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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

この前、ブルーレイレコーダーを購入した

2010年01月02日 22時54分47秒 | 日記

親父が昔のビデオを引っ張り出してきて、デジタル録画している。昔の映像を久々に見てみると・・・・色んなものが見えてくる。1997年のイタリア旅行、1988年の運動会、祖父がまだ生きていた頃の映像など、様々ある。
ま~なんだ・・・・自分の小学生の頃の映像は、無邪気で可愛げもあるが、1997年のイタリア旅行と1998年のオーストリア、ドイツ旅行は、生意気なクソガキそのものだった。アレを見てしまったら、ゆとり教育がどうとか言えない。世代とか時代とか一切関係なしに、愚かだってことが一目で分かる。実際、当時は頭の中もカラッポだった。自分の昔の顔を見て、「こいつ、頭カラッポだわ」と批評するのも、気持ち良いものではないが、タイムマシンで、のび太が昔の頃の自分に会いに来て、似たような事を口走っていたような気もするから、まぁこういう感想が出てくるのも、もしかしたら自然な事なのかもしれない。

しかし、昔の映像は面白いところもたくさんあるね。まず、運動会で女子が当たり前にブルマ履いているわけだが、どうも現代だとどことなく違和感がある。そういや、最近ブルマとか見かけない気がするのだ。小学校教員である母親に「小学生って今でもブルマ履いてる?」と聞くと「今は男子と同じ短パン」と言っていた。
「何で、そうなったの?」と聞き返すと「ブルマは、よく盗まれるから」だと言う。・・・・・・・・・・・な・に・そ・の・り・ゆ・う。変質者のせいで、ブルマは廃止。バカは自分で自分の首を絞めるという良い例だなw世の男たちも、あんまり女子高生に悪さしていると、そのうち制服もズボンに切り替わるぞ。
また、サッカークラブの映像も面白い。試合をしている一方のチームは上半身裸だ。恐らく、ゼッケンの代わりに裸になることでチーム分けをしているのだと思うが、裸チームvsユニフォームチームというのも、なかなか差別的ですねwオレ個人の感覚では「素晴らしいアイディアだ」といった感じだが、今なら何かしらのクレームが入ってもおかしくない。「裸で試合させるなんて!」とか。そんな親にはインドのありがたいことわざを教えたい。

     五年間は王子のように、十年間は奴隷のように、
       そのあとは友のように、息子を扱え。

これ、年数だけに注目してもあまり意味ないと思いますよ。要は一人前として認められることが、友として扱われる、という意味だと思うんで。走ったり勉強できるようになる歳までは、ガッチリ面倒を見て、教育や躾に耐えられるだけの肉体と精神が形成されてきたら、一転今度はひたすら鍛える。そうして、肉体的にも精神的にも成熟した上で、大人の仲間入りを果たす、そういうことじゃないですか?
俺たち現代人は、10年間、奴隷のように扱われましたかね?扱われてない人は、昔の人と喧嘩しても、知恵比べしても、多分何ひとつ勝てないと思います。
オレも当時は「何で、ウチだけこんなスパルタなんだ・・・」と、親の躾の厳しさに嘆いたものだったが、今思えば、「温室育ちのぼっちゃん」レベルに思える。誰でも人生初体験の物事に対しては大袈裟な反応を示すものだ。人間が幼い頃や思春期に、何事かに異常に熱心になったりするのも、その事に起因する。が、それは悪い事でもなんでもなく、むしろ人間として正しい成長過程を歩んでいるとさえいえる。だけど、大人のモラルからすれば、異常者みたいな行動・思考に映るので、そういう奇異な様を見て不安を覚える人も多い。
子どもを教育する上で、最大の誤りは、大人社会のルールや価値観を用いて子どもを評価・判断する事。生まれてから死ぬまで、ある一人の人間が品行方正であり続けるべき、という考えは普通の人間には到底馴染まない考え方だ。10年~20年後のために、今この少年に体罰を加える・・・・オレは暴力を愛好する者ではないが、この教育法に、有効性を認めている。この選択肢をただ「野蛮」だとか「時代遅れ」としか評価できない教育者は、その少年に今苦しめられることはないだろうが、将来(自分自身を含めた)誰かを苦しめる一人の大人を生み出すことに加担する事になるだろう。
オレは体罰を殊更に正当化したいわけではない。今と未来を天秤にかけた時、“今”の結果だけで物事を判断することに、注意を促したいだけだ。今は見える、しかし未来は見えない・・・・この事に、現在の結果や見通しが、何よりも常に最優先される理由の本質が隠れている。


あけましておめでとうございます

2010年01月01日 21時00分05秒 | 日記

親戚とのお喋り&DQ7のやり込みというスタートで、私の2010年が始まりました。親戚絡みの集まりは日常茶飯事だけど、DQ7にハマるとは予定外でした。テストの準備と、レポート課題をおろそかにしない程度にやっていきたいと思います。

去年は・・・・っていうかたったの2日前の話なんだけど、その日に見た映画が本当に良かった。
「アバター」・・・・俺が見た今までの映画の中で最高の作品でした。脚本、映像技術、思想性、音楽、全てにおいてパーフェクト。上映時間が3時間弱の大作なんだけど、細部まで凝っているし、作品を通じて様々な問いかけをしてくるのでダルさは一切無し。映像だけを楽しみたい人、アクションやドンパチ要素を楽しみたい人、もっと根本部分の宇宙や生物というテーマについて考えたい人、誰もが満足できる。3Dメガネが重くて、メガネの上にメガネかける人にとって負担になってしまうことと、俺か俺以上に感受性の強い人は汗ビッショリになってしまうことがネックなだけ。手に汗握るどころじゃない。俺は上映中ずっとパーにしてたが、おかまいなしに濡れた。ついでに、パンツまで濡れた。暖房効き過ぎなのかもしれないな。

「え、こんなのが生涯最高の映画なの?俺、もっといい映画知ってるよ、教えてやろうか」と、誰か指摘してくれ。これより良い映画を知っている、と聞けば俺は喜んでそれを見ます。
現代人はここまでやれるのか・・・・という感動と、自己批判能力の高い西洋人の気概というものを見せ付けられた気がした。作り手の精神が、こちらの準備や心構えなどおかまいなしに入ってくる・・・例えるなら強風の日に窓を開けると、その大自然のパワーが自分の家というちっぽけな空間に入ってくるわけだけど、丁度そんな感じ。そういうパワーを感じれる作品が素晴らしいものだと思いますね、映画でも音楽でも絵画でもなんでも。

さて、中身にまで触れだすと、収拾がつかなくなりそうなので、DQ7やるか・・・・。
アバターもDQ7も、作品としてはどちらも「面白い」とオレは表現する事が出来ますが、オレが一般人にオススメするのは、前者だけです。
こういう違いが生まれてしまうところにも、言語の不自由性や、限界があるように思える。勿論、それでも我々は言語に依存せざるをえないのだが。


取り敢えず、年内の試験終わった

2009年12月18日 21時59分50秒 | 日記

あと授業が数回残ってるけど、気持ちが一気に楽に。
でも、課題が山積みなので気が抜けない。最近、ちょっと冷静に自分の世界史の実力を分析してみたんだけど・・・凄くお粗末な知識しか持ち合わせてない自分に絶望した。
日本史:全体的に苦手。特に室町時代以前は
中国史:普通の人よりは詳しい程度
南米史:殆ど真面目にやった記憶なし
アメリカ史:世界恐慌以降は割と得意
ヨーロッパ史:中世以前が苦手。近代以降も量が多いので、曖昧部分多い
アフリカ史:分からん
中東~インド史:滅茶苦茶苦手な分野
東南アジア史:弱い。っていうかココ強い人も結構変わり者かもしれないが。
ロシア史:漫画とかドキュメンタリーで、少しは知っている程度・・・?

世界史教師目指すなら、少なくとも「あ~・・・そこ、俺に語らせたら、ちょっとうるさいぜ!?」くらいは言えるレベルにしなきゃマズイと思う。
今借りてる本を全て読み終わったら、山川の詳説世界史研究を常に持ち歩いて呆れるくらい読み込もうと思ってる。

今ね、「インターネットの知」というものをテーマにした本を読んでるんだけど、これがなかなか凄いのよ。100ページほど読んだが、肝心のインターネットの話題があまり出ていないwメンデレーエフの周期表だとか、惑星の定義を巡る論争だとか、デューイが模索した図書館における本の配置だとか、百科事典はアルファベット順でいいのかとか、そんな話を延々としている。
いいね、こういう根本部分から語る気満々の本は。内容も面白いのよ、こんな調子でも。


お前の日記は長くて読む気がせん

2009年12月13日 23時35分05秒 | 日記

と、またまたクレームが入りました。大体、付き合いが長く、俺に遠慮しない友人はこう言ってきます。
「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」なんて、言ってくれる人は誰もいません。小泉元首相なら言ってくれるかもしれないけど、俺のブログを見て、しかもコメントまで付けてくれる可能性なんて、俺が宝くじで1億円当てる可能性より低いかもしれない。
なんか、世間的にズレてる話ばかりしているので、頭の方の心配もされる。まぁ、そういう予想もしていたけど、やっぱり自分に関する事だと何でも楽観的に考えちゃうね。もうちょっとくらいマシな評価をもらえると思ってたw
でも、俺はこれをむしろ好意的に捉えている。模索的な行為は、誰かに笑われてナンボ。勉強で分からん分からん言いながらも努力する、運動音痴ながらもスポーツに精を出す、下手糞ながらも何らかの技術を磨く(ピアノでもゲームでも何でもいい)、恋人探しに真剣に取り組む、どれも初めは無様なスタートなものだ。
俺の日記が滑稽である事は俺にも分かる。1ヶ月もして読み返してみると、突っ込みどころ満載で恥ずかしくなってくる。でも、それも成長の証だろう。漫画家が昔の作品を読み返して、悶絶するのと似たようなものだ。

日記を短めにする事は、正直なところ、俺もそう望んでいる。更新だって頻繁に行えるだろうし、何より文章作成に割く手間が減る。
でも、俺がなかなかそう出来ないのは理由が幾つかあって、中でも問題視しているのは、「短くまとめると誤解が多くなる」ということ。まぁ、長くしても誤解されてるんだけどもw
仮に、今日の分の日記を以下の分量くらいにコンパクトにしてみよう。


 

SEX観を語るに足る資格のある男

それは“100人の女を抱いた童貞”くらいのものだろう

ただし、これには大きな問題がある

100人の女を抱いて、童貞って、両立不可能じゃね~か!

だが、いや待て。方法がないでもないぞ・・・・

「童貞と非童貞は両立しえない」と“すぐに結論を出す事ができるお利口さん”には絶対思いつかないアイディア!

発想の勝利!やったね!


 

グダグダ経過を書くことを省くと、こんな感じになると思います。
で、多分、この文章はこのままだと理解不能であるか、大いに誤解されるだけでしょう。こういった話の理由だの、説明だのを書くと、結局長文化するハメになります(特にこのネタは、そう)。まぁ、俺の拙い説明では、長く書いても短く書いても、結局誤解しか生まないでしょうが・・・。
っていうかね・・・・SEXの話題だったら、それに直接関係することだけがテーマとして重要・・・ってわけじゃないんですよ。ゲームだろうが、勉強だろうが、スポーツだろうが、国際文化だろうが、職業だろうが、個人の生い立ちだろうが、映画・TV・漫画・ネットの影響だろうが、あらゆる事が関連性を帯びるし、また検証的行為が必要になる。俺の日記は、そのほんの一部と一部を断片的に切り取って、文章的制約の上で語っているだけに過ぎない、薄っぺらい内容なんですよ。
日記が長文になるか、短文で済むかというのは、あくまで結果論。俺が天才だったら、言いたい事全て、誤解されない形で一行でまとめることも出来るかもしれないけど、俺が天才か凡才かなんて事は俺以上に俺の周りの人間の方が正しく判断できるはずなので、敢えて言うまでもない。大体、短く上手にまとめるのは慣用句やことわざの領域であって、俺の力量じゃ到底及ばない。


何が“絶対的”で、何が“相対的”か?

2009年12月12日 10時03分22秒 | 日記

最近、アインシュタインの関連本を読んでいるせいで、相対性理論の概要が理解出来てるようにはなったが、しかし一方で(もっと簡単な話であろう)飛行機と地球の自転の関係のメカニズムと、フーコーの振り子の原理がどうもイマイチ正しく理解出来ない・・・。
フーコーの振り子実験↓振り子がズレていくことで、地球の自転を肉眼で確認できる事を証明してみせた。
http://www.youtube.com/watch?v=yoR-nH1_BWs&feature=related

しかし・・・俺、世界史教師志望ってことになってるんですが、こんなことばっかやってていいんでしょうか。

相対性理論って、学校教育を根っこからちゃぶ台返しするようなビックリ内容なんだが・・・なしてそこを誰も突っ込まん?
答え:多分、生徒をテストの点数で評価することが出来なくなるから。
人の評価ってのも難儀な仕事だよな・・・。テストが万能ってわけじゃないにせよ、テスト無しで3~40人の人間を公正かつ効率的に評価する方法ってのが思いつかない。というか、テスト以外のやり方だと、心象だとか、個々人の好き嫌いだとか、公平性だとか、色々な点で突っ込みどころが出てくる。「何で俺の評価が、こんなに低いの?」と言われて、どう返せるか?そしてその回答がどれだけフェアか?難しいところだ。
それでも俺は、そもそも成績を評価する必要があんの?評価すると、どう良い事が起こるの?しないと、なんかまずいの?ってところから考えたいんだが・・・・・こういうこと言い出す人って、教師としても人間としても「めんどくせ~ヤツだな」と思われるのかね~?


ここのところ、高校の先生や大学の先生にあれこれ質問するんだが、俺の質問のポイントがズレているのか、説明が下手なのか、理解力不足なのか、完全な納得を得て終わる、ということが殆ど無いことに、不完全燃焼感タップリだ。数学の問題なんかは、スッキリ解消するけども(まぁ数学の問題ってそういう性質のものだが)。
どうも、先生の方にも無意識に、「辻褄や理屈が合えばそれでいい」という考えや“テストには、こう答えておけば大丈夫”といった、模範的回答をコイツは求めているんじゃないか、という先入観が働いているように感じられる。テストの点がアップする情報や知識というのも確かに重要だが、俺が今求めているのはそういう事じゃないんだよなぁ・・・(まぁ、まだ試験受かったわけじゃないから、本来はそういうことを貪欲に求めるべきなんだろうけど)。
でも、物凄いやる気に満ちた2人の若い先生は、俺と感性が近いのか、俺の“聞きたいところ”の要点をよく理解してくれているように感じる。ちょっと込み入った話でも、立場を脇に置いて、真摯に対応してくれる。この前は英語の勉強法について、ちょっと参考意見を聞く程度のつもりが、1時間以上議論するという展開になった。もっと時間を取れたら、幾らでも話をしたい気持ちだった。
その英語の先生は「また喧嘩しましょう」と言っていた。この真意を汲み取るのは結構難しいと思う。相手を叩き潰すような、お互い全力を尽くす議論を求めているのか、はたまた「君の意見も尊重するよ」といったクリティカルなポイントにまで踏み込まない、ヤワな議論を脱却しようという意味なのか。これは、単に強調の度合いの違いに過ぎないのかもしれないが。
どちらにしても、“喧嘩”というものの重要な性質として“相手に遠慮しない”というものがあると思うので、その点さえ共有していれば、まぁいいのかな・・・・?

しかし、「場」や「人」に対する心構えや印象といったものは、こうも違うものかと思い知らされる。
俺が2ちゃんねるに書き込みをするとき、「まさか人格攻撃なんてしてこないだろう」なんて思っていたら、「お前、おめでたいな」と思われる。でも、先生の「また喧嘩しましょう」の言葉を「じゃあ、2ちゃん流の、煽り、人格攻撃、何でもアリでいいんですね!?」という意味に取ったら、今度は俺がピエロになる。
なんで、こういう違いがでてくるんだろう?先生の人格が立派で、2ちゃんねるの連中がクズばかりだから・・・・な~んて単純な事を言うつもりは毛頭ない。むしろ、そういう安易な結論に落ち着かないところに、人間の本当の恐ろしさ、怖さを感じるんですよ、俺はね。


YouTube・・・ニコニコ動画・・・いい時代になったもんだ

2009年12月08日 20時18分35秒 | 日記

中~高校生時代、綿密に価格調査をした上で選んだ、清瀬駅北口のCDレンタルショップへ、毎週のように通っていた頃とはダンチだな!
カセットテープやMDに録音するのに夢中になってたが、今、俺の部屋にはどちらも再生できる機械がない・・・・嗚呼・・・・。
というわけで(どういうわけで?)、折角だからエロゲー・ギャルゲーの主題歌100曲以上を聴いてみた。幾つか、「これはなかなかいいな・・・」と思うものがあった。


鬼医者OP 「Endless sorrow」
WHITE BREATH 「遠い背中」
オーガストFANBOX OP 「jewelry days」
秋のうららの~あかね色商店街~ 「星に願いを」
姫さまっ、お手やわらかに!ED 「プリンセス・フィナーレ」
紅 kure-nai 「Love jump」
永久皇帝少女 「いにしえの月」


ここらへんなんかは結構イケますね♪他9割は、あんまイケまへんでした。
なんか、24時間バージョンつ~のもあるようなので、そちらの方からも発掘したいと思います。

 

それはそうと、ランボーの詩集は戦慄を覚えますな。
17歳のとき、友人に宛てた手紙を読んでみると、明らかに内容が10代の鼻垂れ坊主が書くレベルじゃない。熟達した詩人を思わせる。
荒々しくて挑発的な文章。一見、狂人じみているが、凡人よりはるかに冷静。桁外れの分析力と表現力、呆れるばかりだ。訳者は「天性の反逆児」と評しているが、まさにその通り。ランボーという名が既に反逆的だがw

17歳でこの見識とふてぶてしさ!(ふてぶてしすぎて、友人に拳銃で撃たれ、左手を負傷します。)


愛情には一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にする事

2009年12月07日 00時05分59秒 | 日記

昨日の日記のラストで“使命感”というものにちょっと触れたのは、今読んでいるシュリーマンの自伝、『古代への情熱』に触発されたこともある。
あるエピソードを読んで、心の底から彼に共感し、同時に尊敬した。

私がノイシュトレーリッツから出発する前のある日、1836年の受苦日に私は宮廷楽師のC・E・ラウエの家で偶然にも5年間以上見なかったミナに会った。私はこのことを、私たちには忘れられないその最後のめぐり会いをば、決して忘れることはないであろう。彼女はいまは14歳になって、私が最後に会ったときよりたいへん成人していた。彼女は簡素な黒服を着ていたが、この衣服の簡素さが、彼女の魅力ある美しさをたしかにいっそう高めているようであった。私たちはお互いに目を見合うと、たちまち二人とも涙の雨にくれて、一語も言わずに、互いに抱き合った。私たちは幾度も話をしようと努めたが、興奮があまりに大きかった。私たちは一言も言う事が出来なかった。けれどもやがてミナの両親が部屋に入ってきたので、我々は別れなければならなかった。しかし私が興奮から再び静まるには長い間かかった。いまや私にはミナがまだ私を愛している事を固く信じた。そしてこの考えは私の功名心をあおった。その瞬間から私は無限の力をおぼえるとともに、たゆまぬ精励によって出世し、そうして私がミナに値することを示そうとかたく心に期した。当時私が神に願った唯一のことは、私が独立の地位を得るまで、彼女が結婚しないようにということであった。

泣いた。

ミナというのは、彼の幼馴染で、彼のトロイ遺跡の発掘という夢に、幼少の頃から理解を示し、応援してくれた少女。そして、この結末がまた更に悲劇的なんだよ・・・。まぁここで「最後のめぐり会い」ってオチ言っちゃってるけどさ。
彼のいう功名心とは、使命感とほぼ同義の強い気持ちだったと思う。実際、「無限の力」などと表現している。この意気込み、半端じゃない・・・・。畏敬の念を覚える。
俺が小学生の頃好きだった娘も「美奈」っていう名前だったから、余計に感情移入できて・・・・え?聞いてない?っていうかどうでもいい?
まぁ、俺の方はシュリーマンと違って、な~んの思い出もないがな!ただの片想いだったから!(泣)ついでにいうと、毎日意地悪してたせいで、完全に嫌われてた。・・・・まぁ少年時代なんてこんなもんよ。

俺も今でこそ(昔の反省からか)純情を気取ってるけど、シュリーマンに比べれば、「えせ純情派」だな。


映画『ファイトクラブ』

2009年12月05日 20時19分01秒 | 日記

が驚くほど哲学的な内容でビックリした。
「男ってすぐ暴力を美化してや~ね」、といわれても仕方ないような中身だと勝手に思っていたが・・・、まさか啓蒙的映画だったとは!
「ファイトクラブ」というタイトルより、「ブラピと共に考える社会哲学」というタイトルの方が内容的に近いかもしれない。多分、興行収入が半減してしまうだろうが・・・。
この映画から学べる事はたくさんあるが、一番重要だと思われるのは生き方を変えさえすれば世界(観)が変わるということ。そして、大衆的な価値観や常識に捉われず、もっと人間的で、自由で幸福なものを探ろうぜ!というメッセージを発しているように感じられた。

お前は“物”に支配されている

人は財布の中身でもファッションでもない

「“デュヴェ”を?」
「ふとん?」
「正確には毛布だ。だがなぜその名を知ってる?生存のための必需品でもないのに皆が知ってる。それは何故か」
「消費文明の世の中だから」
「そう、我々は消費者だ。ライフ・スタイルに仕える奴隷。殺人、犯罪、貧困、誰も気にしない。それよりアイドル雑誌にマルチ・チャンネルTV、デザイナー下着、毛生え薬、インポ薬、ダイエット食品・・・・」
「ガーデニング」
「何がガーデニングだ!タイタニックと海に沈めばいいんだ!ソファなんか忘れちまえ。パーフェクトを目指す事なんかない。頭を切り替えて、自然な生き方を」






生き方を変える、といっても本質的には精神を変えること。そして精神を変える前段階として、意識を変えることを促している。いきなり「今日から生き方変えろ」と言われて「じゃあ変えますか」という奴はなかなかいない(ブラピは映画の中で「今日から変える」手法を示しているが)。だから、その前の前の前の・・・・・・段階から始めるのだ。つまり、その人にとって、“ここなら変えられる”という妥協点を。
ヒンズー教の教えにも似たようなものがある。

心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。


最近、「想像妊娠」というものが、俺が考えている以上に異常なものであることを知り、情報や思い込みが人間に与える影響は無視出来ないものがあるな、とますます感じるようになった。
想像妊娠って、単に女性が「あたし今妊娠してるんじゃないかしら」と、思い込む程度のものだと思っていたが、全然違った。実際に体も妊婦のごとき変化を起こすらしい。
『動物たちの奇行には理由がある』(V・Bマイヤーロホ 技術評論社 2009年4月)から、擬似妊娠の項目を引用してみよう。

擬似妊娠の症状は、本物の妊娠症状と比較しても極めてよく似ています。生理周期が停止し、つわりが起こり、乳房は大きくなり、乳首が黒くなるなど、本物の妊娠とほぼ同じ症状が表れます。ホルモンのレベルも変わり、働いたりした後はお腹が痛くなったりします。
擬似妊娠はイヌでも起こさせる事ができます。雌イヌと雄イヌを同居させ、雌イヌの生殖器に雄の精子が入らないようにすると、雌イヌは擬似妊娠します。擬似妊娠させられた雌イヌは活動的でなくなりますが、極めて攻撃的になって、自分の巣を守ろうとします。腹部や乳房は明らかに大きくなり、乳首も出産が近づくと-実際には近づいてはいないのですが-あまり動かなくなり、寝床で寝てばかりいるようになります。
とはいえ擬似妊娠はあくまで擬似なので、出産する事はありません。擬似妊娠が終わるとき、突然腹部が小さくなり、妊娠のような諸症状もなくなります、しかし乳は分泌され、軟らかいおもちゃを自分の子どもとして受け入れたりします。

(細工さえしなければ)妊娠するであろう行為を行うと、それが物理的・生物学的に絶対妊娠しないものであっても、身体の変化が起こる・・・・これは非常に興味深い事例だ。たとえ無意味な儀式であっても、情報として、風習として、文化として何らかの意味を帯びていれば、それは一定の価値や効果を持ちうるし、実体的・肉体的な変化も誘発しうる・・・そういう疑いが、擬似妊娠の話から起こってくるのだ。
これ以外の数々の例を見て、俺はもはやほぼ確信しているのだが・・・情報だけで人は良くも悪くも変わる。それこそ、周囲の人間が心配するくらい何かに猛烈に打ち込んだり、また逆に狂人みたいにイカれてしまうこともある。人の認識の変化は、直接的な体験のみが左右するものではない。意図的な音楽や文字、映像でも認識の変化には十分な情報といえる。皮肉にも、俺がこうして書いているブログも含め、このインターネットという音、文字、映像に溢れた電脳空間がそれを証明してしまっている。
人間の想像力や連想力は、実体や体験的なものを伴わなくとも、人の精神に関与・侵食していき、最終的には行動にも影響を与える。
例えば、実際にその事件が起こっていないとしても、自分の子どもが誘拐された、家が火事になっている、預金してある銀行が破綻した・・・・などといった話を聞かされただけでも、人はそれらの結末を過去の記憶から総合的に判断し、絶望し、慌てふためく。眼の前で相手の大切な物を壊さなくても、「あれ、壊したよ」と一言告げるだけで、怒りを呼び覚ますには十分である事もある。
・・・だからこそ、人は嘘を利用し、状況をセッティングする。
「嘘」と「本当」とは一体何なのか?我々が目にするもの(あるいは聞かされるもの)と本質は常に一致しているだろうか?していないからこそ、嘘が入り込む余地があるのではないだろうか?
嘘は結果だけの問題だろうか?例えば結婚詐欺で、ある女性と結婚した男性がいたとする。そして、(普通、ありえないことだが)30年(あるいは3ヶ月でもいい)健全な夫婦生活を送った後、男は死んでしまった。女は勿論それが詐欺とは気付いていない。こうした出来事を我々はどう捉えるべきだろうか?夫婦生活が健全で、長きに渡って維持されてさえいれば、男の魂胆は無視してよいと考えてもいいものだろうか?あるいはその点こそを重要視するべきだろうか?
このストーリーは男から見れば「嘘」によって成立している。女もその「嘘」の情報を共有していたら、話は成り立たない。ここでのポイントは、情報の共有化、あるいは独占化や偏りは、出来事の実態以上に大きな影響力を持ちうるということ。そして、「本当」の情報が、何らかの形でそっと入り込むだけで、話は簡単に動き、大きな展開を見せるということ。“事実”が変化しなくても、何らかの(特に利害に関わる)情報がその場に舞い込めば、当事者は精神的動揺を起こし、また直接的な行動に出たりもする。これはいくら強調してもし過ぎる事はないくらい、重要な点だ。

世の中は、直接的・絶対的な出来事のみが支配しているのだろうか?俺はそれに対して懐疑的だ。
「癌患者に病名を告知しますか?」「何故浮気を黙っているのですか?」「何故上司や好きな人に本音を言わないのですか?」これらの質問に対する考察は、何が良くて、何が駄目かという事と、情報の性質を探るのに役立つかもしれない。


成功の秘訣

2009年11月28日 22時33分30秒 | 日記

が、かなり完璧に分かったけど、何も成功していない俺には、語るに足る資格がないということにブログ書く直前で気付いた。
俺はいつも、こういう初歩的なミスを犯す。今日も介護実習最終日ということで、無茶苦茶張り切って、早めに家を出て、準備万端(のつもり)で臨んだが、昼飯買うのを忘れて、午後はちょっとひもじい思いをするという失敗を犯した。これについていい訳させてもらうと、ここ数年、昼飯は昼になってから学食やコンビニを利用する習慣がついていたので、朝の段階で昼飯を確保しておくという行動と発想に不慣れだった。なんか違和感は感じてたんだけど、施設に着くまで気付けなかった。「アレも持ったし、アレも持った・・・忘れてヤバイ物は何ひとつ無い」そう確信して家を出たが、その事に気をとられすぎたあまり、家を出た後に確保すべきもの(=昼飯)を忘れるという落とし穴にはまった。
今回の内容も似たようなものかもしれない。秘訣を掴んだが、自分自身がそれを語るに値しない立場にあることを完全に忘れてた。

俺は最近あるバイアスを、完全ではないにせよ、かなり取り除けたことを喜ばしく思っている。10年間、一度も掃除をせず、埃まみれになった床を、たった一度ではあるが、雑巾がけできたような・・・・完璧ではないが、そんな心地よい一歩だ。
そのバイアスとは

人にとって多くの場合、何を言われたかということよりも、誰に言われたかの方が重要である

ということ。これは単純かつ重要なことではあるが、人間にとって何ともし難いものだと思う。
キリストと麻原彰晃が一言一句違わぬ事を言っても、絶対同じ意味には取らないように。


この点を意識することで、物凄い馬鹿馬鹿しいヒントからも、自分にとって飛躍的な意味と価値を持つものを拾い出せるチャンスが増えてきた。それが、今回の日記を書くきっかけにもなったのだが・・・・いかんせん、俺が非成功者じゃ話にならん。
それに、秘訣といっても、実際にソレを表す適切な言葉が日本語にない。いや、あるのかもしれないけど、俺は知らない。
多くの成功者が言う、似たような意味のモノとして、熱意だとか、情熱、意欲、モチベーション、真剣さ、実直な性格、信念、誠実さ、ビジョン、想像力、希望、活力、など様々なモノがあるが、どれもドンピシャとは言い難いように思う。日本語の新語は毎年「KY」だとか、「援助交際」だとか、「中二病」だとか、色んなものが出るが、その多くがネガティブなものばかりな上に、ちっとも知性を感じないところに俺は不満を抱いている。いや、出るなら出るでもいいんだが、ポジティブな単語との量的なバランスが悪すぎる。もっとエレガントで前向きで、「この単語は凄すぎる・・・・」と驚くようなモノはないのか?
結局、単語や概念やイメージを知らないと自己の世界はそこまでで膨張を止めてしまう。「大陸」とか「宇宙」といった言葉も概念も知識も無い世界では、実際に自分が大陸の上で生活していても、空の向こうに宇宙が広がっていたとしても、無いも同然として扱われる。
無いものは無いものとして扱われ、あるものはあるものとして扱われる。それは「宇宙」であろうと「援助交際」であろうと区別はない。つまり、ネガティブな単語は、ネガティブな世界の建設に一役買っているわけで、ポジティブな単語はポジティブな世界を作り、科学的な単語は科学の発展に貢献している。「SEX」という単語とその意味を知った男共が、今日も元気に盛ってるだろ!?性的な世界が広がったんだよ!w
ネガティブな単語をひとつも知らず、使えないという前提を敷けば、そもそも我々はネガティブな思考さえ満足に出来ない(ネガティブと思われる単語をひとつも使わず、何か思考実験をしてみれば、それはすぐに分かる)。俺が成功の秘訣を上手に表現できないこともその事に起因する。成功に関与していると思われる単語をあまり多く知らず、単語ひとつひとつについてあまり真剣に精査もしていないのならば、当然、成功の本質に言葉によって到達することは叶わないだろう。

我々は言葉の真の意味を知らな過ぎだと思う。我々の思う宇宙と、神が見ている宇宙は多分、途方も無いほど・・・いや全く別のモノとして映り、解釈されているに違いない。ひとつひとつの単語や概念を我々は愚かさ故に勝手に誤解している。それが我々が真理を掴めそうでいて掴めない理由。物凄く旨そうに見え、実際に美味しい食べ物が眼の前にあるのに、我々の味覚が鈍すぎるが故に、「なんだこれ!食えたもんじゃねぇな!」と吐き出してるようなもの。人類が揃って味覚音痴だったら、誰もステーキを食べはしない。レストランで食事なんぞせず、草原で四つんばいになってヤギみたいに草をムシャムシャ食ってたかもしれない。
人類の頭は、驚愕的な科学力の裏付けによって、“少なくとも人類はアホではない”“思考音痴でもない”という前提が広く信じられている。俺は、この点に関して、世の中には自分より秀でた人が多いから、大まかには認めつつも、一方で懐疑的な余地も残している。

成功・成長の秘訣は至ってシンプル。悪徳商人から、英雄的人物まで、世にある程度評価される人々に共通する、完全な法則を見つけた。
これは、ウメハラが言う「やる気全一は、後の全一」という言葉にも見事なまでに含まれている。っていうか、全ての成功者や偉人の言葉にその成分が入っているね・・・・。ただ言い方や視点が違うだけ。ホリエモンの「お金で買えないものはない」発言も勿論同じ成分が入っている。
ウメハラは偉人じゃない、ホリエモンを成功者とは言わない、ヒトラーはどうだ?マルクスはどうだ?といった分類は個人で好き勝手にやっていいと思う。まぁ、各々の分野の有名人、というカテゴリーで捉えるのが、一番いいのかな。


結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。 byキルケゴール

2009年11月22日 16時39分32秒 | 日記

ハッキリどちらが良いという回答と比べて、これはいささか不明瞭な話に一見思える。が、ある意味ではこの中にこそ、人間や男女の本質をよく捉えた見方が含まれているように思う。
人は多くのことを知れば知るほど、何故か言うことは抽象的になっていく・・・・不思議だ、昔はこれと逆だと思っていた。
多くの知識は、その数倍の勢いで「無知の知」も生み出しているからだろうか?
経済学とは、「経済学では経済は説明できない」と証明する学問だ。
と、ある偉い学者が言ったが、学問全てがまさにこの通りな気がするw
タイトルのような発言は結局何も言ってないことに等しいだろうか?
いやいや、俺はこれが、“愚か者と賢者が表面上は同じ事を言う好例”だと思う。賢者はソクラテスのように言う、「私は何も知らない」と。愚か者もまた同様のことを言う。意味も内容も、部分的には合致しているので、誤解を招く。会話において、こうした、言葉の中では汲み取れ切れない、しかし重要なポイントというのは結構多い。


塩と砂糖の区別は舐めればすぐに出来る。
でも、もし舐めないで判別するとしたら・・・?大げさな成分分析やら顕微鏡が必要になるかもしれない。
頭の中では物理法則を無視した別の宇宙さえ仮定することもできるが、一方でこんな簡単な事も上手に処理できない非柔軟性、非明確性もある。・・・・思考の弱点。

 


万有引力の発見は、ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て疑問を抱いたことがスタートとなった・・・というエピソード、これは有名な話でありながらも、実際にこんなことは無かったという説も最近はよく耳にする。
こうしたエピソードはどこから伝わってきたものなのか?そして、それを否定する話というのも、何を根拠にしてどこから出てきたものなのか?何か別の証拠でも見つけたのだろうか?
人々の関心を集めるニュースやエピソードは情報の真偽を問わず、現代社会では爆発的に広まる。こうした諸々の点をうやむやにしたままにしておくのは、あまり好ましくない。

 


あるひとつの疑問が氷解したと同時に、更に大きな問題がたちはだかったような・・・そんななんとも不思議なヒントを得た。
面白い質問は、いつまで経っても質問のままだ。ハッキリした答の出るのはどうでもいい問題だ。