚まし、その卑怯を鞭打つ。
私は辛抱しながら考える。あらゆる不幸は何かしらいいものを伴ってくると。
苦悩を通って歓喜へ!
不幸な人は、自分と同じような一人の不幸な人間が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、芸術家や選ばれた人間の列に入れて貰うために全力を尽くしたことを知って、自分を慰めるがいい。
いっそう美しいもののためならば、どんな規則でも破り得る。
(批評について)あんな馬鹿な連中には、勝手にしゃべらせておくほか仕方がない。彼らのおしゃべりは決して誰をも不滅の人にはしないであろう。同時にまた、それは、アポロが不滅性を与えた人々から不滅性を取り上げることは出来ないであろう。
アポロ:アポロンのラテン語形。音楽、詩歌、弓術、予言、医術、家畜の神。
<人生観、世界観を揺るがした本>
『ブラック・スワン』
ナシーム・ニコラス・タレブ
『利己的な遺伝子』
リチャード・ドーキンス
『夢の精神分析』
エーリッヒ・フロム
『自由からの逃走』の作者としても知られる、有名な心理学者。夢の研究というと、他の人間分析と比べてどこかいい加減な印象を受けるが、全くそんなことは無かった。逆に、「夢の中で父親が出てくる、これはどういうことか」「自宅が燃えている、これはどういうことか」「自分は何故か○○を持っている、これは何を意味しているのか」など、細かい動作、事象を徹底的に解明しようとする極めてプロフェッショナルな仕事だった。本の後半で、前半部で行った夢分析を基に、フロムは自身の世界観や小説・神話の解釈について語ってくれるのだが、これが本当に見事なのだ。ハッキリいって、そこらの批評家とは格が違う。
無意図的に生み出される夢さえも分析してしまう夢分析家にとって、人間が意図的に作り出したストーリーの解釈など、造作も無い事だった。ステージの違う次元から世界を語る彼の鋭い指摘は、必然的に僕の世界観を揺るがした。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
マックス・ウェーバー
『致命的な思い上がり』
フリードリヒ・ハイエク
『ユニバーサル・ライブラリー』
クルト・ラスヴィッツ
これは、内容というよりも、発想に感動した本。量としてはたったの7ページしかない短編小説だ(とはいえ、小説に量なんて関係ないのかもしれない。世界史にも出てくるほど有名な書、魯迅の『狂人日記』も16ページしかない)。しかし、凄まじい衝撃を残してくれた。僕の中で「量より質」の決定版ともいえる本。読もうと思っても、ドイツの古い作家の残した作品であるためか入手は非常に困難。絶版である世界SF大全集に掲載されている事を何とか突き止め、国会図書館まで出向いてやっと読むことが出来た。
この小説を題材にした面白そうな物語の構想も出来たし、個人的に煮詰めたいアイディアの源泉になった。ちなみに、ユニバーサル・ライブラリーってこの宇宙におさまらないほどデカイ図書館です。何故なら、“あらゆる文字配列の本”が置いてある図書館だから。『論語』や『聖書』、『アンネの日記』など、過去の本はいうに及ばず、10年後のノーベル賞の論文も置いてあるし、2011年に一番売れた本も置いてあります。ついでに、あなたの伝記も、日記帳も全てそこに置いてあります。文字情報である以上、どんな本もそこには既にあります。『人類最後の日の記録』も、『タイムマシンの設計図』も『地球外生命体の知能と科学力』という本も、そこには置いてあります。
しかし、あまりにも膨大な量なので、館長以外、どの本がどこにあるのかを知る術がありません。ついでに、広過ぎるので目当ての本を取りに行くために、図書館司書が光速で移動しても何年もかかります。ユニバーサル・ライブラリーとはそういう場なので、図書館の全貌を知る唯一の人物、館長がこの図書館の利用者の対応と配慮にあたります。館長の存在と設定は、僕が勝手に付け足しました。
<上記ほどではないが、大きな影響を与えた本>
『わたしの非暴力』
マハトマ・ガンジー(ちなみに、マハトマとは偉大なるという意味)
『フェルマーの最終定理』
サイモン・シン
『断絶の時代』
ピーター・F・ドラッカー
『古代への情熱』
ハインリヒ・シュリーマン
『戦争と平和』
ヘルマン・ヘッセ
更に、これらのリストのどこかにカントとゲーテが入る予感。最近、読んでいて面白い。
新書や日本人の書いたもので「こいつはやべぇぇぇぇぇぇ!」と思えるほどのものがなかなかないのが残念なところ。まぁ、単にあまり読んでないだけ、という理由によるものだろうと思いますが。とりあえず、万葉集や夏目漱石、福沢諭吉など、超有名どころから攻めて行こうかと。流行的な本は、面白いんだけど残らない。最近は、俺の中で西郷隆盛の株が結構上がってきている。毎週欠かさずマンガ日本の歴史を購読しているおかげで。アレ小学生向けの本なんだけど、こうやって洗脳されそうなほど面白い♪
日本の本でも、虫歯、重力、女性の研究など独自の路線をガッツリやっている人の話は結構印象に残る。日本人の面白いところは、別に有名人や著名人でなくても、勉強になる濃い人がそこらにたくさんいること。ま~実はそれは外国でも変わらないんだけど(たとえば去年フランスでお世話になった人の、フランス人の旦那は肩書きはただの「肉屋」だが、サルコジの大統領就任パーティに呼ばれるほどの凄い人だ。)、日本人同士だと会話が出来るから、そういう点が分かりやすいだけのことかな。
最近は、中国人と韓国人の知識人層に関心がある。中国や韓国は、日本から見て恐らく経済や、ニュースになるようなタイプの人の話しか知らなくて、個人としての中国人、韓国人がどれだけ凄いかを結構見落としていると思う。特に日本人ほど娯楽に没頭していないタイプの人は、その分、別の事にエネルギーを注いでいる事もあって、様々な点で参考になるところを持っている。
面白いジャンルとしては、他に神話関係。それと、イスラムの文化・科学にも興味がこのところ強い。更に、暗号に興味を持ち始めたら>SFに興味を持つ>アルゼンチン文学に興味を持つようになる、などという自分でもよく分からない方向性に走ってしまっている。暗号というジャンルも相当面白い。数学的な面白さも勿論あるんだけど、分かっている事を人為的に分からなくする行為としての面白さもある。
ロボット工学なんかも面白いよね。蕎麦屋の主人が独学でロボットを作っている話がTVでやってたけど、アレには感心・・・を通り越して尊敬を覚えた。
ここで挙げた本は、ここ3年やそこらの間に読んだ本がほとんどなので、これからはもっともっとリストが充実していくだろうと思う。それが非常に楽しみでならない。
実は、先日愛知県の教員採用試験を受けに行って、当日に中学生でもしないようなミスをふたつもしてしまったのだが、前日に『夢の精神分析』を新幹線の中で丁度読み終えていたおかげで、幸か不幸か心は非常に充実していた。スリッパ忘れて、靴下でトイレに入るハメになっても心はハッピー。一次試験でグループ面接するというスケジュールを(ろくに予定を確認しなかったせいで)完全に見逃していたにもかかわらず、心は充実。
人間観、世界観を昨日揺るがされたばかりの人間にとって、こんなことは屁のカッパ。「あ、愛知の試験場はスリッパ必要だったの?やっべ!オレ忘れちゃった。しかも面接も今日やるの?靴下一丁で面接官と対峙?髭も剃ってないし、アララ、困ったわね~。でも、今は気分が良すぎて、そんなんど~でもいいわwそれにしても、フロムはすげぇなぁ・・・・」こういう状態にまでさせてくれるのが、素晴らしい本というものだよ・・・。オレより、大学院に行っている身なりの良い青年の方がやたら緊張していたのが、面白かった。筋からいえば、無様な醜態晒して面接に臨んでいるオレの方が緊張してしかるべきだろ?世の中ってよく分からんもんだね。「なんかスリッパも履いてない馬鹿がいるw」とか笑い飛ばして、リラックスすりゃ良かったのに、彼は自分のことで頭がいっぱいだったようで、そんな余裕すら無かったようだ。面接官もオレの足元をガン見してたし、明らかにその場ではオレが一番のピエロだったのに。
世界が充実してくると、個人的なつまらないミスが本当にどうでも良くなる。どうせ、来年になれば大抵の事は笑い話になる。
最近ブログで「僕」という一人称をわざと使うようにした。まぁ目上の人と話すとき用に、昔から使ってはいるのだが・・・。社会的には一人称は「私」の方が望ましいとされているが、自分としては「私」よりも「僕」の方がしっくりくる。何故か?強い自我を押さえつけるのに一番適しているから。少々自分を下げて、「僕」と言うくらいの方が冷静になれる。「私」を使うと、理性よりも形式の方に気が回ってしまう。「僕」と「オレ」以外は意識しないと出てこない一人称なので、どうも使いづらい。ま、慣れの問題かもしれないが。
原題は「Le Petit Prince」つまり、小さな王子。
日本のタイトルとちょっと違うが、外国語から日本語に訳されるとき、よくこういうことが起こる。こういう違いを発見するたび、アメリカ人のゼミの先生がこんなことを言っていたのを思い出す。
「アメリカでは、リンカーン大統領時代に起こったあの戦争を“Civil War”、つまり“内戦”というんですね。ところが、日本では“南北戦争”なんて名前が付いている!これは少しおかしいです。どう訳したら、Civil Warが南北戦争になるんでしょうか?アメリカではCivil Warと呼んでいるのだから、日本でもこの戦争を呼ぶ時は、直訳して内戦と呼ぶか、そのまま“シビルウォー”と呼んでほしいです。勝手に名称を変えるのは、あんまりよくないと思います」
南北戦争という訳が、戦争の構造を分かりやすく説明しているし、すっかりこの名称が馴染んでいる我々日本人にとっては、「別にいいじゃん、好きに呼ばせてよ」という気持ちが先行しがちだが・・・先生の主張も分からんでもないな、という気がこのときはした。
外国語をバカ正直に訳すか、前後の文章や自国の感性に合わせて意訳するかという問題は、実に微妙な問題だ。直訳は、相手国に対する配慮にはなるかもしれないが、自国民に読ませるという時は、不都合だし、分かりにくいことも多い。逆に、意訳は自国民にとっては「あ~なるほどね!」と納得を得やすいが、相手の国からは「なんだこれ!全然違うじゃん!こんなこと言ってねぇよ!」とクレームが入るかもしれない。
本のタイトルひとつにしても、星の王子さまがそうであるように、原題には「星の~」なんてどこにも書いてないのに、こういう風に全く別の名称として、諸外国に伝わったりする。『星の王子さま』というタイトル・・・・これは明らかに日本人に対する配慮から訳されたものだ。この日本バージョンのタイトルを聞いて、ウチの先生のように少し気を悪くするネイティブの人もいるかもしれない。だが、本の中身を読んでみると、このタイトルが全然ナンセンスではないことは(我々日本人には)理解できる。
自国と外国・・・訳者はどちらに対しても誠実であると俺は信じているが、実際に文章に起こすとき、こういう二者択一的な選択を迫られる事がある。この時、どちらかの国から、何らかの不満や満足の反応もあるだろう。俺個人の意見としては、悪質な意図を持って訳しているのではない限り、それを糾弾する事は避けたいと考えている。
日本人(訳者)の意図、著者の意図、外国の読み物には色々なものがつきまとう。しかし、それは確かに異質なものではあるが、尊重できるものであると思う。ある個人に対する親、師、友人、兄弟、恋人・・・それぞれの感情は異なるものであるかもしれないが、どれも人間としての尊い感情であると俺が信じるように、本の制作に関わっている人々の努力もまた同様のものであると、俺は思う。その意味で、俺は先生の意見を尊重する。
星の王子さまは子ども向けの作品らしいが、全然子ども向けとは思えないほど深い哲学書だ。
俺が子供の頃読んだはずなのに、サッパリ覚えてない理由が分かった。難しすぎて「何いってんのか分かんねぇ」と放り投げたんだ、多分。勿論、今は激しい勢いで理解できるがw
しかしこれは、冒頭の文にもあるように、少年の気持ちを持っている大人じゃないと、真の共感は出来ないかもしれない。賢い子どもなら理解できるのかも知れないけど、俺みたいなクソガキにはハードルが高すぎた。今でこそ、俺も深く共感できた話ではあったが、作者の意図をどこまで汲み取っているかは、正確には分からない。
この本をひとりのおとなに捧げた事を、子どもたちには許してほしい。だが、僕には確かな言い訳があるのだ。その大人は、僕がこの世で得た最良の友人なんだ。もう一つ別の言い訳もある。その大人は全てを、たとえそれが子ども向けの本であっても理解できる人なんだ。それに、僕には三つ目の言い訳もある。その大人は、今フランスに住んでいて、飢えと寒さに苦しんでいる。彼にはどうしても慰めが必要なんだ。これで言い訳がまだ充分でないなら、この大人も昔は子どもだったのだから、その子どもに僕はこの本を捧げたいと思う。どんな大人たちも、初めは子どもだったのだ(ただ、それを覚えている人はほとんどいない)。だから、僕は献辞を次のように訂正しよう。
小さな少年だった頃のレオン・ウェルトに
レオン・ウェルトというのは、著者の幼少からの友人。これは、第二次大戦によってアメリカに亡命した著者が、ナチス占領下にあったフランスにいる友人を心配し、綴った内容だと言われている。
そして、俺が一番言いたかったことを、ある星の王様が言ってくれた。
「他人を裁くより自分自身を裁く方が難しいからな。もし、お前が自分を公平に裁くことができれば、それはお前が真の賢者だということじゃ。」
何故人が自分に対して正直でありたいと・・・誠実でありたいと思うか?誇りを持って生きようと願うか?俺は王様のこの指摘に、その答えが隠されていると思う。
誇りのために、あるいは誠実であるために、人はあえて無益なことや不利益な事にも身を投じる。そして、我々は客観的にもそれが、人間として価値ある行為であることを認める。それは、彼・彼女らの内に、自分の身の処遇を極めて正しく裁いている・・・そんな高潔な精神を見出したからだと思われる。
俺は人を断じるとき、その瞬間、自分もまた何者かに試されているという感覚が襲う。俺は結局、利己的で、少ない知識で、未熟なままの人間性で、人を得意気に語っている。人の素性を語れるほど、自分は自分の素性さえも明確には把握しきれてはいない。それは、この王様が言うように、賢者の如き、自分を公平に裁くことが出来ていないことからも明らかだ。
個人的に俺に足りないものとして・・・“使命感”があると思う。つまり、「使命」という言葉にあるように“命を何のために使うか”という、恐ろしいまでに強い意志力。「俺は俺のために生きている」としか感じられないうちは、俺はずっと半人前だと思う。対象を探してはいるのだが、「これだ!」というものには未だ出会っていない。まぁ普通は、結婚相手や子どもに見出すんだろうなぁ・・・。
この本の読書感想文でも書きましょうかね。
まず、最初に言うべきことは・・・・
間違えた
『恋愛(れんあい)小説集』だと思って借りたんだよ。たまにはこういうジャンルを読みたいな~と思って。ところがコレ、『変愛(へんあい)小説集』だったんだよ!
最初の話を読んでみたら、何か一人の男だか女だか分からない人が(性別が分からないように、作者がわざとそう意図したらしい)、他人の庭に生えていた何の変哲もない一本の木に惚れ込んでしまい、同棲している相方と相談して、木をかっぱらおうと画策して・・・・と、何やら「????」な成り行きだったので、タイトルを確認してみたんだ。そしたら・・・・・。
「これ、恋愛小説じゃね~し!」と気付いた次第だ。
まぁ完全に自分の選択ミスだったわけだが、こういう変態も嫌いじゃないよ、僕は、うん、と度量の広さを示して、読み進めていったわけだ。
ま~、「変愛」などという聞いた事もない言葉を使っているだけあって、確かにクレイジーな話が多いんですわ。でもそれが刺激的でなかなか面白かったのです。
本を返してしまったので、おぼろげに思い出しながら書きます。
2つめの話、「僕らが天王星に着くころ」で、『変愛小説集』はいよいよ本格的に変になってくる。
これは、人類の皮膚が足のつま先から段々と宇宙服化していってしまうという奇病が発生し、数日後には体全体が宇宙服に包まれ、そうなった人は体が浮き、宇宙に放り投げられてしまうという話。で、目的地はタイトル通り、どうやら天王星らしい。
主な登場人物はモリーとジャックという二人のカップル。二人は、飛行機の中から、既に宇宙服化した人々が窓の外の向こうで集団となって上昇していく姿を眺めている。このシーンは想像するだけで、色んな意味でゾクゾクした。
暫くして、例に漏れず、二人の皮膚も宇宙服化し始める。宇宙服化は個人差があり、始まる時期が人によって違う。最初に宇宙服化し始めたのはモリーの方。二人でこれからどうするかを相談する。
建物の中に留まって、浮上を止めようかと考えるが、刑務所の中の囚人が宇宙服化し、天井で圧迫死したという話を聞いて、それは無理だという結論が出る(というかそういう設定)。
モリーは世界規模で起こるこの現象に対して、こんなことを言う。
「わたしは、人類は神様が水槽の水を慣らすためにとりあえず地球に入れた安物の熱帯魚だっていう説が好きね」
「そろそろ神様が何か別の綺麗で珍しい生き物を入れたくなって、私達はポイされるってわけ」
なかなか意味深な事を言うw
モリーがとうとう首のあたりまで宇宙服化したが、一方ジャックはまだ足までしか宇宙服化していない。このままでは二人は引き離されてしまう。
とうとうモリーが浮き上がる日が来た。ジャックは犬小屋のチェーンなどを利用して彼女を地球に留めようとするが、最終的には彼女は空へと舞い上がってしまう。
数日後、浮き上がる日が来たジャックは、消火器を携え、宇宙へと飛び立つ。ジャックはモリーに追いつくべく、宇宙空間で消火器を噴射して、話は終わる。
「丸呑みは」更にクレイジー系だ。
ある女性が、好意を寄せている男を丸呑みして、腹の中で飼うという話。原理などお構いなしに、男は腹の中で生活し、会話もする。
「お母さん攻略法」は、わずか5ページの短編ながら、ディープ。
母親と真剣交際しろ、ということを熱烈に語った文章がこれでもかという濃い内容で綴ってある。
ハッキリ言って大笑いするレベルなのだが、あまりにも真面目に、かつ何故か説得力のある仕上がりになっているので、思考の叩き台としても楽しめる。マザコン全肯定決定版。
「リアル・ドール」は、ある男の子と動物のように動く妹のバービー人形とのストーリー。一応妹も加わって奇妙な三角関係みたいに話は進む。
生命のある人形という発想は、ドラえもんでもよくあるネタだし、アイディア自体に斬新さは無い。しかし、西洋らしいというか、女性らしいというか、話の展開は色々とお下品で破天荒。
バービーのボーイフレンドであるケンと首と胴体を交換して楽しんだり、バービーが性的に誘惑してきて「ファックして」などと言ってくる。イヤ~ン、ばか~ん、エッチ~!
「母たちの島」は色々と示唆的な話。子ども、母親、男という基本的なものの存在、心理、意義などを考えさせられた。
ある、大陸から離れた場所にある孤島が舞台。大陸との戦争で島の男たちは一人残らず戦争に出征してしまい、島は女だけとなる。暫くして、見慣れない男たちが島に上陸してくる。男たちは何者か分からない。もしかしたら大陸(つまり敵国)の男かもしれない。
この後、島で何が起きたかはよく分からない。具体的な描写をわざとしていない。ただ、暫くして男たちは島から去り、女たちの腹が次第に大きくなっていった、ということだけだった。
数年後、島には女たちの子どもがはしゃいで遊んでいた。大人の男がいないせいか、子どもたちには女であっても「マイケル」だとか「ジョー」といった男の名前があてがわれていた。子どもたちの中には男の子も数人いた。
女の子たちは、自分たちは愛し合っていた両親から生まれた子で、いつの日か父親たちがこの島に帰ってくると信じていた。彼女たちは、母親から父親はいい人だったと皆聞かされていたので、女の子たちはすっかり大人の男の空想に夢中だった。
ある日、一人の大人の男が島の裏側に漂流しているのを、ある子どもが見つけた。女の子たちは協力して男を小屋にかくまい、待ちわびた男を大いに歓迎した。彼女たちは皆一様に「この人は私の父親よ!」「何言ってんの!どう見ても私にそっくりじゃない!私の父さんよ!」と主張しあい、男をめぐって口論になった。
埒が明かないので、話し合いは一旦中断されたが、父親論争はその後も続いた。日が経つにつれ、主人公の女の子ジョーはある異変に気付いた。女の子が一人一人別々に小屋に通い、男と小屋の中で何かしているらしいという事情を知る。
かつて引っ込み思案だった女の子も、男が来てからは快活になり、いつも嬉しそうに彼の話をしていた。そして、更なる変化が少女たちの間で起こる。女の子たちのお腹が膨らみ始めたのだ。ジョーとその親友マイケル(たしかマイケルという名の子(♀))は、肉体関係を持っていなかったので、妊娠はしなかったが、妊娠した子たちは、ジョーとマイケルを、女としてリードしたというような、勝ち誇った顔をしていた。
男は小屋から一歩も動いていなかったので(女の子たちが食べ物を運んでいた)、どんどん巨体化し、女の子たちがあらかた孕んだ頃には、みっともないデブになっていた(ジョー視点。「なんでこんな醜い男を最初、父さんだなんて思ったんだろう」とある種の嫌悪感を持つまでに至る)。
こうした出来事に、ジョーとマイケルが加わらなかったのは、男の子から聞かされていた、ある話が引っかかっていたからだった。
女の子たちは、自分たちが父親と母親が愛し合った結晶だと信じていた。しかし、ある晩、島の男の子がそれを真っ向から否定する話をジョーとマイケルの二人に語る。母さんたちは、他所から来た男たちに襲われたんだ!当時、島には女たちしかいなかった。女だけで男に抵抗できるわけが無いだろう!母さんたちは、望まない子を産んだんだよ!男の子はこう言った。
彼女たちには、信じられないし、信じたくない話だった。「そんなの嘘よ!私は信じない!」女の子は力いっぱい否定する。しかし、結果としてこの話は二人の心を乱し、そのため彼女たちは男に対して、また父親という存在に初めて疑念を抱く事となる。ジョーはその後、母親に、勇気を振り絞って事実を確認する。「母さんは父さんを愛していた?」「ええもちろんよ」との返事。
そして、ジョーは今までの出来事を話す。実は男が漂流してきていて、小屋にかくまっていること、そして、島の女の子たちが、男の子どもを宿しているということ。
ここからの話が、(多分わざと)分かりにくくなっている。
女の子から事情を聞いた母親たちは各々、手にソフトボールくらいの石を握り締めつつ、皆で小屋へ向う。翌朝、男の姿は小屋から消えていた。終わり。
なんか不気味。でも色んな事を考えさせられた話だった。
どうも、全て女性の作家が書いたものらしいんだが、つくづく、女性の発想は面白いなぁと思う。この本一冊読んだだけで、海外の女性が書いた小説、これからの狙い目かもしれない、と興味が湧いてきちゃいました。
俺がこの本を月間TOP5に選んだ理由は、随分と奇抜な事考えるもんだなぁ、と感心したから。個人的に、会話の内容、着想など、色々学べる点が多かったので。
『おもいやりの経済(The Economics of Compassion)』
『専門馬鹿と馬鹿専門』
『正義の正体』
『コンプレックス愉快学』
『ブランド品を持っていい人、悪い人』
『<自己愛>と<依存>の精神分析 コフート心理学入門』
『チャーリー・チャップリン』
『性犯罪の心理』
『星の王子さま』
『オタクの考察』
『大学新入生に薦める101冊の本』
『ワルが教える厄介な人間のあしらい方』
『日本人を知らないアメリカ人 アメリカ人を知らない日本人』
『日本人はなぜ嘘つきになったのか』
『変愛小説集』
『となりのクレーマー』
『「不道徳」恋愛講座』
『会議はモメたほうがいい』
『わが子に「お金」をどう教えるか』
『重力が生まれる瞬間』
『中国からの留学生 ニッポン見たまま感じたまま』
『読売vs朝日 21世紀社説対決』
『恐ろしい「振り込め詐欺師」の話術』
『フィンランドの教育力 なぜ、PISAで学力世界一になったのか』
『動物たちの奇行には理由がある』
『人はどこまで残酷になれるのか』
『マンガと「戦争」』
『酒池肉林 中国の贅沢三昧』
『池上彰の「世界がわかる!」国際ニュースななめ読み』
『パーソナリティ・コード 最強のチームをつくる秘密の力』
『なぜ男は「女はバカ」と思ってしまうのか』
なんとか30冊読みました。ま~正直キツかったです。12月からはもっと勉強と娯楽の時間を増やしつつ、のんびり読んでいこうと思います。キツかったけど、ちょっとだけ読むスピード上がったかもしれない♪
TOP5(順不同)は間違いなくこの5冊です。
『重力が生まれる瞬間』
『星の王子さま』
『変愛小説集』
『動物たちの奇行には理由がある』
『なぜ男は「女はバカ」と思ってしまうのか』
それぞれ個人差や興味のあるなしによって順位が変わるところですが・・・。後で感想でも書こうと思います。特に『変愛小説集』と『なぜ男は「女はバカ」と思ってしまうのか』はあまり期待していなかっただけに、読んでビックリ感が強かった。ハッキリ言って楽しめるし、深かった。
『性犯罪の心理』は、波長が変に一致してしまい、また、してしまった自分への嫌悪感からか読んだ後軽く鬱になった。単なる猛省とも言う。この手の本は一気に読みきらないで、途中で何か別の本挟んだほうがいいかも、と思った。あんまりそういうことはしないんだけれども。
そういう意味では『人はどこまで残酷になれるのか』も結構キツかった。残酷な拷問法、処刑法、エピソードがてんこもり。ま~でも、世界史をガチでやったらいつか通る道ではあると思う。代ゼミの世界史の授業で聞かされた凄惨な事件や刑罰の話は、今もよく覚えている。
『大学新入生に薦める101冊の本』は、「本読むぜ~!」と燃えている人にはいい指南書になると思う。紹介されてる本のうち、2冊を既に読んでおり、もう2冊が今まさにこれから読もうと思ってた本だった。ひとつ、図書館で借りようか、購入しようか迷ってるんだよねぇ・・・。
ノーベル賞の話を挿入したせいで、話が予定から大幅にズレた。
ポール・クルーグマン関連の話を3連発ってのも、結構くどいかもしれない。でも、前半は批判的に、後半は肯定的な部分を取り上げたかったので、今回の話で締めることでバランスが取れるんじゃないかと思う。色々と評価できる点、参考になった点を挙げていきたいと思う。
ひとつ目は、「お前ら、ちゃんと原文読んだか?誰かの批評を鵜呑みにするなよ」といったような基本的な指摘から。
経済学もあらゆる学問と同じく、それを学ぶ子弟はいずれ減少する運命にある。偉大なる新参者には、若干の荒削りな側面があったとしても許される。もし彼の考えが当初は乱暴と思われるものでも、その洞察の斬新さが誇張されすぎていたとしても、さしたる問題ではない。磨きさえすれば、いずれ一つの体系としてまとまる。とはいえ、革新者の言葉に従いながら、その精神を誤解してしまい、その学問の主流派よりも急進的かつ独断的になる者が現われることは避けられない。そして、その教えは、広まるにつれてますます単純なものになっていく。一般常識ないしは「みんなが知っている」ことになった革新者の考えは、粗野で下手な模倣になるまで変形されていくのだ。
ケインズ経済学もこの運命をたどった。
ケインズの代表作『雇用・利子および貨幣の一般理論』はまだ読んでないから、なんともいえないが、少なくともこの主張自体は的を得ていると思う。マルクス経済学、キリスト教、イスラム教など、今日、誰もが聞いたことあるモノにある程度深く触れたとき、事前の印象と全く同じ認識を持ったものはひとつも無かった。
あるアニメオタクの人が「涼宮ハルヒの憂鬱?あんなん、俺クラスになれば、見なくても分かる。涼宮ハルヒが憂鬱になる話なんだろw?」と言っていたが、このギャグを色々な分野においてガチでやっちゃってるのが、我々一般市民なのだよ・・・・。
まぁ何にせよ案外、伝聞とイメージだけで、その物事に精通したような気になっちゃうのが、現代人のよくないところだ。確認することが、難しくない範囲で可能であれば、なるべく自分の手で再確認するべきなのだが、スピーディなやり方に慣れきってしまうと、こういう作業が原始的で、非効率的で、鬱陶しくさえ思うことがある。しかし、こういった不誠実な対応は、クルーグマンが指摘する通り、粗野で下手な模倣を生み出すことになるだろう。自戒の意味でも、この点は留意しておくべきかなと思った。
サプライサイド・エコノミックスに対する批判も正当なものであるように思われる。サプライサイド・エコノミックスとは、直訳すれば供給(面重視の)経済学。供給、つまり企業側からの供給が経済のキモであり、そのために企業減税など経営者(一般的に金持ち層)のためになる政策を重要視する考えだ。一番金を搾り取れる金持ち層を優遇するため、勿論税収は減り、政府の歳出も減る。公共部門の役割も自動的に減る。サプライサイド・エコノミックスとは(ポール・クルーグマンにいわせれば)大体こういう内容だ。クルーグマンは、そんなサプライサイド・エコノミックスをこう批判する。
結局のところ、保守派(=サプライサイド・エコノミックスを信奉するような人達)の経済学的幼稚さは左派とたいして変わらないが、裕福な人々の偏見と利害に訴える考えが強力な後ろ盾を持っていることは、この世の現実である。
なぜサプライサイド・エコノミックスは常に浮上してくるのだろうか?それはおそらく、金本位制への信仰とも共通する二つの特徴のためだろう。つまり、サプライサイド・エコノミックスは、非常に裕福な人々の偏見に訴え、そしてあまり知的でない人々に自信を与えるからである。
あまり知的でない人々に魅力があるというのも、想像以上に重要な点である。経済は生活全般に影響するため、誰でも意見を持ちたがる。だが、教科書に出てくる経済学は、専門的なので、多くの人がついていけない。そこで教科書に書かれていることは全てどうでもよく、知るべきことはほんの少しだと言われれば、どんなに安心し、気持ちが楽になるだろうか!かなりのサプライサイド派が、自分たちに都合のいいように経済史を解釈してきている。
これに類似したことは、アメリカでも日本でも、メディアがあるところならどこでも日常的に行われている。単に知的に難しいということだけでなく、専門的であったり、様々な立場が混在していてどれが正しくてどれがインチキなのか判断に困るとき、大抵はまず分かりやすいものに飛びつく。一般的にいって、何を言っているのか難しくて分からないもの、パッと見ただけでは理解できないものに対して、人はそれをあまり魅力的だとは思わない。そこで、その代わりということで、いつの時代も安易で分かりやすいものが注目を浴びる。
「分かりやすさ」は、解釈を好き勝手にして良いという前提の下でなら、いくらでも向上させられるし、演出させられる。ただし、好き勝手であるがゆえに、信頼性や正しさなどといったものは皆無だ。しかしそれでも、分かりやすさは何より魅力的だ。何かを分かる、理解するということは、それだけで自分の自信や、その他自己肯定的な感覚を昂ぶらせてくれる。この快感を無視したり、否定したり、疑ったりするのは容易ではない。人が騙されるときというのは、この感覚に完全に支配されているときと言っていいと思う。
懐疑的であることが時に肯定されるのは、こういう状態に陥ったとき、最後の砦として思考のミスリードを防ぐ役割を果たすからといえる。しかし、人間は懐疑的であることと、信用しがちになるという2つの特徴をフェアに用いているというよりは、むしろ偏りを持って使い分けている。ある人が言ったことには物凄く懐疑的になり、ある人が言ったことは割とすんなり納得してしまう。こういう選り好みは、人間であるから多少あることは仕方ないにせよ、これを正当化しだすとタチが悪くなる。
俺は思う。懐疑的であることと、信頼すること、これを限りなくフェアに用いてるということが、正しい情報リテラシーを身につけるということに繋がるのではないか?と。
最近、小泉構造改革を評価(=肯定)している本と、恋愛において一番重要なファクターは顔であるということを説いている本を探しているんだけど、なかなか出会わない。『人は見た目が9割』とかいう本が有名だが、コレが後者のテーマに当たるのかな・・・?アマゾンのレビューを見る限り、あまり評判が良くないようだが・・・・。
ここのところ、日本人が書く本の内容のど~でもよさにウンザリしている。ま~図書館でタイトルチラ見する程度の安易な選び方をしているせいかもしれないが・・・。埋もれた名作・傑作があるのでは?と期待して色々漁ってはいるが、どうにも不作ですねぇ・・・・。その場で「お、これは・・・・」と思ったものは大抵外す(=あまり面白くない)。まるで、「人は自分のお金の使い道を考えるとき、最も真剣に考える」の法則が働いているようだ。まぁ・・・図書館は無料だから、確かにお気楽気分や「万が一、つまんなくてもいいや」という気持ちはあるかな・・・・。
を読み終わった。最初のうちは感触が良かったのだが、読み進めるうちに「ん?・・・へ?・・・そう?・・・・・なぬぅ!?」みたいな感想へと変貌していった。全体としては4くらい賛成できたものの、6くらいは胡散臭い印象を受けた。いや、3:7くらいかもしれないな・・・。ノーベル経済学賞受賞者と知って、ますます失望した。最新の本をもう一冊くらい読んで、その後どのように考えが変化したかを知りたいと思う。
マイナス評価に繋がったのは・・・色々あるが、特に物事をモデル化することが病的といっていいほど大好きな点、そしてそれを信用し過ぎているところだ。ポール・クルーグマンは著書の中でこれでもかというほどモデル化した説明を行い、こんなことも付け加えている。
「あなたは実世界の複雑さを把握するのに、単純化されたモデルがいかに有効かを
理解することができないでいる」
単純化は俺も大好きだった。話が分かりやすくて理解がしやすく、手間もかからず、時間も取られない。こういった、誰もが喜ぶ特徴を持っている(・・・だから、こういう系統のものに騙されるわけだがw)。
何故、俺がそんな魅力的なものに対して一歩距離を置くようになったかというと、『ブラック・スワン』の警告によるものが大きい。ブラック・スワンのちょっとした補足にこんなことが書いてあった。
ケインズは不確実性に関心があって、モデルのせいでものごとが矮小な確実性に押し込められてしまうと不満を述べている。
ケインズという大物の意見ということもあって、気になったのだろう。俺はこの指摘をよく覚えていた。だからこそ、今回のクルーグマンのモデル化にやけに懐疑的になった。勿論、『ブラック・スワン』の著者ナシーム・ニコラス・タレブもその点を、かっ飛んだテンションでもって指摘している。
モデルを書く人たちは、拡張可能な変数を生み出すモデル候補の裏づけとなる理論を延々考えさせられるはめになった。(中略)理論理論、クソ理論!認識論的にそういうのは納得できない。現実を見るのに不自由な連中が売り歩く理想化されたモデルに現実の方を合わせられないからといって、なんで弁解しないといけないのだ。
モデル化は使いやすい。思考のとっかかりにもなるし、その上、人への説明に用いる際も便利だ。だから、俺も批判的な事を言いつつも、今でも単純なモデル化はよく使う。だが、モデルで出た結論をそのまま自信タップリに現実に当てはめようとしても、どこかで無視できない誤差が生じる。だから、俺はモデル化からどんなに確信的な結論を導くことができても、あくまで「予想」の域を超えないように、注意を払っている。こういう自制を働かせないと、タレブが指摘するように、現実をモデル化するというよりは、自分の生み出したモデルの方に現実を当てはめようという思考に走りがちになる。
実際、ケインズもこうした点を一番問題視しており、現実の経済や日常においては、不確実性の風がビュウビュウ吹きつけているのに、モデル化によって「こうなったらこうなる」という必然性の範疇に押し込まれてしまうことが気に食わなかったようだ。モデルの中では“不必要な風”は吹かず、道を歩いていて突然女子高生に逆ナンされたり、アルカイダの飛行機が特攻してくるような確率の低い無数の可能性はことごとく無視する。だからモデル化は、モデル化を試みた当人の予定に沿った結果しか生まれない。モデル化に問題があるとすれば、こういう点ではないかと俺は思う。
俺の考えでは・・・モデルは単純であればあるほど、つまり関係者が少なければ少ないほど確実な面は増えると思う。たとえば主体を自分だけに絞って、自分だけの利益や損失分のみを考慮するなら、モデル化は結構有効であるかもしれない。しかし、“経済”とかあらゆる人があらゆる確率の低い事象の影響下に置かれているものをモデル化して考え出すと、もう手に負えない。自分が一生のうち一度も出くわさないような出来事に、毎日誰かがどこかで出くわしている。誰かにとっては強風の日がパンチラを見れるラッキーに結びついたとしても、ある大工にとっては高所から転落してしまう原因となってしまうかもしれない。くだらない出来事として終わるものから、重大な事件にまで発展してしまうものまで、たくさんある。あらゆる事が、あらゆる可能性を持っている。そして、本来無視しても構わないような些細なきっかけさえも、前提となる人間の数が増えると、どこかで無視できないレベルにまで発展しうる。任意に選んだ100人が全員健全なら問題ないが、1000人選んだとき一人でも殺人鬼が混じっていたら問題になる。国家規模で考えたら、1000人だとか、殺人鬼一人だとか、そんなレベルでは済まなくなる。こんな世界で何をどう仮定し、予想しろというのだ?
日本の人口が1億3000万人弱だとか世界の人口が65億人強だとかいった数字を、我々は(すくなくとも俺は)過小評価しているように思う。兆とか京とか、上位の単位を知っているからなのかもしれないが、俺の感覚ではあくまで“数”としてしか見てないからだと思う。つまり、目の前に65億人いる図を想像するというよりは、1万円と同サイズの65億円紙幣が1枚置いてあるような感覚、これに近い(一応参考までに、50億の紙幣を掲載)。
数字は数字としての共通点があるから、65億人も65億円紙幣もある点では共通している。共通しているから、「そこはそう考えてもいい筈だ」と反射的に考えてしまう。何故考えてしまうかといえば、それは、65億人という“実体”が確認不可能だから。だからせめて確認可能で、最低でもイメージできるものを探る。こうして、分かった気になっていながら、実体とかけ離れた認識を抱くという、一番役に立たない感覚と理解と知識を得るはめになる。
65億人以上という膨大な人数で構成された世界においては、どんなに説得力を持った理論を展開しようと、常に見逃していた構成要素に振り回されることになる。ブルガリアの酪農家が失業の危機に瀕していることがどう関係するか?ニューヨーク証券取引所のコーヒー価格がどう関係するか?ロシアンマフィアがアフリカの紛争地域に武器輸出することがどう関係するか?中国共産党幹部が企業から賄賂を受け取ることがどう関係するか?八ツ場ダムの建設中止がどう関係するか?全部、無視しても構わない程度の影響しかないのかもしれない。でも、そんなことは誰にも分からない。例えば、ブルガリアが経済破綻し、その影響がEU全域に飛び火したとき、「ブルガリアの牛乳価格が下落したことが関係あったんじゃないか!?」と事後的に分かるのみである。
だとしても・・・それでも誰もが「俺の理論で世界は説明できるぜ」と自信満々に宣言したがっている(実際にそう思っている人もいる)。だけど、全く隙のない理論は未だに完成していない。言語学においてさえ、日本語や英語の完璧な文法が未だに無い(=分からない)と言われている、ましてや世界なんて・・・。けど・・・もし世界を説明できる完璧な理論なんてものを構築、あるいは発見した人がいたら・・・その人は神だな。神というか、ビル・ゲイツのポジションを奪うことなんて朝飯前で、一国の債務処理を順調に進めることもできるだろうし、その気になれば世界も掌握できるに違いない。待てよ・・・つ~ことは何かい?今までず~っと、不完全で怪しい理論にノーベル賞なんて与えてきたってわけ?インチキも甚だしいな・・・。
ポール・クルーグマンの本の内容からちとずれた。
色々と批判的な内容を書いたが、勿論得るものもたくさんあった。それは、彼の叡智によってもたらされたものと、逆に反面教師として得ることができたものと2種類あるが・・・・どちらも読者にとっては有益であることに変わりない。
気が変わらなければ引き続きポール・クルーグマンのお話をしようかと思います。
今日紹介したいのは、昭和33年に第1刷が発行されたというこの本。昭和33年といえば・・・・プラス25だから・・・1958年かな。ほぼ半世紀前・・・ウーム古い。古いべ?古いよな!?い~や、誰がなんと言おうと古い!
・・・・・で、この古さを十分認識した上で、以下の引用を読んでみてほしい。これを見て、どう思うよ?
群集の成員すべてが、その対象に注意を集中し、その対象を中心として心理的に一つの全体的なまとまりになると、成員のめいめいはその一体のなかに溶け込んでしまう。そのために、自我意識が薄くなり、多数の中の無名の一人、全体の中の一つの単位であるという意識が強くなる。ここに群集の“無名性”が生まれてくる。
群集は、一つの対象について共通の関心を持つようになるから、その成員の間にも連帯意識ができて、心理的な結合が生まれる。このように、元々未知の人たちが突発的、偶然的に集まってきた場合も、心理的には一体となって、共通の反応をするようになる。例えば、事故の犠牲者に対しては、共通の共感や同情が示される。群集成員の経験する一体感は孤独を忘れさせる。
群集の成員は、群集の持っている巨大な力が自分にも備わっている、あるいはそれを分け持っているという意識を持ち、自分が、巨人、スーパーマンになったような気がしてくる。このように群集の中の一人になることは弱い自分、劣等な自分を忘れさせる。現代人が好んで群衆の中に入り、群衆を作るのはその中で超人意識を味わうことができるからである。
一体感と無名性は、自我意識を薄くするから、社会生活をしている個人としての責任感も弱くなる。この無責任性は群集が無責任な行動をとる傾向をうながす。この無責任性は、多数の中の一人として、罪悪感や罰の期待を弱める。個人の場合には責任を自分一人で負わなければならない。しかし、群集の中の無名の一人としてやったことは、自分の個人的な責任ではないという心理が働き、「衆をたのむ」ヤジウマ根性に走る。さらに多数の群集として、行動した場合には、たとえその結果に、罰が加えられるとしても、その罰は多数に分散して、いわば一人当たりとしては少ないような気がする。無名性と無責任性は、普段抑制している欲求と感情とを一時的に解放して、普段はおとなしい人でも、群集の中ではちょっとしたことにも興奮(原文では昂奮。意味は同じようだ)するようになる。
このような欲求と感情の解放は、成員一人一人に起こるだけではなく、そこに興奮の交流が生まれて、たがいに強め合うようになる。このような欲求と感情の高まりは、成員の理性的なコントロールを失わせ、無批判になり判断力が弱くなって、非理性的な行動に走りやすくなる。この無批判性から群集の成員はその対象について公平な、客観的な意見を持つことができない。非理性的になった群集では、被暗示性が非常に高まって、普段は被暗示性の高くない人も、群集に入ると暗示を受けやすく、煽動に乗ることもでてくる。
群集的態度は、あやふやな無責任なものだけに、周囲の状況が変わり、有力な意見があらわれると、その方向に流される雷同性を持っている。また、マス・コミュニケーションの発達は、あらゆる出来事についての報道を、次々に断片的に送ってくるから、我々は、その内容をいちいち十分に理解する余裕がなく、群集的態度をとるほかないように仕向けられる。
群集的態度=群集成員が、偶発的なある対象に対して、客観的な根拠や合理的な考慮を払わず、その場限りでとる態度
<欲求不満>
マス・コミュニケーションと交通の発達は、今まで経験できなかった刺激を大衆に与え、それに応じて新しい欲求が開発される。しかし、その欲求は大衆の生活条件では満たされないことが多く、その不満は、代理満足によるほか満たすことができない。そのために、代理満足を提供する大衆娯楽、大量消費、月賦販売などが発達する。また、欲求不満は、しばしば乱衆行動や自殺、犯罪、不良化などの社会病理的な現象を発生させる。
<社会意識の混乱>
大衆社会では・・・・(中略)・・・・階級意識や階級的イデオロギーが希薄になり、雑多な立場や思想の同居している混乱が重なってくる。また、逃避者の意識、無目的な反抗の意識、ニヒリズム、アウト・サイダーの意識など、無思想性を特徴とする意識も濃くなる。
<不安の感情>
上記のような欲求不満からくる攻撃的な傾向が、社会環境に投射されると、それは環境の中に、なにか漠然とした不安の影を見てとる不安の感情としてあらわれる。不安の感情は、また、社会意識の混乱と動揺から、社会環境と自分との関係をはっきりととらえることができないという自我の不確実感、および自己疎外にともなう自我の無力感からもおこってくる。このような不安は、それを一時的にまぎらすための気晴らしになる大量消費、大衆娯楽への没入をうながす。また、不安は、強力な個人あるいは集団を自我に取り入れたり、あるいは同調することで解消される。たとえば、指導者の権威、国家権力、宗教的威光、流行などの取り入れ、同調である。このような不安は、結局、現在および将来の社会行動に関する自信の喪失をともない、疑い、絶望、あきらめ、ヤケなどの消極的な社会感情に導く。それは、社会行動の積極性を奪い取り、受け身で服従していこうとする社会的な無力感を強める。
<パーソナリティの分裂>
上記のような欲求・知性・感情の混乱と無力化は、パーソナリティの自我による統一を妨げるから、周囲の状況に動かされやすい、不安定で分裂したパーソナリティを作り出す。その不安定と分裂は、一時的な気晴らしや娯楽によるその場限りの解消、強力な個人と集団の取り入れによる統一、あるいは、ノイローゼ、精神病、自殺、犯罪、不良化などにかりたてる。
これらの文章を読み終わったら、最初に俺が言った事をもう一度、声を大にして言ってみましょう。
古い!!!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・と言えますか?この内容を。古いどころか、これは、まさに今の状況そのものではないですか?
この本、読めば読むほどまんま現代の説明をしているように思えてくる。この際、題名も「21世紀社会の解体新書」に変えた方がいいんじゃないか?とにかく、指摘がそのものズバリでヤバ過ぎる。おま~、どんだけ先見性あるんだよ!みなみぃ~!・・・・ま、単に人間の習性や特徴、心理なんざ、いつの時代も大して変わりませんよってことでもあるんだろうが・・・・。当時もこう、今もこう、つまりそういう事なんでしょうね。
重要箇所が多すぎて、マーカー引きまくってたら、あっという間に本は黄色く染まるわ、ペンのインクは無くなるわで、もう大変。
本当はもっと・・・・もっともっとも~~~~~~~~っと色々紹介したかったけど、引用のし過ぎもまたくどいかなと思って、これくらいでやめといた。