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宇宙とその中のオレ

書いたり、発信することで自分自身にも新たな発見が芽生える。また、記録しなかったことへの後悔が無いようにするためのブログ

人工知能論

2010年07月01日 13時17分46秒 | 日記

の授業で、凄くいい話を聞いた。
まさか、この授業で人間の恋愛戦略の話が聞けるとは。恋愛を考える上でとても役立つもので、是非とも恋愛論の話の中に組み込みたい内容だった。こんな重要な考察を見逃していたとは、俺もまだまだ勉強が足らんな・・・。


あなたはタイムマシンに乗って、これから先の人生で出会う女性全てを知ったとする。
つまり、運命を全て知るとする。そして、未来を見てきた後、現代へと戻ってくる。しかしこの時、あなたの(未来を見てきた)記憶は失われている。
さて、記憶喪失のあなたが人生最高の女性と結婚するために、とるべき最良の戦術とは?
(ここでは、出会って何人目の女性にプロポーズ攻勢を仕掛けるべきか?という問題になっている)


「結婚問題」または「お見合い問題」として有名なこの問いは、“数学的”な最適戦略も判明しているらしい。
ふ~ん、それは面白いね、と言いたいところだが・・・・プッ!自分個人の運命と、数学的最適戦略は本質的には関係ありつつも、関係ない(<強調するとすればコッチ)。
数学的な答えは常に一定。しかし、自分の運命の最適解と、隣の誰かさんの運命の最適解が一致することはまず無い。3人一緒となれば、更に稀になる。でも、数学的最適解は常に一緒。これが、根本的な問題。

 


「教育実習、どうだった?」と聞くと、経験者は決まって「楽しかった♪」と答える。
俺も、確かにそう答えて差し支えないのではあるが・・・・それ以上に「辛かった」というのが本音。色んな点で“砕かれた”。
学校は「教育」を行う場ではなく、「学校教育」を行う場であるらしいということ。
生徒の成績上げてナンボ。進学率上げてナンボ、という企業論理みたいな事から完全に自由にはなれないようであること。
「教育者に一番向いているのは、普通の人だよ」なんて、先生自身が言っている事。
挙げればキリが無いが、中でも一番ショックだったのが、教育の場での一番の問題が、外部から散々非難されてるようなポイントではなく、全く別の所にあったという点。そして、その問題は教師以前の社会的、人間的(生物的)問題であるが故に、どうにもならないということ。
・・・・別にこれらの事は学校組織に限った事ではない。問題は「そこ」にあるというよりも、それ以上に社会、文化、通念、人間的な問題(正確にいうなら、生命体としての避けられない事情)の方が重要かつ厄介過ぎて手に負えないように感じる。よっぽど特殊な仕事でもない限り、これらの項目はどんなコミュニティにも侵入し、跋扈し、影響を与える。それも、人間の妨害や警戒も受けずにアッサリと。自動的に溜まる埃みたいなもので、これは本当にどうしようもない。
社会、文化、通念、人間に問題があると分かりました!と分かったところで、一体個人になにが出来るのだろう?何も出来はしない・・・が、出来ることはある。今の俺は、その僅かな可能性の松明を消されないように意地でも死守することが、変な話だけどこの世でしぶとく生きようという生き甲斐になっている。こういう変な方向性を持っているから、最近、何をしても辛いと感じたり、逆に楽しい、素晴らしいと感じるのだと思う。・・・・・なんだか、不治の病を抱えた病人みたいだな、コレ。まぁ、「社会的、人間的な悩み」それ自体が不治の病っぽいが。


そのうち書くつもりの恋愛論、その序章として

2010年06月06日 10時37分17秒 | 日記

恋愛やSEXに関する言及は、経験豊富な者がすべきであり、またそうでなくては説得力が伴わない、という意見がある。それは確かにそうかもしれない。だけど、彼ら(彼女ら?)経験者はそれらのことを語ってくれない。いや、語ってくれない以上に重要な問題がある。真剣に考えてくれない。
語るだけならペテン師だろうが、風俗嬢だろうが、誰でもできる。いや、職業や性経験はここでは問題ではない。問題は、彼らの発言が本質にどれだけ迫っているかということだ。身だしなみに気を遣わない男は・・・・、会計を男に一任する女は・・・などという分析はそこかしこで行われてはいるが、恋愛の本質を考える上では、あまり役には立たない。恋愛は男女の直接的なやりとりの中でのみ行われているのではないからだ。ただテーマに即した意見が欲しいだけなら、女性誌のコラムなどを見ればよい。ただし、女性誌などは「こんなくだらない雑誌なんかにお金を使わず、真面目な読書を心掛ければいい女になれます」なんてアドバイスは多分してくれない。
「恋愛とは何か?」「SEXとは何か?」というごく素朴な疑問を出発点として、自問自答してみよう。その質問に答える際、雑誌でもなく、友人のアドバイスでもなく、インターネットでもなく、あるいは本の受け売りでもなく、自分の良心にまずは聞いてみてもらいたい。私は、その答えが最初は醜い塊であったとしても、洗練させることで最終的に人にとっての尊い愛の形に結晶しうると信じている。

我々は心の空白を感じたとき、様々なやり方でそれを埋めようとするが、最も強力でスタンダードなのは、実際に(欲望を満たす行為を)行う事である。人が語るときというのは、大抵それが行えず、語ること、主張することでしかその空白を埋める事が出来ない場合がほとんどだ。
我々は主張するからには、誰かに主張のほんの一部分でもいいから認めてもらいたい。否定されたり、理解されない事の連続は、空白を埋めるどころか、拡大させる行為に等しい。人間の無意識下の活動スケジュールには、こうした心的な不快・負担をなるべく軽減させようという項目が盛り込まれている。そして、無意識は無意識であるが故に、その日課を毎日サボらずせっせとこなす。
満たされている人にとって、語るべきことなんて何も無い。何も無いというより語る必要が無い。優勝したチームの選手に「今、どんな気持ちですか?」なんて聞いたって、大した言葉は返ってこないし、返ってきても全然精選されていないど~でもいい内容なのが普通だ。彼らは言葉以上の次元にいる。わざわざ、限定的な単語と規則的な配置を求められる、不便で不適当な言語世界の住民になりたくないのだ。何語とも言えない、言葉にならないような雄叫びを上げているだけで十分なのだ。SEXの際のあえぎ声も、案外それと似たようなものなのかもしれない。
神が何も語ってくれないのは、神自身が満ち足りているからに違いない。

 

教育実習が始まって最初の一週間が終わった。失敗続きだが、先生方と色々話が出来たのはとても良かった。
世界史の早川先生の言っていた事が、印象的だったのでちょっと簡潔にまとめてみる。恐らく、教員であれば、誰もがいつかぶつかる事だと思う。他の先生も似たようなこと言っていたし、先生になってもおらず、まだ中年期を迎えていない自分ですら、共感する。

「教員ってのはね、皆、お山の大将なんだよ。皆、自分のやり方が一番だと思っている。教員同士で教材研究や意見交換、教材の共有なんてほとんどしない。別にそれは仲が悪いからってわけじゃないんだけど、何故かそういう接触をあまり積極的にしないんだ」

「僕もね、君くらいの若い頃は神保町とか繰り出して、よく資料発掘なんてしてたけど、最近はほとんどしてないね。良くないよね、こういうのって。ある程度教員としての力量がついてくるとさ、生徒もこちらの言う事聞いてくれるし、授業も普通に進められるから、あまり問題意識が無くなっちゃうんだよね。未熟な頃はさ、どうしたらいんだろう?とか、どうやったらもっと上手に教えられるんだろう?とかそういう事を必死になって考えて努力するけど、この歳になるとそういう基本的なことをしなくなっちゃうんだよ。いかんよなぁ~・・・成長止まっちゃうよね、これじゃ。」


また、実習日誌の内容が不真面目だと注意された。
まぁそれは、多分注意されるだろうな、と思いながら書いたことだし、叱られても全然不思議じゃないんだけど。ただ、思ってもいない事を書くよりは、思ったとおりの事を書くべきだろうと考え、やったことだから自分では「悪い事」だとは思ってない。「叱られるべき事」とは思ってるけど。で、実際叱られた。
日本語ってやつは感情表現にあまり適さない上に、敬語がちょっとでも抜けると無礼扱いされたりする。別にそれはそれでいいんだけど、そういった傾向が強くなり過ぎたせいで、人間の内面、つまり本音と全く逆の事であっても文章の形式や敬語さえ正しく使えていればOKという抜け道が生じるハメになった。この抜け道はあらゆる形で悪用されている。おかげで今回の件のように、自分の気持ちを馬鹿正直に、また拙くもキチンと語ろうとする層が減った。
悪意が無くとも、人を不快にさせたら駄目。全然誠実な気持ちなんか無くたって、形式が完璧ならOK。相手と、表面的な付き合いしかしないつもりならこれでもいいかもしれないが、教員がこんな事に賛同したら、教育は終わりだ。本質無視や結果主義は知性や学問の最終結論ではない。ま、それでも今回の件は怒られてしかるべきなんだろうけど(さっきもいったけど)。

 

あとこれは、ウチの高校で、ロシア史を専門としていた野口先生の遺稿です。ロシア文学やロシアの思想には興味があったので今度買っておこうと思った。
この人に「ロシア国歌歌ってください!」とごねたり、ロシアのことを質問すると歌ったり、答えてくれたりしてくれて、その分授業が潰れるから、皆大して興味も無いのにロシア、ロシア言っていたっけ・・・・。


今日のつぶやき

2010年06月01日 23時31分45秒 | 日記

理論や“お話”はいつだってくだらない

厳密に言えば、くだらないのではなく、理論が生まれるより前に既にそこにあったモノに到底及ばないというべきか

しかし、我々は自力で発見する以外は、人から聞かせてもらう理論やお話無しにはそれに気付きえないだろう

ここで、1~2行目の問題に再度ぶち当たる。これが根本的な問題。

 

 

同じ言論でありながら、ときには真実と思われ、ときには偽りとされる、そんな言論にぶつかったために、自分自身や自分の未熟さを責めないで、しまいには苦し紛れに、すすんで自分から言論へと責任を転嫁し、それ以後は一生、言論を憎み、悪口を言って、事物の真実や知識から遠ざかって暮らすとしたら、これは悲しむべきことではないだろうか。それよりはむしろ、みずからを省みて、我々自身がまだ健全になっていないのだとして、健全なものになるように勇気をふるい、努力すべきではないか。

プラトンのこの言葉を知って、チクショーやられた!と思った。俺が発見したとき、嬉しくて飛び上がりたくなるほどの考え・アイディアを、既にプラトン(あるいはこの時代の哲学者)たちは感づいていた。

この言葉は、何気ない一言では全く無い。むしろ、人の一生の決定要因になるほど重要な事柄である。恐らく、プラトンや哲学かぶれじゃない人でも、本物の眼力を持っている人はこの事を自覚、あるいは潜在的に気付いている。

これは、俺が指摘したいそのものと比べると、若干抽象化されてはいる。あるいは最悪のケースだと、プラトン自身はその事に気付かず、直感的に適当に言い放った言葉が、たまたまかすっただけかもしれないが、俺が気付くことができたのに、プラトンはかすっただけでした、なんて事はあまり考えられないだろう。

そして、更に悔しい事には、俺が以前忌み嫌っていた宗教というジャンルが、どうもこの点で最先端を走っているらしいということ。宗教というと、十字軍だとか宗教裁判だとか自爆テロだとか、そういう点をよく知ることだと、宗教無関心層の人(つまり自分)は早合点しがちだが、これはどうも逆だというような気がする。こうした宗教観を強化することは、いってみれば、宗教そのものとは全く関係の無い事ばかりを、センセーショナルでインパクトがあるというだけの理由でつまみ食いしているだけに過ぎない。そして、そんなことを続けるうち、つまみ食いのし過ぎでお腹一杯になる。言うまでも無く、メインディッシュは手付かずのままだ。

 

 

 


全人類がある宇宙人に催眠術をかけられて、お金の代わりに、木の葉やただの石コロを価値あるものだと思い込まされて、人々はいつも通りの経済活動をするとする。

現代社会は、そんな状態であっても問題なく回る。お金の代わりなんて何でもいい。要は、大勢の人間が価値さえ認めてくれれば何でもいいのだ。うだうだ交渉する必要も無く、素直に交換に応じてくれれば何でもいいのだ。催眠術にかかっていようが、かかってなかろうが、欲しい物が手に入れば何でもいいのだ。欲望の充足のための約束が取り付けられていれば何でもいいのだ。

我々は、もっとも科学的(効率的)で、もっとも宗教的という、一見矛盾するであろうふたつの要素を“お金”という発明品に詰め込んだ。

宗教を持っていていても人の腹は膨れないが、お金を持っていれば、少なくとも定食屋で飯が食える。定食屋の主人にお金を払って(あるいは払う約束をして)飯を出してもらうのと、催眠術をかけてタダで飯を出してもらうのは、何かが違うが、実は何も違わない。

え?そのお金は自分が働いて得た対価だから、催眠術とは違うし、文句言われる筋合いも無いって?論点が死ぬほどズレている。

800円の定食を時給800円のバイトを1時間して稼いだ金で食う事は、この話とは関係がない上に、何も正当化出来ない。そもそも、それで帳尻が合うと考える事自体が、催眠術にかかっていることの何よりの証になっている。

別にそれは800円でなくともいい。1時間働いて、石コロひとつもらって、その石コロを定食屋の主人に渡すと定食が出てくれば、何も問題は無い。

問題があるとすれば「これ、単なる石コロじゃね~か!」と、そのプロセスのどこかで気付いてしまう“誰か”なのだ。人生ゲームを皆でワイワイやっている途中で、突然真顔で「これ、本物の1億ドルじゃないんだけど(怒)」と言い出す奴のように問題だ。

だが、実は誰かが宇宙人の洗脳から脱出できたとしても依然問題は無い。ゲームは、参加者が続行不可能な人数にまで減るか、あるいは参加者全員が疲れ果てるか飽きるまで続けられる。何億という人間が参加しているこのゲームから一人や百人が抜けたところで痛くもかゆくも無い。むしろ、抜けていくやつに対し、目下続行中の参加者は嬉しそうにこう語りかけるだろう。

あれ?お前抜けるの?じゃあそのチップいらないよね、俺にちょ~だい♪


昨日のコメントに対するコメント

2010年01月28日 21時15分26秒 | 日記

俺のブログは何故だか知らないが、招待状も出してないのに大物が年1回くらいのペースで来て、コメントを残していく。まぁ、それも嬉しいハプニングだが。
昨日の人が何者だか分からないが(それも何かの文章の引用くさいが)、書いてある内容がとんでもないことは俺にも分かった。文章を書いた人物は物凄い見識の持ち主だ。あれが現代人のオリジナルの発想だなんて、俺には信じられない。
「中道」について触れていたが、もしかして、あの文章は竜樹の『中論』の内容の一部?

教育うんぬんの件(くだり)は、過激さがやや際立っているように感じたので、完全同意は出来ないものの、言いたいことは分からんでもなかった。
実は言うほど過激な要求でもなく、極端に右傾化している教師や、極端に左翼主義に染まった人くらいを対象にしているのかもしれない。
「偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである」の一文は、どの程度から「偏向が著しい」とみなすかという点において、大きな認識のズレがあると思われるので、早急に結論を出す事はできないだろう。


あの考えは非常に難解かもしれないが、あるひとつの真理を言い当てている。
俺は『中論』も読んでいなければ、仏教の関連書籍をひとつも読んでいないので、あの文章から何を読み取れるか、という話はひとまず置いとく。間違った解釈を与えてしまうかもしれないから。でも多分、「何言ってるか分かった!」という感触が掴めれば、その解釈で大体いいんだと思う。
仏教に対する恐れ、凄まじいまでのパワーは仏教と全然関係ない本を読んでいても、しばしば目にする。
仏教の影響力ということに関していえば、例えばこんな本も出ている↓


ニーチェの名言といえば?
「神は死んだ」

ニーチェは仏教に関心を持っていた。仏教に関心を持ったのが先か、神の否定が先かは分からないが、思想的にニーチェと仏教は相性がいい組み合わせだ。両者の出会いはある意味必然だったのかもしれない。漫画が好きなら、最新のタイトルから読み始めても、遅かれ早かれ手塚治虫に出会うであろうといったように。
しかし、西欧社会で神を否定するなんて、勇気ある男だね、ニーチェは。

俺の拙い知識で仏教観を語らせてもらうと、仏教のとんでもないところは、人間を“生まれてから死ぬまで”の間のみで語るのではなく、“生まれてから死んで、死んだ後のことまで”をセットにして語っているかのように見えるところだ。もっと言えば、「死ぬ」というイベントをすっ飛ばしてもいい。「生まれてから、死後の事まで」・・・・こう言ったほうが分かりやすいかもしれない。
俺みたいな凡人は、すかさずこう思う。「オイオイオイ、何、人が死ぬっていう最大のイベントを省略しちゃってるわけ?人間にとっては、それが一番大事だろうが!」
ところが、仏教はそれを意に介さない。「人間が死ぬ」というのを、まるで小学校か中学校の入学式みたいに、誰もが通る人生におけるごくひとつの他愛無いイベントとしてしか捉えていないようにさえ感じる。
我々は死が怖い。しかし、もしその死の恐怖をものともしない人間がいるとすれば?これほど厄介なものは無い。地雷地帯を全力疾走することだって出来るし、一国の大統領に切りかかる事だって出来るし、虎やワニと喧嘩することも出来るし、戦争反対を訴えて焼身自殺だってできるし、列車に轢かれそうになっている人を救出に向うことだって出来る。スカイダイビングする際はパラシュートいらずだ。何だって出来るぜ!(実際、漫画のキャラはこういうことを恐れてないから、こういうことをする)
恐ろしい・・・・たった一人の人間が物凄いパワーを持つ存在となる。国王も、軍隊も、こういう手合いが一番怖い。しかし、究極まで達した人間にはそれが出来るのだ。
そりゃ、こんなものが普及しだしたら、西欧も恐れるわ・・・・と思う。まぁ『虚無の信仰』は、まだ読んでないんですがね。興味を持っていて、いつか読もうと思っているだけの本。最近は、ヤフオクで「遺伝子」関連の本、10冊セットっていうのを仕入れて、今は人間が遺伝子的にどういう発展過程を辿ってきたか、とか遺伝子的に我々はどう考え、振る舞うか、といった事が主な関心事。

さて、話を戻すと・・・・
仏教、その中でも「中道」は全てを肯定し、また同時に全てを全力で否定する。これが何を意味しているか理解出来るだろうか?あるひとつの対象に、否定と肯定は同時に使えない?否定するか肯定するかのどっちかしない?違う。
全ての価値を否定してみせ、同時に人がその価値に依存している姿を肯定している。我々がお金や、ipodの価値など諸々のものを暗黙のうちに信じてしまっている姿を・・・。
しかし、こうした価値の肯定・否定は我々も行っている事だし、行える。
ある人が、自分が大切にしているモノに対して「お前、そんなもんさっさと捨てちまえよ」と言ってきたとする。そう言われた直後、言われるがまま「そうだな、捨てるか」とゴミ箱に威勢よく投げ捨てる・・・これが出来ればOKだ。
難しそうな事だが、多分これが一番簡単な部類の物事からの解放。これも出来ずに、「俺は何も信じちゃいねぇよ」なんて口走る事は出来ない。お前はその物の価値を信じていて、捨てる事をためらっているではないか。
我々はいつでも解放的になれる。しかし「物」に対する執着や愛着といった、人間的な感情やこだわりがそれをさせない。中でも一番強いのが生に対する執着である。それが、我々が「生物」と呼ばれている所以であるかもしれない。「生」という「物」に一番執着している。そして、その執着を捨てた瞬間、先程挙げたような行動と共に、我々は「生物」ではなくなる。
我々人間は「生」への強い執着なしには「生物」たりえない。「生」への執着が、鼻をかんだ後のチリ紙と同程度の執着しかないとすれば、命がいくらあっても足りない。
つまり、「物」の価値を信じ、一定の執着を示す・・・・それこそが人間らしいともいえる。けれど、執着し過ぎてもいけない。「物」の価値を見誤るからだ。「物」に対する強すぎる執着が引き起こす、人間の異常行動には枚挙に暇が無いだろう。

 

仏教の話を少し離れて・・・・昨日のコメントや、こういう仏教思想を見て、俺も含めた「普通の人」はどう思うだろうか?
重い。重いね。まるで海外旅行用のスーツケースを、常に持ち歩きながら生活しているようだ。そう、思想ってヤツは、別の観点・・それもネガティブな見方をするならば「重荷」そのものだ。
我々は身軽になりたい。確かにそれも手だ。だが、身軽さは貧弱さも併せ持っている。辛く、困難な場面に出くわしても対抗できるだけの装備が無いので、あらかじめ避けて通る予定を組むか、そういう局面になったら一目散に逃げ出すしか打つ手が無くなる。しかし、それも生き方のひとつだろう。
俺だって全ての局面に立ち向かえるわけじゃない。俺は基本的には、馬鹿でスケベで臆病で見栄っ張りで感情的にモノを考え、快楽志向でコンプレックスをたくさん抱えた、ストッパーが無ければどこまでも堕落していくような人間だ。そんな人間から思想さえも全て排除してしまったら、俺は小学生をカツアゲするくらいしかやることがなくなるだろう。そんなみっともない事はやりたくない。
俺にとって勉強が大切なのは、勉強それ自体が俺にとっては道徳の役割を果たしているからだ。勉強を進めることで、恥ずかしい間違いを犯す、知らない今までの自分を恥じる・・・別に「恥ずかしい事マニア」ってわけじゃないが、勉強すると必然的にそういう事にぶつかる。そういう体験が、俺の中の弱い部分を克服する事に少しだけ貢献してくれているように感じる。・・・・ただの思い込みかもしれないが。
俺から厳密さを取り払うのは簡単だ。ちょっと考えるのをやめて、エロイ妄想を始めるか、ゲームでもおっぱじめるか、適当にどこかへ遊びに行けばいい。何もかも忘れて、平気で半日くらいその事に没頭する。
死に対する恐怖、何かから逃げ出したい気持ち、そんなものは鍛えなくても勝手に湧いてくる。だから放っておいているだけだ。勝手に湧き上がってこないもの・・・だけどいざという時必要となるもの・・・そういうものを鍛える。それだけのこと。

 

俺は「思想」と「実行性のある行動」と「暴力」という三つが支配する、人間の基本的な構図を最近考え出した。
「実行性のある行動」とは、机上の空論やあ~だこ~だ言うだけの理論とは違う、我々が日常とりうるあらゆる行動。中でも暴力以外の行動全てを指す。行動の中でも暴力は特別な枠組みだと思う。

「思想」
「実行性のある行動」
「暴力」

この三つは、全てが全てに勝ちうるというおかしな構図を成していると思う。
暴力ひとつで、思想も、それ以外の全ての行動も粉砕できる。銃をつきつければ、誰でも黙らせられるし、行動も封じられる・・・・確かに事実だ。
しかしビスマルクが「的確な弾丸よりも、鋭い弁舌の方が強い」と言うように、思想が暴力も含めたあらゆる行為を包み込む事もできる。何より人間は「やめた!」と本気で思えば直ちにやめられる。
そして「行動」。我々が普段「ゴチャゴチャ言ってるけどさ、ど~でもいいじゃん、そんなこと」と言って、あらゆる意見を無視する態度だ。そう、行動の前では全てはたわ言だ。うだうだ言う前に行動を起こせば“口だけ野郎”を出し抜くことも出来るし、暴力に対して暴力とは違う正当性のある行動を示す事も出来る。

全てはバランスの問題だ。しかし、この中で暴力は最も暴発しやすく、誤った判断のもとで運用されやすいことなので、思想がそれに追従する事は許されない。格闘技でも、暴力を積極的に正当化するようなことは認めていない。空手では暴力沙汰に発展しそうならまず謝り、それで駄目なら逃げろと教えている。稽古の成果を存分に発揮し、相手を叩きのめしましょうとは教えない。人間の問題は大抵これで済むのに、国家間の問題となると、謝るのも逃げるのも許されないらしい。ま・・・国家間の事情が別にあるにせよ、もう少し暴力以外の選択肢を見つめなおす事も必要じゃないかと思う。
今、自分で提唱した構図に従うならば、「暴力」もまた「思想」か「実行性のある行動」の前に沈黙せざるを得ないのだから・・・。


星を観察していて井戸に落ちて死んだ古代の天文学者より、はるかに幸せな俺

2010年01月27日 10時29分24秒 | 日記

「偶然」に、ちょっと“人間的な意味”を付け足すだけで「運命」が生まれる。
どんな意味かはどうでもいい。見聞きしたもの、直感、本に書いてあること、意図的で無理矢理なもの、感動的なもの・・・なんなら嘘でもいい。
意味を与えられたものは時間を経て、やがて我々がよく知っている三つのものへと変容する。
すなわち、常識、科学、宗教だ。


今、大学のコンピューター室にいる。
しかし、明日の試験のための勉強道具を全て家に置き忘れてきたらしい。いくら探しても、カバンの中には試験に関係ないものしか入っていない。
こういう余計なことを考えていると、日常でこういう失態をやらかす。フ~・・・・・・・・

さて帰るか


哲学者の哲学は、難解な言葉で表した常識に過ぎない byゲーテ

2010年01月27日 00時04分19秒 | 日記

ヤバイ、単純な事を物凄く厳密に研究している学者の研究内容が凄く面白い。
試験勉強どころじゃない。

左側が我々一般人が普通に使う言葉。右側がその学術的な呼び名。勿論、ガチで学ぼうと思えばどこまでも深いところまでいける。

「どれだけ儲かるかが大事」    =プロスペクト理論
「それ見たことか」          =後知恵バイアス
「お前は間違っていた」       =少数の法則
「そんなこと起きるわけねぇだろ」 =感情ヒューリスティック、情緒としてのリスク理論
「こんなの、はした金だよ」     =アンカリング効果

人間の一挙一動について研究が進められている。しかも、それぞれの領域において、完全なる結論というものは出ていない(まぁ、科学自体が反証可能の余地を持っているから仕方ない)。いかに人間というものが量りがたい存在であることか。


昨日の日記は、ポエムみたいな感じで5~6行で終わる予定だったのだが、「こういう説明も入れた方がいいかな」「おっ、いいフレーズが思い浮かんだ。でも、これを入れるとなると前後の文章は、どうなるかな・・・」「この話も重要だから、簡潔に書いとくか」などとやっているうちに、あのような量になってしまった。このスタイル、全然直らないな。
最近、思いついたアイディアをストーリー調にしてみると、意外と面白そうな話が出来る事に気付いた。でも、メモらないとすぐに忘れる。


家にいても、映画を何本も連続で見るし、それをネタに怪しい妄想を始めるしで、全然勉強しないから、明日一日中大学の図書館に篭る事に決めた。
2部の頃は割とよくやってたんだけど、1部に来てから、えらいダラけるようになったな・・・。昨年度の方が勉強時間もゲームやってた時間も両方多かったってのが信じられん。人間、追い詰められたり、忙しいときの方が本領発揮するってのは本当だな。
これ、経済学理論でもあるんだよね・・・「資源の呪い」という名称がついている。普通に考えたら、資源がある方が無い場合よりその国を豊かにするように思えるけど、逆に資源を持っているという事が「呪い」となり、様々な形で国民を苦しめたり、発展の妨げになってしまうという理論。ホラ、色々あるじゃない、利権闘争とか、近隣諸国からそこに目を付けられちゃうとか・・・・。


ランダムブログを使ってみよう

2010年01月25日 00時12分47秒 | 日記

「ランダムブログ」とかいう、gooのブログ機能を(多分初めて)利用してみたが・・・・なんか、ブログってチャラくてどうでもいい内容のものばかりかと思っていたが、昭和60年生まれ(56年生まれの俺より年下だ)の人が、俺より立派な文章書いてたり、次に飛んだところではチベットや仏教の研究をしていて本まで出している人がいたりして、いや~なかなかハイレベルなブログもあるなぁ、と感心してしまった。
60年生まれの人は、俺の知らない歴史家をたくさん知っていて、日本の農業政策なんかについて言明していた。いや~若いのにしっかりしてるね~。つげ義春なんていう古い漫画家まで知ってるし、お前、本当は24歳じゃなくて34歳だろ?wとか突っ込みたくなる。
でも、読んでいる雑誌が右翼系のモノばかりだったのが、ちょっと気になった。いや、別に読んだっていいけど右翼系ばっかでバランス悪いと思う。正論とか諸君とかSPAとか。東大生が読むような本も読んだほうがいい。
参考までに、<『東大生はどんな本を読んできたか』 永嶺重敏 平凡社新書>から、東大生が読む本、雑誌、新聞を見てみてみよう。ちょっと古いデータしか残ってないけども。

なお、表の注記によれば、年ごとの変化を把握するために、継続してベストテンに入っているもの、例えばマルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東、ロマン・ロラン、ドストエフスキー、トルストイ等の著作はこの表からは除かれているとのことである。

東大生は左翼系ですよ。いや、俺が左翼をプッシュしているわけじゃないんだ。知的な考察って、最終的にどこに行き着くかは別としても、普通はまず左翼から出発するんだ。
右翼から出発する経路もあるんだろうけど、俺は東大生と同じように左翼的な地点から出発した。これは異端じゃなく、平凡な出発という意味だ。もし、俺の両親が朝日新聞じゃなく、産経新聞を愛読するような人だったら、今の俺の人格は無いと思う。多分、未だに「男の価値は、抱いた女の数とお金と学歴と容姿で決まる」と思っていたと思う。つまり、高校生の脳みそのまま、歳だけ食ってただろうということ。何故か?「今のままでいい」という保守的な思想のみでは、俺にとっては理想もビジョンも信念も何も無い人間のままであったから。俺がそういうものを見出すきっかけとなったのは、両親の影響や、東大生的な思考・読書であったのは間違いない。
この両親の影響というやつが、ガンジーのエピソードと酷似していて、それが、俺がガンジーに強く共感するひとつのきっかけにもなっている。ガンジーは妻と結婚した当初、妻を奴隷のようにぞんざい扱っていた事を告白している。罵倒したり、こき使ったが、妻は黙々とガンジーの要求に従った。最初は万能感を感じていたガンジーだったが、ある日、そんな妻の姿を見て、妻にこんな仕打ちをし続けてふんぞり返っている自分が恥ずかしくなった。これがきっかけとなり、非暴力という発想を妻から教わることができたと話している。妻の献身的な気持ちと行いが、ついには自分の心を浄化してくれたのだ、と。
これと殆ど同じことが俺にもいえる。俺も中学~高校にかけては親に肉体的に対抗できるようになったこともあり、とにかく反発していた。けど、大学を中退して、俺の世界で全てが意味を失ったとき、ガンジーと同様に「俺は何を思い上がっていたんだ・・・」と、自分自身を心底恥じた。ガンジーが妻から非暴力を学んだように、俺もまた両親から大切なものを学んだ。彼らが何かを直接教えてくれたわけではない。俺が、とっくに気付くべき事を自覚しただけだ。
その後は、親父の書斎の本をたくさん読んだし、母親から薦められた本も色々読んだ。高校生脳みその頃はひたすらゲームだけしてた。ゲームの中の理想が、自分の理想と勘違いしていた時期だ。
左翼ってのは、共産主義のダーティな面やソ連、中国、過激な左派活動のイメージのせいで、力技が主体の思想だと思われがちだが、そうじゃない。基本は「進歩主義」であるということ。イデオロギーや理念、理想を掲げて、それに向って社会や世の中を良くしようという考え方。ただ、これは方法論や、どの程度の枠内でやるかという点も重要で、自分一人でやるか、周囲の人間も巻き込みたいか、体制ごとひっくり返したいか、言論で行うか、暴力でやるかなど、色々なステージがある。簡単なものでは、ダイエットを始めるのだって左翼的な発想だ。
「変化」を考えていて、その中でも急激な社会変革を望む勢力が「暴力を使ってでも・・・」という方向に進む。歴史的な左右の対立は、こんな風に説明できる。

急進的な変化を望む「左翼系」が「右翼系(≒体制派)」を暴力で排除し、自らの理想を推し進めようとする。(革命、暴動など)
そうなることを恐れて、「右翼系(≒体制派)」が「左翼系」を武力を背景にしながらきつく取り締まる。(特高警察、新撰組など)

暴力的なことについては、基本的にはこの構図。左翼や右翼が平和的に活動していても関係ない。体制的でないものの勢力が拡大していったら、キリスト教弾圧のように、結局は暴力で取り締まらざるをえなくなる。逆に、右翼勢力が無茶苦茶強くなると、今度は戦争が起きやすくなる。俺たちの社会が常に暴力の危機に晒されている理由。
別にどこにも紳士なんていやしない。人間は本当にヤバイと思えば暴力を使う。それだけのこと。人間的には、右の方が・・・左の方が・・・・なんて思ってると、「予想もしないこと」が起きるよ。こんな事を言っていても、俺は性善説派だ。正確には限りなく性悪説に近い、「ボクは性善説を信じます」と言っているだけの人。
俺は、ハイエクを読んでいなければ右翼の言い分なんて、殆ど顧みなかったと思う。ハイエクは、左翼系の人に是非とも薦めたい一冊だ。右翼系の人にオススメなのは、上記の資料の上位にある読み物。というか「諸君」とか「正論」とか偏らない、普通の読書でいいと思います。外国人が書いた本なら、意図的な取捨選択をしない限り「右の人が書いた本」「左の人が書いた本」なんてことに偏りにくいから良いと思う。

 

ネット上での顔出しに対して今まで抵抗感を持っていたが、意見っぽいものを書くなら顔もセットじゃないとフェアじゃない気がするので、思い切って出してみた。これについては、欧米のオープン精神を見習うべきだと前から思っていた。まぁ日常では、人と顔つきつけ合いながら話すわけだしね。何でネット上だけ特別なんだよっていう・・・・。

 

ランダムブログクリックが意外と面白いw
国体に出ている人のブログや、マッチョな少女が世の悪党どもを退治していくオリジナル小説を書いている人のブログ(しかも自前のポリゴン画像つき!)など、結構凝ったモノ、参考になるモノが見付かる。色んなブロガーがいるんだねぇ。
ココ↓とか良いね。格言好きの俺にピッタリ♪戦国武将の名言集限定ブログってのも、なかなかコアだね・・・。
http://blog.goo.ne.jp/oota5541/
生死がかかっている人間の言う事、洞察力には感服する。
ここ数年、ブックマークするような魅力的なサイトもね~な~と思っていたが、探せば結構良質なブログもあるもんだねぇ。
あと、↓ここを見て鉄道ファンに対する好感度が少し上がった。
http://blog.goo.ne.jp/pony4649_2006/
写真が綺麗だってこともあるんだろうけど・・・なんていうのかな、情熱を持っている人は無条件で素晴らしいと感じてしまう俺の性分が働いてしまっているんだろうね。


人は自分の理解できない事を軽蔑する byコナン・ドイル

2010年01月24日 00時17分22秒 | 日記

俺が大学1年生のときに書いた言葉と殆ど同じ内容の言葉があった。
そのとき、なんて書いたっけかな・・・「人は自分たちに理解できないものを、同列やそれ以上とは決してみなさず、下とみなす」だったかな。確か文化人類学のレポートで、未開社会の住民に対する考察で書いた気がする。
こういう一致があると嬉しくなるね。でも確か、コナン・ドイルって晩年、おかしくなっちゃうっていう話をどこかで聞いたような気が・・・・。

 

とあるきっかけで昔よく聞いたD&DのPVに出会った。いや~懐かしい。

http://www.youtube.com/watch?v=ZzvX9kIJ51Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=I3dFfU5qnvE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ND9ooOs0fo8&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=Urie1hFc4Vg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nM0yVY7OKoU&feature=related

このユニットはそのうち売れるだろうと思ってたし、売れて欲しいと願っていたが(とか言いつつCD一枚も買ってないが)・・・結局、大ヒットはしなかったなぁ。
曲も歌唱力も凄く良いと、当時ガキんちょの感性ながらにもそう思ったが、今聴いてもその直感は間違ってなかったように思う。箱根駅伝で外人が走ってるくらい圧倒的に見える(まぁ、メインボーカルが外人だがw)。「SUNSHINE HERO」をこれくらいの完成度で歌える歌手が今いますかね?
ま・・・結果や成績主義者にとっては、全てたわ言ですが・・・。
でもこの世界において、結果が実力の完全な反映であるなら、批評家なんて必要ない。オリコンの集計に従うだけでいい。

 

最近、やっと女性というものが2%くらい分かってきたような気がしてきた。多分二十歳頃の理解度は0.3%くらい。ま~男の世界では生理、胸の膨らみ、妊娠、出産、セクハラ・・・・・といった諸々のものが存在しない以上、理解度はどんなに頑張っても50%を上回る事はないと確信していますが。
かつて俺は「女性は人間と思うより、宇宙人と思ったほうが理解しやすい」というような事を言ったが、これはいい戒めになっている。俺個人や、男の理屈を持ち込まないようにするという意味において。宇宙人に、こちらの都合や論理が通じると思っている奴は、バカかスターウォーズの見過ぎだ。・・・そう思うことが出来る。
「人間」を2%しか理解していないなら、ただのボンクラに思われるかもしれないが、「宇宙人」を2%理解している人だとすると、相当分かってる人みたいに思えてくるw
なんだか、随分酷い事を言っているような気がするが、無論そんなつもりは毛頭なく、2%部分のほぼ全ては女性に対するリスペクトに費やされている。残り98%は・・・・????????????????????????といった感じ。結果として、この「????」の領域が、コナン・ドイルが指摘する通り、男が女を下とみなしがちだという理由に絡んでくる。・・・・・と、俺は分析する。
「俺はもっと分かってるぜ」という人から、理解のコツを聞きたいところだ。女性に直接聞くやり方は、何故か心象を悪くしてしまう上に、大抵あんまり詳しく教えてくれない。多分、俺の質問内容がセクハラと変わらないくらい直接的で、エグ過ぎるからだと思うw

 

人間同士の理解において・・・・「あいつは馬鹿だということが分かった」というのは、実は何も分かってない事を自白しているだけのような気がする。
馬鹿というカテゴリーは「アレも馬鹿」「コレも馬鹿」という具合に、生ゴミもソファーも冷蔵庫も全て一緒にまとめて捨ててあるゴミ溜め場みたいな所だ。ゴミとして捨てたわけだから、そこから何か使える材料を拾い出そうとはしないし、そういう事に労力を使おうとは思わない。そしてついでに、ゴミを漁っている奴も馬鹿に見えてくる。
人を馬鹿にすると、こういう連鎖が激しい勢いで起こる。そういう道を通ってきた俺だから、そういう事がなんとなく分かる。俺も何らかのきっかけで人を感情的に馬鹿だと思うことがあるけど、人を馬鹿にした後で良い思いをした記憶がただの一度も無い。なんか直後に優越感に浸れるような気がするけど、気がするだけで、砂上の楼閣のように何の意味も無いクソみたいな自信だ。人を格下扱いすれば、相対的に自分が賢い存在となる・・・・こういうシンプルな構造が出来上がり、ただそれにうっとりしちゃってるだけ。端から見ると、酔っ払いと大して変わらない。
以上の考察は、結果として「馬鹿って言う奴が、馬鹿なんだよ!」という聞き慣れたあのフレーズを裏付けることになっている。ま・・・・・要は常識を再確認しただけだ。
というわけで、俺は感情的な状態を除いて、「馬鹿」という言葉は自分か架空の人物にしか使わないことにしている。誰かに向けて使っても、場のランクを落とすだけで、何の価値も無い。


集団意識と恋愛感情の関連性

2010年01月09日 09時37分58秒 | 日記

女子校の男性教諭は、どんな男だろうとモテモテだという話は割と有名だが、最近、それを象徴する話を聞いた。
ある先生が知る、女子校の男性教師は今まで2回離婚し、3回結婚した事があるらしいが、それら全ては同校の卒業生が相手だったという。
俺は開いた口が塞がらなかった。俺がその学校の校長なら「君ね・・・何してんの・・・・」と呆れかえり、その先生に対する信用は地の底まで失墜しそうだ。こんな男に生徒指導を任せて大丈夫かな・・・と心配になる。
いやね、卒業生と結婚というところまでは、まぁアリだとは思うんだけど、2回離婚、3回結婚は、ちょっとやり過ぎでしょ・・・。ロリコンか?テメ~は!?
会社でこんなことしたら、あっという間に悪評が広まると思う。人の流動性が高い学校組織を利用した悪質ささえ感じる。3年経ったらメンツが完全に入れ替わるし、それでOKみたいな。

人間の恋愛感情で、去年俺が気付いたのは、(まだ恋人関係でない男女の場合)異性を好きになる気持ちは、普段一緒にいるかどうか(あるいはメールなどの繋がりが多いかどうか)ということが、かなり大きく関係している、ということだった。この“かなり”の形容詞はどれほど強調しても強調し足りない。「超」でも、「ギガンティック」でも「絶大なほどに」でも何でも当てはめてもいいくらいだ。
それで分かった。ホストが「女の子のハートを掴むためには、マメにメールを送る事です」などと秘訣をアドバイスしていたり、いわゆるマメ男に女の子がなびくワケが。そういや、身長がデカくて、結構モテていたアイツも、女の子に対しては、信じられないくらいマメだったなぁ・・・・w男に対しては絶対「大丈夫?」とか「どうしたの?具合悪い?」とか聞かないくせに、女の子の前では執事みたいにケアが上手だったから、その様を見て、俺は目が点になってしまった。ま、お互い幸せならそれでいいんですが。お嬢様と執事も、その関係を良しとしているのだろうし、同じ事だ。

男子校や女子校というのは、(当たり前だが)性別の偏りがあり、特殊な集団ではあるが、まず集団というもの自体が何かしらの際立った特徴を持ったものであることに注目したい。集団は、内部事情が健全であるかどうかに関わらず、内部の人間やルールを、暗黙裡に肯定していく人間心理を生み出す。その心理は必然的な副作用として、自分たちほど強く肯定していない勢力や人に対して、排他的な感情を生み出す。
そもそも集団というものがそういう性格を強く持っている。長嶋茂雄を好きな人が、阪神のファンクラブに入っても歓迎されない。天皇制廃止を唱えている人が、右翼団体に入ることも多分出来ない。いじめられっこがイジメグループに入ることも出来ない。マホメットの方がキリストより偉大だと思っている人がキリスト教に入信することは・・・出来るのだろうか?(よく知らないw)
また、相反することだけではなく、集団と関連の薄い事も歓迎されない。園芸クラブで外科手術の新技術について真剣に議論したり、囲碁クラブで中国卓球の国内リーグの話をしても、誰からも理解されないし、鬱陶しいだけだ。つまり、集団はやることも、コミュニケーションの内容も、考えている事も結構決まっている。それにそぐわない人にとっては、居心地が悪いだけだし、普通は自然淘汰されていく。
あまり意識されることはないが、どんなに出入りが自由に見える集団であっても、外部の者から見ればナンセンスな掟を幾つか抱えている。でも、自分たちの集団が外から見てナンセンスかどうかなんて、ガンダムファンやネイルアートに凝っている人、マルクス主義研究会の人々からすれば、どうでもいい。何故なら、そこでは、“そういうこと”が求められている場なのだから。集団内ではむしろ、外部の決まりや環境の方がナンセンスなのだ。
勉強や暗記作業を思い起こせば分かるように、反復は人間の脳に記憶を定着させる有効な手段だ。そして集団もまた、反復的なことを行っている。ガンダムファンで集った人々が「今日は皆でヨガやろうぜ!」という可能性は、絶対無いとは言えないが、限りなく低い。昨日はファーストガンダムの話をし、今日はディスティニーの批判をし、明日はスパロボの批評をする可能性のほうが高い。何にせよ、テーマは一貫してガンダムだ。占星術占いに凝っている女の子たちが「今日は、ケインズ経済学の有効性について語りましょうよ!」と言う事もまずありえない。
集団は、何かしらに特化した人材を育てる。ガンダムを深く知りたい人にとって、ガンダムファンの集いは最高の環境だろうし、占星術占いにハマってるなら細木和子の家のチャイムを鳴らすのがいいかもしれない。スポーツクラブ、研究会、愛好会、学校、新興宗教、病院、各省庁、企業・・・世の中の多くの集団のどれもが、各々の目的に応じた活動をしている。勿論、内部の人間は、タップリと反復活動を行っているので、そのグループ内では最高のパフォーマンスを発揮する。

反復行為は、ある意味で確認作業も兼ねており、結果として行為そのものを正当化する。また、その集団が行うおおよその行為と思想が次第に一致しだす。軍隊で殺人を正当化する事と、食品会社の社員に殺人を正当化するべく教育を行うことは、同じ労力で済むわけがない。
それは単に、軍隊には凶暴な性格の連中が集まっているからとか、食品会社の社員は皆生真面目であるから・・・などといった理由ではない。人間は、驚くくらい集団や、人数の圧力の下で変化する。まず、言葉が集団に合わせて適合化している点が特に大きい。方言なども含め、地域の住民との思考様式はより近似的になる。使う単語も大分絞られる。暴走族の間で、「ニューヨークダウ」とか「リカードの比較優位論」とか「コリオリ力」などといった単語が聞けるだろうか?
物事に特化するということは、一方で他の物事に対して弱体化していることでもあり、ある情報に対して疎くなっている事でもある。それは現代社会の、それも先進国に生まれた人間であれば、逃れようも無い宿命であるが、この事に対して問題意識を持っている人よりは、開き直っている人や気にも留めてない人の方が目立つ。この事について、何が問題であるかというと、他集団に対する非寛容的・差別的態度だ(この話は取りあえず省略)。
人間は誰もが合理的な行動をとっていると信じていて、そのための情報も握っていると思っている。自分にとって、もっと合理的な行動があれば、直ちにそれをやるだろうし、いつでも有用な情報をキャッチできる環境に身を置いていると思っている(自分のことを合理的でもないし、くだらない情報しか知らない人間だと思っているのならば、世の中の人々はもっともっと謙虚だと思うw)。でも、その合理的な行動と、有用な情報が何なのかは誰にも分からない。けれども、集団内にいれば、必要な行動も情報もかなり限定されるので、少なくとも取捨選択には困らずに済む。その集団内では、ヨガをやる必要もなければ、経済理論やテーブルマナーなんぞ何ひとつ知らなくていいという保証がついている。これが、滅茶苦茶デカイ。集団内で使えない知識や役に立たない情報は、切り捨てても良いというお墨付きを得たようなものだ。集団は、ますますある性質を強め、ある要素を切り捨てていく形で加速し、進化していく。

ここで、最初の女子校の例に戻ると、この「取捨選択には困らずに済む」・・・の意味が見えてくる。「(男の)取捨選択には困らずに済む」・・・・こういうことだ。
女子校の例が示すように、我々は“あらゆる”情報の中から取捨選択をした上で判断しているというよりは、限定的な集団の中で取捨選択をしている。だが、この事実を真摯に受け止めようとする人はそう多くなく、そもそもそれが何を意味するのかさえ(自分も含めて)よく分かってないようだ。
限定的な環境下であろうと、男女の惚れたはれたのお話は、何も問題はないし、微笑ましささえある。何も一万人の女性のうちから一人を選ぶ必要は無く、五人のうちの一人でも構わないわけだ。

しかし、マンツーマンの恋愛事情ならともかく、集団対集団となると、話はややこしくなる。ややこしすぎて、戦争まで起こす有様だ。それは、集団内の強い固定概念から我々が自由になることが困難であり、また相手の立場から考える事の難しさを表している。
我々は集団内のバイアスを抜きにしては語れない。1ユーロの価値を知るには、円に直したり、1ユーロで何が買えるかを知る必要がある。外国語の文章を理解するためには、(よっぽど精通した人でもない限り)日本語に置き直して読む必要がある。こういった国際的なレベルのものから、もっと身近な例もある。
どちらにせよ、我々は理解するために、理解済みのものとの照合が最も効率的であることを知っており(学校教育はこの順序に則って進められている)、それは我々の優れた所でもあるが、最もマズイ所でもある。この欠点部分は、多すぎて語り尽くせない。

集団は、今日も明日も来年も、昨日や去年と同じような行動を取る。それは、言うなれば反復であって、集団内の決まりごとや共通意識、知識、情報などを強化し、内部の人間同士の信頼感を強める。そしてこれは、先に述べた、一緒にいる異性を好きになる・・・ど~たらこ~たら論と結びつく。反復、肯定、言語や概念、思想の共有及び近似化・・・・一緒に過ごしていれば、人を肯定し、好きになるだけの要素は、時間と共に増えていく。我々が集団内で恋愛するのももっともな事、ってわけだ。
でも結婚3回は、やり過ぎ。(<しつこい)
あと、俺が不思議に思うのは、なんでバツ2だとマイナス評価になって、「二人の女とヤッた」とか、「今の彼女は三人目」とかだと、さも男としてのステータスが高いように見られるの?・・・まぁ不思議に思うとか言っといて、自分なりの結論が出てるんだけどね・・・。


連戦連勝は、何も新しいことをやってない証拠

2010年01月07日 14時44分26秒 | 日記

ゲームをやってると、キャラに対する批判とかをしばしば耳にするけど・・・・この事に対して、中学生くらいの頃から、なんともいえない違和感を持っていた。
それが何だか、今日やっと分かった。

ゲームのキャラ如きにいちいちムカついていたら、日常において知らない人と交流する事なんてできやしねぇw

っていうか、キャラの本来的な役割を冷静に考えてもらいたい。そのキャラは、プレイヤーに嫌われたり、所属している組織に悪い印象を与えるために配置されている。ストーリー上の構成と関係無しに、プレイヤーが勝手に嫌ってるとしたら、それは製作者も意図しない、自己醸成的に湧き上がってきた負の感情が悪さをしているのであって、要は、ゲームの内容とは全く関係ないところで、勝手に怒ったり、嫌ったり、憎んでいるだけ。
嫌われるために作ったキャラが嫌われるのは狙い通り。そんなつもりもないのに、勝手に嫌い、批判しているのは、その人の世界観や人間観などの話であって、内容とは無関係。誰かの視点から見れば、他の誰かはウザくも見えるし、素晴らしくも見える、それだけの話。コーヒーは旨い、焼酎はマズイという個人レベルの話を、作品を叩き台にしてやってるだけ。
作品にとって幸せであり、また不幸せでもあるのは、総合的判断というよりは、ポイント部分の好き嫌いによって、作品そのものに愛情を持ってもらったり、また逆にケチョンケチョンにけなされるハメになったりするということ。



話はごく個人的なことに変わって・・・ここ数年、特に大学に入ってからは、今までの俺の人生とは裏腹に、厳密な考えをしていくうちに、人との基本方針の乖離が著しくなった。
飲み会なんかではスベリまくりだし、昔の俺だったらそうなることが分かっている事はやらなかったのに、今の俺はついやっちゃう。厳密な話や、学問的な話なんて飲み会でするべきじゃないんだろうけど、会う機会の少ない人とはそういう機会でも利用しないと、生の声を聞くことができない。俺は、冗談やユーモアを愛する男ではあるが、その前にまず、相手の情報や相互理解がないと、それら全てが空虚な茶番のように感じる。会話の流れをスベらせないために、人間がスベる必要がある・・・こんな流れについていくのが煩わしい。嘘や冗談で塗り固められた話に溶け込まないとやっていけない。嘘の連携プレーは、昔は得意だったが、今は途切れさせるような事ばかりしかしていない。しかもそれを、反骨精神やあまのじゃく根性でやっているわけでもなく、“自分でもよく分からない内奥の何か”に突き動かされているような感覚でやっている。こんな事書くと、二重人格者か、「神の声が聞こえる」とかそういうヤバイ人に間違われるかもしれない。

10年前の自分と比べて、明らかに自分の人間理解や他者理解能力は成長した。しかし、人との付き合い方は以前より下手になったように思う。
物凄い矛盾だ。最近の俺の人付き合いの最良の方法は、以前のようにお喋りするというよりは、沈黙した方がマシであることが多い。言っても何も伝わらないし、そもそも言葉が全然俺の思想を反映していない。自分の言葉に、二重の意味で苦しめられる。

ドイツの諺に、「真実を耳にすることは、煙が目にしみ、酢が歯にしみるようなものだ」というものがあるが、俺は今まさにこの事を激しく痛感する。「これが、真実だとしたら・・・なんて残酷なんだ・・・」そう思う事ばかりだ。
俺は今、人の目をしみさせる煙たい真実か、無価値で的外れの考えかのいずれかを、言葉にして人に吐きかけている。どちらにせよ、他人にとっては野暮ったい。

ここ2年は割と順調気味だったけど、ここにきて、色々苦しくなってきた。同学年の連中は就職に悩んでいるんだろうけど、そういう事とは全く別の路線で悩んでいる俺は、なんかピントがズレてるような気がする。っていうか、周りの誰からもそう言われる。「そんなことに、今悩んでいる時期じゃないんだよ」ってな風に。
まぁ、悩みってのは当人の都合なんてお構い無しに出てくるから悩みだと思うんだけどね。時期もクソもねぇよ!
暫くは、失敗を承知で色々やってみようと思う。自分のスタイルが変わって、まだ慣れていない・・・そう考えよう。何やっても最初から上手くいく、と考える方がイカれてる。