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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

理想は文武両道?俺は更にふたつ付け加えたい。道徳と・・・・芸術だ

2009年09月18日 18時24分15秒 | 日記

昨日の日記に関連して、ちょっと紹介したい新聞記事があったのでスキャンしてブログに載せようと思ったが、教育関係者が生徒・学生用のプリントを作成する場合でも無い限り、丸々掲載というのはNGらしいので、残念ながら載せることが出来なかった。
どうしよっかな~と思っていたところ・・・・ふと検索してみたら、全く同じ記事がインターネットでも見れることを知った。な~んだ、これ紙面だけじゃなく、ウェブ上でも見れる特集記事だったのか。
まぁ、それならそれである意味都合がいい。リンクを張っておきましょうかね↓
http://www.globe.asahi.com/author/090914/01_01.html

スーパーデザイナーとか言われる人がなかなか良いこと言ってます。
ペットボトルのバランスエネルギー概念、創造的プロセスとは引き算である、ポスト・グローバル、重要なモノはスローでやる必要もあるということ、文化の多様性の重要性・・・・どれもが参考になる話だった。特に最後の多様性の話は、今回の自身の海外旅行の経験と相まって強く共感できた。
と、いうのも、今回の件で俺は言語や文化、食、社会的な営みなどの各国の差異を、再思考して、何でもかんでも便利・スピーディ・快適が良いというわけでもないんだな・・・ということを思い知らされたように感じたからだ。
特に言語については、前々から世界に統一的な言語があればどれだけ良いか・・・ということを考えていた。そして、その統一的な言語という発想は、前述の便利・スピーディ・快適の概念に見事に合致している。一人ひとりが英語、フランス語、日本語、中国語、イタリア語などを学ぶ必要が無く、ひとつの言語であらゆる人間と会話が出来れば、海外のサイトもストレス無しで閲覧できるし、TVも本も見たい放題だ。旅行も会議もより効率化するだろう。そんなバラ色の社会を夢想していた。
でも、言葉ひとつひとつにこめられた、複雑で複合的な意味は、日本的な出生を辿っているとか英語圏からの出生であるとかいった、国ごとのオリジナリティに富んだ発想が重要なようにも思えてきた。アイデンティティだとかイデオロギーだとか、グローバルだとかいった単語は、一応苦しいながらも日本語に言い直して表現し、説明を加えることで大体の意味を理解することができる。でも、新たな概念の誕生と、それに対する名前付けはひとつの言語だけで行うには都合が悪いように思う。つまり、もし世界の統一言語が日本語だった場合、「性同一性」だとかいう名称、そしてそういう概念は果たして生まれただろうか?という問題だ。
単語や概念といったものは、その社会の歴史や文化とも大きく結びついている。イランには日本の「いじめ」に対応する言葉が無いというし、日本も「FREEDOM」と「LIBERTY」の違いに対応する言語は無いといった風に、諸々の違いが生じている。FREEDOMとLIBERTYは辞書を調べれば分かるが、自由は自由でも、文章や出来事の前後の関係によって分けられるという。過去に束縛的な暗示があったかどうかとか・・・そういった違いだ。と、なると日本ではその点を何らかの文章で補って説明することになる(というか、その違いなどどうでもいいものとして普通に「自由」の一言で片付けられる)。そもそも単語そのものが1人称・3人称で変化するとか単数・複数で変化するといった風に、周囲との関係性の中で変化する傾向は、日本語以外ではよく見かける。そして、日本人にはこれが非常に鬱陶しい。関係詞がwhatなのか、whoなのか、whomなのか迷ってしまうといったように。
バラバラの規格を統一させるということは、秦の始皇帝の度量衡統一、EUの通貨統合などの例でも分かるように、世の中の古臭くて煩わしい手続きを簡略化する、良き改革とされてきた。同じ理屈で、言語も何らかの形で世界統合されれば、今のようなバラバラの状態より、より良くなるように一見思える。しかし、もし言語の多様性が消滅した時、世界の思想、あるいは精神世界はグッと縮小してしまうかもしれない、と俺は思うようになった。
言葉はアイディアや思想を構築する上で、欠かせないアイテムだが、そもそもアイディアや思想は一体どこから生み出されるのか?コレ自体が未だハッキリしていない。まぁ、ひとつは「頭(=脳)」を使って考え、生み出されているのだろうが、大事な前提として、思想もアイディアも人間が生み出すのだから、人間のみがいればいいというものでもないということだ。素っ裸の人間が考える人ポーズのひとつでもかませば、オールおっけぇ~ってわけではない。

人の頭の中に考える材料が無ければ話にならない。思考という作業は徒手空拳で行われているようでいて、実際はあらゆるものが・・・それこそ実体あるのものから無きものまで、材料としてシェイクされている。そして、そこにおいては「材料の多様性」がひとつの重要なポイントになるように思う。料理の新しいレシピが食材の多様性の中から生み出されるように、アイディアや思想や解決策も多様性から生み出されるのではないだろうか。野菜だけではなく肉も、肉だけではなく魚も、魚だけではなくスパイスも・・・といった具合に、多様性は膨張の起爆剤になる。そして、その組み合わせはまさに無限だ。元素の数はベラボーに多いというわけでもないが(食材より少ないんじゃないか?w)、元素の組み合わせによって生み出されたものはベラボーに多い。この地球上にある、ありとあらゆる物質が、それらを基に生み出されている。PS3も、机も、電球も、飛行機も、チリ紙も・・・なにもかも・・・。もし、この世にひとつの元素しか存在しなかったら、俺らは生まれてなかっただろうし、地球も銀河系も生まれなかったかもしれない。そういった意味では、人類が言葉を操り始めた時、もしひとつの言語でのみ成長を続けてきていたら、今のような文明は存在しえなかったかもしれない。今だにピラミッドや神殿の建設をしていたかもしれないし、もっと酷いと、アイディア不足で絶滅してしまっていたかもしれない。無論、それは確かめようもない事だが・・・。
確かめようも無いことを、胡散臭い理屈で説明しようとするのは、俺はあまり好かない。でも、それを言ったら、現代社会で起こってる諸問題の因果関係も確かめようがないこととして扱われるかもしれない。例えば、カオス理論などを持ち出すと、インドで一羽の蝶がパタパタ飛んでいるだけで、その程度の風の変化が数年後のアメリカでの竜巻の原因になりうるという!こんなことまで言い出したら、本当の原因なんぞ、もはや人間の知るところではないといえる。う~む、どうしたらいいものか・・・。ま、カオス理論のことは別として、俺のこういうつまらん推測は一個人の適当な思いつきとして処理するに限る。人類の過去の話は別として、現代における多様性をもう少し考えてみたい。

言語の多様性は、確かにあからさまな不便さをもたらしている。どんなに素晴らしい内容の話でも中国語やドイツ語で喋られては、こちらにとっては全く何の価値もない話と化すし、書籍・TVなどのメディア媒体も本質的な役割を失ってしまう。しかし、それは異言語圏の人々同士のやりとりの際の問題であって、クリエイティブな領域においては、「パラドックス」、「インフレ」、「ヒステリー」といったような便利な名称や概念がそれぞれの分野の幅を広げてくれる。そして、これらの新しい概念を他の国の人々が活用することにより、また新たなものが生まれる可能性が広がる。今・・・なんか自然に「クリエイティブな領域においては~」と言ってしまったが、要は、これがスーパーデザイナーが重視した多様性の話とも結びつく。(良かった、偶然結びついてw)
俺は外国語が本当に苦手なので、実用面からいえば言語統一という発想は、実現すれば俺にとって最高級のサービスに違いないだろう。外人を口説くことも出来るしね♪しかしその一方で、言語の多様性がもたらすであろう、外部からの大切な視点というものにも魅力を感じている。そういった意味では言語が違うってのも悪くないかな・・・と思い始めている。つまり、言語や文化の多様性は実用面においてはコミュニケーションの流れをスロー化させるからマイナスだが、クリエイティブな面では、逆にその違いこそが長所になる。ちょっとしたジレンマですね、コレ。

長々と語りましたが・・・いやね、俺はこう見えても元々芸術派なんですよ。まぁ、何かクリエイティブなことが特別人より出来るってわけでもないんだけど、単に好きというか・・。
だから、この人の話にも惹き込まれたし、その後たまたまバクマンが漫画製作の話だって知って、こっちにも興味湧いたんだよね。ついでに、この人が10月に出す『ポスト・グローバル スーパーデザイナーが見る日本』という本も買おうかと思っている。でも、色々写真とか載っていて、高そうだな・・・コレ。
バクマン読み出した理由を簡単に書こうと思ったら、何故かこんなに色々わけわからんことまで喋ることになった・・・。

タイトルに道徳と芸術を付け加えたい、なんて書いてるけど、俺の感覚では文を極めようとすると芸術に、武を極めようとすると徳も自然に身に付いたり、興味を持ったりするものだと思うんですわ・・・。だから、その限りにおいては、文武両道という言葉は人の理想として完成されている。学問に物凄く精通しているのに、芸術に全く関心がないとか、素人では到底敵わないような肉体的強さを持っているのに倫理道徳が滅茶苦茶とか、そんな人は今まで見たことないし、いたら俺は絶望するでしょう。アメリカ軍人が武士道や侍に興味を持つ理由ってのも、そこにあるんだと思いますよ、多分。


今更なことかもしれないんだけど・・・・

2009年09月17日 21時34分31秒 | 日記

「バクマン」つ~漫画面白いね。1巻の最初の数十ページ読んでそう思った。
いや~最近のジャンプには全く期待してなかったが・・・・なんだ、ちゃんと面白いヤツあるじゃん!やるじゃん!ジャンプ!・・・って別に新人ってわけでもなく、またこの大場&小畑コンビだけど・・・。
登場人物がいいね。俺、小利口なヤツより、こういうバカ共が好き。俺が教師になりたい理由のひとつに、こういうバカを支援したいってのもある。つ~か、こいつ等の真っ直ぐさ・・・・眩し過ぎる・・・嗚呼・・・でもそんな君達はとっても輝いているよ・・・。俺が銀魂好きなのも、そこらへんの魅力にとりつかれてるからなんだろうな~・・・って5巻くらいから先読んでないけど・・・w
高木って中学生の分際で分析力高くないか?それとも、近頃の中学生はこれくらい考えているものなの?俺が中学生の頃は男子校という変な安心感からか、人間関係とか殆ど省みてなかったな~。なるようになれというか、ど~でもいいと思ってたというか、駆け引きめんどくせと思っていたというか・・・。基本的にゲームのことしか考えてなかったから、コイツ等が物凄く大人に見える。つ~か、大場や小畑がネームの段階で、ウッカリこいつ等が中学生だっていう設定を忘れてて、“やらかした”んだと思いたい・・・。こんなしたたかなこと考えている中学生、イヤやわ~(さっき好きとか言っときながら)。


↓このサイト面白いっす。皆もやってみては如何?ランプの精の吹き出しの「play」をクリックして始めてネ♪
http://en.akinator.com/#
頭に適当なキャラクターを思い浮かべて(偉人、芸能人、スポーツ選手、アニメ、ゲームのキャラ、何でも可)、ランプの精の質問に答えていくと、ランプの精がズバリとキャラクターを当ててくれます。・・・あんまりマイナーなキャラは無理ですけどw

 

↓ここの性格判断もやってみました。
http://www32.ocn.ne.jp/~emina/
質問がイエスorノー形式なんだけど、いつでも必ずコッチという質問だけでなく、状況によってイエスだったりノーだったりするなぁ、という質問も幾つかあったので、1回目は「ギリギリこっちの傾向が強いかな・・・」という回答をし、2回目は「でも、こっちの選択肢もよくとるな」という方を選んでみた。
すると、こんな感じになった。

1回目
ESTP型:究極の現実主義者
 
 ESTP型の典型的なモットーは「まずやってみよ、手引書を読むのは最後でよい」である。
この行動派は「いまの瞬間」のために生きている。
手引書を読むのは「いまの瞬間」を遅らさせるだけなので、時間の無駄というわけだ。

ESTP型は、現実と無関係な理屈には我慢のならない究極の現実主義者である。

もっぱら人と物に関心を注ぎ(E型)、五感で実感できるものを頼りに情報を集め(S型)、その情報を客観的に分析して検討し(T型)、それと同時に、新しい選択肢を進んで柔軟に受け入れることができる(P型)。

この四つの性向があいまって、どんな状況にもすばやく、的確に、客観的に、行動に表して対応できる。

何もしないでいるよりは、何かしているほうがよい。その行動の結果が出るのは翌日回しでよいとする。

今すぐやって、つけは後で払うタイプだ。
ほかのタイプの人からは「落ち着きがない」とか「異常に活動的」といった不評をかってしまう。

たしかにESTP型は並外れて落ち着きがないと見られがちだ。

ESTP型は、エネルギーを注いだら、その見返りを求める。

やるだけの価値がないと思ったら、次のことをはじめる。

面白くない本はまず最後まで読み通さない。
つまらない本でも、読み始めた以上、終わりまで読むとか、「ためになる」から読むのは、時間の無駄だと思う。

部屋を片付けるのも、なくした物を捜すといった目的があれば、やる意味があるが、ただ義務で片付けるのは時間の無駄だと考える。

座持ちがよく社交的なので、よく座の中心にいる。当意即妙の受け答えにたけていて、冗談がうまいので、一緒にいると楽しい。

厄介な仕事に取り組んでやり遂げる力、どんなことでも少なくとも一度はやってみようとする。

怖いもの知らずのところ、そして旺盛な競争心があるので、問題の解決役になり、面白い課題に取り組む時には頼りになる。
だが、仕事をルールにのっとってやらず、決まりきった仕事になると興味を失い、飽きてしまって環境を変えたくなる。

このタイプに付きまとうジレンマは、決まった手順やノルマをよく忘れてしまうことだ。

そのためにしょっちゅう目上の人ともめる。ことさら権威に逆らい、その正当性を試して喜ぶタイプもいるが、ESTP型はそうではなく、ただ権威を気に留めないだけなのだ。

仕事や問題を前にすると、決まった手順があるかどうかをまずチェックせずに、やり遂げる方法がないかと考え、とにかくやり始めてしまう。

その結果、本人は良いことをしているつもりなのだが、ほかの人たちからはそうは受け止められず、結局は「トラブル・メーカー」といわれてしまう。

悪気のないESTP型はヒーローになれず、失敗に終わる。

ただ幸いなことに、失敗してもESTP型はあまり自分を責めたりせず、別のことに目を向ける。

ESTP型の女性は運動、それも一対一で競うスポーツに熱中するタイプだ。

その性向に逆らわずに振舞うと、おてんばと見られてしまう。いかにもだめでもともとと、突進するところが、社会の女性観から外れているので変わり者に思われる。

ESTP型の生活スタイルは落ち着きがない。
いつもやりかけのことがあり、その上にまだやることがあって、時間が足りない。
しかも、そういう状況を楽しんでいる。

運動会、夏休みの終わり、就職、良い成績を取ったなど、どんな出来事でもパーティーの口実になる。
そうした行事の準備にいそしみ、率先して参加するが、ときにただせわしいだけで終わってしまう。

自分が中心でないと気がすまないし、理屈やくどい説明をもどかしがるので、ほかのタイプの人はいらだたしく思える。

 

2回目
INTP型:問題を解決したがる
 
考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプがINTP型である。
頭の中でじっくり考える(I型)なので、N型の想像力がいろいろな可能性を思いつく。

客観的(T型)なので、その新しいデータを分析し、際限なく融通がきく(P型)ので、どんなデータもさっそく取り入れてしまう。

論文、図面、計画、企画、提案、理論などなんであろうと、こまごました情報を一つにまとめた完成図を作りあげようとするが、たえず新しいデータを発見するので、その完成図がどんどん膨らんでしまう。

その結果、考えや構想や計画がどんなに最終的なものに見えても、土壇場になって「新しいデータ」が手に入ると変えてしまうのである。

これはINTP型にとってはわくわくするほど楽しいが、ほかの人、とくにJ型の性向を持つ人にはフラストレーションになる。

完璧に見えても満足しないので、みずからが最大の批評家となり、あら探しをする。
完璧、有能、優秀であろうとするあまり、それが極端になると、かえって負担になり、うんざりしたり自分を責めたりする。

このタイプは女性の場合に葛藤を生む。

考えにふける大学教授というのは従来、女性のイメージというよりは男性のイメージで、頭だけで理屈をこねる資質は、男性の場合は大目に見られるが、女性の場合あまり受け入れられない。

そこで少なくとも三つの問題が生じる。

第一に、女性は昔から、家庭や家族のこと以外では設計能力があるとは見られてこなかった。
だから、人生を頭で考えた理屈にあわせたいと思うのは、INTP型にとっては当たり前なのだが、従来の女性の役割には真っ向から反する。

第二に、独創的に考えるのも従来の女性の気質とは見られていない。
たとえば、時間を聞かれると、INTP型は時間の哲学的な意味について述べたくなる。
そうした風変わりな面も男性ならば頭がよすぎるせいだと見られるが、女性だと「鈍感」とか、ときには「頭が鈍い」というレッテルをはられてしまう。

第三に、T型の面が、従順、優しい、気配りといった女らしさに反する形で表れる。

INTP型の女性が感情を表にあらわした場合、悪くすると、しばしば極端に表現しすぎて、本人もほかの人もぎょっとしてしまう。

 

自分の感想としては・・・どちらも7割強は当たっている感じ? 「お前は教師というより、大学教授とか研究職の方が向いてるんじゃないの?」って言われたこともあるしねぇ・・・。俺が今までに人から「こんな職業向いてるんじゃない?」と言われたもの・・・大学教授、政治家、教師、ゲームライター、芸人・・・なんか一貫性が無いな・・・。
一方、俺がなりたかった職業を子どもの頃から時系列順に並べると・・・電車の運転手、発明家or科学者or宇宙飛行士、ゲーム製作者、教師(今ココ)。
・・・これから先、どうなるか分からんね・・・w
「究極の現実主義者」という評価は個人的に嬉しい。ちょい前まで、到底無理な理想ばっか追求しているメルヘン野郎と思われてたから。今も思われてるのかもしれんけどw
勘違いしてもらっちゃあ困る・・・俺は基本的に走りながら大声で「あ~!人間がマッハ1で走れたらいいのにな~!」と叫ぶ、ただそれだけの人間なんだよ。ちなみに、大地震が来た時、最初のグラッと若干揺れた振動を感知した直後、マッハ20弱くらいでその場から離脱すれば、地震から逃れることができるらしいぞw


介護等体験が終わったが・・・・

2009年09月15日 02時14分16秒 | 日記

反省も含めて色々勉強になったこと、感想なども書きたいところだが・・・・大学から配布された「介護等体験マニュアルガイド」によると、うかつに色々喋るんじゃねぇぞ、みたいなことが書いてある。いや、俺が拡大解釈し過ぎなのかもしれんが・・・・。ちょっとプライバシーの項目を引用してみよう。

体験中は、利用者やその家族のことなど様々な情報を知りうる立場になります。体験後、友達同士で噂話をしたり、口外しないように注意してください(守秘義務)。特に体験からの帰路、その日に見聞きしたことを話題にすることは避けてください。皆さんの思いが及ばないところで、利用者のプライバシーを侵害する恐れがあります。
<失敗例>
・職員から聞いたAさんの家族のことをうっかり話題にしてしまい、Aさんから「誰に聞いたの」と不信感を募らせてしまった。
・自分のホームページに利用者や職員の名前など実名のまま体験日誌を掲載した。
・昼休みに、利用者の物真似をして体験者同士で笑っていたのを、利用者が見かけてショックを受けてしまった。
・排泄介助時に利用者の前で「汚い、臭い」と言った。

俺はブログで職員や子どもの実名を掲載する気も無いし、誹謗中傷する気も無いが、これは失敗例の2つ目の項目にギリギリ引っかかっている?・・・のだろうか。そこんとこがよく分からん。
更に分からんのが「ノーマライゼーション」という現代福祉の基調となる考え方だ。またしても「介護等体験マニュアルガイド」から引用してみると・・・

ノーマライゼーション:北欧から世界へ広まった障害者福祉の最も重要な概念です。障害者を特別視するのではなく、一般社会の中で普通の生活が送れるような条件を整えるべきであり、共に生きる社会こそノーマルであるという考え方。

・・・とある。障害者を特別視しないようにしましょう、と言いつつ施設内で体験したことは口外するなと言う。障害者と触れ合った体験内容をおいそれと口にするな・・・ってそれ特別視してんじゃねぇか!普通、何かレアな経験をしたら、誰かに話するものだろうが、と突っ込まずにはいられない。
とはいえ、医者が患者に対して守秘義務を負っているように、介護体験者もまた医者と同じような立場に置かれているようなものだと考えればいいのか?と考えることで、いくらか納得がいくような・・・それでもいかないような・・・そんな感じにはなる。

まぁ、可能な限り抽象的に今回の体験を言うと、何といいますか・・・俺の今までの経験だとか知識だとか自信だとか、そういったものが一切合財粉砕されたって感じになるんでしょうかね。こっちがそういった既存の概念をもって介助にいそしんでも、期待した通りの反応なんてまず返ってこないし、それ故か、自分が物凄く無能な奴なんじゃないか、という気がしてくる。
俺がそう思ってる中でも、生徒たちにスムーズに食事介助をしたり、排泄行為をサポートしたり、コミュニケーションをとり続ける先生方には本当に頭が下がる。並大抵の精神力じゃ勤まらんと思いますわ。

結局のところ、今回の件で俺が漠然と思ったのは、人間、情が移ったり、ストーリーの中に溶け込むと、いかようにも考えが変化しうるんだな、ということ。
例えばFF10をプレイした人なら分かると思うんだけど、アレってプレイヤーがティーダの視点から話を追ってるから、ユウナや仲間を尊い存在だと思ったり、ストーリー全体に興奮したり共感したりすると思うんだよね。もし、アレがアルベド族の一人としての視点だったり、ブリッツボールでお馴染みのルカ・ゴワーズのイチプレイヤーだったりしたら、全然違う利害意識や世界観を持っていたと思うのよ。それは、現代社会でも欧米で白人として生まれていたか、アジアで東洋人として生まれていたか、アフリカで黒人として生まれていたか、それとも中東でアラブ人として・・・などと考えるのと大差ないのかもしれない。あえてゲームに例えたのは、世界の規模が空間的(FF10の世界を現実規模に置き換えても大して大きくはないだろう)にも精神的(価値観とか)にも現実よりずっと限定されているので、“違う立場”を想定するのが現実より楽で、より偏見を持ちにくい状態で見れるんじゃないかと思ったから。
人間はどうしたって自分の周囲の人間の利害や命などを優先する。ティーダが討伐隊の一兵士を庇って死んでストーリーがその場で終わってしまったら、ただのクソゲーになるだろうが、ユウナのために死ねば美談にはなる。
俺が地球の裏側のアルゼンチンの一個人のために臓器を提供することはまずあり得ないし、彼らの便宜を図ることもまずないし、彼らの誰かが不当に殺されても俺が怒り狂うこともまずないだろう。それは何故か?物凄くぶっきらぼうな物言いをすれば、俺と著しく関係のない人間だから。俺の中に内在していた障害者に対する冷たい見方も、要はこれと似たようなものだ。でも俺がアルゼンチンで生まれ、暮らす人間だったら価値観はひっくり返り、逆に日本人などどうでもよくなる。そして、それはそうなろうともちっともおかしなことではない。もし俺が今、本気で日本の政治よりもアルゼンチンの治安の心配をしたり、利益を考えていたら、頭がおかしくなったんじゃないか、コイツは?と思われるだろう。障害者の利益を考える人もこれと同じように考えられているのかもしれない・・・とふと考える。
俺がアルゼンチンの利益を考えず、基本的にどうでもいいと思っているのは俺とアルゼンチンが限りなく無縁に近いから。知識もさほどないから。接点がないから。見えないから。アルゼンチンの人々に共感も同情もしてないから。自分自身がアルゼンチンの国民じゃないから・・・理由なんぞいくらでもある。我々健常者にとって、障害者はどう映っているのだろうか?アルゼンチンの人に対する感覚というものを適当に列挙したが、それは少なからず障害者を軽視する人の感覚にも通じるものだと思う。
人間的な愛情は、先に言ったように、近い人以外に与えることはなかなか難しいものだと思う。物理的な制約もあるし、遠くにいる人に対しては祈りに近いような精神的なモノだけに留まるだろう。しかし、この祈りこそが世界的な宗教が目指した真の理想なのではないか、とも思う。人同士が物理的に繋がったり貢献するのが不可能ならば、精神で・・・・といった試みとでも言おうか・・・それが目に見えない試みであるので宗教に批判的な立場の人から「馬鹿馬鹿しい」と思われているのではないか?だが、俺は、宗教家たちのもたらした数々の弊害を批判しつつも、開祖が目指した方向性や試みはかなり評価している。例えば、俺はキリスト教を全体で見るときはあまりいい印象を持たないが、キリストに共感し、キリスト的であろうと思っているキリスト教徒個人にはむしろ好印象だ。まぁキリスト自身もパーフェクトな人間ではないから、いくつか「キリストさ~ん、それは違うんじゃないでしょうか?」と文句を言いたい部分もあるんだけど・・・・っていうか、逆にキリストがパーフェクトで、俺のほうにこそ問題があるってだけの可能性もあるが・・・。
このように、俺は今回の体験の中で、新しく感じたり考えさせられたことが多数あり、そういった意味で今回の出会いと体験の場に感謝している。まぁ、前より余計判断が難しくなり、結論から遠ざかったようにも思えるんだけど・・・。


エッチな海外旅行

2009年09月09日 16時11分40秒 | 日記

たまにはエロい話もしようかと思います。
際どい画像も載せるので、万が一苦情が来たら、消す予定。

海外のエロ規制は緩いんだか固いんだかよく分からん。フランスではキオスクみたいな街中売店で普通にDVD同梱のエロ雑誌が買えるし、オランダは一部の麻薬を合法化しているだけあって、性にはかなりオープンだった。アムステルダムの町をフラフラ歩いていると売春通りに迷い込んでしまう(いや、本番OKなのかどうかは知りませんけど。変な期待してオランダ旅行企てても責任は取れません)。そして、お土産ショップには卑猥な品物が結構たくさん置いてある。亀頭部分から塩コショウが出る・・・んじゃないかと思われる調味料入れ、勃起したペニスが反り返って取っ手部分になっているマグカップなどが置いてあった(写真を撮ってこなかったのが悔やまれる)。いや、最初は単にそのお店の店主がエロイだけなんじゃないかと思ったんだけど、多くのお店でそういう下品なモノが置いてあるんですよ、コレが。なるほど、そういうことか・・・とすっかり気を良くした俺が目をつけたのは、無修正トランプ。4EURO弱というそこまで高くもない値段だったので、ちゃっかり買ってしまったw
卑猥なモノを手に入れたり、写真に収めてもブログにアップするわけにもいかんし・・・・と思っていたが、俺が愛用している2000円のグラフィックソフトにモザイク機能がついていたことを思い出し、これからはきわどいモノもドンドン撮ってこようと思った。このソフト、本当に便利で、もう10万円分くらい利用している気がします、マジで。
↓いや、本当はフォトショップ欲しかったんだけど、高いでしょ?アレ・・・・。だから俺はコレ。
http://www.sourcenext.com/titles/hob/76440/

↓自主規制済みのトランプ。

 

オルセー美術館では、なんと女性のアソコの絵画がドーンと展示されていた。う~む、こ、これは・・・これぞまさに芸術だ。顔が見えないというのがまたなんともいえないエロスを醸し出している。ぐあ~っ!キタキタ~!妄想力高まってきた~!モナリザが展示されているルーヴル美術館が目と鼻の先にあるので、本物のモナリザを十分に目に焼き付けてきてから、オルセー美術館でコレを見るとより良いと思います、ハイ。マリー・アントワネットなどで代用するのもいいかもしれませんねぇ・・・フヒヒヒヒ。え?キモイ?何言ってやがる!モナリザやマリー・アントワネットの上半身にしか興味ない男のほうがどうかしてるぜ。絵画に描かれていない部分までアレコレ想像し、感じ取る姿勢こそが真の芸術的感性を涵養するんじゃないかと・・・云々。
本当はネチッこくじっくりと鑑賞したかったが、女性の美術館職員が目の前に座ってジーッと我々を監視しているので、何となく見ずらい(この人も女性器の目の前に座らされて嫌なのかもしれないが)。多くの人が写真撮ってましたが・・・・俺、その日に限ってカメラを置いてきてしまい、「あ~なんてこった・・・勿体無いことした・・・」とガックリきていたところ、美術館内の売店にこの絵の絵葉書があった♪迷うことなく、購入。俺の前にいた男性フランス人が、女友達数人の前でこの絵葉書一枚を、店員さんの前でピラピラさせるような堂々たる態度で買っていて、何ともいえない微笑みを女性陣から送られていました・・・・。販売員のお姉さんも含めて、全員一言も喋らず、ただただ笑顔だけ。勿論男も笑顔。全員顔だけでコミュニケーションをしてました。何?この空気・・・・。
フランス語は分からないけど、「顔語」は俺にも分かりましたwま~この人の後に俺がこの絵葉書買うわけなんだけどな・・・・。

↓絵葉書をスキャンし、モザイクを入れた。ま、google検索でモザイク無しの本物が拝めますが・・・。


ヒャッホゥ!日本帰って来たぜぇぇぇ!

2009年09月02日 20時44分35秒 | 日記

ん~相変わらず湿度高くて蒸し暑いねぇ。文字が理解できて、人の言っていることが分かるというのは素晴らしいNE~!素晴らし過ぎるものは、それ故にえてして分からんものだ、ということを今回改めて認識させられましたわ・・・。生きているということ、呼吸ができるということ、こういったものもそのひとつでしょう。まぁ当たり前のモノってなかなか消えたりしないし、それを想定することも馬鹿馬鹿しいや、って思っちゃうものなんだけど、それ、愚かしいことですね・・・。なんつ~か、今回の件でより一層謙虚に生きようという気がしてきた。俺はまだまだ傲慢だった。ここ1年、鼻っ柱を折られる出来事ばっか続いているせいか、自分で言うのもなんだけど、随分おとなしくなってきたなぁ俺も。いや、本当はもっと色々無茶やったり言ったりしたいんだけど、何か、世の中を知れば知るほど自分の発言や認識が愚かで恥ずかしいものだと思えてきて・・・。おかしな話だよね、人は知識を身に付ければ付けるだけ、物事がよく理解出来るようになり、説得力のある話、面白くてウイットにとんだ話で人を惹きつけられるものだと思ったが・・・逆に不用意に発言しにくくなり(分かった気になって得意気に発言する自分を恥ずかしく思うから)、「俺にはよく分からない」としか言えなくなってきた。知れば知るほど、分からない事の領域も増えていき、それ故に意見や結論を述べるのが難しくなるなんて・・・・それじゃ~、人間はどうしたらいいんだ?と嘆きたい気持ちになる。
あ~ちっちゃい、ちっちゃい、人間一人はちっちゃいですよ、それは自分だって同じはずなのに、どうしていつも自分は特別だとばかりに傲慢になるんだろう。俺が思うに・・・・あ、この話は長くなるからいいや、旅の話に戻ろう。

いや~最後の最後で気分悪い出来事があってスッキリしきることができなかった旅行だったが、収穫はメチャ多かったのでまぁ良しとする。
いやね、帰りの便で俺の前の席に座っていたオジサン(というか頭が完全に白髪の老人)が日本人スッチーに機内食やら何やらを運ぶ時に使う運搬機を2度足にぶつけられたらしくて(スッチーの不注意なのか、オジサンの足が通路に無造作に出ていただけなのかは分からない)ブチ切れていたんですよ。突然「いてぇ~なぁ!」とデカイ声を出し、その場でスッチーを叱りつけた。その後スッチーが「先ほどは申し訳ありませんでした・・・」と改めてお詫びに来たら、どういうわけかオジサンは更にヒートアップ。「謝れよ!」「そんな謝り方じゃ駄目だ!何度でも謝るんだよ!ホラ!」と物凄い剣幕。隣の奥さんは我関せず・・・こうなった旦那は手がつけられないということを知ってか、全く関与するそぶりを見せない。こらもう、どうしようもありませんわ。「会社に文句言うぞ!」「責任者連れて来い!」とずっと怒りっぱなし。結局機内の後部で担当者含めて話をするということで、そのまま後ろの方へ消えていった・・・。
その後、全く関係ないオバサンが奥さんに対して「ちょっと奥さん、ご主人、後ろで物凄いわよ。一緒に付いていってあげたら?止めてくるべきよ」と促し、奥さんを派遣。暫くして、オジサンは戻ってきた。
俺はこういう現場に出くわすと、たとえスッチー側に非があったとしても、スッチーを気の毒だと思うし、こういうオジサンの対応はやり過ぎだと思うような感覚を持つ。いや、別にフェミニスト気取ってるわけじゃあ御座いません。そりゃあ、男としての何らかの女性に対する配慮はあるけど、俺は日本人女性にはかなりぞんざいな対応しかしない。と、いうか女性として、人間としての尊厳を認めつつも、外国人女性・・・とりわけ白人女性との外見的比較によって、どこか軽く見ているところがあるんだと思う。酷いヤツだ、自分の容姿を棚に上げといて。しかしながら、白人女性と日本人女性の比較は男にとっては勿論、女性にとっても重要なテーマだ。これを避けて通ること、それ自体が女性観の甘さに他ならない。外国人(特にアジア系以外の白人・黒人)女性を知らずして、日本人女性を語ること無かれ、と俺は今ここで強調しておこう。この点に関しては後日タップリと語りたい・・・・ところだが、俺が女性ならまだしも、男の立場からモリモリズケズケとこのテーマについて言及するのってどうかと思う。いや、本当はあんま思ってないけど、ネットで言うことについて、どうかと思う。だから、今はこれくらいしか言えない。
そして、その日本人スッチーは、キャビンアテンダントというよりも、イメクラのSM女王様のほうが天職なんじゃないか、と思わせるようなキツイ顔つきの人だった。こういう、いかにも我の強そうな女に対して俺が考えることは常にひとつ、「ああ~ん!女王様~もっとしばいて~!ぶって~!」ではなく、「オラァ!この雌豚ァ!」の方である。つまりスッチー贔屓は無い。
スッチーはプロ意識を持ってやってるはずだし、わざとぶつけることはおおよそ考えられない。スッチーでも狭い通路ギリギリを通る台車を動かしていればふとした拍子に人にぶつかることもあるだろう。まぁそれくらい許してやれよ、といった気持ちが正直なところである。

隣に座っていた外国人がオジサンの気迫に目を丸くしていたが、こういう日本人の醜悪な様子はオランダでも見かけた。
現在博物館になっているアンネ・フランクの家の前で並んでいた時、列を無視して入口から横入りしていた東洋人がいた。オイオイ皆20分くらい並んで待っているというのに、そりゃねぇだろ、ありゃ~何人だ?と思っていたら・・・・アレ・・・・なんか・・・彼らの喋っている言葉が非常にクリアに理解できるような・・・・って日本人じゃね~か!
状況的には非常識な日本人のおばちゃんが一人で「ここから入れるわよ、入りましょうよ」とのたまい、それを旦那さんが「オイ、何やってんだよ!ちゃんと並ばなきゃ駄目だろ!こっち来いよ」と制止しているという図。結局、数分旦那さんが説得し続けたものの、奥さんが一人でズカズカ奥へ入っていくものだから、しぶしぶ旦那さんもそれに付き合っていくというようなことに。なんすか、アレ。海外でこういうこそずるい事は特に控えて欲しいと思いますわ。日本人だけでなく、東洋人全体の印象も悪くなると思うのよ、こういう事を積み重ねると。ましてや、分別あるはずのいい大人が・・・・・何してんでしょうかね、日本人旅行者は。

あ、いけね、帰ってきた早々にイヤ~な話題をしてしまった。
まぁでも、今回の旅で他人のせいでイヤな気分になってしまった出来事はこれくらいですかね。後は自分のミスや無知でやらかしたのが殆どって感じだから・・・。

機内で映画4本をぶっ通しで見ていたので、気付いたら徹夜、って感じだった。正午前くらいに家について、軽くモノの整理した後昼寝したら、もう夜の9時。こんな調子でも時差ボケは一度も経験したことはない。太陽が無理矢理調子を合わせてくれる感じ。
とりあえず、明日から日常の準備ですかね。まずは全然おわっとらん、大学の課題を片付けにゃ・・・・。


フランス語ができない男のフランス旅行

2009年08月24日 23時43分17秒 | 日記

科学博物館などに行っても、説明文が全く読めないため、面白さが半減してしまうことに気づいた。いや、別に今さっきようやく気づいたというわけでもないんだけど。
オランダでは英語がほぼ公用語になっているため、かろうじて読める。が、時間がなくて、アンネの家くらいしか回れなかったのがちょっと残念。道にも散々迷ったし、一日で異国の地でうまく立ち回ろうと考えること自体が甚だしい慢心だったのかもしれない。今日もパリ市内は一人で回るのも楽勝だぜー!と調子こいていたら、郊外で迷った。
美術館が飽きかけてきて、なんか早くもやることがなくなったように思ってしまう(本当はあるんだろうけど)。ポンピドゥの図書館に何時間も居座って、日本から持ってきた本を読みふけったり、何でパリに来て図書館篭って読書せにゃあかん・・・?と思ったり思わなかったり。隣で一生懸命勉強していた大学生らしきブロンド美女があまりにも魅惑的で、あんまり集中できなかった。なにやら日本とフランスの男性の性欲の違い、及び性器の総合評価についてまとめているみたいだった。え!?この娘、こんなに綺麗で理知的な顔してるのに・・・そんな・・・男の下半身の論文だなんて・・・俺の理想が・・・ドリームが・・・ウソです、そんなこと本当に書いてあったとしても俺に読めるはずがありません。フランスの図書館で日本人同士でかなりエグイ猥談をしたら、どうなるんだろうか?w一人くらい、日本語を理解できる人がいそうだが。そういや、図書館内のカフェで「俺、チョコレート食べたいんだけどさ、お金足りないのよ、ちょっとお金くれない?」みたいなことをねだってきた人がいた。いい大人がそんなこと見ず知らずの人に頼むとかありえねー、と思い俺は拒否したが、その男がすかさず次の人に頼んだら、そのねだられた人は「ほらよ」とばかりにお金をあげていた。それを見て、なんだか俺が慈愛の精神の足りない男に思えてきた。・・・考えすぎだろうか?キリスト教を信仰してないと、なかなか真似できない行動なのかもしれない。

明後日あたり、モン・サン・ミッシェルに行くかもしれない。ここ、パリからえらい遠いです。ロンドン行くのと大して変わらないくらい。しかも、ガイドブックにはバス停が満潮になったらなくなってしまうので、満潮になる時間をきちんと調べておきましょうとか、ふざけたことが書いてある。オランダで迷い、ベルギーで迷いと散々苦労してきたのに、更にこの注意書き・・・波乱の予感・・・!!もう迷うのはコリゴリだわ・・・大体、電車の出発予定の駅が直前で変わるとかありえなさ過ぎだろ!


フランスでの出来事

2009年08月23日 02時19分44秒 | 日記

明日の分の日記をメモ帳に書いて、保存しようとしたら、変なメッセージが出た。何と書いてあるのか分からないのでそのまま「Qui(ウィ)」をクリックしたら、メモ帳の内容が全部文字化けしてしまったw書いた内容パー!もうサイテー、やっぱりフランスから日本のブログの更新なんてするもんじゃない。

左のドラえもん時計がちゃんとフランス時間に合っていてビックリ。ブログの投稿時間は日本時間になっているのに。現在フランスは午後7時半過ぎ。でも外は滅茶苦茶明るい。8時半ごろまで明るいから本当に驚き。
一日でルーヴル美術館の作品全部見れるかどうかチャレンジしようと思ったが、26000点を展示しているという数字を聞いて、さすがにひるんだ。1つの作品を1秒で見て回ったととしても26000秒かかる。そして、開館している時間は朝9時から夜6時まで。朝イチで行って、休みを取らず見て回っても一点あたり1,5秒もかけられない。・・・無理だね、コレ。つーか、一日で見きれないほどの量を展示しているんだから、そりゃ混むわけだよ・・・。

つまらない失敗はそっちゅうやらかす。日本じゃ考えられないようなミスも海外では日常茶飯事だ。行動や言葉が空回りし、文字がまともに理解できないあたり、外国人として海外に行くと、大人といえども子供みたいな状態に置かれてしまうように思える。逆に、この歳でそういうことを体験できること自体が非常に新鮮でもある。日本じゃ羞恥心が邪魔して、人前では意図的にでもおかしな行動をとらないのが普通というものだ。しかし、海外ではこちらが大真面目に行動していても現地の人には無様に映ったりする。こういうのは、その時々では不愉快なものだが長期的に見ると非常に有意義な体験でもある。恥を掻くということは、別の意味では「それがどういうものであるかということが分かる」という経験的にプラスの面もある。そういった利点は見逃せない。


フランスから天国日本へいる人たちへ

2009年08月22日 23時35分31秒 | 日記

とある事情により、フランスから日記を更新をしております。
いやー、住まいを提供してくれたフランス人の奥さんが日本人で本当に助かった。キーボードの細かい配置が違うが、こうやって日本語で文字も打てるし(PC機器はSAMSUNGとEPSON製品が人気なのかねー。この2つをよく見ますね)。その代わり、ありとあらゆる文字がフランス語表記なので、PCの操作は文字などあてにできず(読めないからw)、日本の時の感覚を思い出してやるしかないのが、ちとキツイ。
それでも、フランスでPCをいじれるとは思ってもいなかったし、ましてやブログ更新までは・・・度重なる偶然に感謝。どういう偶然かというと・・・住居を提供してくれた夫妻がたまたまPC持ってた>その人達が先日引越しした>理由はよく分からないがPCを元の住まいに置いていった(型が古いからなのかも。このPCメッチャ遅いです))>元の住まいも利用してくれていいですよーとのご好意に預かることができた>そして奥さんは日本人>日本語で文字打てる!>ルーターなども置いてあり、ネットできる!>イエーイ!ほんじゃ、ブログでも更新しますか
ってな感じですかね。

ツアー形式じゃない海外旅行は初めてなんだけど、コレ、一般的な旅行と全然感触が違うね。現地の人に近い生活を強いられ、体を適応させるのが本当に大変。俺以外の家族はもう毎日ヘトヘトになっている。ウメハラが「アメリカって長くいればいるほど体調が悪くなっていくんですよ。食べ物とか合わないせいで」と言っていたが、まさにこの通り。日本国内では好き嫌いせず何でも口に放り込み、味覚のイカれた鈍感野郎とまで評された俺でも、こうキツイ味の食べ物ばかりしかないと、体調を絶好調に保ちづらい。
今まで海外旅行といっても、飛行機>バス移動>ホテルで食事>バス移動>観光名所へ>旅行会社が予約済みのレストランで食事>・・・みたいな流れだったので、殆どストレスを感じなかったが、今回みたいに住まいだけ提供してもらって、「ハイ、後は自分たちでやってね」状態だと旅行どころか苦行に近くなってくる。が、あえて言わせてもらうが、今回はこの生活スタイルが非常に良かった。(良かった、ってまだ終わってないんだけど)メトロやバスを使って現地の人と同じように移動し、モールやスーパー、地元のパン屋などを利用して食料を調達する。そういうことをしながらパリ市内を観光し、適当にお店を覗いたり、適当にカフェを利用する。ハッキリ言って快適とはいいづらいが、フランスの空気を感じる手段としてはいいと思う。

タイトルにもあるように、フランスから見れば、日本は天国そのものだ。食べ物の味も洗練されているし、そもそも入手難易度も違う。(食料品の入手難易度とか、海外旅行するまではちっとも意識しなかったなぁ)トイレも公衆のモノは美術館とか限られた場所にしかないし、とにかく日常生活において「アレッ!?」と思わされることが多い。空港からまず電車に乗ったとき、この国の第一の違和感に早速気付いた。冷房も扇風機も付いてない車内・・・蒸し暑く、床は歌舞伎町の道路のように汚い。窓には硬貨か何かでつけた引っ掻き傷が至るところにある。景色を見ると全ての壁がスプレー落書きで埋め尽くされていて、場合によっては電車にまで落書きされている。何コレ?こ、これが世界のフランス?どこぞの新興国に間違って来たんじゃないの?と思ってしまったほどだ。今回の旅行で「フランスと比べてどれだけ日本が便利か、満たされているか」というネタだけで1ヶ月日記がかけそうなくらい、色々なモノを感じた。率直に言って、世界観と人間観が(いい意味で)変わった。マジで。今回、予定外にもフランス以外にもスイス、オランダ、ベルギーも回ってきたのだが、行く先々でいちいちショックを受ける。弟は世界観が変わりすぎた興奮が冷めやらぬようで、更にイギリスとドイツも見たいなどと言い出す。いやー俺もヨーロッパの見聞を深めたいのは山々だが、それはさすがにやり過ぎだろwオランダとベルギーも結局一日しか見てないし。でも、持ち前のフットワークでかなり回れた。ベルギーも、色々ハプニングがあって、話のネタには困らんなぁ・・・午前中にオランダから首都ブリュッセルに到着して夜パリに戻ったという強行スケジュールだったにも関わらず。

まー細かい話はそのうちしようと思います。でも、夏休みの宿題が20%しか終わってない上に、9月の上旬に介護実習があるから、日記に集中するのは難しいかな。個人的には色々海外と日本の比較をしまくりたいところなんですが。
日本は今どうなっているんだろうか?ニュースも新聞も全然見てないし(見ても日本の報道はあんまないかも)サッパリ分からん。

さっきも言ったけど、生活は全然快適じゃないので、体が自然に元の快適さを欲しているという意味では、今日本が恋しい。でも、いればいるだけ新たな発見があり、ただ生活しているだけで新たなアイディアが湧き、感性も磨かれていくという有意義な実感はあるため、そうした興奮作用が生活上の不便さを紛らわしてくれる。ある意味で麻薬的な効能が働いているといえる。
フランス語で簡単な挨拶やモノの注文が出来るようになると、向うから色々話しかけてくることもあるが、それ以上の会話能力がないため、何言っているのかサッパリ分からないのが何とももどかしい。フランス人の人生観や趣味、話題なんかも非常に興味あるのに。外国語をもっと自由に扱えるようになりたいものだねぇ・・・。


メディアと世論調査と現実

2009年08月15日 15時31分08秒 | 日記

昨日の日記ではスピード・ワゴンが最後にちょいと暴走しちゃったせいで、内容が少し過激化されて伝わってしまったかもしれないが、実際のところ、あの日記の真意って分かってもらえたのだろうか?
あれは、あくまでアンケート結果の偏りの話がメインであって、次の衆議院選挙の話はサブだ。だって、俺今回選挙に行けないし・・・・。

重要なのはこの部分だ。ニコニコ動画のサンプル数は85万人、それに対してTV局各局の世論調査のサンプル数はせいぜい1000~数千人。有効回答者数の関係で1000人以下の場合もよくある。
で、それらの主要メディアの結果とネットアンケートの結果を見比べてみて欲しい。これ、どう思う?え、ニュースや新聞を見ないから分からん?比べようがない?

見ろや!

関心がないなら別に見なくていいけど。
一般に、サンプル数は多ければ多いほど、平均的でより実態に近い数字がでると言われている。で、実際どうだろうか?最初のアメリカ大統領選の例が極端過ぎて、思考が一瞬飛んでしまったかもしれないけど、俺が真に言いたくて、疑問を感じているのはそこだ。
これは、アンケート結果だけの話ではない。ネットの書き込みなんかもその範疇に含まれる。掲示板のスレッドを1から1000まで、あるいはそのうちの50程度でもいい、それくらいの書き込みを適当に眺めていると、大体の傾向がつかめる。皆がスレッドのテーマに関してどういう風に思っているのか、考えているのかが大体分かる。全部読めば完璧に分かる。・・・・・・・・・・アレ?サンプルが多ければ多いほど信頼度も比例して上がるんだっけ?
俺は、昨日の日記からこのことを警告したかった。偏りがある状況下ではむしろ、いくらサンプル数が多くても間違えるんだぜ!たとえ1000万とってもな!ということを。
サンプルと全体の同一視は人間がよくやりがちな誤りである。そもそも日常におけるサンプルとは何か?実は何でもいい、自分が通っている学校の仲間内でもいいし、普段自分が眺めているネットの掲示板で発言している連中でもいい。それらは、言うまでもなく“全体”のサンプルに過ぎない。自分の通う学校の同級生の意見や、自分が好んで閲覧するウェブ上の意見・評論を社会の“全体”と思う人はまずいない。しかしながら、それらをサンプルであると意識している人も、同様に少ない。それもそのはず、それらは厳密に言えば「カルト環境下」に置かれているからだ。

カルト環境とは、実質的になんでもありの文化的空間であり、そこでは様々な奇抜なアイディアが、常識的な証拠に裏付けられることなしにどんどん融合していく。(『すすんでダマされる人たち』より)

中学・高校生が校内で好き勝手に暴れ、非常識なレベルで友人を弄りまわすのは、精神が幼稚だとかそういった理由もさることながら、何でもアリが許されている(=カルト環境)と思い込みがちな面にも原因の一端がある。ある仲間や集団、組織が外からの影響を歓迎しないと、どんどん腐っていくのはこうした理由にもよる。
俺は過去、無謀にも2ちゃんねるの諸々のスレッドで理性的な話し合いや、人間としてのモラル・節度を保って冷静に話し合おうと提言したことが何度かある。しかし、その願いは幾人かに賛同は得られたものの、多くの人に受け入れられたことは無かった。彼らは常にルール無用を要求しており、自由で感情的な発言を妨げようとする者こそ野暮で、インターネット上においては害悪であるとさえ言う。どうしようもねぇ・・・・、インターネットはバーチャルの世界だから、少なくとも現実よりは無法がまかり通るなんて、誰が決めた?勝手な判断に基づいてルールや規範意識を現実世界よりも低く設定し、緩めているのは利用者個人だ。自分の中に法を作れない者は、外部(現実)の法を目安にする以外になくなる。こうして、自分の中に法を作れない者の増殖によって、タバコの路上喫煙が禁止になるように、現実に法が制定されていく。インターネットに関する法整備の議論も例外に漏れず、コレと全く同じ経緯を辿っている。
インターネットは「何でもアリ」の精神に歯止めも自制もあまり働いてはいない。そういった意味ではカルトであるか、少なくともカルト化している。俺はこう言いつつも、「そんなことない」という反論にも聞く耳を持つ。現実社会での公共意識とインターネット上の公共意識が全く同じレベルである人であれば、俺は認める。しかし、どちらかに大きな偏りがある人、顔を使い分けている人に関しては、俺は全く信用しない。

あ~、また話がズレだした。要するにね、昨日&今日の日記のテーマは・・・
世論調査やアンケートは実態をどれだけ正確に反映しているか?正確でないとすれば、それは何故か?「何でもアリ」思考はカルト化の前兆なので、注意が必要だということ。必ず外部の空気を取り込み、脳に新鮮な空気、新鮮な意見を取り込む姿勢を持ち続けなければいけない。という2点。
ニコニコのアンケート結果、2ちゃんねるなどの巨大掲示板での書き込み、新聞社の世論調査、そして現実社会に起きている実際の出来事・・・・これらについて、人は自分なりの考えに基づき、それぞれの間にどれだけ誤差があるか、あるいは殆どないかを推しはかっている。ま~、俺が言いたいのは・・・たまにはそのサンプルを基にした仮説、記事、推論と、実態がどれだけ合っているか、そしてどれだけ間違っているかを確認するために、今回の衆議院選は使えるんじゃないですか?ってことですわ。本当は、もっと核心部分にも触れた話をしたいんだけど、俺が言っていることが凄まじい勢いで外れたら、何の意味もない・・・・こともないんだけど、少なくとも誰も俺の話しなんぞますます聞かなくなってしまうだろう。
こういうテーマを扱う際の一番いい方法は、最初に予測をどこかに書いておいて、後でそれを発表しつつ、答え合わせ的に検証するという方法だ。勿論、その場合は予測を派手に外した場合でも潔く予測内容を見せるということが絶対条件になる。合っていた事例だけ見せて「俺はノストラダムスを超えた!」と豪語しても、何の意味もない。っていうか、そういうのをペテンっていうんだよ!


ニコニコの衆議院選ネット入口調査

2009年08月14日 17時21分15秒 | 日記

とかいうやつの結果が発表されてましたが・・・・・個人的にコレ、かな~り興味持ってます。
実際の結果とどれくらい合っているのか、という点において。ニコニコの集計では、大体自民:民主が4:3の比率で支持を集めてますよね?コレ、実際の選挙結果とどれくらい誤差が少ないデータなんでしょうか?

最近、例の『統計で人をだます法』という本を読んで、幾らか統計の読み方つ~ものを知ったんですよ。
その中に“事前調査と全然違う結果になっちゃった興味深い例”がひとつ挙げられていました。

1936年にさかのぼって、あの評判になった「リテラリー・ダイジェスト」誌の大失敗がある。これを説明しよう。
まず、その前の1932年の大統領選挙の時に、結果を正確に予測したリストの中から1000万人
の電話所有者と、この雑誌の購読者がサンプルとして選び出された。調査の結果、この運の悪い雑誌の編集陣はランドン候補370に対してルーズヴェルト候補161になるであろうと確信をもって発表したのである。(訳者注:実際には共和党から出馬したアルフレッド・ランドンは36.5%の票を獲得したが、一方の民主党のルーズヴェルトが60.8%をとり、大統領になった)
すでに試験ずみのリストに、こんな偏りがあるとは、どうしてだろうか?もちろん、実際に偏っていたのである。というのは、この理由の解明をテーマに選んだ学生の卒業論文や色々の事後調査が明らかにしているように、1936年に電話を所有し、雑誌を購読できた人たちというのは、投票者全ての代表サンプルではなかったのである。彼らは経済的にも特別の人たちであり、サンプルとしては共和党支持者が多かったのである。そこで、サンプルはランドンを選んだのだが、全投票者はルーズヴェルトを大統領に選出したという次第である。

1000万人以上という膨大な数のサンプルから調査したのにも関わらず、予測を外してしまったというこの出来事は驚愕に値する。調べてみたのだが、1939年時点のアメリカの人口はおよそ1億3000万人くらいだった。なんという偶然だろう・・・・これは現在の日本の人口とかなり近いではないか!つまり、現在の日本で1000万人を対象にサンプルを取ったようなものだと(部分的誤りはあるが)置き換えても差し支えないように思える。
もし、日本人1000万人を対象に衆議院選の事前調査を行い、自民370に対して民主161という集計が出たら・・・・誰がこの結果を疑うだろう?1000万だぜ!1000万!「こりゃあ、信頼出来るデータが取れた!」と誰が思っても無理はない。ってゆ~か、俺なら思う。「皆さ~ん!次の政権与党も自民党!自民党ですよ~!間違いないっす!」とメガホン片手に喚き散らすかもしれない。・・・・この本を読んで、この話を知る前だったらねw

ニコニコの集計は注意書きを見る限り、かなり歪だと言わざるを得ない。
ご注意:
・インターネットユーザー20代~40代を中心とした調査結果を解析したものであるため、実際の投票結果を示すものではありません。
・総合及び男女の結果は、集計対象は20代~40代のユーザーとなっています。
・10代以下のユーザーにも、「選挙権がある」としてお答え頂いています。
・数値については合計100%になるよう調整をしているため、±1%の誤差があります。
選挙権持ってない人をアンケート結果からどうやって弾くんだろ・・・と思っていたが・・・え、10代以下の意見も反映しているの?そりゃあ、えらいこっちゃえらいこっちゃ。結果が大幅に変わる要因になりうる。
10代の人が政治についてどういう見識を持っているかということについては、俺は大体知っている。大学の教職クラスでは「小泉さんのようなリーダーシップのある人に日本を引っ張っていって欲しいですね」といった意見を自信満々に発表していた学生がいたし、バイト先の高校(俺の母校なわけだが)では、受験勉強中の高校3年生が「麻生、マスコミにイジメられて可哀想」「麻生さんには頑張って欲しい」「民主はさ~理想ばっかで、言ってることに全然説得力を感じないよね」などと友人同士で喋っていた。俺が二十歳前の人から聞かされる政治的な意見といえば、専らこういったものばかりである。「俺、野党を応援しているんだけど」とか「今の与党は駄目だね」と言ったヤツは、俺が記憶する限り一人もいない。それが、良いのか悪いのか、ということには今は敢えて触れない。が、“良いことじゃん”ということを証明する根拠はネット上にいくらでも転がっていて、探すのも容易なので、先生に聞いたり、図書館で本を探して読んだりするのが面倒くさい人は、確認の意味でもネット検索をするべきだろう。「自民」でも「民主」でも適当に政治用語をgoogleに突っ込めば、そういう類の話は幾らでも目にすることが出来る。

まぁ、ぶっちゃけて言ってしまうと、俺は選挙に対する、この“ニコニコ動画を利用している人”というサンプルをかなり怪しく思っている。ニコニコ動画を利用している人って、衆議院選挙の代表的サンプルとして適切だといえますかね?いや、別にニコニコが独自に調査するのは結構なんだけど、そのデータを信用するかどうかというのは別の問題だ。しかも、選挙権を持っている人だけじゃなく、選挙権ない人までサンプルに入っているというし、こりゃ~実際の選挙結果とはえらい違いになるんじゃないですか?85万人という数は、サンプル的には十分大きいように思える。しかし、ニコニコという場、10代以下もカウントする、という2点が集計結果に大きな偏りを生んでいるように思う。先のアメリカ大統領選の例では、当時電話を所有している人には偏りがあると述べていてた。俺は、2009年時点でニコニコを利用し、アンケートに回答した人というのも同様に偏りがあるのではないかと見ている。ま~ネットにおける意見交換や討論、議論がもっと牧歌的に進行していたら、俺もまた別の見方をしていたかもしれないけど・・・・う~ん、今のところはネットのアンケート調査には懐疑的にならざるをえない。
前にも言ったけど、来週からフランスに行ってしまうので、俺はこの結果をタイムリーに確かめることは(多分)出来ません。なので、帰国後にどういう結果になったのかを知ることになるでしょう。答え合わせが今から楽しみです。
俺は、ニコニコの結果は実際の選挙結果とかなり違う結果になるだろうと予想しています。そして、その理由と根拠も確信的なレベルで持っています。でも、郵政民営化の時は、「郵政民営化なんて、皆望んでないんじゃないの?」と思ってたのに、予想に反して自民がバカ勝ちしたし(あれが「俺たちはどうしても郵政民営化がしたいんだ」という国民の意思表示の結果だったのかどうかは分からんけど)、最終的にどうなるかは本当に最後まで分かんないね。まぁ今俺がここでこういう事をのたまい、予想が外れたからといって、何か罰ゲームが待っているってわけじゃないんだけど、友人からは嘲笑の的になるかもしれんね・・・。やっぱ、予想ってのは滅多な事でするもんじゃないわ。色々とリスクが大きい。
まぁ、ニコニコの結果通りだったら、ニコニコの集計結果を疑った俺の事を好きなだけ笑ってくれていいよw