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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

頭で理解できることに価値は無い

2009年11月19日 00時13分13秒 | 日記

“法則性が無いもの(つまり完全なランダム)”と、“法則はあるが複雑すぎて分からないもの”は、人間にとってはどちらも実質的には等しい。

素数の法則は未だ見付かってないが、多くの数学者が真剣にその法則性を探し当てようと日夜努力している。
法則性の有無が分からないものの、多くの人が関心を寄せるものに、血液型による性格分類がある。こちらは素数と違って、大真面目に法則性を探そうとしたり、「ある」と仮定して話を進めようとすると馬鹿呼ばわりされることが(素数と比べて)多い。
俺にはこの違いが良く分からない。もっといえば、株価の値上がりの完璧な法則性も未だ確立していないが、これを今、血眼になって探っている人はアホだろうか?

個人的見解をハッキリ言ってしまえば、人が彼らを馬鹿だと思おうが、暇人だと思おうが、努力家だと思おうが、ある意味それはどれも正しい。が、それら各々の結論が絶対的であってはいけないと思う。例えば「法則性のないものを一生懸命探してるなんて、彼らはバカだなぁ」と誰かが結論づけたとする。まぁ言うのはいい、それは自由だ。でも、それを言えるのは「法則なんてない」と知っている神だけであって、人間にどうしてそれを言えるのか、俺には分からない。
繰り返すが、“法則が無い”と“法則が(あるが)分からない”は実質的には一緒。そして、最も重要なのは、人間にはその区別が決して出来ないということ。
血液型性格分類はどっちですか?素数はどっちですか? 俺はそれが知りたい。が、知るのは容易ではない。

昨日、まっっっっっったくすることのない授業で、暇なので90分間ずっと2~3のテーマについてかなり真剣に考えていたんだが、何について考えていたのかひとつも思い出せない・・・・。俺の記憶力はどうなってんだ?
複数考え事していると、そのうちひとつはどうせ性的な事に決まってるが。


今日は朝早くから授業なので、世界最悪の早朝通勤ラッシュを耐えなきゃならん。女性とおしくらまんじゅうを楽しんでもいいのなら、それも悪くは無いが、痴漢にうるさい現代日本社会では他人との接触にも気をつけなきゃならない。
嫌なら無理矢理楽しむ方法を見出す!これしかないのに、それすらも許されない!あ~ヤダヤダ。スパイダーマンになって、天井に張り付きたい。


最近、発見した重大なこと

2009年11月13日 16時11分28秒 | 日記

水曜日は、俺の人生の中で最もつまらない授業がある日だ。ある水曜日当日、大学に行く前に腕時計がどうしても見つからず、その日は腕時計なしで出掛けることにした。外出時、時間が全く分からないというのもしゃらくさいので、一応普段持ち歩かないケータイを後ろポケットに突っ込んだ。でも、あまり意味は無かった。俺はケータイを持ち歩かないあまり、ケータイを持っていても、持っていること自体を忘れてしまう。大体、電車の中で本を読みふけっている間や自転車を漕いでいる間に忘れる。
そうでなくとも、授業中に時間を確認したいがために、先生の目の前でケータイをパカッと開いて時間を確認するのも、あんまりお行儀が良いようには思えないので、その日は時間を忘れて授業を受けることにした。
すると・・・・いつものクソ長い90分が、なんだか妙に短く感じた。いつもは、あまりのつまらなさに、授業中恐らく30回以上は時計をチラチラ見ている。その時と比べて、段違いに早く終わったように思えた。

よくよく考えると、時間があっという間に経ってしまう状況って、時間を確認しないで行動している時に起きる気がする。ゲームをぶっ続けでやっていたり、忙しい作業や仕事に追われていたり・・・・。
今までは、楽しい・楽しくないの精神的高揚度が、時間感覚を左右する唯一のもののように思っていたが(実際、それらの感情も重要な要素には違いないが)単に時間を確認しないだけでも、時間の長短感覚は良くも悪くも狂う。例えば、韓国で建物の倒壊に巻き込まれて10日間だか2週間だか生き埋めになった人がいて、救出されたとき、「3日くらいしか経ってないと思ってた」と言っていたことがあったが、アレに通じるものがある。もし、正確な時間を知っていたら、絶望や悲観などへと至っていたかもしれない。満足な栄養も得られず、それだけの長期間、じっと耐えることが出来たのは、短い時間感覚と、そういう誤情報に基づいた、身体的適応能力だったのかもしれない。
人間は、“実際”よりも“情報”に基づいて健康状態が変わる傾向があると思う。何の問題も無い食べ物を食べた後、「実は少量のトリカブトを入れておいた」とか「実は今飲んだ水にはオシッコが混じっていてね・・・」などと言われると、気分が悪くなったりする。
「ためしてガッテン!」では、ふたつのグループに無意味な運動をやらせ、片方のグループには作業後にご褒美(ステーキとビール)があると伝え、実験を行った。すると、ご褒美を伝えられなかったグループは2時間後、ヘトヘトな状態で作業をしていたが、ご褒美を知らされたグループは、「いやぁ、まだやれますよ!」とご機嫌な様子で作業をしていた。肉体的な負荷が同質であっても、何らかの期待を持つと、精神的に楽になる。そして精神的な負担減が結果的に肉体にも影響を及ぼす。このように、実質負荷とは別に、精神的負荷を抑えることで疲労を取り除く方法は、重要だと思う。

試しに今日も、あまり面白くない授業で、わざと時計を外してポケットにしまい込んで授業を受けてみた。・・・・やっぱり30分~45分くらいで授業が終わったように感じた。正確にいうと、授業中、それなりの時間感覚はあるにはあるんだが、終わった後の疲労感などがまるで違う。普段なら「あ~退屈な授業で疲れた・・・・」となるところだが、そういう風な疲れはあまり湧いてこない。眠気も少ないし、身体は快活、これは大きなメリットだ。
更に面白いと思ったのが、もうひとつの授業で1時間ほど時計を見ないで授業を受け、その後は時計をチラチラ見ながら授業を受けてみたら・・・60分:30分の実質時間に対して、体感時間は1:2くらいに感じた。明らかに時計を気にしながら活動している方が、長い時間帯にいるような感覚になる。嫌な時間を過ごす時は絶対に時計を確認しない方がいいな・・・・中途半端に確認すると、かえって毒だ。終了の合図があるまで、作業に集中したほうがいい。

同じ作業、同じ時間は、同等の結果を生まない。それが、同等の能力を持った人同士であっても。疲労の度合い、時間感覚のズレ、これら二つは何気に老化のスピードの個人差にも絡んでるんじゃないか?とまで疑っている。

月30冊はやっぱキツイ

2009年11月06日 22時01分17秒 | 日記

ビル・ゲイツの読書量に感化されて、今月は読書時間増やして、量読むことに専念。
1日1冊消化するペースで、今月は30冊読むことを目標に置いてるが・・・きちぃ・・・・。
分厚い本の攻略が難しくなってくるし、“とにかく1日1冊読む”というコンセプトにこだわると、どうしても読む本の質が下がってくるような・・・・。特に今日読んだ本は良くなかった。世の中、くだらない本も多いし、量だけにこだわってもあまり意味は無いかもしれない。が、一度決めたことだし、今月は量にこだわっていこうと思う。キツくてもう挫折しそうだけど・・・。俺ってば読むのおせ~!

帰りの電車の網棚に『non-no』が置いてあったから、興味本位で熟読してみた。ちなみにnon-noを読むのは生まれて初めて(だと思う)。
・・・・・・・・・・・・女の子のオシャレのレベルがひじょ~~~~~~~~~~~に高い。フランスやアメリカの比ではない。
女の子はあらゆる箇所にいじれる余地があるね。肌、爪、顔、髪型、服、アクセサリー、バッグ・・・・どれをとっても男より凝っている。「男には、こういう服無いよなぁ」「男じゃこんな風に髪いじれないよなぁ」と思う。 雑誌に載ってるだけあって、綺麗な子ばかり。オシャレによって、こんな容貌が出来上がるのなら、オシャレに夢中になるのも分からんでもないな・・・・と思った今日この頃。まぁ、元々俺は美意識は強い方だと個人的に思ってるんだけど・・・・周囲の人からはあんまそう思われてないらしいw別にいいけど。


アリストテレスはこう考える

2009年11月05日 18時24分55秒 | 日記

一般に、我々が思うところの対立構造はおそらくこんな感じであろうと思われる。
例えば、

引っ込み思案な人←→図々しい人
寡黙←→多弁
慎重←→大胆

国語の勉強ってワケじゃないが・・・・人の特徴を自分なりに捉えようとするとき、普通はこういう風なタイプ分けを行うのではないだろうか。「あいつは口数が少ないよな~」「アイツはおとなし過ぎる。もうちょっと積極的になった方がいいよな」といった感じに。
これらの人間的性格は、バランスが難しく、どの要素もあればあるだけ良いというものでもなく、度を過ぎれば変人扱いされ、もっと悪ければ変態・狂人レベルに嫌悪されるものとなる。
こうした性質の理想的バランスとは何か?そして、そんなものはそもそもあるのか?といった疑問に対し、アリストテレスはこう回答する。

恥知らずと内気の中間に慎みが存在し、これが理想的であるといった具合に、中間点が人間にとって最も望ましいと彼は考えた。
臆病と無謀の中間は勇気であり、これが理想。
敵意と追従の中間は親愛であり、これが理想。
横柄と媚びの中間は威厳であり、これが理想。
臆病すぎても駄目。かといって、何にでも立ち向かっていくような無謀さだけしかないのも駄目。ふたつの性質をよく理解し、心得た者がその中間に近い位置、つまり勇気ある者といえる。・・こう彼は述べる。
極端すぎず、中間であれ、という例にこんなのがある。


野暮な人は、冗談を全く受け付けないか、あるいはやっと受け付けるかであるが、おどけ者は、どんな冗談でも無造作に、かつ喜んで受け入れる。
しかし本当は、そのどちらであってもならず、冗談のうちのあるものは受け入れ、他のものは受け入れないようにすべきであり、しかもそのことを理に即してなすべきである。そしてこのようにする人が、機知に富んだ人なのである。

冗談はむしろ、中の状態にある人(おどけ者でもなく、頑固者でもないという人)に喜ばれるものでなければならない。と、いうのも、その中の状態にある人は、正しく判別してくれるのだから。

<いかがわしい意訳>
堅物も駄目だが、下品で低次元なネタでゲラゲラ笑う無教養な人間もまた駄目だ。冗談やギャグにも色んな程度がある。笑うに値するものには反応を示し、くだらな過ぎるものは斬って捨てる、こういう判断を的確に行える者は教養人だ。

そういった意味でも、ある冗談が下品か上品かを判断してもらう対象は、品のなさ過ぎる人でもなく、堅物でもない、その丁度中間に位置する人に判断してもらうのが良い。他の連中は、正しく判別できっこないぜ。



また金の使い方に関する話はこんな感じだ。

かくて、大きな支出をなすにあたって、事柄にふさわしい金額を選ぶことができる者、つまり、そのような大きな支出をなす場合にも、そういった「中」の状態を目指すことの出来る人が、豪勢なのである。
これに対して、過大で、度外れな支出をなす傾向の者には、名前がついていないのであるが、しかし、一部の人たちが「趣味の悪い人」とか「見栄っ張り」とか呼んでいる人たちが、これに近い人間である。

また理の命ずる通りにもてなす人が、豪勢な人なのである。何故なら、「ふさわしいこと」とは、事柄に相応していることだからであり、つまり、不相応なことはどれも、ふさわしくないからである。

<いかがわしい意訳>
一般的に、豪勢な人というと、気前よく金を使う人のように思われがちだが、それは間違っている。常識や適正値を超えた水準で身分不相応な出費をしている者は、俺から言わせれば、まともな判断力のないただの肥えた豚だ。全然理性的な行動をとってねぇじゃね~か!馬鹿と豪勢を履き違えるな。身の丈に合った、つつましくお金を使う者こそが豪勢な人というのだ!


アリストテレスは臆病者と無謀な者の中間に勇気ある者がいる、と述べておきながら、性質としては臆病者と無謀な者の方がよく似ているし、近いと語っている。
これは図で表すと奇妙に思えるかもしれないが、逆にいうとこの構図にとらわれている事が、思考の硬直化ともいえる。柔軟に考えるキッカケになりそうな話しだ。
臆病者←勇者→無謀な者
中間に勇者が来るので、臆病者と無謀な者同士が最も対極的に見える。でも性質的には
勇者←→臆病者&無謀な者

と見るのが正しいだろうと彼は言う。その説明箇所を引用してみよう。

ところで、中の両極端との対立のほうが、両極端相互の対立よりもいっそう大きいのである。というのは、中は両極端のいずれとも一緒に生じることはないが、両極端は互いに一緒に生ずるからである。つまり時には、同じ人が「無謀な臆病者」であったり、ある事柄では放漫であるが、他の事柄ではケチであったり、要するに、悪しき面ではその行動に一様性がないからである。

<いかがわしい意訳>
臆病者と無謀な者というのは、両極端の存在とみなされがちだが、勇者と比べると、むしろ彼ら同士のほうが同族的で仲が良い。そして、臆病と無謀は同一人物に同時に備わることが珍しくない。
何故、全く逆とも思える性質が同居するのか?話は簡単だ。臆病も無謀も悪い性質だ。悪い性質は悪い性質同士、結託する。だから、浪費家な面と非常にケチな面を同時に持っている人も存在する。欠点や悪い面というのは一面的というよりは、多面的であるという事を肝に銘じてほしい。悪い行動は、様々な形で表面化する。

全面的に支持するかどうかはともかく、なかなか面白い着眼点だと思う。

※引用先
『世界の名著 アリストテレス』 中央公論社より


ビル・ゲイツの学生時代の年間読書量

2009年10月31日 13時14分00秒 | 日記

は300冊オーバーだったらしい。「僕は学生時代は年300冊以上は読んでいたね」と本人が発言したわけじゃないから、信憑性は定かじゃないが・・・。
ハッキリしたデータはフィンランドの例だ。OECDの世界学力テストPISAで読解力、数学的リテラシーなどの分野別順位でTOP3をほぼキープしている学力大国といわれるフィンランドでは、図書館利用率がかなり高い。国民一人当たり年21冊借りているという。対して日本は年4.1冊。す、すくね~・・・・。

読むのが遅い俺としては年300冊オーバーはキツイかもしれないが、読書が楽しい今、目標とする数値としてはいいかもしれない。
どこかの大学教授が大学に入学したとき「よし、この4年間で1000冊本を読むぞ」と決めて大学生活を頑張ったという話を聞いた当時は、「なかなか根性あるの~」と思っていたが、ゲイツの目標の方がハードルとしてはやや高い。
でもさ~学術書に手を出すと、全然冊数稼げませんよ。アリストテレス全集は読むのに1ヶ月かかったし、ハイエクの本も200ページくらいしかないけど、スイスイ読めるような平易な内容じゃなかったので半月を要した。
電車の中と授業の空き時間だけの読書じゃ、全然ヌルイ。1ヵ月ごとの読書量を振り返って、少し読書時間を調整してみることにした。
取り合えず10月に読んだ本を列挙。

『致命的な思い上がり』 フリードリヒ・ハイエク
『プロパガンダ教本』 エドワード・バーネイズ
『東大生が書いた頭が良くなる算数の教科書』
『世界の名著 アリストテレス(政治学、詩学、形而上学、エウデモス倫理学)』
『フランス人のケチの美学』 もたいようこ
『経済は感情で動く』 マッテオ・モッテルリーニ
『ネット右翼とサブカル民主主義』 近藤瑠漫
『ハーバード・ケネディスクールでは何をどう教えているか』
『<性の自己決定>原論』 宮台真司
『ギャルとギャル男の文化人類学』 荒井悠介

最後の本は、高校時代の同級生が出した本なので、良かったら読んでやってください♪

家にたま~に週刊誌が転がっていると(親父が気になる記事があったとき、友人・知人が出ているとき買ってくる)、一日中それを隅から隅まで読んだりしている。あと最近、朝日新聞社が出し始めた『マンガ日本史』を購読し始めたので全体的な読書量は落ちてるかな~。
この『マンガ日本史』、初回と第2回が卑弥呼>聖徳太子という実在が定かじゃない人物を扱ったってこともあるんだろうけど、マンガの中身がかなり好き勝手やられてますね・・・。卑弥呼が予言者だって言われていることから、日本が将来原爆を投下される未来まで見通しているみたいな描写があって、「それはやりすぎだろ!w」と思いましたね。まぁやり過ぎだと分かっててやってるんだと思いますが・・・。
しかも後で気づいたんだが、これ、子供向けの週刊誌だったのね・・・。まぁ最新の学説とか知ることが出来るし、なかなか楽しめる読み物だとは思います。一応、マンガでやり過ぎたフォローとして(?)卑弥呼の鬼道の内容はまだ全貌が明らかになっていないこと、邪馬台国の場所・存在についても論争が未だ続いていることなどを書き記してある。
・・・まぁ俺がもし漫画家で「卑弥呼書いてください」という依頼がきたら、確かに「殆ど何も分かってないし、資料も少ないし、こんなもんでいいだろ」とか適当やっちゃいそうな気がするw


原爆以外にも大仏、マッカーサー、黒船、鹿鳴館(?)など様々なモノが見えています。見えすぎです。しかもテレパシー機能まで使ってます。やりたい放題過ぎて、読んでいる最中笑っちゃいました。俺もこんな姉さんほし~!
『マンガ日本史』は今後の人物の描写に期待。卑弥呼と聖徳太子は題材としてフリーダム過ぎたのかもしれない。
まぁ無双の卑弥呼も相当ワケ分からんし↓

ゲームの何でもアリ思考に慣らされた俺にとっては、今更騒ぐには当たらない(爆笑はしたけど)。学問的にどうかという話と遊び心、空想はまた別、ということでニヤニヤしながら読み進めています。まぁ後半の資料部分は一転して大真面目な内容だし、得るものは多い。
一方、集英社のマンガ版『日本の歴史』『世界の歴史』は芸が細かい。単に漫画の演出上そうしているような話が、実際の資料に基づく正しい(と思われる)記述だったりする。


蘇我馬子はどこからともなく、このように天皇が「この猪のように、馬子の首を斬ってやりたい」という話を知り、天皇暗殺を指示し、実行したという話は資料にも載っていた。子供の頃はこういう部分はあまり気に留めてなかったが(教科書にも出てこないし、ましてや試験にも)色んな資料を読み漁るうちに、「アレ!?これあのマンガの内容と一緒じゃん!あれは、本当のことだったのか」と思うことが数多くある。
『世界の歴史』ではダ・ヴィンチ、ミケランジェロのエピソードが印象的だ。


ミケランジェロが天井画を書いている際、癇癪を起こして、画材を上から放り投げたという話、ダ・ヴィンチが絵画教室でハイレベルな天使を描き、それを見て先生はショックを受け、失意のもとに絵画をやめてしまう、というこれらのエピソードも後に資料で確認した。なんか、どうでもいいような一場面、コマにも資料に基づくエピソードを練り込み、非常に完成度が高いマンガに仕上がっている。今頃になってそういうのが分かる始末。東大教授による責任編集、監修はやはり伊達ではなかった。
新鮮な気持ちでマンガを楽しめるし、また勉強にもなる。


神経質であるということ

2009年10月04日 13時23分20秒 | 日記

何でも、トイレの擬似水洗音を鳴らすことができる携帯アイテムがぎょうさん売れてるんだと・・・・特に女の子の間で。これで、公衆トイレで用を足すとき、遠慮なく屁をこくこともでき、音を立てずにお上品にウ○コを捻り出すようなテクニックも必要なくなり、要はこのブザーのおかげで気持ちが楽になるということらしい。
いや~、このアイディアは完全にやられた!成程、日本人が気にしそうなものだわ、コレは。日本人ってホントーに細部の細部まで気にするよね。そこが、いいところでもあり、悪いところでもあるんだが・・・。
フランスと比較すると、日本人の神経質さの異常っぷりがよく分かる。いや、全員神経質ってわけでもないけどね、俺みたいに「お前はもうちょっと人に配慮したほうがいい」と言われるような無神経野郎もいるし。
フランスは公衆トイレが極端に少なく、たま~に歩道に一人用の公衆トイレが設置されていることがあるが、このトイレがどうもおかしい。男女共用っぽいのは分かるとしても、便座がないのが理解できない。最初は壊されたか盗まれたかして、無いんじゃないか、と思ってたのだが、ある日メトロでフランス在住の日本人女性と出会い、ちょっと話す機会があったので聞いてみた。「公衆トイレに便座がなかったんですが、アレ、どういうことですか?男は“小の方”だったら問題ないですけど、女性はあれじゃあ使えないじゃないですか。まさか空気椅子でやれってわけじゃないですよねw?」と冗談まじりに質問したら、「そうですよ、アレ辛いんですよね」という耳を疑うような返答が・・・。
はぃぃぃぃ~!?まさか、一流国フランスで空気椅子で用足しを強要されるとは・・・・夢にもおもわなんだ(ホテルとかカフェとか美術館とかのトイレは普通)。こういう国に神経質な人が行ったら、えらいことになる。実際、俺の弟が極度に神経質な人間で、母親に言わせれば「(俺と弟の)二人を足して2で割ったくらいが丁度いい」というタイプだが(つまり、それだけ俺が無神経だというわけだが・・・)、日中、パリ市内を観光して、夜家に帰ってきて、一日の不満をぶちまけるのが日課になっていた。
フランス人はどんなに贔屓目に見ても無神経な連中ばかりだ。だが、それは相対的な話に過ぎないと思う。日本と相対化すれば、どこの国の国民も無神経ということになるだろう。実際、日本人以上に神経質な民族っているか?
フランスみたいな国で、ウォシュレットや前述の水洗音ブザーが日本より先に発明されるなんてことは考えにくい。人々の感覚が大幅に変わらない限り、ありえそうにない。これらの例を見ても分かるように、日本人の神経質な特徴は「う~ん、これ不便だな~」「もうちょっと良くならないかな~」という“必要は発明の母”の原則に最も近い感覚といえる。神経質な人のためのアイテムは神経質な人(国)によって生み出される・・・・考えてみればごくごく当たり前のことだ。生活のこうした細かな点に対する配慮、改善志向が新たなアイディアや発明に繋がっていくのだと思う。とはいえ、人間が生活上快適になるってことは、その快適分を人間以外の誰かさんに負担してもらうってことでもあるから、一概に良いことだとも言えないんだけどね・・・。

何かに神経質であったりストイックであることは、改善努力や洗練されたモノを生み出す原動力になるとは思う。しかし一方で、神経質という面はこじれると、モノや人に対する行き過ぎた潔癖をもたらすというデメリットもある。
東京の水は不味くて飲めないとか不満を言う人や、ミネラルウォーターでご飯を炊いている人、一昨日は生姜焼き定食みたいなのを頼んで、肉だけ食って野菜に全く手をつけないで帰っていった人もいた。神経質なのか、贅沢なのか、わがままなのか・・・どちらにせよ、俺の感覚では、子供に「そうしなさい」と教えるような内容ではないと思う。
人のこうした性質や好き嫌いは、直したり修正することは殆ど無理なこととされている。ウチの大学の現代思想論の教授も「人の性格なんて、そう変わるものじゃないんですよ」と言い切っていたし、人の習性、性格、好みを変えようとする事は、労力の無駄という意味でアンタッチャブルな領域とされている。が、俺は全くそうは思わない(まぁ、性格、習性、性質、好みはそれぞれ意味も内容も違うという議論があるだろうが、その話はとりあえず置いておく。人の特徴や特性といったものを、類義語で大雑把にひとくくりにして話を進める)。
自分で「明らかにこれは欠点だ」と思っているもの、「こういう風な人間になりたい」と思い、そしてその努力を(稚拙な方法であっても)続けているものはいずれ希望に近い形で変質していく。ただ、多くの場合「こうした方が俺らしいだろ?」とか「自分に正直に生きる」だとか「他の人だって欠点を持っている」といった何かしらの言い訳の中に安住しがちだ。しかし、全ては意識の問題だ。環境問題も、今言ったような言い訳をしている人は、到底取り組めない。だが、「問題だ」と意識している人、し続けている人は、今何も具体的な行動を起こしていなくても、遅かれ早かれそれは変化する。何故なら、同じようなタイプの人との出会いが増し、次第にその影響も受けていくから。
スタンド使いはスタンド使いと引かれ合うというのは、ジョジョ特有の設定でもなんでもない。“同質の人間は引かれ合う”、この法則を当てはめただけだ。そして、人は人の影響を受け、方向性が強化される。俺がホストと偶然知り合いになることはあるにせよ(実際あった)、同質の人間との出会いに比べればはるかに少ない。これは事実だし、多分他の人もすべからくそういう傾向にあるだろう。だとすれば、この傾向を逆利用しない手はない。
人が法則に抗えないちっぽけな存在だとしても、やれることはたくさんある。俺がホストになりたいのなら、ホストと積極的に付き合えばいい。努力家になりたいのなら、何かに努力している人と付き合えばいい。法則を逆利用しろとはすなわちこういうことだ。


ノーベル経済学賞

2009年09月29日 23時44分09秒 | 日記

ポール・クルーグマンの評価が気になったので、授業後、経済思想史の先生に話を聞いてみた。この先生はマルクス経済学が嫌いなようで(間違っていると思っている)、授業で、「マルクス経済学は、私の授業では殆ど触れません。ウチの大学にはマルクス経済学という1年かけてやる授業がちゃんとあるので、そちらの方におまかせしています。マルクス経済学をキッチリやりたい人はそっちを取って、勉強してください
ってな風な事を度々言っている。先生の特徴をかいつまんで説明すると、頭の毛は俺の親父といい勝負といったところで、不真面目な学生を目にすると機嫌悪そうに注意する。寝てる奴には怒らないが、言葉に出しながら呆れる。授業の要望アンケートを度々取ったり、やる気オーラが満ち溢れている。教授は自分の論文や手柄には誰でも関心があるものだが、授業も手抜かないぜと、殺気を漲らせているのはこの人くらい。いや、他の先生が不真面目ってわけでもないんだけど、この先生は頭ひとつ抜けている。野球で例えたら、ボテボテのピッチャーゴロ打ってしまったのに、般若のような形相で一塁に全力疾走し、ヘッドスライディングかますような超絶ガチタイプの人(に、俺には見える)。
この先生によると・・・・ポール・クルーグマンは・・・・一言で言うと「微妙」だそうだ。この先生は授業中は、前述のようにハッキリモノを言うが、学問全体に対する姿勢や人間的態度は非常に謙虚だ。露骨に「あの人は馬鹿ですよ、間違ってますよ」なんて言わない。アメリカ留学が長かったらしいが、日本人お得意の“苦笑い否定術”みたいなものを使って、やんわり否定する。
経済学の先生は経済学部だからそこらにウジャウジャいるので、もうちょっと色んな人に聞いてみることにする。特に韓国人と、アメリカ人の先生の見解が気になるところ。

先日の日記でも書いたが、ポール・クルーグマンはノーベル経済学賞受賞者である。これが一般的に何を意味するかというと「コイツの言っていること(論文)は信用していいぜ」と国際的な承認が与えられたということである。だって、ノーベル賞なんて、そうそう誰でも貰えるものじゃないでしょ?・・・・・と、普通は思うところだが・・・・この認識を真っ向から否定している人が二人いる。またまた登場、『ブラック・スワン』の著者タレブと、今話題にした経済思想史の先生である。二人とも同じ事を言うものだから、俺は話を聞きながら、頭の中で笑ってしまったよ。
タレブは、ノーベル賞を貰うに値する思想家も、勿論ちゃんといるが(ダニエル・カーマンやフリードリヒ・ハイエクなどを挙げている)、ハリー・マーコヴィッツとウィリアム・シャープ、この2人がノーベル賞を貰うなんて狂ってる、と述べている。確かに、最初の二人は俺でも名前を知っているが、後の二人は全く聞いたことが無いw誰?コイツ等・・・・。
『ブラック・スワン』の中では、こんなエピソードも紹介している。

ノーベルの家族によると、彼(=ノーベル)はお墓の下で怒りのあまりのた打ち回っているかもしれない。一族の中でも元気のいい人たちは、この賞を、経済学者による宣伝活動だ、自分たちのやっていることを本当の姿よりも偉く見せかけようとしている、そう言って批判している。

ノーベル賞選考委員会は、シャープやマーコヴィッツのモデルを検証してみるべきだった。あれはインターネットで買えるインチキ薬みたいなもんだ。でも、ストックホルムの皆さんは、誰もそんなこと思いつかなかったみたいだ。それに、委員会は私たちのような実務に携わる人たちに意見を聞きにもこなかった。代わりに、学界に選考を委ねた。こういうことをやると、分野によっては、骨の髄まで腐敗が進む。表彰が行われてから、私はひとつ予言をした。「ああいう連中がノーベル賞をもらう世の中なら、もう何があっても不思議じゃないよ。誰でも大統領になれる」
そういうわけで、スウェーデン銀行とスウェーデン・アカデミーは、ガウス流のモダン・ポートフォリオ理論にお墨付きを与え、金融機関はそれを言い訳にこのやり方を使い始めた。ソフトウェア会社は「ノーベル賞を受賞した」方法に数百万ドルの値札を貼って売り出した。これで失敗なんてありえないって、というわけだ。

後半部分では、かなりボロクソに言っています。まぁ、そういう分かりやすい箇所を引用したわけですが。
そして一方、経済思想史の先生は、ノーベル賞についてこう言った。
「ノーベル賞は基本的にあんまり信用できませんよ。特に経済学賞と平和賞は。経済学賞はですね、アメリカ経済に沿ったものが賞を貰うんです。だから、マルクスとかは全く相手にされません。」(他にも色々言ったけど、概要はこんな感じ)

二人とも「ノーベル経済学賞wwwwwwwwwだ・か・らwwww?」と言わんばかりの勢いだ。いや、それは二人に失礼か・・・・。俺がわざと下品に意訳しただけですね、コレは。
こういう話を聞くと、こう色んなところがムズムズしてくる。タレブが評価した2人の受賞者と、クソな受賞者2人の文献を読んで、比較したくなる。

タレブは更にこう言って締める。
喉がかれるまで何度でも言おう。社会科学で仮説の命運を握るのは伝染するかどうかだ。正しいかどうかじゃない。

面白いのは、ポール・クルーグマンもこれと似たようなことを主張している点だ。俺が部分的に“4か3くらい評価できる”と言ったのは、所々、こういう正論を述べるからだ。
生物学者のリチャード・ドーキンスは、ウイルスが宿主から宿主に広まるように、考えも心から心に広がっていくと主張していることで有名である。ある意味で、それは面白いほど皮肉な見方だろう。なぜなら、ある考えが広い支持を得られるかどうかは、それが真実であるか、ないしは役に立つかは重要ではなく、その考えをうまく宣伝できるかどうかにかかっているのである。

その宣伝って、ノーベル賞のことだよ、ノーベル賞受賞者ポール・クルーグマンさん。


後期スタート

2009年09月24日 23時37分21秒 | 日記

夏休みも終わり、今日から授業がスタートしたが、早速大きな失敗をやらかした。
いや、厳密には失敗しなかったともいえるんだが・・・中学の頃から自覚していた、俺の欠点がモロに出た出来事だったので、いい加減直そうと思い至った。
「いいんだ、俺にはこのスタイルが合ってるんだ」、こういう言い訳は、自らに対する開き直りとして、あるいは周囲からの鬱陶しい忠告を排除する上で便利だが、いつまでも言ってると、文字通り死ぬまで直らない。
つ~わけで、自分の悪いところはハッキリ認め、直すことに専念したい。俺はもう生き方を変える事に決めた。時間がかかろうと、失敗しようとやる。

予想外にも、この夏は随分と大きな変化があったように思う。
ヨーロッパ旅行で、今まで俺が思っていたことと160度くらい違う考え方と実態を知ったし、間違いなく俺の人生の中で一番影響を与えた書、『ブラック・スワン』にも出会えた。そして、夏休み終了と同時に考え方を改めるに値する出来事・・・・う~ん、今年は収穫が多いねぇ。
誰かとブラック・スワンの内容について語り合いたい・・・・。本の感想や意見交換は人と積極的に行いたいが、超メジャーな本でもない限り、あまり読む本がかぶる事は無いので、なかなかそういう機会に恵まれない。残念なところだ。
それはそうと、今読んでいるポール・クルーグマンの本は、毒舌風味で指摘が面白く、誰かに紹介したいような内容だ。特に面白いのが、この本、1999年に出版されているのだが、「こんな考え方に基づいて、こんな政策やったら、こうなりますよ~」といった感じで、アメリカの保守的な経済学者を批判しており、それが小泉・竹中の構造改革とよく似ているということ。ついでに、そういう人達を支持する大衆についても言明しているが、これもまたよく言い当てているように思う(今は本が出版されて10年目だから、答え合わせも出来る)。アメリカ人への批判というより、日本人への批判ととれそうなくらいだ。「アメ公は俺達と感覚が違う」などと俺らはよく口にするが、そんなものは全くのデタラメであるかのようだ。
アメリカ人と日本人は、行動パターンも嗜好も考え方も全然違う、という認識が一般的だ。それを全否定する気はないし、もっともだとは思うのだが・・・・ひとつ疑問に感じるのは、“行動が全然違うからといって、それはすなわち考え方も全然違うということである”・・・とは必ずしもならないのではないのか?という点だ。要するにこれは、口に出すor出さない、態度だけに留めるor実際に行動を起こす、といった表現方法の違いなのかもしれない。確信を得るには更なる観察が必要だ。


雑談

2009年09月20日 02時57分53秒 | 日記

う~む・・・・・頭の記憶容量が少ないのが本当に歯がゆい。さっき思いついたことをもう忘れかけている。何十回も見たことある英単語の意味を未だに頭に定着させることができない。熟語に至っては100回見ても忘れる勢いだ。俺が完璧に覚えている英熟語って20くらいしかないんじゃないか?毎日英語の勉強をしないと、忘れるもんなのかねぇ~。定年退職した元英語教師の人が、中高年だけが集まる市の英会話教室に参加しているらしいが、その人が言うには「やってないと、すぐ忘れますね、外国語は。」だと・・・・。ベテランでもこのお言葉。


バクマンは単に漫画作りということだけでなく、モノ作りとして、アイディアのヒントとしても参考になる。新妻エイジが子どもの頃自由帳に溜め込んだ落書きを参考にする、というシーンがあったが、アレはアイディアマンとしてなかなか良いと思った。どんなクソアイディアでも練れば化ける可能性がある。そういう意味では「記録をとる」「形として残す」という行為は重要だ。
大学に入ってから、俺も何かの影響でノートを作ることにした。最初は格言ノート、その後漢字ノート、読書ノート(図書館で借りた本で、参考になる箇所を書き写すためのノート)、アイディア(あと疑問に感じたこと)ノートを作った。たまに読み返すと「こんなこと書いたっけ?」「こんな本読んだっけ?」「こんなこと思いついたっけ?」と・・既知というよりは未知の情報に触れ合った感覚になる。
でも、これは他の人にもよくあることみたい。自分の書いた本だけをトイレに持ち込んで、用を足している間、それを読むという習慣を持っている人がいるんだけど、自分で自分の本に対して「この人、面白いこと考えるな~」とか「さすが俺だ!素晴らしい考えだ!」とか思うらしい。なんじゃそら、自画自賛かよ!wと突っ込みを入れつつ、こういう人(=学者)でも過去のアイディアとか忘れてるもんなんだな~、ということを知る。そらまぁ、確かに自分の経験や得た情報を何から何まで記憶できるものじゃないしな・・・。
一番使うべきなのはアイディアノートなのだが、アイディアや疑問はいつどこで湧き起こるのか分からず、しかも文章におこそうとすると「な~んか、頭で考えていることと違うような気がするんだよなぁ・・・」と不十分なモノしか出来上がらない。なので、最近はほとんど使ってない。肌身離さす持てるような、手軽なタイプの手帳を探すかな・・。
元々、ノートなんてめんどくせ~派だったんだけど、多くのデキル人たちがノートを活用していて、メモ帳やノートの使用を猛プッシュしてくるもんだから、慣れないながらも使い込んでいる日々。特にウチは親父も弟もかなりノート&手帳をモリモリバリバリ使う。だからちょっと感化されちゃったのかな。まぁ、情報量が増えていって、自分なりの資料が溜まっていくことにはある種の達成感とか満足感があるけど、ノートの内容を完全に生かしきっているとも思えないので、“ノートをとる”という行動そのものの成果は微妙・・・。まぁ小さい頃からの習慣ってわけじゃないから、苦戦しているだけだと思うけどね、言語みたいに。


ところで、全然関係ないけど、真女神転生3の攻略本の登場人物紹介の欄読んでいたらヒロイン(?)っぽい女の子、橘千晶がこんなこと言ってたんですよ。
「弱い者は乱し、惑わすの。自分では何も出来ないから」
だって。なかなか怖いことを言うね、このお譲ちゃん。最近、ゲームや漫画や映画など、とにかく誰かが何かを表現したものに妙に感心するというか・・・今までならサラッと素通りしていたであろうものに対して、「ん、待てよ」とか「ほー」といった具合にピクリとくることがよくある。FF10とかやるごとに感動度が高まるし、ワンピースはキャクターと同調する勢いで泣く。展開なんぞ知り尽くしてるのに・・・不思議だ・・・・。FF12は結構頑張って奥深いところを探してるんだけど・・・駄目だ、あんまみつからね。っていうか、イベントスキップ機能あるし、ロクに探してないかなw設定は凝ってますよ、うん。だから、どうしたって感じですが。

個人的にRPG製作で一番力を入れて欲しいところ
システム=グラフィック>キャラクター>ストーリー>設定
こんな感じ。グラフィックは重要度高いけど、システムのデキが最高だったら、実際はかなり許せると思う。作りこんであるグラフィックだと色々と臨場感高まって、ゲームに凄みみたいなのものが出てくる。キャラクターはストーリーと設定に比べれば、重要なのかな・・・というくらいのもので、ぶっちゃけ割とどうでもいい。極論すると、システムとグラフィックが優秀ならあとはあんまうるさいこと言わんよ俺は、って感じ。だから、FFとDQのシステムを丸々交換して出すのも面白いんじゃね、とかそういうことを口にする。FFもDQもシステム的に面白いものとして完成されてるのなら、キャラクターの取り替えくらい何でもない。
クソシナリオだったらどうするか?鬱展開とスプラッタが好きじゃないくらいで、そういう成分があったとしても、終わりよければ全て良し。だからRPGで、ストーリー駄目だから、このゲーム駄目ね、という評価は滅多にしない、した記憶も無い。
俺がPSPとかDSよりも、据え置き機の方が好きな理由は、システムとグラフィックをより重厚にできるであろうという、そういう点なんですね、多分。


なんか、昨日の日記・・・

2009年09月19日 00時32分49秒 | 日記

内容が分かりにく過ぎる・・・・。これ、読んで一発で俺の言いたいことを理解してくれた人、読解力あり過ぎだろ・・・。だって、読み返して自分で「?・・・え?・・・」とか思っちゃったものwそして、何度かまた駄文の手直し作業。
やっぱ考えを練る時間が短すぎた。今度から、閃いてからあまり時間が経ってない考えは、あまり書かないようにしたほうがいいかな・・・。忘れる前に書き残したほうがいいんじゃないかと思って、書いてはいるんだが。人に説明するのって難しいね~。今度からお堅いテーマはもうちょっと推敲してから書こう。

昨日、最強のパンチ攻撃知っちゃいました、どうしよう・・・・。ヤバ過ぎて、一生封印しなきゃいけないんだろうけど、一度、「どれくらい効くのかな~♪」と試してみたい自分もいる・・・。しかしデンジャラス過ぎる・・・下手したら死ぬぞコレ。俺が実験台になれって言われたら「慎んでお断り申し上げます」と言うしかない・・・。歯が折れたりしてもマズイし・・・。
でも、ちょっと考えるうちに、この事を逆手に取った、反暴力を有効に訴える教育指導法を編み出した。ムッフッフッフ、こっちは色々と活用できるかも・・・色々改良案練っておこう。

バクマン読んでいてちょっと思ったんだが、バクマンって漫画がテーマだから、漫画の中で漫画書いてるじゃない?んで、その漫画の中の漫画は小畑の絵のまんまじゃマズイからちょっと変えてるじゃない?そして、ある程度絵の才能がある少年が描いてるってことで、ウマめの絵じゃない?
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小畑スゲー!

あなたの画力に乾杯!