昨日ご紹介した「美味しいそうめんの茹で方」の動画にある要領で、
ランチに「そば」を茹でて食べたところ、
すっごく美味しかったです
感動したのでその勢いで夕食もそばにしてしまいました
「美味しい」という感覚は主観的なものであるとは思いますが、
「美味しいそうめん」という感覚をどうして共有できるのか??
ここでいっているそうめんの「美味しい」は、食べる際の味付けの話ではなく、
麺にぬめりがないことによる「快」の感覚のことですよね。
(女将も「そうめんの美味しい湯がき方とは、粘らせないこと」だとビデオの中で仰っています)
麺類はパスタでもぬめらないように大きな鍋で茹でたり、
「ぬめらず、コシがある」というのが万国共通の(例外はあるでしょうが)「美味しい」になるようです。
味付けの段階になるとまた意見が分かれるところだと思いますが、
同じ食文化圏だと味付けの好みも似てくる傾向があるように見受けられます。
どうして同じような主観が持てるのか?
カントさんの説からすると、「人間は共通規格のインターフェイスをもっているから」ということになるようです。
(興味のあるかたは「純粋理性批判」を読んでみて下さい)
客観的な物そのものの世界は存在するけれども、
人間は「感性」の働きによって空間と時間のなかに多様な感覚を位置付け、
多様な感覚を概念で整理することによって明確な判断をつくりだす働き持っている、と。
3つのポイントは:
* 客観的な現実は存在する。
* 人間は主観の中に、空間と時間に位置付けた感覚、概念というメガネを通して現れた現象しか認識できない。
* 人間のそのメガネは共通規格なので、自然認識の基本的な部分については共通認識が成り立つ。
(100分de 名著 カント 純粋理性批判 で 西 研氏が分かりやすく説明してくれています)
食文化は空間と時間が限定された中に存在しますから、そこで集合ができますし
「ぬめりはなくてコシのある麺」はより抽象的なので集合が大きくなるし、
作り方は形式知であって時間と空間の影響を受けないので共通認識が成り立つという感じでしょうか。
(ざっくりですが)
カントさんの理論(セオリー)を読むと、なるほどぉと思うわけですが、
この現実の捉え方は何を信じているかに影響されるので、
アカデミックの論文なんかでも最近は研究者がどのような視点で検証を行ったのかを明示しているようです。
「理論(セオリー)が、研究エビデンスと実践の橋渡し的な役割を担っている」ということで、
今福氏の研究デザインのジャーナルに分かりやすく書いてあったので、興味のあるかたはご覧ください
理論的貢献ができる研究をデザインする : 研究パラダイムの理解の重要性
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