昨日の日記に関連して、ちょっと紹介したい新聞記事があったのでスキャンしてブログに載せようと思ったが、教育関係者が生徒・学生用のプリントを作成する場合でも無い限り、丸々掲載というのはNGらしいので、残念ながら載せることが出来なかった。
どうしよっかな~と思っていたところ・・・・ふと検索してみたら、全く同じ記事がインターネットでも見れることを知った。な~んだ、これ紙面だけじゃなく、ウェブ上でも見れる特集記事だったのか。
まぁ、それならそれである意味都合がいい。リンクを張っておきましょうかね↓
http://www.globe.asahi.com/author/090914/01_01.html
スーパーデザイナーとか言われる人がなかなか良いこと言ってます。
ペットボトルのバランスエネルギー概念、創造的プロセスとは引き算である、ポスト・グローバル、重要なモノはスローでやる必要もあるということ、文化の多様性の重要性・・・・どれもが参考になる話だった。特に最後の多様性の話は、今回の自身の海外旅行の経験と相まって強く共感できた。
と、いうのも、今回の件で俺は言語や文化、食、社会的な営みなどの各国の差異を、再思考して、何でもかんでも便利・スピーディ・快適が良いというわけでもないんだな・・・ということを思い知らされたように感じたからだ。
特に言語については、前々から世界に統一的な言語があればどれだけ良いか・・・ということを考えていた。そして、その統一的な言語という発想は、前述の便利・スピーディ・快適の概念に見事に合致している。一人ひとりが英語、フランス語、日本語、中国語、イタリア語などを学ぶ必要が無く、ひとつの言語であらゆる人間と会話が出来れば、海外のサイトもストレス無しで閲覧できるし、TVも本も見たい放題だ。旅行も会議もより効率化するだろう。そんなバラ色の社会を夢想していた。
でも、言葉ひとつひとつにこめられた、複雑で複合的な意味は、日本的な出生を辿っているとか英語圏からの出生であるとかいった、国ごとのオリジナリティに富んだ発想が重要なようにも思えてきた。アイデンティティだとかイデオロギーだとか、グローバルだとかいった単語は、一応苦しいながらも日本語に言い直して表現し、説明を加えることで大体の意味を理解することができる。でも、新たな概念の誕生と、それに対する名前付けはひとつの言語だけで行うには都合が悪いように思う。つまり、もし世界の統一言語が日本語だった場合、「性同一性」だとかいう名称、そしてそういう概念は果たして生まれただろうか?という問題だ。
単語や概念といったものは、その社会の歴史や文化とも大きく結びついている。イランには日本の「いじめ」に対応する言葉が無いというし、日本も「FREEDOM」と「LIBERTY」の違いに対応する言語は無いといった風に、諸々の違いが生じている。FREEDOMとLIBERTYは辞書を調べれば分かるが、自由は自由でも、文章や出来事の前後の関係によって分けられるという。過去に束縛的な暗示があったかどうかとか・・・そういった違いだ。と、なると日本ではその点を何らかの文章で補って説明することになる(というか、その違いなどどうでもいいものとして普通に「自由」の一言で片付けられる)。そもそも単語そのものが1人称・3人称で変化するとか単数・複数で変化するといった風に、周囲との関係性の中で変化する傾向は、日本語以外ではよく見かける。そして、日本人にはこれが非常に鬱陶しい。関係詞がwhatなのか、whoなのか、whomなのか迷ってしまうといったように。
バラバラの規格を統一させるということは、秦の始皇帝の度量衡統一、EUの通貨統合などの例でも分かるように、世の中の古臭くて煩わしい手続きを簡略化する、良き改革とされてきた。同じ理屈で、言語も何らかの形で世界統合されれば、今のようなバラバラの状態より、より良くなるように一見思える。しかし、もし言語の多様性が消滅した時、世界の思想、あるいは精神世界はグッと縮小してしまうかもしれない、と俺は思うようになった。
言葉はアイディアや思想を構築する上で、欠かせないアイテムだが、そもそもアイディアや思想は一体どこから生み出されるのか?コレ自体が未だハッキリしていない。まぁ、ひとつは「頭(=脳)」を使って考え、生み出されているのだろうが、大事な前提として、思想もアイディアも人間が生み出すのだから、人間のみがいればいいというものでもないということだ。素っ裸の人間が考える人ポーズのひとつでもかませば、オールおっけぇ~ってわけではない。
人の頭の中に考える材料が無ければ話にならない。思考という作業は徒手空拳で行われているようでいて、実際はあらゆるものが・・・それこそ実体あるのものから無きものまで、材料としてシェイクされている。そして、そこにおいては「材料の多様性」がひとつの重要なポイントになるように思う。料理の新しいレシピが食材の多様性の中から生み出されるように、アイディアや思想や解決策も多様性から生み出されるのではないだろうか。野菜だけではなく肉も、肉だけではなく魚も、魚だけではなくスパイスも・・・といった具合に、多様性は膨張の起爆剤になる。そして、その組み合わせはまさに無限だ。元素の数はベラボーに多いというわけでもないが(食材より少ないんじゃないか?w)、元素の組み合わせによって生み出されたものはベラボーに多い。この地球上にある、ありとあらゆる物質が、それらを基に生み出されている。PS3も、机も、電球も、飛行機も、チリ紙も・・・なにもかも・・・。もし、この世にひとつの元素しか存在しなかったら、俺らは生まれてなかっただろうし、地球も銀河系も生まれなかったかもしれない。そういった意味では、人類が言葉を操り始めた時、もしひとつの言語でのみ成長を続けてきていたら、今のような文明は存在しえなかったかもしれない。今だにピラミッドや神殿の建設をしていたかもしれないし、もっと酷いと、アイディア不足で絶滅してしまっていたかもしれない。無論、それは確かめようもない事だが・・・。
確かめようも無いことを、胡散臭い理屈で説明しようとするのは、俺はあまり好かない。でも、それを言ったら、現代社会で起こってる諸問題の因果関係も確かめようがないこととして扱われるかもしれない。例えば、カオス理論などを持ち出すと、インドで一羽の蝶がパタパタ飛んでいるだけで、その程度の風の変化が数年後のアメリカでの竜巻の原因になりうるという!こんなことまで言い出したら、本当の原因なんぞ、もはや人間の知るところではないといえる。う~む、どうしたらいいものか・・・。ま、カオス理論のことは別として、俺のこういうつまらん推測は一個人の適当な思いつきとして処理するに限る。人類の過去の話は別として、現代における多様性をもう少し考えてみたい。
言語の多様性は、確かにあからさまな不便さをもたらしている。どんなに素晴らしい内容の話でも中国語やドイツ語で喋られては、こちらにとっては全く何の価値もない話と化すし、書籍・TVなどのメディア媒体も本質的な役割を失ってしまう。しかし、それは異言語圏の人々同士のやりとりの際の問題であって、クリエイティブな領域においては、「パラドックス」、「インフレ」、「ヒステリー」といったような便利な名称や概念がそれぞれの分野の幅を広げてくれる。そして、これらの新しい概念を他の国の人々が活用することにより、また新たなものが生まれる可能性が広がる。今・・・なんか自然に「クリエイティブな領域においては~」と言ってしまったが、要は、これがスーパーデザイナーが重視した多様性の話とも結びつく。(良かった、偶然結びついてw)
俺は外国語が本当に苦手なので、実用面からいえば言語統一という発想は、実現すれば俺にとって最高級のサービスに違いないだろう。外人を口説くことも出来るしね♪しかしその一方で、言語の多様性がもたらすであろう、外部からの大切な視点というものにも魅力を感じている。そういった意味では言語が違うってのも悪くないかな・・・と思い始めている。つまり、言語や文化の多様性は実用面においてはコミュニケーションの流れをスロー化させるからマイナスだが、クリエイティブな面では、逆にその違いこそが長所になる。ちょっとしたジレンマですね、コレ。
長々と語りましたが・・・いやね、俺はこう見えても元々芸術派なんですよ。まぁ、何かクリエイティブなことが特別人より出来るってわけでもないんだけど、単に好きというか・・。
だから、この人の話にも惹き込まれたし、その後たまたまバクマンが漫画製作の話だって知って、こっちにも興味湧いたんだよね。ついでに、この人が10月に出す『ポスト・グローバル スーパーデザイナーが見る日本』という本も買おうかと思っている。でも、色々写真とか載っていて、高そうだな・・・コレ。
バクマン読み出した理由を簡単に書こうと思ったら、何故かこんなに色々わけわからんことまで喋ることになった・・・。
タイトルに道徳と芸術を付け加えたい、なんて書いてるけど、俺の感覚では文を極めようとすると芸術に、武を極めようとすると徳も自然に身に付いたり、興味を持ったりするものだと思うんですわ・・・。だから、その限りにおいては、文武両道という言葉は人の理想として完成されている。学問に物凄く精通しているのに、芸術に全く関心がないとか、素人では到底敵わないような肉体的強さを持っているのに倫理道徳が滅茶苦茶とか、そんな人は今まで見たことないし、いたら俺は絶望するでしょう。アメリカ軍人が武士道や侍に興味を持つ理由ってのも、そこにあるんだと思いますよ、多分。