親父が昔のビデオを引っ張り出してきて、デジタル録画している。昔の映像を久々に見てみると・・・・色んなものが見えてくる。1997年のイタリア旅行、1988年の運動会、祖父がまだ生きていた頃の映像など、様々ある。
ま~なんだ・・・・自分の小学生の頃の映像は、無邪気で可愛げもあるが、1997年のイタリア旅行と1998年のオーストリア、ドイツ旅行は、生意気なクソガキそのものだった。アレを見てしまったら、ゆとり教育がどうとか言えない。世代とか時代とか一切関係なしに、愚かだってことが一目で分かる。実際、当時は頭の中もカラッポだった。自分の昔の顔を見て、「こいつ、頭カラッポだわ」と批評するのも、気持ち良いものではないが、タイムマシンで、のび太が昔の頃の自分に会いに来て、似たような事を口走っていたような気もするから、まぁこういう感想が出てくるのも、もしかしたら自然な事なのかもしれない。
しかし、昔の映像は面白いところもたくさんあるね。まず、運動会で女子が当たり前にブルマ履いているわけだが、どうも現代だとどことなく違和感がある。そういや、最近ブルマとか見かけない気がするのだ。小学校教員である母親に「小学生って今でもブルマ履いてる?」と聞くと「今は男子と同じ短パン」と言っていた。
「何で、そうなったの?」と聞き返すと「ブルマは、よく盗まれるから」だと言う。・・・・・・・・・・・な・に・そ・の・り・ゆ・う。変質者のせいで、ブルマは廃止。バカは自分で自分の首を絞めるという良い例だなw世の男たちも、あんまり女子高生に悪さしていると、そのうち制服もズボンに切り替わるぞ。
また、サッカークラブの映像も面白い。試合をしている一方のチームは上半身裸だ。恐らく、ゼッケンの代わりに裸になることでチーム分けをしているのだと思うが、裸チームvsユニフォームチームというのも、なかなか差別的ですねwオレ個人の感覚では「素晴らしいアイディアだ」といった感じだが、今なら何かしらのクレームが入ってもおかしくない。「裸で試合させるなんて!」とか。そんな親にはインドのありがたいことわざを教えたい。
五年間は王子のように、十年間は奴隷のように、
そのあとは友のように、息子を扱え。
これ、年数だけに注目してもあまり意味ないと思いますよ。要は一人前として認められることが、友として扱われる、という意味だと思うんで。走ったり勉強できるようになる歳までは、ガッチリ面倒を見て、教育や躾に耐えられるだけの肉体と精神が形成されてきたら、一転今度はひたすら鍛える。そうして、肉体的にも精神的にも成熟した上で、大人の仲間入りを果たす、そういうことじゃないですか?
俺たち現代人は、10年間、奴隷のように扱われましたかね?扱われてない人は、昔の人と喧嘩しても、知恵比べしても、多分何ひとつ勝てないと思います。
オレも当時は「何で、ウチだけこんなスパルタなんだ・・・」と、親の躾の厳しさに嘆いたものだったが、今思えば、「温室育ちのぼっちゃん」レベルに思える。誰でも人生初体験の物事に対しては大袈裟な反応を示すものだ。人間が幼い頃や思春期に、何事かに異常に熱心になったりするのも、その事に起因する。が、それは悪い事でもなんでもなく、むしろ人間として正しい成長過程を歩んでいるとさえいえる。だけど、大人のモラルからすれば、異常者みたいな行動・思考に映るので、そういう奇異な様を見て不安を覚える人も多い。
子どもを教育する上で、最大の誤りは、大人社会のルールや価値観を用いて子どもを評価・判断する事。生まれてから死ぬまで、ある一人の人間が品行方正であり続けるべき、という考えは普通の人間には到底馴染まない考え方だ。10年~20年後のために、今この少年に体罰を加える・・・・オレは暴力を愛好する者ではないが、この教育法に、有効性を認めている。この選択肢をただ「野蛮」だとか「時代遅れ」としか評価できない教育者は、その少年に今苦しめられることはないだろうが、将来(自分自身を含めた)誰かを苦しめる一人の大人を生み出すことに加担する事になるだろう。
オレは体罰を殊更に正当化したいわけではない。今と未来を天秤にかけた時、“今”の結果だけで物事を判断することに、注意を促したいだけだ。今は見える、しかし未来は見えない・・・・この事に、現在の結果や見通しが、何よりも常に最優先される理由の本質が隠れている。